ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

身不知(みしらず)柿

2008-12-24 | 昔語り
会津に「みしらず柿」というのがある。

子どもの頃には 毎年 親戚の どこかから送られて来て
寒くなってくる頃には 毎日 柿を食べていた。

今年は 珍しく その‘身不知(みしらず)柿’が届いた。

そして 長く忘れていた風景を思い出させてくれた。









幼い頃、
柿の皮むきは 父がしてくれることは ほとんどなく、
母がひとりで担当していた。

4つ年上の姉が むいてくれることもあったが、
これも 父と同じくらい、まれなことだった。



私は、(どうやら)柿が好きだ。

食べたい。

食べるには、皮をむいてほしい。

梨はともかく(?)、柿は 皮をむかないと、(私は)食べられない。

母がいないと、誰も、むいてくれない。

そこから、私の包丁使いは始まった。



そう、私は 柿で 皮のむき方を覚えたのだった(笑)。

始めの頃は 危ないから、と母は止めようとしていた。

けれど その頃 食べるために田んぼや畑に出ていた母には
座っている時間は少なかった。

母に「むいてやれ」と言われて
姉は ますます むいてくれなくなった(苦笑)。

いいもん、自分でむくもん、と言う気分でむきはじめたら、
案外、むけるものだ(笑)。



父には 時おり
「なんだ、身がちっちぇえ(小さい)ねえ。」
とか、
「皮と身と どっちが多いか、わがんね。」
とか言われていたが

時おりまだ渋いのも混じっている見知らず柿は
厚めに皮をむいて ちょうどいいことも多かった。



そう、見知らず柿は 渋柿を焼酎で渋抜きして作る。

だから、待ちきれない思いで木箱を開けると
焼酎の匂いがしたし、
かじり付いたら まだまだ渋かった!ということも多かった。



もう 何年も 渋柿をかじっていない。

というか、子供たちは かじったことがあるだろうか。

あの‘しぶ’というものは どうしてあんなに 渋いんだろう?(笑)

口も 顔も ひん曲がる!



柿の木箱は 
いい加減な板を いい加減に合わせて作ったものが多かったように思う。

りんごを輸送するのに 木箱を使ったのは
そんじょそこらに材料があったから、と
最近 何かで読んだが
りんごの木箱は 割としっかり作られていて 頑丈だった。

だから 姉も 私も
小学校に入学して お古の机(正座して使う文机)をもらうまでは
リンゴの木箱を使って お絵かきやぬり絵を楽しんだ。

柿の木箱は しばらくは取って置くものの、
ガタガタな作りなので 
いつも そのうちバラバラにして 燃やしてしまうのだった。






私はたいてい 柿の実の実る季節には 風邪をひいて熱を出し、
暖かな日に 父が 暇を見つけて 我が家の柿をもいでくれる時に
外にでるのを母に止められたものだった。

けれど 父が 家族の輪の中心に居て
わいわい言いながら 柿をもいでくれるのは
滅多にない 楽しい団欒のひと時だった。

竿の先に 二股に分かれた金具や木の枝をくくりつけて
実った柿の枝に刺して、
竿をぐるりと回す。

竿に捻られた柿の実を付けた枝が折れて
そのひょうしにボトリと実がおちる。

きゃあきゃあ言いながら それを拾うのだ。

折れた枝に 実がいくつもついていると、
得をした気分だった。



実家の柿はなかなか甘くならなくて
それが悔しかったけれど
それと 収穫の時の楽しみとは 別なものだ。



近年 県内でも 山郷の方へ行くと
実が収穫されない地域が増えたと聞く。



秋の 柿の実は美しい。

鮮やかな色に染まって 風景を飾ってくれる。

その柿が たわわに実ったはいいが
重さに枝をたわませたまま 
木登りして盗む悪童もいないまま
冬の風景にうつろっていく。



父はよく 柿の枝を 収穫する時に折り取るのは
柿にとってもいいのだ、と言っていた。

柿の収穫は 木の枝の剪定を兼ねていたらしい。

そうすると ああして
こぼれんばかりに実を付けたまま冬を迎える柿の木は
剪定をしてもらえずに 疲労するのだろうか。

そう思うと
美しい柿の赤が 寂しい色に見えてくる。






柿の実をかじっていると
藁葺き屋根の すきまだらけの オンボロ実家の 
寒くなってきた季節の、
そこだけは‘ぬくとい’(温かい)こたつの辺りが思い出される。






今年はもう いただいた柿は食べ尽くしてしまった。

また、来年、だ。

近年 レトルト・パウチしたような柿を
かなり暖かくなってから見かけるようになった。

お、柿だ! とは思っては見るものの、
暖かくなってからは、どうも、食べたい、という気分にはなれないなあ!



追記:柿は ビタミンCが豊富で 注目の食材なのだとか。

   フランス語では そのままKAKIというらしい。

   でも 私が愛してるのは オシャレなKAKIじゃなくて
   素朴な柿なんだなあ。
                      (12月25日)

テレビと相撲と「冬の旅」

2008-01-13 | 昔語り
昔は 当地の冬場の風は 「夫婦喧嘩と同じ」と言われたそうだ。

どんなに吹き荒れていても 夜になると収まる、

つまり 暗くなると仲直りしちゃう、というわけ。

ところが、異常気象なのか?
近年では 夜になっても吹き止まないことが多い。

昨夜は 夜半から風が吹きだし、
一晩中荒れていたが 今朝は静かになった。

晴天。

と思ったら また吹き出して、
土手の上は 凍りつきそうに風が冷たかった。

きょうびの山の神さまは 性格がねちっこい?

今では近くの山まで 雪に覆われてきている。







今年はパンジーはなし、この色のビオラだけ。






テレビが我が実家にやって来たのは いつ頃だったろう?

イバラキの 田舎の 小さな、小さな、寺に。

確か 四本足が付いていたような気がする。

父が 新し物好きのB型だったので?
近所にはまだテレビが珍しい時期に 
我が家にテレビがやって来たのだった。



よく聞く話かと思うが
近所の人が テレビを目当てに
我が家に(実家のお寺に)集まって来た。

いや、テレビなんかなくても
当時は 
保険所やなんかの幻灯機映写会がお寺であって
本尊さまの前の部屋のふすまに 
(実家には本堂がなく、住まいと一緒になっていた)
白い布を垂らして
寄生虫のお勉強などを(笑)
近所の人を集めて見ていたのだった。

それとはやはり 違うノリで 人は集まって来ていた。

黒いタイツ姿の力道山の試合などを見た記憶がある。

私って、相当古い人間なんだな~(苦笑)。

近所の(男の)人が 歓喜の表情で楽しみに集まってくるのは
プロレスと お相撲だったっけ。。。







4連結のポットに入った 小さな苗を買った。小さい苗は安い。
安かったので嬉しくなって いっぱい買ってしまったので 
あちこちに植えなくてはならなくなった。






高度成長の波が 
昭和40年代に入って 貧しかった農村にもようやく及び、
テレビも次第に普及してくる。

次々と見に来る人が居なくなってきても
いつまでも見に来る人がいた。

隣の爺ちゃんだ。

この人は お相撲が大好きで大好きで
相撲が始まると 
野良から早々と上がってきて 風呂にまで入って
まだか、まだか、と 幕入り後の取り組みを待っていたものだ。






私は小さな子どもだったし
人が集まるのは大好きなB型だし(笑)、
お相撲も好きだったので
はしゃぎながら 一緒に見ていたと思う。

そうに違いない(爆)。

でも そのうち 
どこの家にもテレビがあるようになって
家に見に来るのが隣の爺さんだけになった頃には
夕方の早い時間には 私は
子供向けの番組を見たいと思うようになっていた。

というか、
相撲がないときには 見ていたのだ。

それが 相撲が始まると
我が家の誰も見ていない相撲を
となりの爺さんに見せるために
私は見たい番組を我慢しなければならなかった。

(母は  夕飯の支度の時間だったので
 相撲は見ていられなかった。)

(父はどこで何をしていたろう?)

母に 我慢するように言われ、
大好きだった隣の爺さんのため、と
私は けなげに我慢していたのだった。





隣にも テレビが入ったと聞いたときには嬉しかった。

ところが
「おらいにも テレビが着たからよ~。」
と言われて間もなく、

場所が始まったら
「孫が見たい番組があるというから。」
と 照れ笑いを浮かべながら やはり我が家に上がって
テレビの前に陣取り、
母の出すお茶を飲み始めたのだった。

ショックだった。







ガーデンシクラメン・その1。






私は母に 
今までは私が見たい番組を我慢してきたのだから、
今度は隣にもテレビがあるのだから、
今度は 隣んちの孫に 我慢してもらいたい、
と訴えた。

母は
「んだなあ。」
と言って
翌日 隣んちまで言いに言ってくれた。

隣んちでも 理解してくれたようだった。

隣んちで 孫が我慢したのか 爺ちゃんが我慢したのかは知らない。

けれど いくら孫が可愛くても
あの爺ちゃんが 相撲を我慢したとは思えない。



その頃の私は 
もうすでに 子供向けの番組を 
それほど見たいとは思っていなかったけれど
しばらくの間は 一生懸命に頑張って(笑)見ていた記憶がある。

チクチクと胸が痛むことがなかったわけではないが
ナマイキにも 理は自分にある、という思いもあったっけ。







ガーデンシクラメン・その2。





我が家のテレビがカラーになったのは
私が小学校6年か 中学1年の時だったと思う。

白黒テレビは2台目だったかもしれない。

このテレビが 次第に写りが悪くなり、
とうとう見えなくなったのが
「冬の旅」というドラマの最終回だった。

悔しいやら腹立たしいやら悲しいやら(爆)。



その頃は 夜の11時まで起きている小学生や中学生は 
友人達の間には少なかったが
母も大好きだった「冬の旅」が放送される日
(と、夜のヒットスタジオの日)には
夜更かしが許されていたのだった。

「冬の旅」は 
あおい輝彦、田村正和、久我美子、二谷英明らが出演した
木下恵介の人間の歌シリーズだそうで、
原作は立原正秋らしい。

シューベルトの名曲にのせて 家族の人間模様が交錯し、
後で思い返せば 上等ではあるけれども 
ドロドロしたメロドラマ的でもある。

陰のある義兄役を 田村正和が好演し、
見ていて嫌いだったのに 終盤では可愛そうで泣けた。



最終回では あおい輝彦が
少年院内で 破傷風によって死亡するらしかった。

なにしろ 画面が真っ暗だったので
母とふたり、想像力を最大限に駆使しつつ、
テレビの前で 音に聞き入っていた(笑)。

父は出かけていて留守だった。

帰って来た父を捕まえて
母は カラーテレビのでっかいのを買うように、と
責め立てたのだった(爆)。



常磐ハワイアンセンター

2007-10-14 | 昔語り
テレビで 映画『フラガール』を見たので。
(→映画『フラガール』オフィシャルサイト

近年滅多に邦画を賛えることのなかったおすぎが、
久々に賞賛した映画としても話題となった
ということだが、

日本アカデミー賞最優秀作品賞など、5冠を達成したこの映画、
大手映画会社4社(東映、東宝、松竹、角川)以外の作品である、
ということの方が大きいのでは?

ちなみに 大手4社以外が受賞するのは
1996年の『午後の遺言状』(日本ヘラルド映画)以来
11年ぶりのことだそうだ。












常磐ハワイアンセンター。

今は「スパリゾートハワイアンズ」という名称になっている。
(→ルーツ・アンド・ヒストリーのページ
  映画をご覧になった方、ぜひ、ここの写真を!)





舞台の福島県常磐市(現・いわき市)は
福島県の南部の太平洋側にある。

少し南下すれば、イバラキ県だ。

私は南北に長いイバラキでも南部の出身なので
「隣の県は?」というと「千葉!」と思っているが
まぎれもなく福島は隣の県で、
常磐市は 茨城に近かった。



子どもの頃、電車で母の実家に行くときは
常磐線で水戸まで行き、
水郡線で水戸から郡山へ向かい、
郡山でさらに磐越西線に乗り換える。



あるいは 県境を常磐線で越えて常磐まで行って
磐越東線に乗りかえる方法もあった。

乗換駅は平だったろうか?

こちらはあまり乗らなかったが
確かにいわきのあたりを走っている。



常磐(じょうばん)ハワイアンセンター。

その、看板は車窓からよく眺めた記憶がある。

行きたかった。

看板を眺めるたびに、行きたいと思った(笑)。

でも、一度も行ったことがなかった。



昭和41年といえば 
私の記憶に残っていてもおかしくないのだが
いわきは イバラキ県南からは 当時は遠かった。

ところが、ハワイアンセンターに行った人は
近所にもどんどん増えていった。

1ドル360円時代のこと、
ハワイにいったことのある人は近所にいなかったが。 

(ついでながら、沖縄は当時はまだ外国で
 パスポートが必要だったから
 やはり行った事のある人はいなかったと思う。)



『フラガール』の映画を見る限りでは 
それほど肌を露出してるようには見えなかったが

当時としては破廉恥の部類に入っただろうか。



他に農閑期に行くべき所には
千葉県の船橋ヘルスセンター、栃木県の小山ゆうえんち、
あとは上野の動物園か。

他にもあったのかもしれないが、私は子どもだったので。。。

そして それらのどこにも 我が家は行ったことがなかった。

というか、
家族旅行というものに出掛けたことがなかった。

磐越東線とか磐越西線とかに乗るのも
家族揃って、ということは 少なかった。





思いついて亭主に聞いてみた。

「行ったよ。」

やっぱり!(笑)

「スバル360で。」

やっぱり!!!(笑)



スバル360で、行ける所は どこまでも行った、と
昔 義母が話していた。

夏休みになると
亭主と義弟を連れて
亭主の一家は毎年 家族旅行に行っていたのだそうだ。

房総の方も行ったという。

スバル360は、その名のとおり、360cc。

「よくあの車に 4人も乗り込んで
 そんな遠くまで行ったなあ。」と亭主。

「ガタボコ道でね。」と私。

いいなあ、公務員。夏休みがあって。

公務員でなくても、普通、あるのか。




話は『フラガール』に戻る。

あの言葉は イバラキ弁に近い。

福島とイバラキの言葉の中間って感じ?

俳優さんたちは よく頑張って雰囲気を出してたと思うよ。

だいたい、あんなのだよ、イバラキ弁。

お母さん役の富司純子なんか、
さすが、うまかった!

蒼井優ちゃん、かわいいね、
でもちゃんとイバラキ、いや、いわき弁(笑)。



とにかく、
よくぞ、そこまで、っていうくらい、濁音!(爆)

コメディアンがギター弾きながら歌ってたね、
「全部、濁音!」って。

それなのに、
「いばらぎ じゃなくて、いばらき」なんだからね!(笑)



方言なんかでも、いわき弁?と イバラキ弁には
共通のがあって、楽しかった。

最後に出てきた、「でれすけ」。

あれは、可笑しいね。

で、どういう意味なんだろう?(笑)

標準語で言い表すのは、難しい。



「ばか」「あほ」「マヌケ」の類の、
軽く相手を「小バカ」にするような時に言う言葉、かなあ。

茨城王の「茨城弁大辞典」によると、
だらしない、間抜けなやつ。
「ごじゃっぺ」と同じような使い方をする。
「でれ」は「でれすけ」の短縮形で、
「ごじゃっぺ」に対する「ごじゃ」のようなもの。

これで、わかる?(笑)



ちなみに、「ごじゃっぺ」または「ごじゃらっぺ」とは。

同じく「茨城弁大辞典」によると、

 いい加減、ばか、どじ、間抜け、などの
 否定的表現全般に使用。茨城弁の基本中の基本。


 例)「あすこのわけしはごじゃっぺだちけ」
   →あそこの息子は間抜けらしい

 例)あんまりごじゃっぺなごとばっかぬかしてんじゃねえよ
   →あんまりいい加減なことばっかり言うんじゃない

ということだそうだ(笑)。

(「だちけ」は、「だそうだ」という意味で、
 人づてに聞いた内容につける接尾辞だと思うんだけど?茨城王さん?)





まとまらない話だったけど、
3丁目の夕陽の頃の記憶はない私が
いろいろな記憶を呼び覚まされてしまった映画だったので。

秋の夜長の、グダグダ話(笑)。



窓の灯り

2007-01-17 | 昔語り
夕焼けの空や 朝焼けの空を見ると
こころから美しいと思う。

だから きっと私は幸せなんだ、と思う。

いろいろ些細な不幸せがあっても
たとえがん患者であっても

おおむね 幸せ。

それでいいと思う。





夕日が沈む風景を見ていると
美しいなあ!という感嘆とともに

胸が締め付けられるような
切ない気持ちになることがある。

そんな時
この気持ちの根っこにどんな思い出があるか
自分の記憶を探ってみる。

すると
子供の頃にも 切ない気持ちになっていたことを思い出す。

子供の頃の私が 夕陽に胸締め付けられていた原因。

それは 人がもともと DNAの記憶の中に持っているものだろうか。

それとも もう家に帰らなきゃ、という 子供のがっかりした気持ちから?

それはちょっと不明。



今現在の私が 寂しさを覚えるのは
家の記憶があるからのようだ。

心の奥を探ってみたら
実家の茅葺き屋根の家の 裏からの姿が見えてきた。



学校から帰る時に バス停から歩く近道は、墓参道(笑)。

墓地の手前のT字路で左に折れると

古井戸の向こうに

ど~~んと巨大な茅葺き屋根の黒い影。

その下に ちんまりと 台所の窓。



台所の窓は 長く裸電球がぶら下がった灯りだった。

その灯りが 赤くて 

なんとも 暖かだった。

あの灯りが 私の胸のどこかで ちりちりとした痛みをおこすのは

もちろん 乳がんになったからではない。

子供の頃からの 私のクセなのか。



いったい何年生の頃の記憶なのか。

私が家路につく時は

いつも母が台所で夕食を作っていて

私は 裏から台所の灯りが見えると

ホッとして

そして なぜだか とても 嬉しかった。



そして それは 高校を卒業して 家を出るまで
続いたのだった。




胸締め付けられる、近所の落日の風景。

見たくても 実家の あの夕暮れの灯りは
もう 見ることができない。

立春大吉

2006-02-04 | 昔語り
今日は立春。

初春、新しい年の始まり。

昨日生まれた人は 酉年生まれ、
今日生まれた人は 戌年生まれ。

ちなみに、旧暦では1月7日、七草。

そういえば、最近やたら雑草が元気そう(笑)。



きょうから春だというのに すごく寒い。

水溜りの水も 愛犬の飲み水も 1~2センチの厚さに
凍っている。

だから、春を、花を探して 近所をうろうろ。



けっこう探せばあるもんだ。

花期の長いサザンカも咲いてる。



ムラにはロウバイの名所がある。

たった一株のロウバイだけれど 
咲けばその芳香に とろけそうになるだろう。

散歩に行こうか。

**********************

実家の玄関は 一間の引き違い戸だった。

かやぶき屋根だった、昔の話。

南向きの玄関のタタキから
50センチくらいの段を上がり、
もう30センチくらい上がると
そこは 7.5畳の畳の部屋、ホール?(笑)

その部屋から東に
「茶の間」と呼ばれていた応接室(笑)があり、
来客には そこに通っていただいた。

もっとも 近所の人や 職人さんは
玄関に腰をかけて そこでお茶を飲む事も多かった。



「茶の間」の柱には
もう何枚も何枚も重ねて 
「立春大吉」と書かれた 紙のお札が貼られていた。

下の方になったお札はすでに 茶色く色褪せて
その上に真新しいお札を貼るのだ。

「立春大吉」。

文字を眺めているだけで
なんとはなしに 暖かく、そしてお目出度く感じる。

当地ではそのお札をいただいたことがない。

どこへいけばいただけるのだろう?



今は 仏教辞典や 民俗学辞典などを見ることなく
春を迎える喜びを感じてきた日本の田舎の人々、
寒い冬に耐えてきた世界中の人々の
この季節に見出した幸せを思って

ぼんやり 陽だまりで 昔を思い出していたい。

あの茶の間の 火鉢の匂いなどを。

お盆のころ

2005-07-14 | 昔語り
昨日書いたように
私の故郷では 月遅れで お盆を迎える。

その頃には 早くも 新米が取れ始める。

昨日の提灯で いろんなことを 思い出した。


zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz

マリーゴールドは 土壌線虫を駆除するとか。

除虫菊の仲間だから 蚊を寄せ付けないとか。

我が家のやぶ蚊には 効かないが
土にはどんな影響があるのか。

薄いオレンジのジニアと組み合わせて植えたら
どうも ジニアの機嫌が悪い。

相性が悪いのか?
それとも 水遣りが足りなかったから?

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz


小さい頃は 本当に苦労がなくて、
お盆もウキウキする行事だった。

だって、
可愛い 赤い柄の 
長いたもとの 浴衣を着せてもらえる。

お墓参りに行くときに
持たせてもらう 赤い提灯も 大好きだった。

忙しい中、母は 姉と私を お風呂に入れ、
シッカロールをはたき、
ゆかたを着せたり
(暑いと暴れれば)脱がせたりしていたのだろう。



母が忙しくて 家の中がバタバタしているのも
B型気質としては 嫌いではなかったはず。

それから お盆の頃になると
いろんな 美味しいものが 採れだす。

新米は別としても、
枝豆に とうもろこし。

こんな 栄養豊富で 添加物のまったくないものが
あの頃のおやつだったんだなあ。

忙しい中、大汗をかきながら
母が茹でたり 蒸したり してくれた。



大掃除をする。

盆棚を作る。

盆棚に飾り付けをする。

お供えをする。

ご先祖様がいれば 
どこの家でも お盆にはしていることばかり。



それでも 実家の場合は
お寺だから 規模が少しずつ大きい。

面倒な事もいっぱい。

父は大忙し。

普通の家では作らないものを
たくさん作る。

お塔婆の依頼もある。

それらは 僧侶である父の仕事で、
妻や子供たちは <一切>!
手伝わなかった。

(可愛そうなおとっつあん。)



8月13日、
月遅れの迎え盆の日、
夕方が近づいてくると
ぽつりぽつりと 人が来る。

薄暗くなってくると
急に人が増えだして
どっと! 押し寄せてくる。

外に出た‘わげぇし’(若者)も帰ってくる。

嫁に出た娘も帰ってくる。

そして その子供たちは 
小さな子を連れて帰ってくるようになる。

小さな子は よちよち歩きを始め、
走り回るようになる。

浴衣を着て
子供用の可愛い提灯を持って
夕刻のお寺に集まってくる。

「ひさしぶりだねー。」

茨城弁の挨拶が飛び交う。

ウロチョロしている私が
ウキウキしないわけにはいかない。



人々は 手に手に 重箱に入れたお米を持って来る。

それを受け取ると
竹製の大きなかご
(? 背中に背負う籠より もっと大きいが
 背負い紐はついていない)
に入れる。

「ご苦労様でした」の言葉と
経文が書かれた一組(二本)の経木などとともに
重箱をお返しする。

ここらへんが 小さい子供でも手伝える仕事。

経木に お経文を書いておくのは
当然、父の仕事。

時には 
お野菜を 供物として持ってきてくれる方もいて、
それは 本尊様の前に 飾る。

新盆の家では 
それらを通常の2倍持ってくる。

寺から渡すものも 2倍になる。



それらを持って
村人たちは 墓地へ向かう。

寺から 墓地へ(寺の隣にある人が多い)、
墓地から それぞれの家へ。

提灯の行列ができる。

その行列は 幻想的で 美しくて
ちょっと物悲しくて
御伽噺の世界に引き込まれそうな
魅惑的な怖ろしさをもっていた。



そんな日が 三日続く。

我が家の墓参は 人の足が途絶えてから。

かなり遅くなる。

棚行で 檀家さんの家々をまわってきて
ヘトヘトになって
お経の読みすぎで 声まで変わった父と
夜遅くに お墓へ行き、
可愛そうな父は
そこでまた 般若心経一巻を読む。



会った事のない私の祖父が眠るお墓。

ほとんど会っていない祖母も 
後に加わった。

今は 父もそこに眠っている。

今年も月遅れのお盆が過ぎたら
お墓参りに 行けるかな。

わげぇしら

2005-06-25 | 昔語り
『いばらぎじゃなくていばらき』の最初の項目が
「わげしを都会に連れでって(ディレクターズ・カット版)」で、
私としては この項目名からして、
可笑しくて、懐かしい。

そうして 思い出したこと。

昔 実家の辺りには ‘わげぇしのあづまり’があった。


ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt

変わった色の イトトンボ。

青緑のメタリック・カラー。

子供のころから、こんな色のイトトンボは
見た事ない。

22日撮影。

ttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttttt


‘わげぇし’または ‘わげし(と、茨城王は言った)’。

それは、たぶん、‘若い衆’のこと。

‘若い’→‘わげぇ’、この変化は 方言としては
基本的なものだと思う。

そして‘わげぇしのあづまり’、
すなわち、‘若者たちの 集まり’とは・・・。

文字通り、若者たちが集まる事。
(なんのこっちゃ。)



実家に 時折 若い男の人たちが
夜に 大勢 集まっていた。

それは 一月に一度か二度程度だったのかもしれない。

わたしはまだ幼くて、
集まってくる若者たちが
身体も声も大きくて、怖かった。

もしかしたら 幼い私には大きく見えても
高卒程度の年齢だったかもしれないが。

それとは 別に、B型気質、人が大勢集まるのが
嬉しかった。



食べたり、
飲んだり(何を? 知らない、寝かせられてて)、
しゃべったり。

もてなす母は 今考えてみれば大変だったかも。

母は、‘わげぇし(=若者たち)’という
複数を意味する接尾辞をつけたこの単語に
さらにいろいろくっつけて 口にしていた。

曰く、‘わげぇてえ’、‘わげしてぇ’、‘わげぇしら’。
さらに、‘わげしてぇら’。
‘てぇ’も ‘ら’も 複数を意味する。
‘てぇら’はもっと大勢?
‘衆・てぇ・ら’は、もっと、もっと、大勢?



私は姉と二人姉妹。

男の兄弟はいなかった。

お寺という家業(家の業:ごう)に生まれた
二人目の女の子は 
少々、厄介だ。

要らないものを見る目つきをされることがある。

これは ヒガミかもしれない。

ヒガミかもしれないが、
「この子が 男の子だったら、ねえ。」
とは よく言われた言葉。

いろんな人から。見知らぬ来客からも。

そして 父も母も 
異常なまでに 男の子が可愛いかった。



もしかしたら そんな父が 
言いだしっぺ(‘ぺ’がつくけど、共通語だよね?)
になって 始めた 集まりかもしれない。

自分の周りに、男の子をはべらせて 
悦に入っていたのかも。

男の子、と書いたが、
記憶では 結婚すると 脱退、という
暗黙の了解があったような気がする。



また、これは もしかしたら、
‘若衆宿:わかしゅうやど’と呼ばれる制度
(テレビで見た事がある)をまねして
始めたものかもしれない。

また、或いは、
戦後 日本各地のお寺で盛んになった
仏教子ども会や 仏教婦人会の流れの中の
仏教青年会の ひとつの形態だったのかも知れない。

B型で 人と交わるのが好きな父が
真面目に布教に取り組んだかどうかは別として、
集まってくる人たちも
結構楽しみにしているように見えていた。



いつの間にか 
そう、各家庭に テレビが普及してからかも知れない、
消えてなくなっていた 集まりだった。

あんな集まりも それなりに意義があったようだったし
(なんとなく そう感じていた)、
今でも あれば それなりに 意義が見出せると思う。

先輩や 大人(父は30代前半だったか?)から
助言ももらえるし。

イジメがないようにも 気を配れると思うし。

人と人との交わりが 少なくなりすぎる時に、
今あると 結構 いい役割が与えられそうな気がする。

そんな面倒な事を 寺の人間がするかどうか、
そんな面倒なことろへ 引きこもり気味の人が
出かけてきてくれるかどうか、
そこのところは わからないが。



父が亡くなって、
あれは、密葬の時かもしれない。

(なにしろ、その前後の記憶は、極めて曖昧。)

お清めの席の一角に 懐かしい面々が集まっていた。

あのころの‘わげぇし’のメンバーたちだ。

面影が消えないどころか、そのままなのが可笑しい。

彼らは
騒ぐでもなく
大声を上げるでもなく
しゃべりまくるでもなく
ただ そこに座って 静かに
語り 飲み 食べ 
時折 ぽつりぽつりと 何かを語り
そして 
いつまでも 席を立たなかった。

もしかしたら
父の突然の死を
一番 心から 痛んでくれていたのは
あの頃 父を アニキのように慕ってくれていた
彼らだったのかも知れない。

(なにしろ、私たち親族は
 悲しくも辛くもなかったので。 
 その時はまだ。)

「おばんです」

2005-06-17 | 昔語り
とほさんのところにお邪魔した時に
「おばんです」という言葉を目にして思い出した、
昔の話。

母の実家は 祖母が新宅に出た家だったので、
本家からは遠く離れた、駅の程近く。

田畑に通うには不便だったが、
私の実家よりは 余程都会だった。

都会ではあったけれど 東北の頑固者の土地柄、
古いものは ミトッポのイバラキよりも
ずっと 残されていた。
(ほら、裃とかね;笑)


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ビニールポットのまま 花が咲いてしまった
アスチルベ。

地面を柔らかくしてからでないと、
どこにも植えられない。

スコップを振るうのは、まだ怖い。
大き目の鉢にでも 植えるしかないか。

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たとえば、裃(かみしも)。

たとえば、土間に置かれた、五右衛門風呂。

たとえば、銭湯の料金。

たとえば、言葉遣い。

たとえば、そう、貸し本屋!



母の実家の近くには 貸し本屋が 何軒かあって、

姉と私は 夏休みに 祖母の家に泊まりにいくと
そこから (主にこわ~い)マンガを借りてきて
誰にも叱られずに のんびり読んでいたものだ。

駄菓子屋が 日本中から消え始めた頃だから、
昭和も40年代に入っていただろうか。

貸し本屋も 次々なくなって、
でも 近くに一軒だけ残っていた。

その年の夏も 
姉と私は 同じ退屈するなら、祖母の家で、
と長期滞在を決め込み、
マンガ三昧を楽しんだ。



昼間に借りてきた本を 読み終え、
取替えっこして また 読み終えた私たちは
夜になってから
「借りに行こうか?」
と相談して出かけた。

夜 暗くなってから出かける、なんてことは
普段はしない(姉は怖がりだし)のに、
読むマンガがなくなった徒然もあり、
大胆にも!
子供だけで マンガを抱えて 出かけたのだった。

「店の明かりが消えてたら、
 帰って、明日にしようね。」

そんなことを相談しながら。



行ってみると 店の明かりはついていて、
ほっとして うれしくなって、
顔を見合わせる、姉と妹。

ガラス戸を ガラガラと引いて 開ける。

敷居をまたぎつつ、
「こんばんはー。」
と入っていった。

いつも 「こんにちは。」と入っていたので
何の不思議もない、
普通の事のつもりだった。



すると 店の奥の座敷では
ちゃぶ台を囲んで 家族揃って 食事中。

その、食事をしていた家族全員が、
こちらを見た!

見えないところに座っていた人まで、
身体を斜めにして
こちらが見えるところまで首を伸ばして、
全員、
見た!

「一体、誰が来たんだろう?」

そんな緊張した雰囲気が 硬い空気となって
座敷から店の入り口まで 押し寄せてきたので
姉と私は とまどった。



次の日の晩
またまた 夜に 本を借りに行った私たちは、
昨夜の驚きを忘れず、
今度は 普段使っていない
「おばんでございます。」という
挨拶を使った。

貸し本屋一家は またまた 食事中。

でも 声をかけたときに
誰も こちらを首をのばして見ようとはしなかった。




それ以降、
姉と私は 「おばんでございます」という言葉を
会津に行った時には
恥ずかしがらずに 使うようになった。

「おばんです」ではなく、
「おばんでございます」だが。
(会津の言葉遣いは、丁寧なのだ!)

そんな、取るに足らない、昔の話。

田んぼに水が入ったら

2005-06-15 | 昔語り
梅雨入りした途端の中休みで、
連日の夏日。

そんな中、新聞の投稿欄では
‘梅雨’をテーマにしていた。


yyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy

写真は 5月に撮影したヤマボウシ。
花期が長いのがありがたい、白い花。

いったい いつから咲いていたのか。

今 ようやく終わりになろうとしている。

yyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy


12日(日曜日)の投稿欄では、
7通の投書のうち、38歳の女性が一番若く、
あとは中高年から。

朝から雨の日は 農作業を休むので
両親が家にいてくれて嬉しかった、と 56歳・女性。

級友が 新しい長靴を 履いて帰ってしまい、
下駄箱に残されていた使い古しのズック靴を 
わざと汚したら・・・と、54歳・男性。

下町の子供は、軒先伝いに行けば 傘などいらず、
軒先を駆けずり回ってあそんだ、
番傘は 重いうえに穴だらけだった、と 
71歳の女性。

田植えの時期には 学校は一週間ほど休みになり、
苗運び、子守、炊事、洗濯、etc.
子供も一人前の労働力として当てにされた、と 
70歳・女性。



触発されて 私もいろいろ思い出したことがある。

新しい長靴を買う、というのは
ちょっとした贅沢だったこと。

田植えの時期には 毎日雨が降り、
母が 軒先の蛇口のところで 雨にぬれながら
鎌を研いでいたこと。

苗代に蒔く種籾を 水に満遍なく浸けて 
発芽させる場所も そこだったこと。

ああ、そういえば そこは 以前は ガチャコンポンプで、
蛇口じゃなくて、手押しだった。

そこが 蛇口になったとき、
従姉妹と一緒に写っている白黒写真がある。

その頃の写真は 記念写真か、
伯父が撮ってくれた物ばかり。

我が家がカメラを買うのは、もっと後だった。



就学前に
農繁期だけの託児所に お弁当を持って通ったこと。

私が小学校に入った後も、
農繁期には 学校が休みになったこと。

家の手伝いをせよ、ということらしかった。

実際、上級生などで 身体も大きい児童は
労働力として かなり アテにされていたようだった。

男子は 野良で、
女子は 台所でも。

いつの間にか 農繁期休みは なくなったけれど、
小学生のころには
『やまびこ学校』の世界は 私の周りに あった。

アニメ『となりのトトロ』にも、サツキの科白に
「田植え休みなんだって。」とあったように思う。



田植えの日は 何日は誰のうち、と決まっていて、
隣組の人たちが みんなでその家に集まる。

苗代で 目にも留まらぬ速さで イネの苗を取っていく。
片手で 一杯一杯に握れる太さの 苗の束になったら、
ワラを くるくるっと巻いて 
余った部分を 巻いたわらに きゅっと差し込んで。

それを一輪車に山盛りにして 田んぼへ。

すでに代掻き(シロカキ)が済んだ田んぼには
筋が引いてあって、
その筋の上に 一定の株間を保って植えつけていく。

おーい、と苗を要求する声が上がると、
おーい、と答えて、
その足元に 信じられないくらいに正確に 
苗をポーンと 投げてよこす。

見ていて飽きなかった。。
(手伝うと邪魔にされた年齢。
 加えて、田んぼに入ると熱を出すのが恒例の私。
 決して、いいつけられた仕事をサボってたわけではナイ。)



母はてんてこ舞いをして、
お茶の時間、お昼の時間、
出来うる限りのもてなしをしていた。

何を食べていたのかは 記憶にないが、
自身の田んぼの田植えなのだから、
そうそう手の込んだものは なかったと思う。

熱いお茶が一番のご馳走?

とにかく、田植えは 大イベントなわけで。



一体どこに書いてあったのか、
トランジスタが 
何とかいう長い名前の日本の会社(現・ソニー)
で発明されたのは 
1955年、とあって、びっくりしたばかり。

私が生まれる前の事だったんだ!

私が小学校の中学年のころ、
トランジスタというのは、こんなにも素晴らしい、と 
擬人的に書いてあるのを 読んだ記憶がある。

なんて、のんびりした 発展だったんだろう。



当地の 駅へ向かう道の端の田んぼに 
ようやく 水が入り、
昨日の朝には 代掻きが始まっていた。

実家のあたりは 昔から 早場米地帯。

子供の頃に 田植えがどんどん早くなっていって、
5月の連休に 田植えを終えるようになった。

今朝は6時ごろから 雨。
いよいよ 本格的な梅雨になるのか。

ちょっとしたきっかけで
思い出す事が どんどん増える、
そんな年代に 私もなったのかなぁ。

昭和30年代

2005-04-11 | 昔語り
今 何故か 昭和30年代がブームらしい。

書店で モノクロばかりの写真集を見た。
愛・地球博の‘メイとさつきの家’も人気が高く、
入場の予約方法を変えるとか。
春の全国交通安全運動のポスターのダイハツ・ミゼットも
懐かしい雰囲気。

私の中で 昭和30年代は 
セピア色の 記憶の断片でしかない。
もっとも、昭和40年代の記憶だって
前半は おぼろなのだが。


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色とりどりのヒアシンス。
満開の桜は 白黒写真で見ても
その雰囲気を感じる事はできるけど、
そのほかの花の写真は カラーでないと。

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書店で見た写真集は、
「いやん、私、こんなに古い人間じゃないワ。」
と言いたくなるような、雰囲気。

でも30年代は、確か、
戦後の雰囲気をを引きずっていたように思う。

「もはや戦後ではない。」
何代目の首相だかが そう発言した頃はまだ
田舎は 思いっきり 戦後。
というか、戦前。

高度成長の波は まだ届いていなかった。



実家の辺りは 稲作が中心だったから、
一升いくら、という 物々交換経済が残っていたし、
電気は灯りくらいしか 使うところがなかったし。

私が生まれた頃は 
つるべで井戸水をくみ上げていたというし、
煮炊きはカマドだった。

電話は 近所の商店のオバサンが走って呼びにきたし、
(なんか電話の横のハンドルを 
 くるくる回していたようだった。)
そのあと農集電話というのが出現したけれど、
これは不便なシロモノで、
一般電話に切り替えるきっかけになった。

もう、まるっきり、メイとさつきの世界。

そういえば あのアニメ映画は
娘のお気に入りだったけれど、
本当は親のノスタルジーをかきおこしたので
一生懸命ビデオに録画したのではなかったか。
(当時のレンタルビデオは 録画できちゃったのだ。)



メイとさつきが 冒頭で乗っていたオート三輪も、
未舗装の国道を走り回っていた。

車の台数が増えたら 国道も舗装されたけど、
きっと40年代に入ってからだと思う。

白黒で撮った記念写真、
我が家はミゼットではなくて、
ラビットというスクーターだった。

コロモの裾をひるがえしてお勤めに行く住職、
最近でも見かける。

その次が中古のセダン。
クラウンだった。
お金持ちになった気がしたものだ。



日本中が、
今日より明日は豊かになる、という確信と希望に
あふれていた。

けれど、‘きょうの食べ物’は そう豊かだったわけではない。

「米の飯を喰いたければ、野良さ出て働け。」
そういう土地柄だったから、
父も母も 田んぼや畑で 汗を流した。

寺に農地が残されていたのは、幸いだった。
(もちろん、ほとんどは 解放されていた。)

働けば働くだけ、収入は増えた。
(お寺は、違うけど。)

両親も寺の収入を補うために
懸命に働いていた。



年に一度しか収穫できない米。

だからいつまでも 「盆勘定、暮れ勘定」の習慣が残る。

父は子供を養うために 勤め人になった。

寺は母が支えた。

全国にそんな寺が多かった時代。


物や食べ物の豊かさは 今とは比べようもないが、
近頃 やたらと そんな昔が懐かしい。

節分に思い出だす事

2005-02-03 | 昔語り
こんなものを買ってきた。
200円ぐらいだった。
節分の軒飾りだ。
大豆の木(?)と、ヒイラギと、
楊枝にさした目刺が一匹。



大豆のまめがらの音と
ヒイラギのとげと
イワシの臭みで
鬼を寄せ付けないようにするという。

「イワシの頭も信心から」のフレーズが大好きな
教授がいたっけ。

猫は寄ってきてもいいわけだ、
米や壁を食い荒らすネズミを
やっつけてくれるから。



節分が近づくと。

父は古い茅葺き屋根の家の土間で
稲わらを使って 縄をなった。
手作業で長く“なって”いった。

その「縄ない」の作業を見ているのは、
面白かった。
足の指に縄を挟み、
両手をこすり合わせて 
次々に 新しいわらを足しては
縄を撚っていく。

そうして出来た縄に 半紙で作ったピラピラ
(ヘイソクというのかな)
を何本もぶら下げ、
目刺ではなくもっと大きなイワシの頭を付けた。
栴檀の実の殻もぶら下げた。

今は栴檀の木も虫にやられてなくなったから、
義兄は何か別のものをつけているのかな。



節分の夜。

父は小さなお堂に明々と明かりを灯し、
太鼓をたたいて祈祷をする。
そのあとで 

「鬼はァ外、鬼はァ外、
 福はァ内、福はァ内、
 鬼わあ~~ソトォォ」
「福はァ内、福はァ内、
 鬼はァ外、鬼はァ外、
 福わあ~~ウチィィ」
と唱える。

最後は特に大きな声で唱えて
その時に豆をまくのだ。

大きな枡に大きな手を突っ込んで、
いっぱい撒くので
気持ちいいような、
もったいないような。

父がお堂から家に戻ると、
母と姉と三人で父に合流して
豆をわけてもらい、
そこから全員で 玄関から各部屋、
風呂もトイレも土間も勝手口も
全部に豆まきをする。

東西南北の掃きだしからも
まいたような気がする。
東西南北、すべてに掃きだしがあったのだ!
(寒いわけだ)

姉と私は 時々 枡の中の豆を
こっそり食べながら まいて歩く。

「風邪鬼は外」、「泣き虫鬼は外」
と言われつつ 
私の鬼を追い払ってもらう事も多かった。

姉と私はキャーキャーいいながら
まいたり ぶつけたり 逃げたりして
楽しんでいた。



そんな節分の様子を
クレヨンで絵に描いた記憶がある。
小学校の低学年、
逃げ惑う私自身の口を 
まだ赤いクレヨンで描いていたころだ。

私が父に豆をまかれて、
頭を押さえて逃げているところ。

よく描けていると
母が喜んでくれた絵だった。

難しい父の法衣の色を
クレヨンでよく表現できた、
ということらしかった。

父の法衣は 階級が一番下の色だった。

日本中が豊かになって
実家もそれなりに豊かになって
食べるものに困らなくなったのに
柩に収まった父は
やはり 一番下の階級の法衣を着けていた。



実家の近所の人にも 
寺に豆まきに来て、
それから自分の家に帰って豆をまく、
という人たちがいた。

それは年々減っていったかもしれない。

当地では実家の辺りよりも
古い風習が残っている。

節分には当主がお寺に豆をまきに行き、
当主の帰りを待って 家族で豆まきをする、
にぎやかな声が 近所から聞こえてくる。

家によって 豆まきの時間が すごく違う。



我が家も我が家なりの豆まきをする。

父の豆まきの方法を
亭主に教えたのに、
亭主は 自分流にアレンジしてしまった。
それはそれでいいか、と
家族みんなで 一緒にまいて回る。

まく時間も、その年によって いろいろ。

まいたあとは お楽しみ、
大豆を食べる。

モモンガさんの「標」で
落花生をまいたり食べたりする節分もある
と知った。
落花生を食べるのもいい。
まくときは 鞘のままのヤツを
まくんだろうか???

とにかく、そろそろえさのなくなった
野鳥たちには、大後馳走だ!
(もしかしたら、鹿や熊や狸や狐にも)


節分は 寒くて、あたりまえ。

子どもの頃から
私はよく 風邪を引いて 節分を迎えていた。
今年も 丸一日と半、寝込んでいた。
まだ腰が痛い。

娘の帰宅を待って、
豆を ぶつけてもらおうかしら。
特に、腰の辺りに。