ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

乳房再建と保険の適用

2004-11-30 | 乳がん
パスタもピザも それにチーズも 消費量が落ちた我が家では、4つ苗を植えたバジルは 使い切れなかった。今 このプランターには チューリップが眠っている。



昨日の朝刊に本田麻由美さんという記者の
「がんと私」no.18 に 乳房再建についての記事がが載っていたので、
「愛しのおっぱい」を書き上げた所だから、
ちょっとこの記事に触れておこうと思う。

本田麻由美という人は 読売新聞の記者で、
乳がんの手術をし、再発を乗り越えている。
アメリカで最も進んでいるといわれる病院の取材をしたり、
乳房再建術を受けたりしている
(本田麻由美記者については、できたらいつか まとまった事を書きたい
 と思う。いつになるかな。まあ、そのうちに。)

乳房再建は 欧米では
(と言う言葉は 繰り返すけど、好きじゃない。
繰り返すけど、アチャラの方が進んでいるので、どうしようもない。)
乳がんの摘出と同時に行う 同時再建が主流なのだそうだ。
一度全身麻酔をかけて 手術室に入ったら、
両方手術をしちゃうから、
出てきた時には もうおっぱいが出来上がっているわけ。

乳房再建の講演会の時にスライドで見せてもらった
アメリカのヌード写真を思い出す。
全員乳がんの手術をした人たちがモデルなのだ。
ブスもデブも年寄りもいなかったから、(ヒガミ<>)
写真家はちゃんとモデルを選んでいるのだろうけれど、
どの人もみんな 綺麗な顔、スタイル、そして豊満なおっぱいだった。
そうとわかって見ていても、乳がんの手術をした人には見えないくらい。
みな晴れやかな笑顔で、
見ているこちらも 晴れやかな気分になる、
まぶしいようなヌードだった。

本田記者も同時再建を希望したが、
乳房再建は保険外なので、できなかったという。
保険診療と 保険外診療を 組み合わせる混合診療は
禁止されているのだ。

本田記者が行ったシリコンを使った乳房再建は、
保険診療が認められていないので、
費用100~130万は 全額自己負担だったそうだ。
通院が必要だが、日帰り手術が可能だったと思う。
本田記者がこの再建法を選んだ理由のひとつだろう。
ただし シリコンの乳房は 
形が自然な感じではないように思った。
スライドに映された 何人かのおっぱいを見ただけだが。
硬さも自然なものとは程遠いらしい。

一方、ちかごろ話題の腹直筋、これが、おっぱいになる。
お腹の筋肉のほかに、背中の筋肉(広背筋)も使える。
この場合は全身麻酔で お腹や背中に傷が残る。
ショーツやブラにキレイに隠れるように切るらしいから、
ビキニはOK。
入院せざるを得ないため、働く女性には 躊躇する人も多いだろう。
しかしこれで本物そっくりの、やわらかなおっぱいが出来上がる。

この手術はなんと、保険がきくかきかないか、
地域や病院によってバラバラなんだという。

あなたやあなたの家族が乳がんになったら、
どういう治療をあなたは 望むだろう。

本田記者は「欧米のように乳房再建を乳がん治療の一環としてとらえ、
患者が手術を受けやすい環境作りを期待したい。」
と結んでいる。

岩平医師は パンフレットの中で「乳房再建は美容の手術ではなく、
乳房切除後の回復に関わる矯正手術です・・・」」
と述べている。



保険に関しては私にはややこしくて わからないことが多い。
そういえば テレビドラマにもなった
『ブラックジャックによろしく』という漫画のなかで話題になった、
保険適用外の薬を使うと 全ての医療が保険外の扱いになる、
というその薬も、抗がん剤だった。
乳がんに使用される抗がん剤にも、
海外では標準治療とされているにもかかわらず、
日本では受けられない治療もあるという。

日本はそんなに遅れているのか、とがっかりもするが、
実際 ここ数年でかなり追いつきつつあると思う。
『乳腺の和』などを見ていて、
自分が将来使う可能性があるもの、ないもの、
「使用できるようになりました」
と記事があると、とても嬉しい。
厚生労働省医療課、もっと もっと 頑張って!

こうもり

2004-11-27 | 考えたこと
インパチエンスは、
どんなに綺麗に咲いていても
冷たい風が吹くと
〈しもげて〉しまう。
西風が当たる所に咲いていたものは、
もう溶けたようになってしまった。



今朝はものすごい風の音で 暗いうちに目が覚めた。
そのあとは 寒くて寝付けなかった。
やっと うとうと 夢を見ていたら 大音量目覚ましが鳴った。
(耳元に置かないで下さい、と注意書きがあるヤツ。)
(なぜか 浦和レッヅの田中達也が 夢の中に出演していた・・・。)



今朝の新聞(39面)に、
アメリカ・ウィスコンシン州の狂犬病の15歳の女の子が
薬物治療だけで奇跡的に救命された、という記事。
狂犬病は 人が発症すると 100%、死亡するのだという。
世界初の ワクチンの接種を受けていないヒトの生存例になるらしい。

この少女の発症の原因というのが、
狂犬病に感染したコウモリに噛まれたためだというのだ。
恐ろしい。
当地には、コウモリ、いっぱい いるのだから。



子供が小さい頃、夏の夜の家の中に
大きなクロアゲハが 入ってきた。
こんな、夜になってから? と不思議に思っていると、
亭主が 「ちょうちょじゃない! コウモリだ!!!」
と叫ぶ。
よく見ると 確かに どこか違う。
ひらひらとした 舞い方は チョウのようなのだが。

コウモリと聞いて、
私の脳裏に浮かんだのは、バットマンではなく、
ドラキュラだった。
ドラキュラの周りを、効果音で羽音を鳴らして飛び回ってるヤツ。
本物は、音を立てずに飛ぶ。

ドラキュラの召使いか お友達なのだろうから、
今から寝ようとしていた所だったけれど、
コウモリと一緒に寝るわけにはいかないと思い、
亭主に捕まえてもらうことにした。
子供がまだ小さくて、虫取り網もなかった頃だ。
私は台所から ステンレスのザルを持ってきて
亭主に渡した。

コウモリは、超音波を出して 物体を認識して 飛ぶと言う。
そう簡単に捕まるはずもなかったが、
悪戦苦闘、汗だくになって 家中追い回し、
なんとか捕獲。
パパの威信も確保できた。
コウモリは家の外へ逃がし、
幸せな母子は ベッドへ向かったのだった。

そんな騒動は 一度ならずあったが、
娘が幼稚園に入った年に PTAのおしゃべりの時に聞いてみたら、
「ウチにもいますよー」と言う若いお母さんがいて、
またまたびっくり。
古い大きな住居や 物置の中には、まだまだ生息していると言っていた。
我が家も古かったけど、
あの時のコウモリは、どこからか 飛んできたのだと信じたい。



娘が中学に入る頃には 我が家はリニューアルされていて、
コウモリの事はすっかり忘れていたが、
娘が 少し大きな町の高校に通い始めて間もなく、
車の中で 娘がコウモリの事について語り始めた。

いろんな所から生徒が集まる高校の中で、
「お国自慢」が始まるのは、私もウン十年前に経験している。
娘も 方言や 美味しいもの自慢を 
10キロも離れた所にすむ友達といっしょになって していたらしい。
そこで自慢になったかどうかは別にして、
「コウモリが 夕方になると うようよ 空を飛んでいる」
と話題にしたようだ。
(自慢にはならないよなあ。。。)

娘によると、娘の中学も 友達の中学も 学校の周りは農地で、
夏、部活が終って家に買える道々、
コウモリが何十と集まって ひらひら飛び回っているのを、
毎日眺めていたとか。
「えっ、あの、夕方にいっぱい飛び回ってるのがそうなの?」
「そーだよー。」
わかっていなかった私は、バカにしたような娘の声に、
言葉をなくした。
「そ・・・それで、今見た、あの、さっきの、
 いっぱい飛んでたやつも、そう?」
「うん。コウモリ。」



傘の事を 「コウモリ」とか「コウモリ傘」と呼ぶ人は、
もう若い人には いないだろう。
中年にさえ、少ないだろう。
そんななか、
コウモリたちは、けなげにも 生き残っていた。
・・・・・・狂犬病に感染しないよう、
コウモリ諸氏には くれぐれも 気をつけてもらいたいものだ。

愛しのおっぱい(3)

2004-11-25 | 乳がん
イソトマは 家の中に取り込んでやれば、
来年も咲いてくれるらしい。
こぼれ種で芽生えたイソトマを集めて
小さな島を作り、
夏中楽しませてもらった。
やさしい うすむらさき。



退院してすぐにも、ブラに各種のパッドを入れてみたことがあった。
娘に買ったブラについてた、小さくて可愛いのをもらったり。
いろいろ試してみたが、おっぱいが複雑な形なので、
なかなかうまくいかなかった。
乳房再建の講演を聞いた後もそうだったかもしれない。
そして、人口乳房を作るのも、
温存の人は難しい、と聞いて、あきらめて、
またまたいろいろ試してみた。
おっぱいを作る会社の人に紹介された、パッドの会社にも
電話をしてみたが、
当然のように予約制なので、
なかなか思い切れない。

自分のおっぱいを見つめる時間は 増えていたと思う。
直視できない時期もあったけれど。
放射線治療で 小さな水ぶくれができたり、
それが破れて皮がむけたり、
ちょっとつまんで剥いたところが 薄茶色のシミになったり。
それもいつの間にか ぼろぼろと垢が落ち、
真っ黒に日焼けしたような 術側のおっぱいの色も
だいぶ落ち着いてきていた。

このおっぱいのまんま、我慢して生きていくしかない、
とあきらめをつけようとしていた。
そうして、自分の、おっぱいに対する気持ちが
だんだんわかるようになってきた。

いつもそこに在るものだから、
誰のものでもない、自分のものだから、
気づかないでいたけれど、
私は 自分のおっぱいが、かなり、好きだった。

巨乳でも爆乳でも、残念ながら美乳でもないけれど、
ちょうどよい大きさだと思っていた。

少し外を向いているけど。

40歳をすぎてから、
弾き返すような弾力も なくなってきちゃったけど。

ここ数年、だいぶ垂れてきちゃったけど。

健側のおっぱいは それでも
プニョプニョで、やさしさにあふれる柔らかさだ。



私の術側のおっぱいは。

おっぱいを作る会社の人に、
「きれいよー」
と言ってもらった。
がんセンターの医師が、
「写真に撮って 学会で発表したいくらい 綺麗にできた」
と言っていた。
ただ癌をとりのぞくだけでは、
形がむちゃくちゃになることも多いらしい事は わかった。
私のおっぱいは、どうやら 綺麗な形の方らしい。

健側に比べると、ぐっと小さい。
確かに、下の方は、ちゃんとまあるく なっているが、
乳頭の上には、ボリュームがなくなった部分があって、
まるでひょうたんみたいだ。
乳輪のまわりを 半円形に 窪みが取り巻いている。
胸の内側にあった癌だけれど、
目立たないよう、乳房の外側にメスを入れている。
傷は、長い。

そうして、しこりを取り除いたはずの 
私のこのおっぱいは、全体がかたくなっていて、
しこりでできているみたいだ。
主治医は ちゃんとやわらかくなってくる、と言った。

本当に柔らかくなってくるのか。
そんな気はしてこない。

あらためて、健側のおっぱいに触ってみる。

嗚呼。

これは 完全なるおっぱいだ。

おっぱいは、健康であると言うだけで、
それは 完全なものなのだ。

多少、小さかろうが。

少々外を向いていようが。

地球の引力に効しきれずに 垂れ始めていようが。
 
ぷにゅぷにゅの おっぱい、これはひとつの宇宙だ。

私には、かつて、ふたつあった。
私にも、かつては、ふたつあったのに。

どうかどうか、今 ふたつ ある人は、
大事にしてもらいたい。
パートナーに ふたつある人にも、
大事にしてもらいたい。

おっぱいは、健康ならば、それは
健康なおっぱいと言うだけで、
完全なものなのだ。



転移して、残った方のおっぱいを手術した方も、
何人か知っている。
あの イラストのように、おっぱいのかわりに
斜線がある人もいるだろう。
胸筋を取ってしまった人もいるだろう。
抗癌剤で苦しんでいる人もいるだろう。
髪がなくなるショックも、経験していない。
転移がわかった時の絶望感も わからない。
そんな私でも、
このおっぱいのおかげで、いろいろ考えさせられた。

今の私にわかること。
愛しています、私のおっぱい。

おっぱいを作る会社

2004-11-16 | 乳がん
客土した土から芽を出し、
あっという間に増えた蛇苺。
優秀なグランド・カバーになる。
ただ足を踏み入れる時は、
気をつけないと
愛犬のおもちゃのボールが、
あちこちに・・・。



今考えても、2003年6月は 忙しい月だったし、
よく動いた月だった。
週に一度 東京や神奈川の治療院に行ったし。
週に一度 「あゆむ会」に行ったし。
朝は朝刊が来ないうちに 子どもたちを駅まで送って行ったし。
早起きをしてたから、恵比寿に9時ごろ着く電車に乗ったりもしてた。
だから、用賀に10時前に着く電車にだって、
乗っていけたんだけど。



おっぱいを作ってくれる会社がある。
本社は島根県で、東京事務所が 用賀にあるのだ。
この会社の事は 姉が前から 調べたり連絡を取ってみたりしていて、
「行ってみよう」と強く勧められていた。
興味はあっても それほど行きたいと思ってはいなかったのだが、
姉が「私も一緒に行ってあげるから」というので、
行く事にしたのも、6月だった。
ただし、姉は最近早起きができない。
前の晩に用賀駅の近くのビジネスホテルに泊まる事になった。

外泊なんて、当地へ来てから、いや、結婚してから初めての事。
亭主と子どもを置いて、姉と二人で、食事して。
夜はツインのベッドで、私は精一杯姉に付き合って、
おしゃべりを楽しんだ。
「明日早いから、もう寝ましょう。」と言う事になったとたん、
夢の中へ・・・。

翌朝、姉に「ほんとに バタン・キュー なのねえ。」
と言われた。
「でしょ? 入眠剤がいらないのよ。」
姉は、不眠気味。
ただし、私は、夜中に、パジャマの長袖上着を、
脱いだり、着たり。
術側だけ 着たり。

駅の近くのパン屋で、パンと飲み物を選んで、
テーブルについて、美味しい朝食。
玄米食でない時も、やはり楽しんで、美味しく食べなくちゃ。

そうしてやってきた、おっぱいを作る会社。
他に、義手、義足、義眼、などなど、いろんなものを作っている。
その会社のパンフレットは、
恐ろしくて、その辺において置けないし、
電車の中で広げる事はできない。

技術者は 年に2回ぐらい、島根本社からやって来る。
この日は お話を伺う、というだけだったはずなのだが、
私はいつのまにか、おっぱいを作る、と 頭の中で
話を変換してしまっていたので、気が抜けた。
二人いる女性に、それでも いろいろなものを見せてもらい、
いろいろな話を 聞き、為になったことはなった。

ブラに関しては、人口乳房を押さえるためには、
フルカップ・ブラがいいらしい。
私はフルカップ・ブラを使っているつもりだったが、
もっと(?)フルカップのがいいらしい。
得心できないでいたら、
二人のうちのひとりが ブラウスを脱いで
自分のブラを見せてくれたのには、
胸が熱くなった。



結論。
術後半年くらいでは、まだまだ おっぱいの形が 落ち着かないので、
一年半から 2年くらいしてからでないと、
型を取って おっぱいを作る、ということはしない。
私のように 乳房を温存した人は、
満足できるようなおっぱいを作る事は、難しい。

で、予定通り、お話を伺って、
プラス、愚痴まで聞いてもらって、帰ってきた。

温存したおっぱいにあわせて、
人口乳房を作る。
確かに、難しそうだ。
難しい、という事は、
不可能に近い、という事だ。
またやっちゃった。
私は 乳房再建の講演会を聞きに行った時と同じく、
いますぐ、どうにかして欲しかったのだ。

あわてん坊め。
今すぐおっぱいを作って、
この夏プールへ行きたかったから。
今日この場で型を取って、お金を払って、
来月にはプール、なんて思ったから、
今日は話を聞くだけだって事を、忘れちゃったんだ。

温存の人は、満足できるおっぱいを作るのは、難しい・・・。
温存できた私は、ラッキー! と思っていた、
その気分が揺らぐ。
ラッキーと思いたかったけど、ラッキーじゃなかったのか?
いやいや、そんなはずはない。
私は、ラッキーなはずだ。

がんセンターでもらった「がん告知後ケアガイドブック」の中の、
「乳がんの治療法」にある、
「乳房切除術(胸筋温存)」のイラスト。
女性の首から下の上半身のイラストがあり、
片方は普通のおっぱいが、
そして もう片方には 斜線(/)が引いてある、
そのイラストを見て、私はすごくショックだった。

顔がすうっと冷たくなった気がした。
鼓動が一瞬とまって、そのあと早くなった気がした。
そのくらい、胸の斜線は 私にとって ショックだった。
そんな私が がんとわかって手術して、全摘出だったら、
混乱は大きかったに違いない。

外出を嫌うようになったかもしれない。
人の前に出るのが、怖くなったかもしれない。
声を上げて笑うことが できなくなったかも知れない。
術後もノウテンキに生きている私の価値観は、
もっとがらっと変わってたかもしれない。

私はラッキーなのだと思いたい。
そして、それ以上に確実に、
私は、ラッキーなのだ。





「あゆむ会」(3)

2004-11-08 | 乳がん
私はよほど辛口の母親らしい。
今年の娘の母の日のプレゼントは、
赤唐辛子の栽培セットだった。
それが 発芽率ほんど100%、
たくさん苗が出来て、困るほど。
これが赤唐辛子かァ。
赤くなる前のが青唐辛子で、
この葉っぱが葉唐辛子?
佃煮にできるのかな?



ストレスに関して いろいろ学習した日もあった。

ストレスに対処する10の方法

1、 原因を探す
   その問題に直接取り組むのが 最善の方法である。
   (次善の策もアリなんでしょうね?)

2、 自分の人間関係のあり方を見直す。
   もっと相互に支え合うようにする。
   (こう見えても、結構ホンネを言うのは難しいんです。。。)

3、 評価(選択)する。
   あまりたいした問題でないものを無視する事を学ぶ。
   (あ、それは得意よ。)
 
4、 前向きに考える。
   今までの成功した事を 意識的に思い出す。
   (成功したことの記憶がない。。。)

5、 助言を求める。
   信頼している友人、専門家などに。
   (あ、ひとり カウンセラーの友達がいる。ラッキー!)

6、 他の人のために何かする
   視野が広がる。考え込むという行為が 原因の場合、  
   これでストレスを減少させる事が出来る。
   (わたしだって、何かしたいやい!)

7、 一度にひとつのことをする。
   (そ、それが出来ないんです、昔から。)

8、 自分のペースを知る。
   休息しよう、散歩にいこう、窓の外を見よう、
   何かいつもと違ったことをしよう。
   (お、いいこと言うじゃないの。)

9、 運動
   (歩くぐらいしかできないんですが、いいですか?)

10、静かにしていられる場所を作る
   瞑想、祈り、ヨガなどを やろうと思えば出来るような時間を作る。
   (座禅は嫌いじゃないけど、眠くなるのよ~。)



「自分の“本音”を知ろうとしたのは いつだったか?」
というプリントがあり、会に提出しないということなので、
正直に書いたものがある。
「長子が 思い通りに育てられなかった時(15年前)」
と書いた。娘の事だ。
あの子にはほんと、勉強させてもらった。
子どもは親の思い通りになると 思ってたもの。

続いて、
「都会から田舎にきたこと、 
 周囲に友人が一人もいないこと、
 これまで自分が習得してきた事が
 全部 無駄になった感覚」
ともある。
東京から当地に来て、
180度違った生活になったのは 確か。
プライドもなくなってしまった。
でも ストレスには強いつもり。
ストレスで癌になったとは 思ってないし。

小さな紙に書いてあった言葉。
「真剣に耳を傾けて
 美しい一曲の音楽を
 心を込めて聴こう!
 身体のすみずみまで届くように
 一生懸命聴こう。
 今のひとときを、
 心から楽しもう。」



このほか、秋田の玉川温泉について 会話の中で出てきたり、
リビング・ウィル(尊厳死の宣言書)の現物をいつも所持している人に
見せてもらったり、
それはもう、学ぶべき事がたくさん。
すっかり忘れていたたけれど、
ホスピスや 生と死を考える会や 遺言書まで 学習した。はず。

けれど一番楽しかったのは、
他愛のないおしゃべり。
癌について、あまり気を遣わずに、
隠さずに おしゃべりできた事が嬉しかった。

私のほかに、もう少し若い乳がん患者が グループにふたりいて、
そのうちのひとりが やはり ホルモン療法の副作用で 
不安を抱えているらしかった。
胸に当てた放射線の跡が黒くなっていて、
この色は変わらないのか、と
真剣なまなざしで聞かれたりもした。
存外 簡単なことで みんな悩んでいる。

私の手術の同級生たちは ホルモン療法をしていなくて、
是非 お若い方たちとお友達になりたかった。
住所やメールアドレスを教えたけれど、それきりになった。
きっとあちらからは、私は充分オネエサマに見えたのだろう。
残念。
 


自己チェックリストなるものがある。
初めの日と 終わりの日に 同じ紙に自分でマルをつけた。
「私の人生の意義と目標を見つける能力」の項で私は 
初めの日に 「ある程度満足」にマルをつけたのだが、
最後の日には 「非常に不満足」にマルをつけた。

たった4回「あゆむ会」に参加したことで
自分自身に対して満足できなくなったらしい。
それは 今まで こんなものだろう、という
消極的満足の中に納まっていたものが、
いや、もっといろんなことが出来るはず、
と積極的不満足に変わっていったのだと思う。

自分自身を、もっと積極的に、もっと魅力的に
プロデュースしていきたいと思うきっかけになった会だった。
このごろ この時期のワクワク感を 忘れてしまっていた。
もう一度 ワクワクのやり直しをしよう。
もっと、もっと、欲張りたい。
お釈迦様だって、許してくれるはず?

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

2004-11-06 | 読書
ハリー・ポッター第五巻が発売になる前に、
『セブン・イヤーズ・イン・チベット』
(角川文庫、1996.11.25、940円)を読み始めた。
著者ハインリヒ・ハラーとダライ・ラマとの交流の場面を
読みたかったのだが、
読んでも読んでも二人が出会わない。
焦っても仕方がないので、諦めて読み進めたが、
そのうち仕事がたてこんで、電車で出かけられない事が続き、
ハリー・ポッターが発売になってしまった。

たまに出かけても、
ハロウィーンみたいな格好で パリーポッターを売ろうとしている売り子たち
(あまり売れてなかった、噂どおりに)を横目に、
文庫本をトート・バッグに入れて、数ヶ月。
ビデオで見たはずの風景を 時折思い描きながら、
ゆっくり読んでいった。
飛ばし読みができなかったのだ。

訳者、福田宏年が「訳者あとがき」の中で書いている。
通常、登山家の手になる登頂記録は、
登攀行為の描写一点張りに終始していて、
登山家と言うのは 人間にあまり興味を持たないのか、
と思う事があると。
だが、オーストリアの登山家は違った趣きをもっている、と。
ハインリヒ・ハラーは オーストリア人なのだ。

訳者は告白する。
『チベットの七年』を訳してみないか、という話を受けて
ペーパーバックを買って読み出したら、
いきなりこの本の世界に引き入れられ、
何日間か、仕事そっちのけで読みふけったと。
電車の座席に座ってこの部分を読んでいた私は、
大きくうなづくところだった。

小さな文字で、こんなところで、ああした、こうした。
ダライ・ラマも出てこない部分が続く、
そんな本を ハリー・ポッターに移らずに読めたのは、
何とはなしに 面白い、この本の物語り性のおかげかと思う。



表紙はブラッド・ピッド。
映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」で
ハラーを演じた。
白黒の古い写真で見る限りでは、本物のハラーのほうが
整った顔をしている。
不屈の精神と 頑健な肉体と あふれる好奇心の
持ち主なのだろう。
山を心から愛した、登山家。

本文の前に 白黒の写真が何枚も載っている。
私はときどき この写真の部分をめくって、
イメージを膨らませながら 読んでいた。
チベット仏教に関するホンの少しの知識があったので、
なんとか驚かなくて済むような、
そんな写真が 何ページもあって、
イメージを作りやすかった。

私がしばしば見とれたのは、
世界最大の曼荼羅が 壁に垂らされた、ポタラ宮殿。
この宮殿で発見された仏典を研究して
賞を受けた人の記事を見た時に、
複雑な思いにとらわれた。
中国やチベット政府の許可は得たのだろうけれど、
それは 現在のチベット政府よりむしろ、
ダライ・ラマの要請があって初めて 開始すべき
調査だったはず。




私が興味を持ったのは、なんと、
ダライ・ラマの兄、ロプサン・サムテンが 心臓を病んでいて、
「出発の日に 彼は 数時間も深い失神状態に陥ったのだが、
 ダライ・ラマの侍医が、灼熱の火箸を筋肉に突き刺して、
 意識をよみがえらせたのだという。」
というところ(p450)。
おそろしいけれど、そうせざるを得ない、
逃亡の旅に出発する時だったのだ。
 
そこを読んで 思い出した事。
東北の田舎の村で、
放蕩息子が 口やかましい母が死んだ時、
小さい座敷箒で 母親をなぐりつけたら、
死んだばかりの母親が 息を吹き返した。
それ以来、その村では 村人が亡くなると、
その家へ行って 箒を借りてきて、
亡くなった人を箒でたたく習慣ができた。
と言うお話。
たしか、佐藤愛子の本にあったのではなかったか。

亡くなった人を さらに 箒でたたく息子。
生き返れ、とばかり、借りてきてまで その箒を振るう人。
死んだかどうだか、箒でなぐってみる人。

昔はたまに 生き返ることがあったという。
仮死状態で、ほんとは生きているのに 
葬式を出してしまわないようにするため、
通夜の習慣がある。
一晩そばにいて、息を吹き返したら、
すぐに対処するための通夜。
箒でたたいたり。焼け火箸を刺したり、
もしかしたら 昔から いろんな蘇生法を 
人々は 行ってきたのかもしれない。




アメリカで救急医療に携わる日本人女性、
The way to EMT の運営をしている
Maria さんを思い浮かべた。
ブックマークに入れてあるので、興味のある方、
是非どうぞ。
救急救命士、心肺蘇生、除細動器などについてもいろいろ。
日本人救命士のジョージア研修記事もある。
地理的には離れていても、あっという間につながるので。
現代の不思議、いや、現代に生きる幸運。

「あゆむ会」(2)

2004-11-02 | 乳がん
いましがた、事務所の中に入ってきたスズメを、
開け放した窓から外に出そうと、悪戦苦闘。
昔息子を連れて見に行ったアメリカ映画の
遺物を倒して、スズメは逃げていった。



渡された資料の中に、「医師とのコミュニケーションのとり方」というのがあった。
「どのようにしたら 医師に思った事が聞けるのでしょうか。
 ①.医師に確認したいことや 自分の思いを紙に書いて持って行きましょう。」
やはりかなり多くの人が 医師の前では 聞きたい事をきけないらしい。

私は 早口の主治医の言葉を 一生懸命聞くだけで、
へとへとになって 診察室を出てくる。
メモを周到に用意して持っていって、
「ようし・・・」と意気込んで行って、
想像していない言葉が 主治医の口から聞かされると、
それきりメモの内容が 頭から消えてしまう、
ということを経験している。
メモを手に握り締めているというのに。

「②.双方からのコミュニケーションが大切です。
   あなたが医師に聞きたい事を聞くだけでなく、
   あなたの情報を医師へ伝える事も大切です。」
だから 主治医にメモを見せたけど、
伝えたい事が伝わったとは思えなかった。
本当に医師は 患者のいろんな事を知りたいと思っているのだろうか?
たぶん 抗癌剤を使っているときは
いろいろな気分、症状に 気を遣うのだろう。
どうも ホルモン療法の副作用に関しては、
抗癌剤を使わなくて済んでるんだから、という感じで
あまり気を遣ってもらっていないように思うのは、
ひがみだろうか。

「③.ひとりより ふたりで 面談しましょう。」
そうよねー、亭主がちゃんとついてきてくれればねー、
とも思う。
亭主がいない方が、うるさくなくて、
聞きたい事を 自分でちゃんと医師に確認できる気もする。
ボランティアで 一緒に付いてきてくれるという仕事をしてくれるグループもあるらしい。
有料のもあるんだろうか。
ひとりぼっちで 不安なときは、
そういう人を 気軽に頼めるような
システムがあるといいかも。



食事についての資料にはは、
口内炎のあるとき、吐き気のあるとき、
味覚異常があるとき、食欲不振のとき、
口の中が乾燥しているとき、噛む事や飲み込む事が困難なとき、
のほかに、
カロリーを多くとるために(!)と言う項目もある。
わたしはどれも 必要なかった。
やっぱり 楽チンな がん患者だ。

鉛筆でメモしてあった。
「ゆっくり食べる。
 毎食20~30分くらいかける。
 よく噛んで食べる。
 食後ゆっくりする。
 えらそうにして30分」
えらそうにして30分! これは実行しなくては!



一枚、小さなプリントが挟まっている。
「明日の計画を立てるために
 あなたの力を強めるよう  
 深く息を吸い込みましょう
 明日はうまくやれると考え
 今日 元気に過ごしている事を
 喜びましょう」


患者と家族の「あゆむ会」

2004-11-01 | 乳がん
オリーブは 2本あると よく実がつくそうだ。
一本しかないけれど、3粒ほどの恵みをいただく。
蜂蜜に入れると、風味のある おいしい蜂蜜になる。



2003年6月、
がんセンターで がん患者とその家族とがんセンターの職員とで集う、
「あゆむ会」があった。
週に一度、4回で終了。
5月に 術後半年の検診があって、その時にチラシを見たのだと思う。

なあんだ、こんなのがあったのか、今まで知らなかった、
と思ったら、毎年この時期にだけやるらしい。
去年の今頃は 自分の体が癌に侵されている、
とは思ってなかったのだから、「あゆむ会」を知らなくて、当然。

なんだ、6月だけなのか、通年でやってくれれば、
もっと早く参加できたのに、と思ったら、
職員は 全員 ボランティアで参加しているという。
とにかく 世の中、こんなに がん患者がいるのか、
というくらい、いつも患者でいっぱい、
次から次へと 湧いて出てくる患者を
てきぱきと、しかし 決して嫌な顔を見せずに
にこやかに対応してくれている、
看護士(全員女性だった)の皆さんが、
都合をつけて かかわってくれる。
当然 仕事上のローテーションや何やかやで、
参加していない看護士の方にも しわよせがゆくはず。
毎年この時期に、今月だけ、4回だけと言い聞かせて、
全員で頑張ってくれているのだろう。



「あゆむ会」は かなりの人数の 患者と看護士が集まって、
週に一度、平日の午後、1時半から4時まで 行われた。
普段見慣れた白衣ではなく、そろいのTシャツ姿の看護士は、
いつもと違う人みたい。
よくよく見ると、
いつも外科外来でお世話になる面々も見える。

あらかじめグループ分けしてあって、
私のグループは 男性3名、女性4名、うち一組は夫婦。
プラス看護士2名。
名札をそれぞれの胸につけて、自己紹介から始まる。
クロスをかけた机の上には 花が飾られている。

資料のプリントも豊富に用意されており、
スライドを見たり、人体の模型を見たり、
軽い体操や 呼吸法や 食事に関する事、
さまざまな事を 見て、聞いて、実践して、
そしてグループで話し合った。

深刻な雰囲気になってるグループ、
笑い声が上がるグループ。
結構みんな まじめに取り組んでおり、
回を重ねるごとに グループ内は 気心が知れて
和気藹々、言いたい事を言い合える。
毎回必ずアンケート用紙に記入して帰り、
回答が必要な質問には
次回必ず回答をしてくれた。

システムが完全に出来上がっているらしく、
ベルトに乗せられて、シナリオにそって
まわされているように思う事もあった。
アメリカのスライドを使っていた事もあり、
アメリカのシステム、という感じだった。
気恥ずかしいと思うこともあったけれど、
えいやっとやってしまえば、なんとなく納得したり。

今 資料をあらためてめくってみると、
すっかり忘れていて、新鮮で面白い。
あとあとまで 覚えていようとしていたのは、
「癌とは 手術、放射線療法、化学療法、
 プラス態度で治療する、
 慢性疾患である。」
と言う一文だった。
慢性疾患ということは、完治はむずかしい、ということ。
癌とともに生きる、という覚悟が 必要だということだ。

これから少し復習してみるとするか。