ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

四苦と医療

2006-02-25 | なんとなく仏教?
四苦八苦という言葉がある。
 
仏教語だ。



四苦は ご存知の方も多いだろう。

生老病死。ほら、変換できるし。



生まれること。老いること。病むこと。死ぬこと。

この四つが 人の苦しみの代表。

とは言え、これらは誰にでもやってくるもの。

強いて言うなら 病気は人によってはほとんど縁がなく、
また人によっては 縁が深いが。



この4つの苦しみすべてと 医療とは 関係が深い。

仏教の教理と 医療とを 何らかの形で結びつけて
理想の医療はできないものか。

キリスト教系の医療施設はある。

仏教系のそれは 極端に少ない。
(あることは、あるが。)

「生き方上手」な高齢で元気なおじいさん医師を見るたびに
あんな医師が 仏教の教えをもとに 人の心の棘も
ケアしてくれたらいいのになあ。と思う。

医療と仏教は 矛盾しないと思う。



いつも ぼんやり思っていることを書いてみた。

写真は 土手のホトケノザ(仏の座)。

ビニールハウス

2006-02-23 | 明るい農村
『足んこの歌』の中に
「ほんとだね じいちゃん」という詩がある。

「ぼくん家のとなりに

 とても面白いじいちゃんがいた」

と始まる。



となりに へそまがりな爺ちゃんが住んでいた。

「きょうは暑いね。」と声をかけられると

「あたりめえよ。夏だ。」と答える人だった。
(発音:アダリメヨ)

だから ‘ぼく’は 冬に

「じいちゃん、きょうは寒いね。」と言ってみた。

「あたりめえよ、冬だ。」と言うかと思ったら、違った。

「生きてろば 寒さぐれえは感じべえ。」と言うのだった。



このじいちゃんが ある日
ビニールハウスのそばでつぶやいた。

「寒中だのに 油燃やしてまで 夏野菜なんか作ってやがる。
 
 馬鹿めらが、夏の物は 夏に作って食うから味があるだんべ。」



ビニールを張った中で‘油燃やしてまで’季節外れの作物を作る。

施設園芸と呼ぶらしい。

当地でもそれはますます盛んで、
限られた広さの畑と 限られた人手で 最大限の収入を得るために
みな真夏の温度の中で 懸命に働いている。



写真は 駅からの帰り道に
信号待ちの間にあわてて撮影したもの。

電信柱の右側には
老夫婦でも扱えるビニールトンネルが見える。

長い長いビニールを扱うのは ひとりでは骨が折れる。



花つくり農家の義さん(お、久々の登場!)の家では
息子さんが本格的に家業に乗り出した時に
連棟式の大きなビニールハウスを作った。

作物の入れ替えの時には
(と呼ぶのか?収穫が終わって次の作物に切り替える時)
ハウスの中で トラクターが使える、大き目のやつだ。

建設費を節約するために
若い農業従事者仲間の友人と お互いに協力しあって 
お互いの家のビニールハウスを建てたのだそうだ。

それでも 消費税だけで百万単位のお金を使ったという。



どうりで、
後継者がいない年寄りだけの農家では
ビニールハウスを建てないわけだ。

あのハウスは 
後継者がいますよ、まだまだ農業をやっていきますよ、という
安心の証だ!

無農薬有機栽培を始めたクラさん(やはり久々の登場)のところは
息子さんはふたりとも農家にはならず、家を出ている。

(優秀な息子さんたちだ、ということが、
 ・・・・・・・・わかる。)

クラさんちでは ビニールハウスを これからも建てないだろう。



先日 マサちゃんに久しぶりに会ったら
マサちゃんは珍しく能弁で

今年は重油が 1リットルあたり 20円は高い、
とぼやいていた。

マサちゃんちでは
一冬に だいたい4万リットルの重油を焚くのだそうだ。

単純に計算して 例年よりも80万の燃料費がかかる?

ハウスものには その分の金額が上乗せされた値段がつく。

輸入ものが安かったら 消費者はそちらを買う。



季節外れの花や果物や野菜を
高いお金を出して買う消費者。

かといって 輸入ものが安ければ
国産ものを買わずに 農業を苦境に追い込む消費者。

罪が消費者にあるとは思えない、

けれど どこかに悪者がいる気がしてならない。

もしかしたら 健全な農業を宣伝しない農家にも
罪があるのかもしれない。





この夜間照明つきのビニールハウスは
たぶんイチゴのハウスだと思う。

近年は こういったハウスにまで泥棒が入る。

先日 息子を迎えに行く時に
怪しいヤツ、と疑われないかと ドキドキしながら
車の中から撮影。

イチゴだけは ハウスものもいいかな、と思っている。

今朝のお散歩

2006-02-23 | なんでもないこと
最近の息子は家を出るのが遅い。

私が家に帰り着く頃には 7時をまわっている。

これは 今朝 息子を駅まで送って行って
帰って来た時のカーブミラー。

我が家の車庫を出てすぐの所にある。

今朝は曇っていて あまり役に立っていない。



このところ 気温が低くても 風が穏やかな日が続いている。

ようやく朝のウォーキング(愛犬とのお散歩、とも言う)再開の時だ。



今朝は水辺から靄が湧き上がり 
土手を生き物のように ゆっくり這い上がってきた。

靄は 少しずつ土手を下ってゆくのだろうか。

この写真の靄は 土手そのものから立ち上がっているように見えた。

そして あそこが 立ち上がり場所、と思う所へ行ってみると
靄はもっと先にある。

まるで 虹のふもとを追いかけるような
そんな散歩になった。





大きな河の向こうの山々、今朝は全く見えない。

愛犬は 土手の水溜りから水を飲む。

土手には除草剤はまかれないから飲ませる。

草も 土手に生えているものは食べさせる。



水溜りに写った空を撮影しようとしていたら
愛犬がジャブジャブと入っていってしまった。
 




だんだんと青空が広がり、今日は暖かくなりそう。

『足んこの歌』

2006-02-21 | 読書
『足んこの歌』と書いて、「あしょんこのうた」と読むらしい。
(ルビがふってある。)

ふとしたことで存在を知り、
全部を読みたくなって ネットで注文。

『第三詩集 足んこの歌』、らくだ出版
(2005.9.20、1260円)

著者は 高野つるさん、今年81歳になるおばあさんだ。

千葉県で農業をするかたわら同人誌に作品を発表し、
詩集を出してきた。



誰が書いたものか、カバーには

「高野つるさんの詩は、内面の怒りを封じ込めた独白である。
 
 村の因襲や秩序を充分に尊重し、
 実践すればこそ、その束縛に抗う。

 自己に忠実であり、はっきり自己の気持ちを表にだすこと.....」

とある。



厚さは1センチにも満たない薄っぺらな本だけれど

つる婆ちゃんの詩集は

詩も そして 絵も すべて つる婆ちゃんの手になる。

この表紙の絵もタイトルも つるさんがご自分で書いたもののようだ。

その瑞々しい感性には 驚きを禁じ得ない。



   小さい方がいい

花は小さいほうがよがっぺ

なんでだって?

そりゃ きまってるがな

萎んだ時のこと考えでみろや
いが
大え花は 悲しみもまた大えからよ
しあわせ
幸福も やっぱり小粒がよがっぺ

なんでだって?

そりゃ きまってるがな

大え幸福 つかんでみろや

有頂天になっちゃって

おらの目ん玉さ 他人の涙が

見えなく なっちゃうからよ


    私が小学校4年生の時、ばあちゃんがいったこと(p16)



   春だもんな

土の中から

地べた どっついているのは

だれっぺな?

それは わらびの げんこつだがな

だって 春だもんな


枯れ草の中さ

青空ばきざんで ぶんまいたのは

だれだっぺな?

それは 山のすみれだがな

だって 春だもんな

―――後略―――

              「びわの実学校」掲載(p36)



その訛りの懐かしさと確かさは
私のふるさとを思い出させてくれると同時に

昔 教科書で読んだ
やはり方言を使って力強くげんこつを書いた詩を思い出させる。


ひともと
「一本の桔梗」という詩(?)(p66)に書かれていることによれば、
つるさんの夫の甚之助じいさんというひとは
宮城県の仙台は秋保(あきう)という温泉のある村で生まれた。

日立製作所で 電子顕微鏡の製作に携わり、
その技術は神業と称えられた。

召集令状も2度来たが
優れた技術者であったため、兵隊にはならなかった。

終戦の頃には
東北大学工学部には航空学科が設置されており、
成瀬政男教授のもとで
航空ギヤーの研究を手伝っていた。



終戦になると
爆弾や焼夷弾の中を 命がけで疎開させた研究資料や機械は
トラック3台ぶんの荷物となって 没収されていった。

研究者達の心には ぽっかりと 大きな空洞が。

そのとき 教授は

「皆 よく聞いてくれ!
 
 敗れたりとはいえ 日本民族、
 MPには 毅然たる態度で接して欲しい。」

と訓示なされたとか。



荷を積み終わったMPたちは 
整列していた甚之助爺さん達の前で挙手の礼を取り、
さらに隊長は教授にむかって

「貴方の精魂こめられたこれらの研究資料、
 これからは 
 世界平和の為
 大切に使わせて頂きます。」

と言い、
教授の手を両手で握り締めたということだ。



つるさんは 
孫達に語りかける体裁をとるこの詩を
 ばあ
「私ちゃんの一生のお願いは、

 故里を大切にする事と

 地球上から 戦争をなくすることですよ。」

と結んでる。

アメリカ合衆国の皆さん、このふたつの事は
あなたがたにもお願いしたい。



つるさんの瑞々しい心は 遠い昔の記憶も 瑞々しいままで
傷ついた人の心の痛みは 鮮血がほとばしりそうだ。

父を突然失った自分。

夫を失ってしまった母。

暮らしを支える母の細腕。
(それはその後 つるさん自信の腕にかかってくる。)

息子を失ってしまった祖母。

その悲しみの一方で
家庭を捨てて出て行ってしまった息子を
どうすることもできない自分を不甲斐なく思う祖母。



働いて 働いて 働いて
そうして 立てなくなった母を看る娘、つるさん。
   ほねがら
母を「骨殻大師」とよんで泣き笑いをする。

そうして ようやく 安楽の世界へ旅たつ母に

これらは全部「一幕の芝居」だったな、と語りかけるつるさん。

「馬鹿正直でそんな役柄をもらって
                       
 これが自分の十八番と腹を定め

 地べたを這うような 下手な芝居を

 精かぎり魂かぎり続けてきただもんな」



この世は芝居、人はみな役者、
あんな駄目お父も
芝居の役柄では 恨めない、
という つるさん。

「性学育ち(大原幽学先生の教え)のばあちゃん」が
幼いつるさんや 妹さんに教えてくれたものが
おばあさんだけんでなく 
つるさんの言葉や 行動のはしはしからも
キラキラと煌いて見え隠れしているこの詩集。

またとない宝物を手にした気分だ。

「なじめない」(2)

2006-02-20 | こどものこと
人情に厚いとか
無関心なんてことはない、とか
人と人との触れ合いに溢れてるとかいう‘田舎’には

それ以上に
排他的な雰囲気が漂い
人と違うことを嫌い
人と違う人を積極的に疎外する
そんな土壌が 綿々と続いている。

我が家の子供達も 肌では何かを感じていたはずだと思う。

なにしろ 年寄りが居なくて 畑を持っていなくて
休日がなくて 土日が忙しくて
朝が遅くて 夜も遅くて 
家に亭主がいつもいて。

そんな家は 他にはない。



若い頃の私たち夫婦は
「私たちは私たち、
 この土地の風習に迎合するひつようはない!」
と 必要以上にツッバっていたと思う。

子供が赤ん坊の頃はそれで通してこれたが
子供が子供社会の中で生きていくようになって
それでは通用しなくなった。

子供同士が 異質なものを 嗅覚鋭くかぎ分けて
親や祖父母がしているらしい非難の仕方で
娘に攻撃してしてくるのだ。



他の子と違う。

だから、おかしい。

あなただけ違う。

だから、ずるい。

私は絶句・困惑・絶望した。

この子の親達も 私たちに対して
同じような感情をもって 見ているのだろうと思った。



私たちが当地に来た頃には
夫婦とも‘よそ者’という家は ほとんどなかった。

その後 少しずつ出てきたが。

そして 
娘が幼稚園に入る、小学校に入学する、という段階で
引っ越して来た若夫婦が 何組かいた。

またあるいは 小学校の途中から、中学校の途中から越してきて
娘とは 小学校や 中学校で 同級生になった友達の家。

その家の ほとんどが(!)
今では 当地には 住んでいないということが
娘の成人式を前に、最近わかった。

(もちろん 土地の風習・家の習慣・隣近所の干渉に耐えて
 頑張っている長男の嫁は多いのだが。)



あるいは お母さんの実家の近くへ引越し。

あるいは リコンして お母さんと子供が離れた。

あるいは リコンして お母さんと子供が離れた後に
残ったお父さんも別の場所に出て行った。

あるいは お父さんともども 離れた。

いづれも アパート・マンションのない当地のこと、
すべて土地付き一戸建て。

新築建売住宅や 
または わざわざ土地を購入して家を建て引越してきた
その家と土地を捨てて出ていっている。



しかも どうしたことか
娘と親しい友達は
こうした ‘よそ者’の‘におい’をもった家の子が多い。

この地は よほど 自分の土地に自信があり
よそ者のにおいを嫌うのか?

疎外されているもの同士、においの似通ったもの同士、
土地になじめないもの同士の
引き合う何かがあったのかと思う。



昨日のコメントの中で告白した娘のボーイフレンドというのは
実は当地から離れていった昔の同級生。

頑張り屋のお母さんの顔が眼に浮かぶ。

息子の新しいガールフレンドが ウチの娘で
どんな顔をなさってるかな?

「なじめない」

2006-02-19 | こどものこと
子供が犠牲になる事件や事故は
心がザワザワする。

またとんでもない事件が起きた。

滋賀県長浜市の2園児刺殺事件。

ワイドショーも見ない私がいろいろ書いても
もしかしたら ピントがずれてるのかもしれないが

ここのところ 暗くて嫌な事にも 
目を向けたり 記事にしたりしても平気になってきたようだし

私の「ザワザワ」の音の出処を 
探ってみようと思う。


******************************

クリスマスローズ三姉妹の次女。

日当たりは悪いが 冷たい風が当たらないせいか
蕾がいち早くついた。

純白ではなく 緑がかった白に染まる。

******************************


逮捕された容疑者が口にしたという
「なじめない」という言葉。

事件現場の、まわりに建物ひとつない風景。

田舎に越してきて
友達がいない孤独感を抱えてこれまで頑張ってきた女性の
耐えられない悲しみを思う。

新興住宅地に住み
周りに同年代のお母さんや 子供の友達がいたのだろうから

その中で ひとり味わう孤独というのは
耐え難いものがあったろうと思う。



私は 割と それに似通った「なじめない」環境の中に育った。

周りとは なんとなく違う、と。

農村地帯にあって 非農家というのは
一種独特の疎外感がある。

それは 当地へ越してきてからも そうだった。

というより、いっそう激しかった。

やはり 周りから 特別な目で見られていた。

(そのくせ PTAの役員を選出する時には
 特別には扱ってもらえなかったが。)



田舎というものは そういうものだと思う。

異常なまでに近所の家々の内情に精通した人たちがいる。

そして 不思議なまでに 
他所の家の暮らし方に口を挟んで 
自分の思い通りにさせようとする人たちがいる。

理解の範囲を超えることもしばしば。



もちろん 私がそうだからといって
容疑者の心が理解できる、とは言えない。

言葉の問題や国籍の問題などもあるから
私には きっと 想像できないほどの
悲しみや苦しみと 毎日 毎日 闘って生きてきたのかもしれない。

理解はできないけれど 
悲しみだけは わかってあげたい。

決して 肩を持つわけでもなければ
容認するものではないが
田舎に住んで 子育てをした者のひとりとして
その悲しみを わかってあげたい。



なぜ 小さな 
しかも 自分の子供と同じくらいの 小さな子供に
刃を向け
20回も刺す必要があるのか。

家を出る時に 包丁を用意する氷のような心を
暖めて 溶かしてあげる事は 誰にもできなかったのか。

誰も気づいてあげられなかったのか。

それは わからない。

だけど 
彼女にしたら そうせずには居られない何かがあったのだろう。



容疑者にとっても
容疑者の子供にとっても
子供の父親にとっても

亡くなった子供と
子供を亡くした親や祖父母と

ああ、
なんと言っていいのか言葉が見つからないけれど
悲しい事件だなあ。

心が ザワザワするなあ。

音楽教室(2)

2006-02-18 | こどものこと
娘が始めた音楽教室は グループコースの 
3歳児のクラスだった。

娘のことは 音楽教室に関して 泣かせた事がある。

というか、しょっちゅう泣かせた。

練習をしなさい、とか
しないんなら やめちゃいなさい、とか

みんなと一緒にやんなさい、とか
ちゃんとやんなさい、とか・・・・・。



なにしろ 
後に コンクールに出場して 金賞受賞か!というような子が
複数出現したクラスで、

お母さまもピアノが弾ける、とか
お母さまもピアノを教えられる、とか
そんな環境の‘お子さま’たちの中で

ピアノのない家庭の子だった娘を、
周りの足を引っ張らないようにしたかったのだ。

明らかにクラスの足を引っ張って
進度を落としているのが我が子、というのは
私のプライドを傷つけ、我慢できなかったから。

私はヒステリーの最中だったし、
娘に対して 
「あんたは 他の子たちより ひとつお姉さんでしょ!」
という思いがあり、

イライラしたり 叱ったりを
音楽教室を材料にしても やっていた。



そんな私が どんなふうに映っていただろう、
高○先生は いつも娘にやさしかった。

気難しい娘のことを
いつも
「○○ちゃん、可愛い!」とおっしゃってくださり、

ふてくされていて 楽器に向かわない娘を
「デリケートなんだよね。」と理解してくださったり。

少しずつヒステリーが収まってきつつある頃の私には
本当にいい教師だった。

娘に、ではなく、私に。

子供の やりたくない気持ちを理解してくれて
無理強いはしなくて
やる気を引き出してくれて
そして 最後に 子供をノセテくださる先生だった。

反省する事ばかりの私だった。



足を引っ張りながらも 泣きながら、泣かしながらであっても
それなりに私たち親子3人(赤ちゃん息子も一緒)は
充分に楽しませていただき、

クラスは 年度が替わっても
次々と上のクラスに そのまま持ち上がっていった。

親達はみんなで 次も高○先生に、とお願いして
それはひとつのファミリーでもあった。

みそっかすな親子だったけれど
私にとっても それはとてもありがたかった。

もう上のグループコースがない、となりそうな時に
‘チャイルド・コーナー’という新しいコースができたときは
みんなで万歳をしそうな勢いで そのコースに進んだ。



そしてとうとう
グループコースは もうこれ以上はありません、
ピアノか エレクトーン(ドリマトーンと言うのだけれど)かを
選択するように、となって

娘はピアノを選んだ(選ばせた)。

電子ピアノで済まそうと思っていた我が家では
もうひとつ ドリマトーンを買うことはできなかったので。



「こどものバイエル」とか いくつかテキストがあって
1対1での30分のレッスンは 
過密にならないよう、途中で飽きないように組み立てられていたが

そのなかの「ソルフェージュ」というのが 娘は嫌いで、
私もいつもイライラさせられていた。

そのうち
わたしのヒステリーが 抜けてきつつある時に
娘はソルフェージュのテキストを 毎回忘れるようになった。

私が厳しくバッグの中身をチェックしないので
毎回忘れる。

毎回「ソルフェージュを忘れずに」と書かれて来るのに
毎回忘れるので
さすがに責任を感じて 
そっと音楽教室のバッグにソルフェージュを入れておいたら
その日も娘は忘れて持っていかなかった!

「そんなはずは・・・!」と バッグをひったくって
中身を改める私。

「ない! わたしが今日ちゃんと入れておいたのに・・・!!」



すると先生は声を上げて笑い出した。

「そうか。そんなにソルフェージュが嫌いだったのか。

 わかった。

 じゃあ、○○ちゃんは ソルフェージュをしないことにしよう!」

私もどんなに救われた気分になったことか。

さすがに 入っていたテキストを バッグから取り出して置いてくるとは、
私も降参、笑ってしまった。

娘も嬉しそうだったのには腹が立ったが(笑)。



そして 先生はおっしゃった。

「私も 若い頃は 無理矢理 教えたりもしていたんです。

 この年になって ようやく こういうふうに

 柔軟に そのお子さんに合わせてやれるようになってきたんですよ。」

私よりだいぶお若く見える先生は 
実はそれ程年は離れていないといううわさだった。

この先生も お若い頃は もっとガチガチだったのか、とも思った。

先生は 私に対しても 優しくしてくださった。

私は 娘と同じかそれ以上に この先生に助けていただいた。

こころを救っていただいた。



私の、
子育てに対する肩の力が ようやく抜けてきた頃、
今の仕事に対する熱意も なくなってきた頃(笑)のお話。

音楽教室(1)

2006-02-17 | こどものこと
2歳半で娘は 保育園に入った。

「赤ちゃん組」と呼ばれる、3歳未満児のクラスだった。

間もなく私の出産のためにいったん退園し、
イバラキへ行った。

イバラキの実家では
度々亭主の両親が来ては
娘を連れ出してくれた。

両親の都合がつくと 娘を数日預かってくれ、
都合が悪くなると 実家に連れてきた。

娘は 精神的に不安定になりやすい時期に
生活も不安定になった。



出産から当地へ帰って来ると
娘はまた保育園に通い出す。

私は 家の近くで 保育園バスに娘を乗せるだけなので
全く知らなかったが

保育園では 
娘が休んでいたわずかの間に 
3歳未満児、それも1歳前後の赤ちゃんが増えていて
クラスの担任の先生も 一人増えていた。

そして 以前に娘の面倒を見てくれていたベテランの先生は
赤ちゃんの面倒を見る側に移ってしまい、

娘達2歳児は 
同じ教室の中だけれど 別の先生が担当してくれるようになっていた。

やっと家に帰ってきた娘は 
安心と安定をもたらしてくれるべき人を
家でも 園でも 赤ちゃんに奪われてしまっていた。



それから始まる、登園拒否。

娘は いつも保育園バスがくるところまでは
私と素直に家を出る。

バスが来ると 「行かない。」と泣き出す。

娘が居ない方がラクな私は
バスに乗って来た先生に
無理矢理 娘を 荷物のように持たせる。

先生も 慣れたもので
暴れる娘を 片手でがっしりと抱き取って 
残る片手で バスのドアを閉める。

年度当初なら 泣く子は何人かいるが
途中からの入園なので
先生もさして苦労ではなさそうに見えた。

切ない気分にはなるが
園についてしまえば
ニコニコと 友達と遊んでいるのだというので
何も気にせずに 預けていた。



ところが
度胸が据わっているように見えていた娘が

それからは 私が行事で保育園に行くと
泣いて私のそばを離れようとしなかったり

どこかへ連れて行ったときに
私の姿が見えないと泣いていたり

ただでさえ 我が強く 扱いにくかった子が
いっそう手におえない子供になってしまった。

これには参った。

困ったし、それに 不憫でもあった。

私の身体が元気だったら
子供ふたりくらいは 抱えて走り回れるだろうに。



平日は 
早く、早くと せきたてられながら支度して
朝8時半ごろにバスに乗って保育園に行き、
夕方忙しくなる頃にバスに乗って帰って来る。

土曜休業が 急速に定着してくる時代だった。

先生も半分お休みになれば お友達も登園しなくなってきた。

園バスが出なくなったり。

土日・祭日こそ忙しい我が家では
娘を充分に遊ばせてあげられないばかりか
充分に触れ合う事さえできていなかった。




幸い ふたり目の男の子は
娘と違って(笑)おとなしくて 扱いやすかったので
娘のためになんとかしたい、そう思うことができた。

娘は 母親との一体感に飢えている、と思った。

母子分離不安。

なんとか娘と一緒の時間を作りたい。

けれど 平日は 娘は保育園だ。。。



苦悩の時期を1年近く過ごしたあと、
娘の音楽教室は始まった。

週に一度 園を休ませて
ママと音楽教室に行くのだ!



片手で息子を抱き上げ、
ルンルンと走り出しそうな娘の手を引き、
肩からは紙おむつなどを詰めたカバンをさげ、
髪を振り乱しながらも

私は‘おでかけ’ができて 嬉しかった。

娘はもっと嬉しかったに違いない。



3月生まれの娘が
音楽教室の3歳コースに入ったのは 3歳の秋。

最初はY○○に問い合わせたが
秋には開講するクラスがないと言われた。

K○○に聞くと 
どうぞ見学においでください、という。

そこで初めてお会いした高○先生に
こんなに長くお世話になるとは思わなかったが

教えてくれる先生が
子供が好きで 子供に教える事に慣れていて

言う事を聞かない子供をなだめるのも上手で
何事も子供に押し付けない人だったのは
ほんとうに幸運だった。



周りのお友達は 一学年下の子達だった。

いつも 大きな、そして 進んでいるお友達の中で
オドオドとしながらみそっかすでいるような感じだった娘は

ようやくここで 少人数ながらも
対等に遊べる‘クラスメイト’を持った。

わがままを言ったり すねたり 
言うことを聞かない子は いくらでもいたが
厳しくも優しい高○先生は
腹も立てずに 上手にクラスをリードしてくださった。

という、長い前置き(笑)。

ドキドキ・バレンタイン

2006-02-16 | 考えたこと
有明に着くと そこはまだあちこちが工事中。

近代的で人工的な匂いのなかに
縁石と縁石とつなぐモルタルを
コテを使い、手作業で丁寧に詰めている人を発見。

写真を!と思ったがやめといた。

それくらい ‘手仕事’と言う言葉が似合わない場所。

けれど そこに人がいる、ということは 人の手仕事が必ず必要。

病院だってそうだ。

病んだ人を診るところに 人の手は欠かせない。

どんなに新築まもない病院で 最新設備が整って 
ピカピカであっても。

写真は 有名な病院の、有名な姿ではなく、横っつら(笑)。

上の方に 
片側のハサミが大きい シオマネキのようなものがついているのが
面白くて撮影。

よく見えない?(笑)

この できたてホヤホヤの病院のすぐ後ろは
土くれをほっくり返して、これから大工事が始まる、
という様相だった。




Libing as a breast cancer survivorで知り合った
ばななけーきさんをたずねて ここまでやって来た。

ネットで知り合った方と実際にお会いするのは これが初めてで、
緊張というか ドキドキというか ハラハラ・ソワソワが
いつにないものがあった。

面会時間(2時から)にはまだ少し早かったが
入れるものなら、と思って受付へ行ってみる。

面会受付は 守衛室でできる、ということだったが
あえて 少々時間を置いて 
広くてぴかぴかのホールをぐるりと歩く。

入り口から 広いホールを抜けると
手入れの行き届いた芝生の庭園になっていて
季節が変わればそれなりに美しいはず。

小径が作ってあるので そこをぶらりと一周。



もう一度ホールに戻って トイレへ(笑)。

壁にかけてある日本画の素晴らしさとその大きさに
またびっくり。

「うひゃ~、県立の○○とは違うわ~~。」

こんなところに感心するのは私くらい?



受付のオネエサンの親切に
「これだけの大きな病院で 来院者も山ほど来るだろうに。」
と感謝しつつ
エレベーターで5階へ。

ナースが案内してくれる、と聞いていたが
ナースが消えてしばらくしたら
私に向かって歩いてくる人が!



おお!

貴女がばななけーきさん?!

なんて美味しそう・・いや、優しそうな方!

ナチュラルな雰囲気。

なんでも入院なさってから 夜も昼も(?)よく眠れるのだとか。

どうりで、お肌も髪も ピッカピカ!

そして座っていれば病人とは思えない。

お元気そうで、まずはヨカッタ。

でも痛いところがあるってのは、イヤだよね。



病棟ごとにパーラーがあるのか?

小奇麗なこれもピカピカ新しいお店のテーブルで

のどがカラカラ(笑)の私は、シャーベットを。



ゆずシャーベット、美味しかった♪



そこで 一時間と少し、
おしゃべりのし通し、しゃべりまくり。

話はあっちへ飛び、こっちへ跳び、
そりゃあもう た~いへんな 女性のおしゃべり、

社会問題、医療問題、家族問題、パーラーのサービス問題、
あと 何をしゃべったろう?

術後間もなくお蕎麦を食べる話、
旧陸軍病院の話。

(あれはね、後で思い出したけど、
 巣鴨プリズンに近かったはずよ、
 地続きだったかもしれないわ!

 ほら、東池袋のサンシャイン60って、
 巣鴨プリズンの跡地だったって言うじゃない?)

とにかく ひっきりなし、しゃべった。

初対面とは思えない馴れ馴れしさで。

(一番面白かったのは「Fya」の発音かしら?)

興奮によるドキドキは なかなか収まらなかったけれど
温かな人柄に触れて とっても親しみを感じて
楽しかった~。



帰りは 素直に 臨海線で。

国際展示場駅まで
歩いた事のない道を歩いてゆくので、
またドキドキがはじまる。

だって、方向音痴なんだもの。。。



こんなに近くに駅がふたつもあって、いいね。

県立○○は・・・やめとこう(笑)。

大崎まで、こんどは320円。



帰りは 少しは落ち着いて シートの上で撮影。

そのわりにはボケてる(涙)。



北へ帰る電車に乗ってからも かなり脈拍は速かった。

そりゃあ、初めての体験だものね。

ようやく落ち着いてきたら 何か 記憶に違和感が。

ぼんやり車窓を眺めていて、
さっきお会いした 初対面の人は
実は昔良く知っていた人だった、と感じたから。

あれ~~~?

確か、初対面だったはずなのに。

ずっと以前に どこかでお会いして、
親しかった人じゃなかったっけ?

記憶の袋をガサガサと引っ掻き回して
どこにいれてあったのか?と探す。

良く知っている人に似てるだけ?

記憶力には自信はないが違う。



きっと 前世で 親しくさせていただいたのね?

そんな気になってしまった。

バレンタインの日の 初めての出会いだった。

会いにゆく

2006-02-15 | 考えたこと
13日の晩は 満月だった。

だから、と言うわけではないが
この晩から 私は少々興奮気味。

お風呂上りには 新品のパンツをはいた(笑)。

夕方息子を迎えに出かけた時に 満月がとてもきれいだったが
撮影には三脚があったほうがいいらしい。

こんなにぼんやりとしか写らない。



翌14日の朝は 普段より早く いつもより少しのご飯を食べた。

恵比寿にでかけ、整体治療を受けた。

歯医者にも行った。

針灸は いつもより治療開始が1時間遅くなると言われたので
今週は抜く。

だから、きのうは 別の場所に出かけることにしたのだ。

そしたらなんと11時には 身体が空いてしまった。

面会時間は 2時からだという。



こんなに早く時間が空いてしまった、と思ったが
ほどなく お腹が空いてきた。

いつもは お腹が空かなくても
時間都合で食べているのだが。

それでは、と 久々にトンカツ屋に入ることにする。

恵比寿に出かけるのが月に1度の頃には
毎月食べていた。

それが 癌になって
恵比寿に出かけるのが 毎週になってからは
ほとんど 食べていない。

11時半、まだ空いている店内に入り ランチを頼んだ。

揚げたてアツアツのカツは美味しい(笑)。

最後に出てきた黒酢のシャーベットは
あら、これっぽっち?と思ったが
その量はやはり絶妙な計算がされているらしく
ちょうど良かったし、さっぱりして とても美味しかった。

生活習慣病が蔓延している現代社会に気を使い、
トンカツ屋も戦略を工夫している。

パワ~が漲ってくるみたい?



よし、とばかりに駅へ向かう。

早く着く分にはかまわない、時間つぶしの本は2冊持っている。

臨海線が入線するというアナウンスに そちらのホームに一度下りたが
思い直して 山手線のホームに移る。

幸い、時間はたっぷりあるのだ。

新橋。ここで降りた事はほとんどない。



あった、あった。ゆりかもめの案内板。



JRの駅を出て ゆりかもめの新橋駅へ。



有明までの切符を買う。ちょっとお高いんじゃないの?



エスカレーターの上で撮影。

自分の指をひっかいて傷をつくらないように
短く切った健全な爪に やや力が入っている(笑)。

腕に下げた紙袋の中に 
バレンタインのチョコが入っているのが見える。

賞味25分程度の ゆりかもめの旅。

ドキドキのしっぱなし。

ビジネス関係の人か? けっこう乗っているので
さすがのオノボリサンも 写真がとれなかったが
初めてのる乗り物は 興奮するものだ。



乗り物も初めてだが
周りの景色も 初めて。

ああ、見知らぬビルばかり。

昔 ここの桟橋から船に乗ったはず。。。

ああ、こんなに ビルが並んでいる。

お、船が。

昔は海だったところ、あれは川や運河ではなく 海だなあ。。

そんなこんなでひとりでキョロキョロしていると
見えてきた、カラフルな観覧車。

カメラ!と思ったけれど
お天気がよくほかほかな陽気で 景色はぼんやりしている。

私が写真に撮ってもはっきりとは写らないだろうから、
あきらめる。

どこかのHPで 画像を見てね。

へそまがりな私が気に入ったのは
各駅の線路とホームの間の透明な仕切り版についている模様。

駅名表示板と同じ模様が 別な色で描かれてあって、
なかなかかわいい。




別荘住まいの人を訪ねて、やってきた、有明駅。

別荘は駅のすぐそばに デ~~~ン!と建っている。

別荘の名前は癌研有明病院。

残念ながら、温泉付き別荘では なさそうだ。

                         つづく

術後3年の検査結果(2)

2006-02-12 | 乳がん
乳がんが転移しやすい場所というのがある。

だから 術後の検診では そこを中心に診る。

2005年11月~12月の検査。

肺のレントゲン、脳、腹部(特に子宮と肝臓)、骨、
全部「オーケー」だった私だが、
それだけではない!

なんとなんと、子宮筋腫が小さくなったのだ!



46mm、50mm、54mmと 徐々に成長してきた私の筋腫は
今回 なんと40mm!

本当に小さくなることって、あるんだ!と 感激だった。

横森理香さんのように 玄米食を(時々)してきたからかな?

そういえば 今朝のラジオで
47歳のマドンナが あのプロポーションを保って
元気で活躍できるのは
日本人の女性シェフによる マクロビオティックのおかげだとか。

私の場合も
以前より 揚げ物が減って 食事がローカロリーになったり
動物性食品が わずかでも減ったからかな。

なにしろ 筋腫を作り 大きくするはずの ノルバデックスを
毎日飲んでいるんだから、
これは快挙というものだろう!



いやいや、もしかしたら
整体のおかげかもしれない。

自然治癒力を増して どんな病気でも良くなる可能性がある。
ということになっている(笑)。

開腹手術をした人の 内臓や腸管の癒着には すごく効くらしい。
(でも、はがれる時は痛いらしい。)



もしかしたら 針灸のおかげもあるかも?

先日 針灸の先生に
「この治療で 子宮筋腫が小さくなるって、ありますか?」
と聞いたら
「ありますよ!」と即答された。

「筋腫があるなら 早く言ってくれればいいのに。」とも。

だって、針灸で筋腫が小さくなるなんて、
思っていなかったもの。

いつも お臍の上に塩を入れた竹の筒を置き、
その上にお灸をして じんわり暖めながら
(体中あちこちに 針をしたままで)
しばらく休む(私の場合、眠る!)時間があるのだが
その時に 針をする場所を いくつか増やすと もっといいらしい。

次回からは そうしてもらう事になっている。



よし、グングン小さくして
ついでに おなかの出っ張り(凸)も小さくするぞ!(笑)

いや、針灸では痩せないらしいけど。

「やせるツボなんて、ありません!
 あったら、ワタシがとっくにやってます!」

そういえば針灸の先生、貴方もちっとも痩せないね(笑)。

トリノオリンピック

2006-02-11 | なんでもないこと
今 ダイジェストで開会式を見ている。

日本選手の皆さんが
ベストを尽くし、ベストな結果を出せるようにと願う。

音楽が 私には懐かしいメロディー(と、わからない曲と)で
ちょっと嬉しい。



同じサバイバーとして
フィギュア・ペアの井上怜奈選手(国籍はアメリカ)に注目し、
応援しようと思っている。

なんと今夜 井上選手の競技が早々と行われる。

明日の朝にはもう結果が出ているのだろう。



アテネの時のことを思い出して、
競技をリアルタイムで見ることはあきらめている。

生活のリズムが狂ってしまった事などもあり、
うつになってしまったのだ。

実は最近少々気分が重いことが多い。

せいぜい 規則正しく生活し、
ご飯をよく噛んで リズミカルな刺激を
脳に与えてあげようと思う。



しっかしなあ。

うつっぽくても、ブログ散歩はできるんだよなあ。



写真は先日の雪の日に撮影したもの。



トリノは寒いんだろうなあ。

オノ・ヨーコに似てると思ったら オノ・ヨーコだった!

術後3年の検査結果

2006-02-11 | 乳がん
術後3年の検査の結果が伝えられたのは
年が明けてからだった。

何で今回は 年明けなの?と思ったし
そんなに長い間 不安なまま過ごすしかないの?とも思った。

けれど 
実際は あきらめがついたし
不安もそのうち消えてなくなった。

今回は大丈夫!

何故かそんな気がしたから。


*******************************

エリカもボロニアも大好きなのに

必ず後で枯らす。

2シーズンめに入るこの淡雪エリカも 今年中に終わるのか?

*******************************


2006年に入ってすぐ、検査結果を聞きに行った。

主治医は「ん~~~。」と言いながらカルテをめくり、
いつものように「オッケー」と言った。

やっぱり!(笑)

なぜそんなに自身があったかと言うと、
‘快便’だったから(笑)。

便通がこんなに 生まれて初めての快調さなのに
癌がのさばっているとはどうしても思えなかった。

これもデトックス効果よ!(笑)



今回嬉しかったのは、そして 自信を裏付けてくれたのは、
3種類の腫瘍マーカー。

(これも保険では3種類しか調べてもらえないことになっているが
 3種類ではどうしようもない、と言っている医師もいる。
 
 じゃあどうするのがいいか、なんてことは私にはわからないが
 制度的なものが 日本はまだまだ開発途上のようだ。)

奥山貴宏という人
「受験生にとっての偏差値みたいなもんでさ、
 一喜一憂するわけよ。」

と語っていたように、数値がひとつでも上回っていれば×、
下回っていれば○。

そんな事がないように あらかじめ看護士に

「多少の増減はあるものなので あまり気にしないように。」

と言われている。

最初に カルテを見せて欲しい、と頼んだ時だったかな?

実際、大きな癌が(Ⅱa)あったのに、
術前でも 腫瘍マーカーの値は範囲内だった。



前回の検査では3つとも数値が上がっていたこの腫瘍マーカー、
今回は3つとも下がっているのがとても嬉しい!

1.4――→2.2――→1.8

1.4――→1.6――→1.0

7.9――→9.6――→7.9



なあんだ、去年の夏の数値に戻っただけじゃないか。

とは、思うんだけど、でも、そうじゃない。

下がったんだ!

そして いくつからいくつまでが 正常範囲、というこの数値、
これも 0.1上回ったからと言って‘ヤバイ’わけじゃない、
下回ったから安心なわけでもない。

ただ 私は 自分の身体全体の様子が
以前と比べて――それは 癌とわかる以前と比べても
絶対的に元気になってきていると 実感がある。

(ただし、もちろん、更年期症状を除く。)

だから、今回の検査結果については自信があった。

自信を裏付ける結果が出た。

ヤッター! と思った次の瞬間、
「フフン、こんなもんよ。」とも思った(笑)。



今回の血液検査では コレステロール値も
ぎりぎり正常範囲にはいっている。

「下がってるよ。」と主治医が指摘してくれたが

これは11月に採取した血液、
寒い冬の間に 運動ができなくなる私、
今はもう基準値を上回っているかもしれない。

・・・・・・春になったらまた頑張ろう!(笑)



乳がんの再発は 術後2~3年までが多いと聞いた。

大半の再発は それまでにあるらしい。

3年経ったということは
私の乳がんにとっても 
再発の確率が半分以下になったということだろう。

大きな区切りではないかもしれないが
これで間違いなく一区切りだ!



リスクの高めの癌だったにもかかわらず、
私は抗がん剤治療を受けていない。

だから 白血球数は気にしていないが。

術前9630、その後 5500、6510、5960・・・ときて
今回6690 だった。

現在抗がん剤治療中の人は 治療を中断する必要が出ることもあり、
この白血球数にも
大きく一喜一憂しているはず。

皆さんが 無事に治療を終えることができるように。

そして がん細胞をやっつけることができるように。

元気な私から 精一杯のパワーを送ろう。

ビビビビビビビびびびびびびび~~~~!!!!!(笑)