ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

音楽教室(3)

2006-09-30 | こどものこと
息子が 音楽教室のバッグを捨てたのは
今年、歳が明けてからだった。

年内に片づけが済んでいなかったので
私が促した。

それなのに私は 集積所に出す前に
名残を惜しんで 写真に収めた。

そして 画像を眺めるたびに
テレビ受像機さながらに流れてくる、
音楽教室の思い出のシーンの数々。



娘を入れた音楽教室の3歳コースのカリキュラムはステキだった。

母と子が 一緒に楽しく遊べて、
自然に音に親しむようにできている。

教師の力量もあると思う。

私は息子もこの教室に入れたいと思うようになった。

そして 息子がもうすぐ3歳を迎えるという秋のある日
新しいクラスが秋に始まり、
教師は 今 娘達をを担当してくださっている
高○先生と もうひとかたのアシスタント、
同じペアが見てくださるという。

お月謝が痛い当時の私達だったが
その声に勇気を得て
息子を入会させた。



娘は中学2年で音楽教室をやめた。

息子は高校に入って
バスケットの部活と比べて
部活を選んでやめた。

こんなに長く
ひとつの教室にお世話になるとは思っていなかった。

先生は途中で変わったが
やはりいい先生だった。



どう‘いい先生’だったかというと、
きっちりし過ぎない、という点が一番だったかと思う。

子どもたちを音楽家にするつもりもなく、
またその才能もなさそう、

でも音楽が好きで
もっともっと音楽を楽しみたい、

そんな子どもたちにぴったりの指導をしてくれた。

もちろん
コンクールに出場する子どもには
それなりの指導をする先生方だった。

子育てに悩んでいた私に
元気とヒントと癒しを与えてくださった先生方だった。



今 我が家のピアノは 
弾き手がいなくなっている。

一時期は 「では、私が!」と思っていたが
最近ではそんな気も起こらなくなっている。

もったいないよなあ。

「カッコウワルツ」

2006-09-29 | こどものこと
あの夏は暑かった。

娘は 初めてひとりで舞台に上がってピアノを弾く、
発表会の練習をしていた。

カッコウワルツ。

私は 小学生の娘には
できたらもっと難しい曲を弾いて欲しかった。

高○先生と一緒に 娘が選んだ、というので
口には出しはしなかったが。



初夏から夏の間、娘は
カッコウの鳴き声とともに
カッコウワルツを練習していた。

そして それを聞いた左官屋さんが
「♪カッコウ、♪カッコウ、か。」
と歌ったことを覚えている。

間もなく我が家が完成するという、
7月のことだったのだと思う。

あれから10年が過ぎたのか。

というか、娘を見ていると
あれからたった10年しか経っていないのに?
と感じる(笑)。

今日も買ったばかり、という
9センチのヒールのパンプスを履いて出かけた。



10年が過ぎて 点検をして
昨日は 足場が組まれて
さっきは足場の外側にネットが張られて

いよいよ我が家は200万円の工事が始まる。



ところで、
当地は夏になると 本物のカッコウが鳴く。

思い切り暑くならないと来ないカッコウ、

我が家の近くには
高い樹木を持つ家が何軒かあるので
その高木に止まって鳴く。

今年は暑くなり始めた頃に鳴いたが
その後はあまり聞かなかった気がする。



託卵という習性をテレビで知ってからは
可愛いとは思えなくなった泣き声、

しかも 死にそうに暑い日でないと聞こえない泣き声、

初夏の高原を思わせる爽やかな泣き声に
いつもイライラと腹を立てる私なのだが

今年の夏は少し寂しかったかな。



10年前の 娘の発表会では
小さな子が 他に何人か同じ曲を弾いたが
娘の弾く「カッコウワルツ」はトレモロも効いていて
一番上手だった!

「わたし、一度もつっかえなかったよ!」

4、5回つっかえたこともすっかり忘れて 
そう言い切る娘よ、
お前は本当に、いい性格をしているよ。

かかとに絆創膏を貼って出かけた娘よ、
せめて 捻挫には気をつけろよ。

『ボクの学校は山と川』

2006-09-28 | 読書
矢口高雄というマンガ家をご存知だろうか?

『釣りキチ三平』でおなじみかと思う。

他にも 
『マタギ』『おらが村』『ふるさと』などの著書がある。

著書と言っても もちろんそれはマンガで、

『ボクの学校は山と川』はその矢口氏のエッセイ。

(白水社、1987.9.1、1000円)

帯には
「『釣りキチ三平』の著者が、
 そのおおらかな少年時代をいきいきと描く
 好エッセイ!」
とある。



巻末に第二エッセイ集として
『ボクの先生は山と川』の宣伝がある。

『おらが村』(翔泳社、1995.4.10、上・下巻)
の巻末の著者紹介分のなかでは
「白水社刊『ボクの先生は山と川』のエッセイ集は
教育界に話題を巻き起こした。」
と書かれているので

もしかしたら
『ボクの学校・・・』よりも『ボクの先生・・・」の方が
優れた著作なのかもしれないが、
私はそちらを手にしたことはない。



この本で 矢口氏は 自身の出身地(秋田県)を
「村の真ん中を一本の川が流れている。
 秋田の名川雄物川の支流の支流で、
 橋の上からイワナが釣れるという
 どんづまりの源流部である。」(p10)
と紹介している。

「ふるさとの印象を一言・・・・・・」
「雪!」
とも述べている。

「昨日も・・・・・・今日も雪・・・・・・である。
 見上げれば白・・・・・・見渡せば白・・・・・・である。」(p160)



そんなふるさとで過ごした日々を
「忙しい少年だった」と言う。

釣りキチはもちろん、
蝶の採集、山菜採り、キノコ採り、
勉強もよくして委員長に生徒会長、
農作業を手伝って、 
それにマンガ少年で。

生き生きと描かれる矢口少年の様子は
まるで白黒映画のような感じで
私の目に映って見える。



矢口氏は1939年の生まれ。

私よりもだいぶオジサンだ。

服装は 大部分が和服にモンペ、
草履か下駄履きだった、という。

栗の木につくクリムシが繭をかける直前に採集し、
腸を搾り出しては酢で固めながら引き伸ばして
釣りのためのテグス糸を作る。

毎朝 朝食前に朝露をたたえたキャベツ畑に行き、
キャベツの葉を1枚1枚めくりながら青虫をつぶす。

この仕事は 2、3年後に DDTやBHCが出てきて
つぶさなくてもよくなった、
こころからDDTとBHCに感謝した、と言う。

冬の間、囲炉裏にデンと腰を据えて
来る日も来る日も 
おじいちゃんはワラジを作り、
母は縄をなった、という。



時代の波の来るのが遅いイバラキの田舎育ちとは言え、
私にとっても あこがれの田舎生活のように見える。

私の家には囲炉裏はなかったし
ワラジも草履も自分でこしらえることができる矢口氏と違って
私はどちらも作ったことがない。



けれど 私の時代の 私の田舎の子どもたちも
工夫を凝らして遊んでいたのは確かで

勉強はともかく(つまりできなくても)、
そういう工夫で
大人顔負けの獲物を収穫することのできる子どもは
尊敬の対象だった。



この本の一番秀逸なところは
タイトルではないかと思う。

少なくとも私は 
このタイトルに引かれた。

「学校は、山と川」。

「先生は、山と川」。

幼い娘の手を引いていた頃の私にとっての
理想の子育ては
この本のタイトルが示していたように感じていた。



後に 
娘の通う学習塾の送り迎えに忙しくなってからは
「ああ、私の理想の教育は
 どこへ行ってしまったんだろう?」
と思うこともあった。

そんな時にやはり
強いあこがれと共に思い出すのは
矢口氏の子どもの頃のような 
自然に教えられ、鍛えられ、
周り中の大人たちに育てられる
そんな田舎の子どもたちの姿なのだった。

けれど 
始めてしまった塾通いは
後戻りはできなかった。

梨とぶどう

2006-09-27 | なんでもないこと
結婚前に
亭主に「食べ物は何が好き?」とたずねて
そくざに「梨!」と大きな声で帰ってきた時に

私は可笑しくて笑ってしまったし
「梨なんて。」
とバカにしてしまった。

そして亭主はいたく傷づいたらしく
それをいつまでも忘れなかった。

きっと今でも覚えている(笑)。



とにかく、亭主は梨が好き。

私だって好き。

だから秋の一時期、
日本中のあちこちからいただく梨は
本当に嬉しい。

今年は福島の後輩や 東京・多摩の先輩からは
いただけなかったが

例年通り イバラキの亭主の同級生や
埼玉の後輩から
おいしい梨が箱入りで届いた。

毎日
シャクシャクと噛んでは
口いっぱいになったジュースを
ゴクゴクと飲み込む。

贅沢なひととき。

日本一おいしい梨が 日本のあちこちにある。



亭主は梨が好きで
しかも数年前に
仕事で梨の産地を通ることが増えてから
時々 いただいた梨がなくなった時に
わざわざ買ってくるようになった。

そして 
「梨を買いに行こう!」
と私たちを連れ出してくれることがあった。

当地は平坦だけれど
ちょっと山の方へドライブすれば
梨の産地までは遠くない。

なんでもいいから
どこかへ出かけたい私は
梨がなくなって
山の方へドライブに行けるときを楽しみにしていた。



ところが 
いつぞや食事をご馳走していただいた夫婦が
その産地の梨を送ってくださった。

しかも、2段に入っている!

どんどん食べたが なくなる頃には
梨の時期はそろそろ終わりに。

贅沢ながっかり感(笑)。

どれが幸水でどれが豊水かわからずに食べているが
最近では二十世紀の人気が復活しているとか。

口の奢った私たちに合わせるのに
生産者も苦労していることだろう。



梨を食べ終わるのと同時に
今度は巨峰をいただいた。

長野の後輩から。

これがまた
歯がとけそうに甘い(笑)。

中に入っていたパンフレットによると、
巨峰の栽培はもう50年の歴史があるという。

ちょっとオドロキ。

私より年をとった巨峰の古木があるらしい。



梨も ぶどうも
そのおいしさは
何十年にもわたる苦労と工夫の歴史の証。

可愛い息子

2006-09-26 | こどものこと
娘はこの間まで
TVを見ていて
車のコマーシャルで
「ズーム、ズーム」
と言っているガイジンの男の子が出ると
「ちっちゃい頃のY(息子の名)にそっくり!」
と必ず叫ぶのだった。

今年の夏は
エアコンのコマーシャルで
「しっつど~ん。しっつど~ん。」
とやってる三人の男の子の、
右側のハーフっぽい男の子を見て
同じ事を言っていた。

先日 映画『ホームアローン3』の
何度目かのテレビ放映があったので思い出したが

あの映画を(テレビで)見ている間にも
主人公の男の子のことを 何度
「Yにそっくり!(ちっちゃい時の)」
と言っただろう。

自慢じゃないが(いや、自慢か)
ウチの息子は
小さい頃は、そりゃあ、もう、
可愛かった!(過去形。)

『ホーム・アローン3』の男の子
(マコーレー・カルキンじゃない子)とは
髪型が似ているので
よけいにそっくりに見えた。



この写真は 
亭主の実家に飾ってあるのを撮ってきたもの。

こまっしゃくれた表情をして写っているが
まだ保育園に通っていた頃。
 
13、4年前のものだろうか。



13、4年前の お盆を過ぎたこの日 
亭主は 子どもたちふたりを連れて
(私は留守番に残っていた)
実家に帰った。

そして 義父母や義弟一家と一緒に
釣堀へ出かけた。

そこは 亭主が子どもの頃
初めて釣った釣堀だったのだそうだ。

そこに子どもたちを連れて行きたい、と
亭主は以前から言っていて

この年齢になったことで
ようやく機が熟したと考えたのだろう。



釣堀では
ニジマスが釣れた。

子どもたちにも釣れたので
大はしゃぎだったらしい。

写真の中で息子は
緊張しながら慎重に自分の釣った大きなニジマスを
しっかり両手で持っている。

緊張しつつも、
得意げに
鼻の穴をふくらませている。



この日の息子の写真には
カメラ目線のものは一枚もない。

一緒に写っている義弟の長男(息子と同い年)が
目をカメラに向けていても
息子はひたすら 魚を見つめている。

頭に載せた帽子は
義父のものだ。

息子は頭が大きかった。
(今も?)



甥っ子は 魚が嫌いだったのに
この日は 
「T君の釣ったお魚だね!」
の声に、
パクパクと食べたそうだ。

ウチの子どもたちは
平気で食べていたはず。

釣ったばかりのマスは
臭みがまったくない。

餌をつけるのは 大人にやってもらったことだろう。



この日の最大の話題は
息子が号泣したこと。

なんと息子の釣竿に
かなり大きな鯉がかかり、
大人の手助けもあって
なんとかそれを釣り上げたのだそうだ。

大きさもかなりあって
重さも重い、
得意満面の息子は

「この鯉は持って帰れないから
 放して行こう。」
と言われて 大泣きしたとか。

可愛そうに(笑)。



私は釣りはやったことがなかったし
興味もなかったけど
この時ばかりは
亭主たちをうらやんだ。

喜ぶ子どもを見るのは
何よりも嬉しいものだ。

残念なことに 今 この釣堀は 
なくなってしまっている。

そして
これから後では
我が家は時々釣堀のあるところを探して
家族で山の方へ出かけるようになった。

普段 どこへも出かけない我が家としては
画期的な出来事の日の、
私の可愛い息子の話。

おとめ座、18歳。

新盆

2006-09-25 | 考えたこと
今年は義母の新盆。

四十九日の前後だって
義弟も亭主もできる限り実家に行って
いろいろやってきたけれど

ここへきて もう、無理、ということになった。



お盆の頃は
我が家は仕事が忙しい。

義弟のところでは
義妹の実家の親御さんが
義母の四十九日を待ってくれていたかのように亡くなり、
そちらの面倒も見なくてはならない。

義母の実家でも新盆。

私の実家も・・・お盆は格別。



当地もそうだが
お盆見舞いというのがあって
親しい人たちは 親戚でなくてもお焼香に来る。

お菓子やジュースなどを包んで待っていて
お包みを置いていく人に渡さなくてはならない。

まして 新盆(しんぼん・あらぼん、=はつぼん)では
それなりの人数が亭主の実家に来ることだろう。

葬儀の日にも、
それから 葬儀の前後にも
昔義母の世話になった、とか
義母が○○委員の時に世話してもらった、とかで
予想以上に人が訪れてくれていた。

この危機を 義父ひとりに押し付けるわけにはいかない、
そう思っていたら

新盆のための荘厳をお願いしたお店で
信頼できる人を紹介してくれる、という。

それはありがたい、と甘えてみたら
お店の社長婦人がやって来て
てきぱきとお茶を出し、
受け取るものを受け取っては
渡すものを渡し、
とても助かった。

という話だ。

義妹は無理だったが
義弟はできる限り実家におり、
なんとかやり過ごすことができた。

我が家が亭主の実家に向かったのは
例年通り 当地の送り盆が過ぎてからだった。



画像のサギソウは その時 義父にもらってきた。

以前にももらったのだが 消えてなくなってしまったので。

毎年 この頃に花を咲かせる、
不思議な造形の花。

やきもの

2006-09-24 | なんでもないこと
気をつけよう、とは思っていた。

なんだかやたらと
食器をぶつけたりしていたから。

こんな時に 割ったりすることが多いんだよなあ、って。



カウンターに置いた御飯茶碗を
流しの側から取ろうと手を伸ばした時、
私の指は 自分の茶碗をはじいて下に落としてしまい、

乾いた音をたてて
白萩の茶碗は完璧に割れた。



10年以上も前に引き出物でいただいた
柄違い10客セットのお茶碗があるから
それでいいや、と思っていた。

家族もそれを使っているし。

私のは 
放射線が終わった頃に がんセンターの近くで買った
夫婦茶碗の‘夫用’の茶碗だったので
今度は小さめのお茶碗にしよう、とも思っていた。

そしたら、2006年6月、
亭主が 私の誕生日のプレゼントに、と
作家モノで一点モノの茶碗を買ってきてくれた。

(もちろん!まだ40代。)



なにしろ
無名とは言え 
作家モノの一点モノ。

お値段も普通よりは高めだったらしい。

でもなあ。

わたしの好みと亭主の好みとは
すこ~し、ズレてんだよなあ。



この内側は気に入ってるから、いいことにしよう。。

それにしても・・・。

わざわざ大食の私のために、
‘男物’のお茶碗と湯呑を買ってきてくれて。

ありがたいような。。。(涙)。

遺品の整理

2006-09-23 | 考えたこと
亭主の実家の整理・整頓は
義母がグループ・ホームに入所したころから始まっている。

義母の衣類の整理も
ほぼ同時に始まっている。

亭主は 時間がないため
いったん荷物をすべて我が家へ持ってきて

いらない物を捨てたり
いただきたいものはもらったりして
残りはもう一度実家に持って行く、という
ややこしいことを繰り返していた。



義母の病気は治らないものとは言え
義母にも義父にも遠慮しながらの整理だった。

なかなか義母の衣類の整理がつかなかったので
季節が変わるごとに不足があり、
そのたびに義父やその息子たちは
新品を買ってホームに届けた。

あふれんばかりの衣類は
あとからどんどん見つかったのだが。



亭主が持ってくる衣類は
古いものが多かった。

色が褪めていたり
形が古かったりして
どうしても使い物にならないのは

きっちり きれいに ビニール袋に入れて
可燃ゴミとして出した。

ぐちゃぐちゃのままゴミに出したくはなかった。



雑巾として使える布地は
使い捨て雑巾にした。

ビリビリと音をたてて切り裂き、
一定の大きさの布にした。

使い捨て雑巾は どんどん出来上がった。

掃除嫌いの私では 使いきれないくらいに。



以前

ピンクの戦士(乳がん患者)の一人が
引越しのために
毎日泣きながら
母の遺品を整理して捨てている、
と書いていた。

遺品の整理とは
胸つぶれる思いのするものだ。

こんなに辛いとは思わなかった。

破くと 心が引き裂かれる音がする。



小さなハギレひとつにしても
ああ、これはお義母さんのブラウス、
などと いちいち思い出してしまう。

やるせない気分になって手を止めては
ため息をついてしまう。

免疫力がどんどん下がる作業だ。

というか
生きる気力やエネルギーが
削がれる仕事だ。



義母が亡くなって
整理は本格化した。

今まで持って来れなかったものも
亭主がどんどん持ってくる。

親戚や友人にもらってもらうこともあるが
古いものはどうにもならない、燃えるゴミ。



義母はどうやら着道楽で、
ステキな洋服をたくさん持っていた。

編み物教室に通っていた関係で
ニット製品は凝った作りのものが多い。

ワンピースやジャケットやコートまでニット。

退職後は手編みに凝っていたこともあって
ハンドメイドの、
デパートで見ればウン万円というセーターが
どっさりある。

既製品と言えど
義母のめがねに適ったものばかり、
平凡なものはひとつもない。

どれもちょっと凝った国産ニット。

しかも 衣装ケースに入れた時にかさばる。



義母はよく

「あたしの友達が 洋裁やってて、
 仕立ててくれんの。」

と言っていたが
オーダーメードの服も多い。

スーツやワンピースやパンツを見ても
ああ、これは
あのハギレの、とわかってしまう。

先にハギレの整理をやっているから。

上等の布地、と思うと 
捨てるのがためらわれる。

虫食い穴が開いていれば捨てられる。



そして 捨て下手の私には
どうしても捨てられないものが多い。

そんな中から、
義母の浴衣を解いて のれんを作った。

3枚作って 亭主の実家と 義弟の家と 我が家とで
おそろいののれんを掛ける。

記事を無駄にしなくて済む、という
自己満足作品。



そんなこんなで 整理は進まない。

とうとう最後の気力を使い果たしたのが、6月。

その時のままの衣類と衣装ケース、
3ヶ月以上 ここにある(涙)。



それにしても、
思わず
「ゲ!!!」
と声を上げてしまいそうになる、
義母の洋服の色柄!

あれを さりげなく着こなしていたんだから、
センスは・・・・・・もしかしたら
たいしたものだったのかもしれない。。

百箇日

2006-09-23 | 考えたこと
義母の百箇日は6月の初めだった。

さんざん迷った挙句、
義父と義弟の家族と我が家の9人の他には
だれも呼ばないことにした。

家族だけで集まって
家族だけで
お婆ちゃんのお経本のコピーを読み、
家族だけでの会食をした。

娘は 付け爪はしていなかったけど
こんどは付け髪(エクステンションとやら)を
つけたままだった。



それまで兄弟ふたりが
何度も何度も
可能な限り実家に行って奔走したおかげで
諸手続きは ほぼ完了していた。

週に一度ヘルパーさんに家事の援助をしてもらい、
義父のひとり暮らしも板についてきた。

それからなんと
「親に死に目に会えなかった!」
と訴えたら
義弟の単身赴任は 中途半端な時期に
元の勤務先に戻されることになったとか。

いいんだろうか?それで。(笑)

ともかく、
それまで 共働きで頑張ってきた義妹は
なにかと心強いことだろう。



誰もがみんな
少しずつ無理をしながら頑張っている。

義父の台所修行は
若い頃に一人暮らしをしているし

料理を作らなくなってしまった義母に食べさせる時に
工夫して頑張っていたので
あまり心配はしていなかったが

一緒に食べる人がいないと
どうしても手抜きになる。

ヘルパーさんの訪問を増やしてもいいのでは?とも思うが
昔気質の義父は
そうしょっちゅう他人が家に入り込むと
気づかれしてしまうだろう。

近所の人たち、親戚の人たちの好意が
本当にありがたかった。



義弟の長男と 我が家の長男とは
揃って高3、受験生になった。

義弟の長女は
中学生になった。

我が家の長女は
付け毛に付け爪、
チャラチャラしながら
バイトにも励んでいた。

私だけはあいかわらず ぼんやりと 日々を過ごしていた。

あ、忘れてた!

ゴールデンウィーク明けには 
私も出張に行ったりしてたんだっけ!

墓参り

2006-09-22 | 考えたこと
父が亡くなったのは 平成4年。

2006年の5月の平日、
その祥月命日の日に
私は 朝 電話をしてから
実家に墓参りに行った。

駅からタクシーで行くからね、と言ったら
「うん。」とかわされた。

いつもなら 同じ事を言っても
「いや、いいよ。
 
 迎えに行くから。
 
 上野で電車に乗る時に電話をくれれば。」

と言ってくれるんだけどな、と思いつつ、
忙しい義兄の手をわずらわせるのもまた
罪悪感があるし。。。



常磐線の駅を降りて
私はおそらく初めて 墓参用の花を買った。

駅ビルで探したら花屋がない。

少しうろうろ歩き回って花屋を見つけたら
カーネーションの鉢植えを見つけた。

母の日は過ぎたけど、
カーネーションを買って行きたい気分。

やさしいクリーム色のカーネーションが気に入った。

花束と鉢植えをかかえてタクシーに乗り込む。





今までに無く遅れて着いたのは
花屋を探していたせい?

私が好きな握り寿司をとっておいてもらっていた。

母は
「おめ(お前)が遅いがら、
 おらぁ、先、食っちゃったあ。」
と言っている。

年をとると 辛抱がなくなるというか
待つのが不得手になるような気がする。

はらぺこで 姉夫婦とまずはお寿司を食べ、

しかるのちに本堂へ。

本堂の前には 豪華に切花がどっさりバケツに入っていた。

「どうしたの?」
と聞くと
「おめがら 電話きてがら、慌でで買ってきたんだ~。」

父の命日を 母も姉も義兄も
今年は誰も思い出さなかったのだそうだ。

おとっつあん、ごめんね。

でも、14年もたつと、誰でもこんなもんだよね?



花を持って 墓地に行こうとしたら
その前に本堂に、と言う。

どうも忘れていた罪滅ぼし?に
義兄が簡単に法要を営むつもりらしい。

ああ。

めんどくさ(笑)。

それは口には出さず、神妙に読経を聞く。

お経本やそのコピーがないと唱えられない私(涙)。



これは【期間限定】、
本堂にかかっている、私の祖父の肖像。

父がまだ幼い頃に亡くなっている。

だから、私は会ったことがない。

いいオトコだった、という話だが
こうして見るとタレメ。

父とは似ているが
父の方が同じ年齢の時には いいオトコだったと思う。



実家も三人の子どもたちが大きくなって
(姪は結婚して)
それぞれに暮らしているので
面白くもなんともない大人だけの家庭。

楽しくもなんともないけれど
なにしろ久しぶりの里帰りだ。



義母の葬儀の後に
「うちにちょっと寄って帰るか?」と
姉に聞かれたが

亭主の実家と 自分の実家とを
行ったり来たりすると
けっきょくどちらの家にも落ち着けない。

ちょっと立ち寄った、くらいで
暇乞いをすることになる。

今回も 亭主についでに義父のところに寄るように、
と言われたが
「このまえ 私の実家に寄るのを断ったから。」
と言い訳して
今回は亭主の実家には行かないことにした。



花を供え、線香を手向け、
たくさん並んだ墓石
(なにしろ、歴代住職の墓地)の
ひとつひとつに水をかけ、
合掌して 
(義兄が)簡単な読経を済ませると

不思議なもので 
「お墓参りを済ませた」
と落ち着いた気分になることができる。

胸のつかえが取れた気分というか。

お盆やお正月にも 里帰りしない娘だから
こうしてたまの墓参りは
本当に罪滅ぼしみたいなもの。

でも 今年こそは 
もう少し頻繁にお参りにこれるかな?



母の野草園?は まだ荒れたままだが
ホタルブクロは瑞々しい様子で
可憐な花がぶら下がっていた。

風邪ひいた

2006-09-21 | なんでもないこと
もう一週間になる。
ゆうべ やっと微熱が出た。

それまでは低体温で、35度5分なんて。

頭も身体もぼや~~っとしてて。

どうせいつもぼ~~~っとしてるけど。

お台所には立ちたくない。

(これって風邪のせい?)

今日は平熱だけど
ホームドクターのところへ。

寝てれば治ると思ってるけど
気休めにお薬を飲もうと思って。

一週間もぐずぐずしてたこの風邪、
あと一週間続く、なんてことになったら、耐えられない!

愛犬も散歩に行けない。



左ののどだけが痛むのは、しょっちゅう。

それが今回
左の目がウルウルしてうっとおしいし、

左の鼻だけがツーツー、ビービー(笑)。

おまけ?に左の足だけに
痒い痒い、赤い湿疹がボツボツ。

お医者さま、これってなんのビョーキ?



一日中ベッドでごろごろ。

息子が「もう要らない」と持ってきた
 
フルメタル・パニック』をようやくこの機会に手にした。

ブック・オフに持っていく前に、
全巻読破!

(角川書店 ドラゴンコミックス、
 賀東招二 原作、 館尾 れつ 作画
 2001.9.1~2005.7.1)

息子はどうやら新刊本で全巻揃えたらしい。

金持ちめ!



学園ドタバタ・ラブコメというべきマンガなのか?

カナメという
やたらスレンダーなのに
やたらオッパイの大きな女の子が主人公で
ハリセンを手放さない。

でもガンダムみたいな巨大なロボットを交えて
軍隊が交戦するんだし。

AS(アーム・スレイブ)とかいうロボットに
人間が乗っかって操縦する。

ロボットの名前は・・・・・・、
読み終わると、すぐに忘れる(笑)。



息子がいつも
メールへの返事で
「肯定」とか「否定」とかって送ってよこすのは

このマンガの主人公のひとり、
バリバリのサバイバル系?戦闘員の
ソースケのマネだったのか?

あいつはそんなにこの軍隊かぶれ(いや、軍曹だって)の
男の子に心酔してたのか?

笑っちゃうねえ。

きのうのお彼岸の入りの日に18歳になった息子。

母の手料理を食べさせてやれなくて、
ゴメンねぇ。。

二十周年

2006-09-21 | なんでもないこと
今年 娘は成人式だった。

振袖は着なかったが。

3月、早生まれの娘は
二十歳の誕生日を迎えた。

20年。

感慨深いものがある。



娘が二十歳、ということは
私たちが当地にやって来て20年たった、ということ。

いろいろあったなあ。

苦労の日々だったなあ。

あの時は、
都内のアパートを出た亭主が
3月末に先に当地に来て 
仕事を始めていたんだっけ。

私は
5月の連休までは忙しいから、
連休が明けたら、ということで
たしか
11日ごろ、ちょうど産後8週で
義父母と一緒に
生まれたての娘を抱いて来たのではなかったか。

つまり今年5月11日は 
私にとって 20周年記念日だった、というわけだ。

お食事会などのイベントがなかったのは、残念。



20年。

シンジラレナイくらい時間が経った。

人がひとり成人するだけの 時間だ。

私が故郷のイバラキの田んぼのなかで過ごした18年よりも
もっと長く 月日が過ぎた。

老けるわけだよなあ。。

気持ちだけは若いつもりなんだけど。



辛い思いもした。

悲しい思いもした。

乳がんにもなった。

けれど 悪いことばかりでもなかったし
何より 子どもたちには この地がふるさとだ。



10年経って家を建てたから
この家を建てて10年経った。

△■ホームの10年点検も受けた。

家の寿命を延ばすためにも
ここでメンテナンスが必要になる。

防蟻処理とか
バルコニーの防水工事とかは不可欠。

それに外壁や屋根の塗装。

・・・・・・息子の部屋の壁の修理。

費用は・・・・・・
必須工事とオススメ工事で約200万!



我が家の外壁は
安いこともあってモルタル仕上げ。

サイディング全盛時代にあって
モルタルは少し寂しかった。

設計士はレンガタイルを勧めた。

けれど一番安い仕上げを選んだ。



今回聞いたところによると
サイディングは 目地止めなどが必要で
手間も費用もずいぶんかかるらしい。

そんなこと、建てる時には聞いていなかった。

建てる時に聞いていれば・・・
やっぱりタイルが好きだったかな?



とにかく費用はハンパじゃない。

子どもたちにかかる費用も増える一方。

壁紙の張替えとか
漆喰壁に替えるとか
腰板を貼るとか
もう一切なんにもできない。

オマケに 息子は
自分の部屋の壁にボコボコ穴を開けている。

成長の証?

いや、第2次反抗期の証。

あ、これすなわち、成長の証か。



とにかく私たちは確実に年をとり、
子どもたちは確実に大人になっていく。

月日の流れと 人格の成長とは 
一致しないのが残念!

原稿

2006-09-20 | なんでもないこと
亭主は忙しかった。

通常業務のほかに
儲からない仕事を請け負っていて

義母のところへ出かけ
義父のところへ出かけ

葬儀の後も
さまざまな手続きのために
それから 整理・整頓のために
頻繁に実家に帰っていた。

四十九日の準備や打ち合わせ。

それらが終わって 落ち着いた後
きっと来るなあ、と思っていた。

がっくりとする日が。

そろそろアブナイ、と思っていた時に
亭主にとって大きな事件があった。

原稿が届いたのだった。



亭主は原稿を書く、という仕事をたまにする。

そしてたまには締め切りがある。

これは大学院生時代から続けていることだった。

「原稿を頑張れば
 それで月に20万くらいは稼げる。」
と 亭主はいつも言っていた。

私は騙されてケッコンしたのだった。

学生でなくなってからは
さすがに時間がとれないでいた。



それでも締め切りがあると
決して遅れまいと睡眠を削り
家族との触れ合いもなくして
原稿を提出するのが亭主だった。

締め切りに間に合わなかったことはない、と
いつも言っていた。

そういう性格のヤツだった。



それが今回
義母の事があったので
締め切りを延ばしてもらう、という方法をとった。

そしたら・・・

上司(と、呼ぶのかなあ?)が
忙しい亭主に代わって
原稿を書き上げてくれた。

その原稿を送ってよこして
「これでいいか?」
と聞いてきた。

なかなか良く書けていたのだそうだ。

自分の他には
その人でなければ書けなかっただろう、
と思うくらい 良くできた原稿だったそうだ。

けれど
自分で書けなかった悔しさやら
自分でなんとかできなかった情けなさやら
いろんな感情が交錯して?

亭主は ウツっぽくなった。



確かにいろんなことがありすぎて
いろんなことを頑張りすぎて
疲れが出たんだね。

そして何よりも 母親の死。

だから ガックリきて不思議はない。

亭主は義母の死による精神的ショックは否定していたけど
ちょうどアブナイ時期だったのは確か。

二、三日で なんとか立ち直ったからよかったけど
こんなこともあった。

どうやって立ち直ったか?

忙しくて 余計なことを考えている暇がなかった(笑)。

義父の外出

2006-09-20 | なんでもないこと
四十九日が過ぎて 落ち着いて
義父が初めて外出した。

我が家へ泊りがけで来たのだ。

上野で娘と待ち合わせて
確か博物館だったか?(美術館かもしれない)
を 一緒に見て
そのまま電車に乗って
当地へ来た。

義母の調子がおかしくなってから
本当に初めての外泊だった。



けれど せっかく我が家に来たのに
たった一泊で帰るという。

今までも二泊で出かけることはまれだったと
以前に義母から聞いていたが
せめて二泊、できたら三泊と思っていたのに。

加えて
私には思惑があった。

義父をダシに
私が外出したかったのだ。



「お義父さん、

 温泉に行きましょうか、
 
 ゆっくりお風呂につかって
 泊まらずに帰ってくればいいし。」

「お義父さん、

 秩父に行けば
 駅前で巡礼の衣装を観光協会かなんかが
 貸してくれるんですって。

 札所めぐりをしましょうよ。」



ダメだった。。。。



私は本気で秩父の札所めぐりをしたかった。

行き始めれば 何箇所も回るから
何度も行かなきゃいけないだろうし(笑)。

秩父鉄道というのは
熊谷から出ている。

熊谷駅まで 電車で行ける。

いや、車で行ってもいい。

いやいや、秩父まで車で行ってもいい。

なにしろ、こっちには
カー・ナビゲーション・システムという
つよ~い味方があるのだ!



亭主のワンボックスを下取りに出すにあたって
5万円くらいにはなる、と言われていた。

ふと気づいて 
カーナビを私のコンパクト・カーにつけてもらうことにした。

同じメーカーの車でよかった、
メーカーの純正カーナビは
きっちりと収まった。

下取り価格は0円になってしまったけれど
これで知らない場所へも
(だいたいは)どこへでも行ける。

私は本気で義父を乗せて
秩父まで運転してもいいと思っていたのだったが。



あとで義父はだいぶ心を揺さぶられたらしい、
と聞いた。

お義父さん!

行きましょう!

どこへでも!

でもこのカーナビ、
少々情報が古いので
道なき道を走ったり
曲がれ、と言われた場所に
道がなかったりするんですけどね。

四十九日

2006-09-19 | 考えたこと
義母の四十九日は 2006年4月の半ばだった。

葬儀の時に導師を勤めてくださった住職に
亭主の実家に来ていただき、
ごく内輪の法要になった。

内輪と言っても 
我が家も家族全員行ったし
(娘はまたまた付け爪をはずして)、

義弟の一家もいるし、
義父と合わせてそれだけでも9人、

親戚の者も皆来てくれて、にぎやか。



足がしびれて歩けなくて、
お焼香するのに 
自分の席から焼香台のところまで行って
また自分の席まで、
全行程を手とひざですすんだ従兄弟の子も。

それでも真面目にお焼香してくれて。

別の従兄弟のまだ幼い子は 
お母さんがきっちり押さえつけて 
暴れないようにしていた。

終わった後で「偉かったね」と褒めておいた。



みな 普段は忙しくて 集まろうと言っても集まれない人ばかり。

義母のおかげで顔を合わせることができる。

特に義母の方の親戚は 朗らかな人が多く、
みんなが集まると 和やかでいい雰囲気。

こんな場所に義母が存在していないなんて、
残念としか言いようがない。



法要が終わったあとは
マチの結婚式場まで 式場の専用バスで向かい、
お清めの席に。

テーブル席、万歳!(笑)。

坂の下のお寺のご住職は お話の中で
「私のことを 私の昔の名前で呼んでくれる人が
 またひとり いなくなってしまった。」
とおっしゃっていた。

そういえば義父も
「あいつは、小さい頃は なかなかのキカン坊でな・・・。」
と言っていたっけ。

そんなかかわりがあったんだ。



私は普段 ‘ごあいさつ’というものは大嫌いなのだが
どの方の挨拶も みな意味があって
しかも可能な限り手短で(笑)、

‘じっくり聞いてもいいあいさつ’というのが
この世にあったんだ、と思った。



今回、義父からみなさんへの‘引き出物’は、
色紙と色紙立て(写真)。

色紙立ては 花台としてカタログに載っていたもの。

紫檀(または、紫檀色)。

これに義母のちぎり絵の作品をつけて
もらっていただいた。



義母の作品は 
私が全部数えたのだが
この普通の色紙の大きさのものが 
確か135枚。

それから ちょっと小さいもの、
手のひらサイズのもの、
ぐっと大きいもの、特大のもの、
それに 扇面形、短冊、うちわ、箸袋などがあった。



我が家にもひとついただいてきて、
どんな作品が入っているかと楽しみにしていた。

枚数を数えている時に
人様に差し上げていいかどうか迷うような、
まだ未熟な頃の作品がいくつかあったが

開けてみたら 我が家の一枚は
そのうちの
「これは、どうかな」
と私が思った、その一枚だった(苦笑)。

もちろん、もっとたくさん以前にいただいたのがあるし
これからもいただけるけれど
なんで、これかなあ、と思った。

きっと我が家に来る運命にあったんだろう。。。



この日に合わせて
亭主は 我が家の分の 義母のお位牌も用意して
お魂を入れていただいた。



我が家にはすでに
小ぶりだけれど私の父の位牌があり、
その位牌とほぼ同じ高さのもの。

ちょこっと出窓に出して撮影。



四十九日を無事に済ませると
またまた一安心。

そうして
本当の寂しさは これから始まる。