ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

たいした姉ちゃん

2006-07-31 | いろんな人
これも 義母の葬儀前の、どの日のことだったのか?

度々 亭主の実家に来てくれた姉夫婦が
明るいうちに 帰る時のこと。

玄関のところで見送りながら、
義父が
「お姉ちゃんは、たいしたもんだねえ。」
と言った。

気が強く 利発な姉は
子どもの頃から 「たいしたもんだ」とよく言われ続けてきた。

言葉も少々きつく、
「山椒は小粒でぴりりと辛い」、
そんな姉(笑)。

が、
この時 義父の言った言葉には
今までにない意味が込められていた。



「はい。。

 生きて、

 歩いて、

 しゃべってますから・・・。」

くも膜下出血からの、奇跡の生還、と言えるのではないか。

発作のその日に亡くなる人は4割に達する、と 
最近テレビで知った。

姉は 退院後、
普通にしゃべり、普通に歩き、
普通の人と どこも変わっていないように見える。

若くして発病していた難病はそのままだから、
動作はややゆっくりではあるものの、
立ち居振る舞い、
どこにも不自由はないように見える。



けれど 後遺症は残った。

手も足も口も達者だが、
記憶に障害が残った。

記憶障害。

記憶が不自由なのだ。

生還した時に
ここ10年くらいの記憶のほとんどを
一足先に 黄泉の国に置いてきたらしい。

代わりに、
きょうのことを 明日には忘れるという、
思いがけない機能をもらってきた。

私と一緒に温泉に行ったことも忘れている。

「あんた、覚えてるの?

 いいわねえ。」



苦しい記憶、悲しい記憶のみならず
覚えておきたい大事なことや
楽しい記憶も 全て忘れてしまう、というのは

それまで考えたこともなかったが
予想以上に寂しく虚しく辛い障害のようだ。

「明日には忘れちゃうのよ。

 つまんないわぁ。」

第一、不便だろう。

姉は 義兄と一緒でなければ
どこへもひとりでは出かけられないでいる。



私の子どもたちのことも
10年前の姿で記憶している、と言っていた。

自分の娘の夫になった人のことは
なんとか見覚えがあって、良かった、と
ほっとしていた。

あんなに可愛がって あんなに会いたがっていた
娘の産んだ初孫の女の子のことは
知らなかった、と言っていた。

そんな障害が 存在するとは、思わなかった。

私のことも さぞや 老けたわねえ、と思いながら
眺めていたのに違いない。



退院後はちょくちょく電話をくれた。

毎日 義兄と一緒に
その日にあったことを
日記に書いているのだ、と言っていた。

それがリハビリになるのだろう。


最近では 記憶が消えてなくならずに
覚えていられるようになってきた、と聞いた。

人間の脳の無限の可能性?

可塑性?

修復能力には 舌を巻く。

不可思議な生き物、人間。

素晴らしい生き物、人間。

強きもの、汝の名は 人間。

たいしたお姉ちゃんは
きっと今日も 義兄と口げんかしながら
酒を飲んでいるのに違いない。

飲まない方がいいらしいんだけどなあ。

嗅覚

2006-07-30 | 考えたこと
7月27日付け夕刊に
「においの世界で行動」という記事があった(14面)。

多摩動物公園昆虫縁の高家博成さんが教えてくれた、
カブトムシの不思議な行動。

カブトムシのメスに触った手で オスに触れると、
指に交尾しようとすることがあるのだそうだ。

それはすごい。 

というか、私がメスのカブトムシだったら、すごいショック。

というか、自分がカブトムシだったら、と想像する方が変?(笑)



これは カブトムシの嗅覚のなせるわざ。

指についたにおいで
オスは 指をメスと思い込むのだ。

色は?

形は?

硬さは?

においさえあれば、
この際、どうでもよくなっちゃうもの?



この小さな記事は
「カブトムシやクワガタは、においの世界に生きているのだ。」
と結んでいる。

生き物にとって、
嗅覚というのは
今まで私が想像していたよりずっと
重要なものなのかもしれない。

たとえば、生まれた川を遡上してきて産卵する鮭なんかも
どうやら 生まれた川の‘におい’を嗅ぎ分けて
帰り道をたどるらしい、ということだ。



人間も
嗅覚と言うのは 
普段私たちが考えているよりもずっと大事で、
嗅覚が鈍くなると
食べ物の味も いまいちよくわからなくなったり、
美味しいと感じなくなったりするらしい。

(抗がん剤の副作用で
 味覚障害に苦しむ人たちには
 身近な問題だと思う。

 これはなかなか困った副作用で、
 命にかかわらない、とはいえ
 生きる喜びが激減して 
 
 私などは きっと 劇やせできるに違いない。)



人は 年をとると 昔の味が恋しくなる、
ということがあるように思う。

懐かしい、ただそれだけでなく、
嗜好がもどるというか。

私も(亭主も) 時おりそんなことを感じており、
子どもの頃の食生活に近い食事を楽しみたい
と思うことが増えた。

そして
使う食材も 昔ながらのものに 戻ってきている。

もしかしたら
これも
味覚ではなくて 嗅覚がものを言っているのかもしれない。



振り返って
我が家の子供たちのことを考えると、
時々怖くなることがある。

この子たちが年をとって
中年と呼ばれる年齢になった時に
彼らの嗅覚は
いったい どんな食生活に戻ろうとするのだろう。



画像はかぼちゃのグラタン、ジョルジュ流。

以前 「まくろび・・・?」であてにならないお約束をしていたけれど、
亭主の実家からかぼちゃが届いて、
先日ようやく作れた。

ホワイトソースは バターでなければ作れない、と
以前の私は思っていた。

最近は オリーブオイルで作る。

今回は・・・。



出来立てを食べた娘が
「もう少しチンしたほうがいいよ。」
と言って アルバイトに出かけた。

かぼちゃがまだ硬かった(涙)。

塾から帰った息子が
帰りの遅い亭主の分まで食べた。

よ~~く、チンしておいたから(笑)。

ふたりとも
ホワイトソースが美味しい、と言った。

そうね。

ハインツ、美味しいよね(爆)。



子どもたちが小さい頃から、
面倒な時、疲れた時によく使っていた瓶入り離乳食は
ホワイトソース味だった。

この子達が大人になって
若者とは呼んでもらえなくなった頃の懐かしの味は 
ハインツのホワイトソース、かもしれない。

遡上した川のその先に、ハインツ(爆)。

祇園祭り

2006-07-29 | なんとなく民俗学?
きょう・あすと 当地の祇園祭り。

全国的に きょうがお祭りという地域は多いのではないか。

花火大会もシーズン到来。

隅田川の辺りは 晴れているのだろうか?

去年も 『夏祭り』と題して
記事をアップしてある。

同じような日が繰り返されるけれど、
決して去年と同じではない。


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急に暑くなった。

急に暑くなったら 急にホオズキが色づいた。

今年は 出てきた芽を植えて
たくさんの鉢植えを作り、
事務所前を彩った。

赤くて、きれい。

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今日は朝早くから集まって
山車を組み立てていた。

その声を聞きながら、いろんなことを考えていた。



当地は、田舎である。

田舎だから、出てゆく人も多い。

残った人は ここから出てゆくこともなく
朽ちるようにここで死んでゆく。

土地の人たちは 
子どもの頃からの不仲とか、
何代も前から中の悪い家、とかいうことがある。

くだらない意地の張り合いだ、と思ってきたが
それも仕方のないところ、と 
最近思うようになってきた。



小学校の時に級長だった、
中学校で生徒会長だった、
そんな人は 年をとっても ムラのリーダーなのだ。

そうして 山車を組み立てるのに
みんなを動かしているのは
そうした子供時分からのリーダーたちだ。

声を聞いているだけで、よくわかる。

威張っているだけで、実際は何もしないヤツ。

茶々をいれて みんなを混乱させることばかり得意で、
実際何の役にも立たないヤツ。

理詰めでああだ、こうだと声高に説明するタイプ。

ほとんどしゃべらずに 黙々と力仕事をこなすタイプ。

さっきから一生懸命しゃべってるのに
誰にも相手にされてないヤツ。

たまにしか発言しないのに
みんなに耳を傾けてもらえるヤツ。



学年のリーダーは いくつになってもリーダー。

ムラの役員をお願いすれば、必ず引き受けてくれるのも、
リーダーとしての責任からだろう。

彼らは ムラのエリートだから、
役所に勤めたり 農協に勤めたりしている。

頭がいいから、
読み書きもできるし、金勘定もできる。

お祭りでも、いろんな仕事を任されるが、
張り切ってテキパキとこなしていく。

たいていは家の跡を継いだ長男で、
ムラを出て行くほどの気概はない。

はっきり言って、覇気がない。

おっとりした人が残っている。

時おりそんな様子に 私たちはがっかりしている。



子どもの数は どんどん減っている。

当地では お囃子はほとんど子どもにやらせている。

去年よりいっそう お囃子の音が小さい。

(それに、下手。)



お囃子は 本家・本元の 京都の祇園祭りに近い。

以前は 本場・京都から
お囃子方を呼んできて やってもらっていたと言う。

お囃子方を集めて、泊めて、ご馳走して、はお金がかかる。

昔は 土地のお大尽が 
それらの場所と費用を提供していたが

戦後の混乱と その後に続いた社会主義の中で
『平等』が声高に叫ばれ、
手間もお金も みんな平等に出資することになったら
お囃子方を呼べなくなったらしい。

その後 何故か お囃子は子どもがするもの、ということになり、
山車の上には子供しか乗らない年月が続いた。

大人の中には お囃子は 習ったこともなくて
子どもに教えたくても 教えられない人たちが大勢いる。



子どもの減少に危機感を覚えた一部の人たちが
お囃子保存会なるものを創り、
多地区のお囃子なども参考にして研究し、
子どもたちに教える役をかって出ている。

自分たちも演奏の技を磨いている。

そうは言っても 子どもの数はどうしようもないくらい少ない。

我が家の子どもたちは 小学校を卒業したら
関与しなくなってしまった。

大人のように 仕事があろうがなかろうが
義務として無理矢理手伝わされるわけではないから
良かった、と思うべきか。



もうそろそろ始まるだろう、
今年のお祭り。

いや、もう始まっているのか?

神職が祝詞を上げていったから。

(あの青年神主だったのかしら?)

死化粧・死装束

2006-07-28 | なんとなく仏教?
時間軸を元に戻そう。

もう忘れてしまいそうだ。

斎場が混んでいて使えなかったので
義母の葬儀は3月にずれた。

お通夜まで日にちがあいたので
仮通夜をすることになった。

亭主はやりかけの仕事をしにいったんこちらへ帰り、
私の喪服用の長襦袢を持って
仮通夜に間に合うように実家に戻った。

楽しくない記事を読みたくない方は、
ここまでで止めといて。



私が 亭主の実家に着くとすぐに
亭主は「お前に頼みたいことがある。」
と繰り返していた。

もったいぶって。

それがやっと 何の用かわかった。

「やってもらいたいことがある。

 ○○ちゃん(義弟の妻)と お前と 
 △△(娘)と  ◇◇(義弟の長女)とで

 おばあちゃんに化粧をしてもらいたいんだ。」



かまわないよ、と答えた。

昔 小学生の頃
生まれた寺で葬儀を出した時に
割り箸にまいた脱脂綿でお清めをした記憶がある。

湯灌というやつだろう。

(父の葬儀の時には 湯灌はちゃんとやったろうか?)

おばあちゃんの身体だもの、
それに 娘たちにも 別れの儀式として
やってもらってもいいだろう。

そういう年齢に ふたりとも達している。

それに やりたくないような場所は
業者が全部やってくれるはずだ。

お化粧くらい、なんとかなるわよ。

そう思った。

亭主には亭主なりの 思い入れのようなものが
あったようだ。



その、死化粧をしたのが、
仮通夜の前だったか 後だったか、
定かでない。

記事にするには時間も経ち過ぎているが、
あの頃の記憶は 断片的で
順序がわからなくなっている。



仮通夜に来てくださったのは
山道を下って行った先の 程近い集落にある、
由緒ある寺院の住職だった。

なんと、私の大学の先輩らしい。

実家と同じ宗派だ。

他に用事もあった私は、
(何の用事かは忘れたが)
お茶出しを義妹に頼んで、顔を出さなかった。

年齢はいくつか上で、
大学で私と顔を合わせたことはないと思うが。



死化粧や納棺は
仮通夜の後だったのではないか、と
私は思っているが
 
亭主は 前じゃなかったか、と言っている。

常識的にはどちらなんだろう?

時間の感覚がなくなっているのと同時に、
連日 お天気が悪く、
薄暗い印象が続いていたせいでもある。

とにかく、
業者が来て、
納棺の前の義母の顔のお化粧は 
私たち嫁ふたりと 孫娘ふたりの四人でやった。

他の家族と 幾人かの親族は 
大きな衝立をはさんだ向こうの座卓に座っていた。

業者の人は 男女ひとりずつで、
慣れない私たちに
やさしくてきぱきと指図してくれた。

向こうは、慣れていない親族に 
慣れきっているはずだ。



手当たり次第に集めてきた義母の化粧品から
新しいようなものを選び、
持ってきてあった。

おばあちゃんの肌を 私が担当することにした。

けれど 最初から 行き詰ってしまった。

義母のつめたい肌に
ムラのないように ファンデーションをのばすのは
不可能な気がした。

そこまでは 私も根性が座っていない。

ファンデーションを省略し、
おしろいだけをつけた。

普段、色黒だと思っていた義母の肌は
いつになく白く透き通っていて
死んだ人みたいで嫌だったが
重ねておしろいをつけても 
生気を含んだ色にはならなかった。



頬紅を 孫娘 二人に差してもらった後で

口紅を義妹につけてもらった。

これは 私より余程 慣れているはずだから。

眉は 娘に描いてもらった。

娘は 義妹よりもずっと 慣れているはずだから。

頬紅も 口紅も 眉墨も。

いつもの見慣れた義母のもの、
見慣れた色のものだった。

けれど 突然色白になった義母には
いつもより鮮やかな色を差したようになった。



その後
業者の指示に従って
義母の着替えをした。

こちらは、家族全員で。

死装束へ。

笑っちゃいけないけど、
手甲・脚半の旅支度、
三途の川の渡し舟の運賃、六文餞に
ワラジに、杖まで用意する。

足袋は左右反対にする。

途中、何度か、
「見苦しいところもございますので、
 あちらでしばらくお待ちください。」
と言われ、
衝立のこちらに追いやられる。

また呼ばれては 次々と
旅支度を整えていった。

手甲・脚半を身に付けさせる時には
こちらの手に触れる義母の肌の
あまりの冷たさに ドキリとしてしまう。

義妹と一緒に選んだ
上品なグレーの地に 
パステルカラーの華やかな色刺繍を施した付け下げを
装束の上に掛けてもらった。

これに合う帯も 「これだ!」と思うものを載せた。

納棺した時には 見えなくなってしまったが。



義母の実家の自動車屋からは
跡を継いだ甥っ子(つまり、亭主の従兄弟)夫婦が
来てくれていた。

この自動車屋では
先日 お婆さん、つまり義母の義姉が
突然 お風呂場で亡くなり、葬儀を出したばかり。

この夫婦の紹介の、業者だった。

自動車屋の葬儀の時も
同じように指示されたらしいが、

「俺ァ、まるっきり 根性なしでよ。

 ひとっつも出来ねえで、
 全部、業者にやってもらったど。

 オメエら、偉いよ。」

突然 動かなくなってしまった身内の身体に触れることは
怖くてできなかった、と
後で話してくれた。

そこのお婆さんの時は 今回とは逆に
急ぐように葬式を出した。

動転して それどころではなかったことと思う。

「あんたら(息子二人と 嫁二人、孫四人)
 みんなに 支度してもらって、
 おばあちゃんは、幸せだ。」

義父はそう言って めろめろに泣いた。

オフ会

2006-07-27 | 乳がん
って、OFF会って書くの?

その、オフ会が、都内であった。

7月22日の土曜日。

その日は 予定が入っていた。

しかも、いつも逃げ腰で仕事をしている(笑)私が
少しはやる気でやってる仕事、

しかも、夜!

夜からなら、夜まで空いてるじゃない、
とは言えない。

なにしろ、土・日・祝祭日は
飛び入りのお客が多いのだから。



そしたら、
次の日曜日に ランチをしてもいい、
とおっしゃってくださった。

これは、行かなくちゃ!(笑)

実は 日曜日の方が 予定は立て込んでいたのだが、
なにも私でなくてもできるんだし。

娘に仕事を頼んで家を空けることにした。

「私、夕方からバイトなんだけど。」

「その頃には、帰ってくるわよ~。」

なんたって、関西から
わざわざ関東に出てきてくださるっていうんだから、
これは会いに行かなくちゃ!

ね!


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春の花の画像は これで最後にしよう。

「ゲラニウム」という名前だったと思う。

細い茎に 小さな花を咲かせて 
ゆらゆら風に揺れるさまは 涼やかだが
もう ほとんど花は残っていない。

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お知らせをくださったのは
「ぐうたらシーズ」の鳴海さん。

それから、
やっちの日記」のやっちさん、
merryな★日々」のmerryさん、
「にゅうがんになっていろいろ思ったこと。」のantimonyさん、
「前を向いて歩こう」の りおんさん
の五人が
遠くから 電車代やら宿泊費やらを自腹を切って(!)
東京駅で待っていてくれた。

ばななけーきさんのお見舞いの時にご一緒できなかった
Fyaさんとも一緒になって、
みんなで、ランチ。

全員、初対面!

みなさん、乳がんと闘病中の
ピンクリボン・仲間というか、ピンクの戦士たち。



なんと私が3年半(と、ちょっと)と、
一番のお姉さん。

若々しい戦士たちとの対面は新鮮!

私に比べればまだ告知から日が浅い方たち。

まだまだ不安で一杯の時期だろうに、
皆さんしっかりしてらっしゃる。



それにしても、皆さんが 思ったよりも物静かで、
拍子抜け。

関西弁でまくしたてられるのかと思っていたのに(笑)。

きっと、みんな、ネコかぶってるのね~(笑)。

と、思っていたら、
前夜、おしゃべりしまくりで
あまり寝ていらっしゃらなかったらしい。

よかった、関西組に圧倒されなくて。

というよりも、悔しい。

私も昨日から混ざりたかったなあ!



さっそく 朝 手にしたばかりの遺影を見ていただいたり。

それにしても、
あのお昼の定食の ご飯の量はハンパじゃなかった!

「これで200グラム?
 
 以前の私はこんだけ食べてた?」

フツーの男の人は あれだけ食べるってこと?

じゃあ、うちの亭主はオンナか?



ランチをして、お茶をして、

あとはもうサヨナラ。

記念の写真を、というところで
初めて 地上に出て 外気に当たった(笑)。

東京駅の写真は 鳴海さんのところに(笑)。
(でも、顔や姿はナシよ。)

私は ケータイの使い方が イマイチよくわからないので
シャメもあまり撮らなくて。

ばななけーきさんにお会いした時に
「もう 新しくしてから
 3ヶ月くらいたってるんじゃなかった?」
と ばかにされたケータイなんだけど(涙)。



関西組とお別れした後に
Fyaさんと もう一度 お茶を。

今度は、和風甘味で(笑)。

いろいろお話。

ねえ、Fyaさん。

もう少し かわいいハンドル・ネームを考えましょうよ。

発音が難しいんだって(笑)!



オフ会のいい所は
私たちの場合、
みんなして癌のことを「癌」と呼んでしゃべれること。

乳がんにもいろんな癌があり、
ひとりひとり違うけれど
「私の癌は」と平気でしゃべれる、

これだけで ストレスから開放される。

普段は 私の癌を知っている人や家族とさえ、
癌についての話は避けている。

避けているけれど、常に癌に対する関心は高い。

それを、
こんな、
美しい女性たちが何人も集まって、
一緒におしゃべりできる。

癌だって楽しめる。

お店の中の 周りの席に 
他の人がまったくいなかったら
もっと大きな声でしゃべれて
もっと楽しかったのに違いない。

みなさん、本当に、ありがとう。

今度お会いするときまでに 
もっとお腹を引っ込ましておくからね(笑)。



駅に着いたのは ちょうど夕飯時。

きっと何もご飯の準備をしていないだろうから、
いつもの和風ファミレスにでも、と思って電話を入れると
亭主が
「きょうは非常事態で、てんてこ舞いで、
 まだ後片付けが終わってないんだよ!
 
 娘は風邪引いて熱出して寝てる。

 ほか弁買ってこいよ。

 俺、焼肉弁当!」

とのこと。

ほか弁を4人前買って帰宅。

夜更かし娘は バイトも休んで部屋で寝ていて、
一言、「いらない。」

娘の分のおかずは みんなで食べて、
ご飯が残った。

多いな、このご飯。

量ってみたら、260gあった。

お昼の定食のご飯も、
どんぶりに260gは盛り付けてあったなあ。

なんだか 高揚した気分のままではいられなくなっちゃたけど、
そのかわり
静かな興奮が長く続いたオフ会の日だった。

遺影(3)

2006-07-24 | なんでもないこと
あれから一月過ぎた。
髪はそれほどではないが 伸びてきた。

免許証の書き換えをそのうち忘れてしまいそうで
ハラハラしているのもイヤだし。

あっちゃんのいる日に美容院へ。

今度は前回よりも早い時間に予約がとれた。ほっ。



聞かれてしまった。

「あれから、この間、どうでしたか~?

 写真を撮るとか、おっしゃってましたよね~。」

正直に答えたら、がっかりされちゃった。

ごめんね~。

「だから、今日、もう一度行くから、
 また 念入りにセットをお願いね。」

「リベンジですね!」



念入りにスプレーで固めてもらって、
自宅に帰ってきて、
亭主と食事をして、
お化粧をして、
ブラウスやネックレスをバッグに詰めて。

この前に予行演習をしてるから、
グズな私もいくらかはチャッチャとできる。

警察署に着いて、
こちらも今度はチャッチャと手続き、

写真もチャッチャと撮った。

でも 安全運転のビデオはでれ~~っと見て。

無事に新しい免許証をゲット!

やれやれ。



さて!

きょうは 商店街がお休みではないはず!

頭にわいてくる不安を振り払いつつ
駅前の写真館へ。

やった、開いてた(笑)。

予約をしてたわけではなかったけど、
スタジオで他のどなたかの撮影が行われているわけではなく、
こちらもチャッチャといきそう。

まず 写真のサイズと値段を見る。

8千円?

う、う~~~ん。

えい! いいや! もう、決めちゃったんだから、
一万円でもいいのよ!



でも、名刺サイズの写真にして
それを少々引き伸ばしたものなら
ぐっとお安いとか。

それよ!

私の求めていた写真は!(笑)

どうせ 遺影にするときには引き伸ばすんだから、
それでいいの。



化粧室を案内されて、
あちらがスタジオの準備をしているあいだに
こちらも ブラウスを取り替えたり
アクセサリーを取り替えたり。

いざ、撮影!

斜めに置かれた白い椅子。

緊張して腰掛ける。

「キレイな色のブラウスですね~。」

でしょ?

「何かの記念なんですか?」

「ええ。

 恥ずかしいんですけど。」

3年半生きてた記念よ。

というか、思いつきよ(爆)。



すとんと座ったポーズで決めて、
さあ、撮影!

と思ったら
カメラをいじっていた人が
「あの、肩に絆創膏が・・・。」

「あ!」

ハイハイ、貼ってあります、置きバリの上に。

「取っていいですか?」

「いえ、自分で取ります。」

だって、手に刺さると 少しは痛いのよ。

置きバリをとって、おすましして、撮影。



「少し、笑ってください。」

来た!

それが、苦手なのよ。

だって、自然に笑うなんて、できないじゃない。

「いいですよ~。」

あ、いいの? ほんと? こんなんで?

いいんだわ、きっと。

じゃあ、ずっと微笑んでいられるかも。

照れる、照れる、写真に写されるって言うのは。

たとえ相手がプロであっても
ひとりでカメラを前にして 写真に納まるっていうのは。

でもなんとか 
ホット・フラッシュで真っ赤な顔になったりもせずに
撮影終了!

「一週間後のこの日にできあがります。
 午後4時以降においでください。」

その日は休日。

「その日は来れないかも。
 翌日以降に参ります。」



化粧室でもう一度着替えて
帰る。

まだちょっと興奮している。

いつものスーパーに寄って
お買い物をしたら 平常に戻った。

さて、
出来上がり予定日の翌日、
息子の迎えの時に
早めに家を出て 写真館に行くと
「きょうが出来上がりの日でしたか?」
と言う。

「いいえ。昨日のはずでした。」

「すみませんねえ。

 まだ出来上がっていないんです。」

なんと!

このまえ化粧した顔を見せた人に
スッピンを見せるのも恥ずかしいと思って
一応ちゃんとお化粧までして
早めに家をでて 立ち寄っているのに。

まだだってえ!?

ドアを蹴飛ばして出てくればよかったと後悔。



おまけに、後日、家に 
「写真ができました~。」
と電話してきた。

電話します、とは聞いていないぞ。

実際、先日は「予定よりも出来上がりが遅れます。」
などという電話もこなかったじゃないか。

(二回目の)予定通りに出来上がったんだから、
電話よこすな!

私が取ったからよかったけど、
亭主が電話に出たら 
何かと思うじゃない。

(家族に こんな何でもないことを
 内緒にしている私もおかしいが。)

(何でもないわけではないから
 ちょっと言いにくいわけで。)

(何でも話せる家族ってのは理想だが
 私が一番 理想を裏切っているのか?)

(でもまあ、これが私の性格だし。)



そして ようやく昨日、
取りに行った。

朝は9時に開きます、というけれど
9時過ぎには上りの特急電車に乗っていたいの。

10分前には店の前に車を止めて
開店を待つ。

間もなくシャッターが開いた。

よし、特急に間に合うぞ。

写真を受け取り、そのまま駅前の駐車場へ。



結論を言えば、
免許証も 遺影(?)もイマイチの出来。

なぜなら、
毎日続く雨で湿気過多!

髪のウェーブはほとんど取れてしまった!

おまけに
久々のお化粧で 勘違いをしでかして
うっすら色のつくベースクリームをつけて
そのままファンデーションを付け忘れて
チークなどのメイクをしてしまっている。

一番大切な肌が汚い。

そういえば睡眠不足で最悪のコンディション。

写真館の修正に期待したけど、
やっぱり肌の汚さは隠しきれない。

言い訳といえば、言い訳だけど。

次の免許証の書き換えは また5年後にある。

今度は横着せずに 絶対、必ず、
ブラウスにはアイロンをかけるゾ!





特急電車に乗って 上野経由、東京駅へ。 

待ち合わせがある。つづく。



足裏のお灸

2006-07-20 | 健康オタク
ええい、もう、恥ずかしいものは何も残ってな~い!(笑)

土踏まずが発達しきれないままオバサンになった、私の足裏。

お灸の痕、
これで キンキン冷えて凍りそうな足が復活する。

最初は熱くないお灸を据えていたが
なにしろ 冷たくて冷たくてつらい、と
私が訴えるものだから

ハリの先生が 
足の皮膚の上に 直にもぐさを載せて 焼いて(!)くださる。

ところが、これが、
冷え切っていると なかなか熱いと感じない。

熱いどころか、暖かいとさえ感じないこともある。



こうして、左右の足の、
親指の下、中指の下、小指の下の3箇所と
かかとの周り、外・下・内の3箇所と
かかとの真ん中、
都合7箇所づつ、直焼きにされる。

熱いと感じたところは すぐに取ってもらう。

(でないと、火傷するでしょ!)

(熱く感じないと、火傷もしない。)

そうでないところは、次のもぐさに火をつける。

これをやってもらっていると、
「私って、Mだっけ?」
と思ってしまう。

「ひ~~!」
「アチ~~~!」



茶色の濃いところは、
熱さを感じるのに時間がかかって、
もぐさのヤニ(いやな匂いではない)で
濃く染まったところ。

今回は 右足がなかなか温まらず、
それなりに濃く染まっているが

かかとの周りは すぐに熱くなったので
色も薄い。



かかとの真ん中、
ここがいつも一番冷えている。

TUBO・BOOKによると、
この かかとの真ん中は
「失眠」というツボで、
不眠の特効ツボだそうだ。

自分でよく足裏を揉むのだが
この部分はいつも冷えていて、
そして押すと痛い。



また、中指の下、
指を曲げた時にできるくぼみにあるのは
「湧泉(ゆうせん)」、
<気>の湧き出る泉、という意味。

いかにも 押せば命の泉がわきそうな名前のツボ。

足を温め、血行をよくする、とある。



目立たないように 肌色のテープを上から貼った
置きバリがみえるだろうか?

二つ足首の方に斜めにならんでいるが
その上の方のハリの部分が、「三陰交」。

「三陰交」は内くるぶしから指4本上、
身体を温め、気・血・水のバランスを整える。

下肢の冷えや更年期症状に効果あり。

以前の私はこの部分を押すと
飛び上がるほどに痛かった。

今ではどこがツボか、探すほど。



まもなくクーラーが本格始動するはず。

女性に限らず、更年期の男性諸氏も、
<冷え>には お気をつけて。

足をお見せするのは このくらいにしておこうと思う(笑)。


お天道様

2006-07-20 | なんとなく民俗学?
「おてんとうさま」なんて、
永六輔氏のお話や著書の中に出てくる
<昔びと>の口からしか 出てこなくなっている。

お天道様が見てる、
お天道様に申し訳ない、
お天道様に言い訳できない、
お天道様に顔向けできない、 

そんな言葉を 遠い昔に耳にした記憶が残っている。

永六輔氏は「こんにち様」という言葉も著書に著しているが
私は こちらは 聞いた覚えがない。



人智を越えた、偉大な何かが
ぐるっとまるごとすべてお見通しで、
私たちがしていることを きっとどこかで見ている。

悪事もすべて。

そんな「畏れ」を 
私たちは いったいどこへ
置き忘れてきてしまったんだろう。



スペイン語で「鳩」を意味するという、パロマ。

偉大などなたかが見ていると思ったら
決して出来なかったであろう、確信犯的連続殺人。

過失致死、などとは 呼べないと思う。

お天道様に 恥じるしかなかろう。



野球の社会人クラブチーム、「茨城ゴールデンゴールズ」。

監督は萩本欽一氏。

不心得者の犯した事件により、
解散する、という話が出た。

せっかく郷土・イバラキの、
それも実家に程近い県南にできたのに

近隣のオジチャン・オバチャン達とも
仲良くやってるという噂だったのに
残念なこと。

「やめないで」「応援している」などの
多数のメールやファクスが
球団事務局に届いているのだそうだが。



事件を起こした人は
反省して欲しい。

お天道様に 恥ずかしいことは 
今後、絶対にしないと 誓ってほしい。

たとえ 警察や球団や監督にバレなくても
お天道様は 見ているのだから。

わらじ

2006-07-19 | 健康オタク
この際、ついでだから(笑)
恥ずかしい足を、もう一度。

去年は今年よりもずっと
足の親指の付け根の痛みが強かった。

なんとかしたいと思っていた。

だって、痛い時は 泣きたい気持ちになるんだもの。



で、去年の秋に こんなスリッパを買った。

画像にはうまく写せないが、
足の裏で踏みしめる面に ふくらみがある。

土踏まずをささえる部分と、
それから 指の付け根の部分に コブのような出っ張り。

それで こんな風に 私の左足でさえ
足の指が開く。

すごく、いいような気がしていた。

スリッパは 足がどんどん前に滑っていって、
しまいには 指がきつくなってしまうのだ。

そうすると、指の付け根の痛みが増す。

これならば 二重に足の前方への滑り出しを防ぐので
まったくそういうことはない。





ところが 年末に 台所にこもっていたときに
かえって足の裏全体が痛くなってしまった。

普段よりも立っている時間が大幅に長くなったせいだろう。

このスリッパは
健康スリッパと同じく、
時々履いて 刺激するくらいがちょうどいいのかもしれない。

とにかく 長く履きすぎるのも良くなさそうだ。

たまに履けばいいものを、
いまではタンスならぬ下駄箱の肥やしにしている。



ところで
今年はこんなものを買った。



特殊な紙でできているらしい 。

左右を結んでいた紐をほぐしてみると、
こんな感じ。



幅は約12センチの 薄っぺらな紙でできている。

これは私用のMサイズ。

亭主用にと Lサイズのものと 2足組み、
それなりにお値段はする。

ああ、床のワックス、そろそろ塗らなくちゃね(笑)。



家族の反応は
「また、ママが変なものを買ってきた。」
だった。

でもね、
これを履くと、指が「気持ちがいい」、って言うのよ。

どうやら水虫にもいいらしいし(笑)。

ただし 紙だから 洗濯には不向きだと思う。

布草履の方が よかったかなあ?




以前 新聞で 
ぼろ布を室内履き用の草履に作り変える、という記事をみて
作ってみたいと思い、
記事を切り抜いた記憶がある。

写真によると その人は 
布を足の指に挟んで作り始めている様子だった。

もちろん そんな記事は どこかへ行ってしまった。



不要のものを 
新たに 実用性のあるものに生まれ変わらせることができる、
というのは とてもステキなこと。

ゴミも減らせる。

ただし
ぼろを取っておくにも限度があるから
(そろそろ要らない物専用の物置が必要だ?)
これでよかったのか?



パソコンが使えなかった時期に撮った 春の花の写真、
リキが入っていないのか?
どうもピントが合っていない。。

つまさき立ち

2006-07-17 | 更年期
よみうり巨人軍では、
練習場からの帰りのバスの中で、
一軍の選手こそ 座席に座らずに
爪先立ちで 立ったまま宿舎に帰る。

そんな場面を描いたマンガが むか~し昔にあり、
テレビアニメになったときも
その場面がテレビに流れ、話題になった。



これが、関節痛に悩む、私の足。

どこが外反母趾?と思うんだけど。

窓の外は、降り止まない雨。



都会を離れ、裸足でいることが増えて
スリッパの形になった(笑)。

太ったら、足まで太くなり、
幅広の足になった(涙)。

関節痛が始まったら
夜中に痛みで目が覚めるほど 痛む足になった。。。。。



特に、親指の付け根。

外反母趾がよりひどい左足の 親指の付け根が
特に痛んだ。

(右足は 人差し指(人は指さないけどね)との間に
 透き間ができているが
 左足は かすかに触れてこすれるので
 うっとおしい時がある。)

ひどく痛んでいた頃には
この 左足の 親指の 付け根が
赤みを帯びていることも多かった。

今は さほどではないが 痛みが全くないわけではない。



先日 テレビで
外反母趾には つま先立ちが良いと言っていた、と
ハリの先生と 美容師のあっちゃんとに
続けざまに言われたので

これは 神の啓示、いや、みほとけの教えに違いない(笑)、
と やってみることにした。

毎日 朝・晩に 20回ずつ。

歯磨きの時に 忘れずにやっている。

すこ~し、いいような気がしている。



でも そうしたら 
今度は 足の甲の部分が痛むようになってきた。

これは好転反応?

つまり、
足の中の小さな筋肉が 筋肉痛を起こしている?

と思っていたが
どうやら それだけではなさそう。

足の甲にも 間接があるんだ。きっと。



変なものをお見せしたので、
お口直しに、
我が家で3株目になった ピンク系のクリスマス・ローズを。

今年はよく咲いてくれた。

更年期も3年半

2006-07-15 | 更年期
入院して、手術して、
最後の(たぶん)月経になった、その日に
リュープリンの注射をして。

(その頃は ゾラデックスではなかった。)

それが、退院の前日だった。

それから始まる、怒涛のような更年期症状!

あれから3年半、
つまり、
私の更年期症状も、3年半。


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この春のパンジー、いちごショート。

いちごショートというより、
いちごミルクのイメージだった。

見るたびに 「美味しそう」と思ってたっけ。




事務所の前に いちごショートと組み合わせたチューリップ。

いちごミルクが食べたくなる(笑)。


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何から書けばいいだろう?

まずは、ホット・フラッシュ?

ある。

来る、というべきか。

やはり、突然、やってくる。



電車に乗っていても。

テレビを見ていても。

こうしてパソ子に向かっていても。

突然、ぶわ~~~っ!!!と、汗が噴き出す。

陽が射して 突然に気温が上がったのか、
と思っていると、
そうではないらしい。

腕からも汗が滴り落ちる。

でも 顔がゾワゾワしたり
顔が火照ったりするわけではなくなったので

もう プラセンタの注射をすることはない。



冬でも夏でも 突然 汗をかく。

大量の、汗が出る。

汗じみができる。

それより、ホット・フラッシュが収まった後で
すーーーっと冷えてくるのが辛いし、怖い。

風邪も何度もひいたし。

家にいるときは 着替えればいいけれど
外出の時は 
放湿性に優れた下着を必ずつける。

下着を着けなかったら、
ぐっしょりぬれた衣類が 体温で乾くまでに
風邪をひいているだろう。

ハンカチは たっぷりの汗を吸い取ってくれるものを、
必ず、2枚。

そんなこんなで ホットフラッシュと付き合ってきた。

まだしばらく続くのだろうか・・・?



耳鳴り。

だいぶ音量が下がった。

う~るさいなあ! と思うこともない。

けれど いつも 多少は音がしている。

右の耳だけ。

圧がかかると鳴るらしく、
力を入れたり かがんだりすると 音が大きくなる。

毎週、耳の周りに 鍼を打ってもらう。

こんなものですむなら、
これからも漢方薬とか耳鼻科とかには
行かずに済ませられそう。



おりものかぶれ。

とんと、ない。

あったら、また プラセンタに頼るかも。



関節痛。

それから、冷え。

これは いまだに悩みのタネ。

先日エミコさんと話したけど、
暑くなると 電車の中、店の中のクーラーが曲者。

外出の時は 大きなトートバッグに
スカーフ、手首用サポーター、長袖上着などなど、
たっぷりの防寒用衣類を入れて持って歩く。

それを、着けたり、はずしたり、を繰り返す。

バカみたいに。

でも 冬は スカーフのほかにマフラーも、
サポーターのほかに手袋も、
と もっとかさ張るので これでもいい方か?

そして いすに座った膝の上を
そのトートバッグでガード。

電車で立っているときの首・肩と
座っているときの膝、
これはガードなしでは辛くて死にそうになる。

もちろん、
足首にはサポーター、その上にソックスを履く。



欝は・・・。

ご縁がない、と言いたいところ。

ああ、うつっぽいなあ、
ああ、嫌だなあ、
ああ、つまんないなあ、

そんなふうな自分の感情に
とても敏感になった。

どうにかすればいいのだけれど、
たいてい、どうにも仕様がない。

それでもなんとか
食事の支度をすることができることがほとんどだから、
欝とは呼べないと思う。

亭主が留守がちなのは 相変わらずで
じっと留守番をすることも多いけれど

まあ、暖かくなってきたし、
このままいけるだろうと思う。

この次は 老人性の欝だろう(笑)。



リュープリンとゾラデックス、
合わせて3年間、
月に一度の注射を続けて、

先日の3年半の検査結果を聞きにいった時に

「注射を止めて半年経ったけど、
 その後、いかがですか?」

と 主治医が聞いた。

「変わりありません。」

「変わりない?」

「はい。

 生理はこないし、
 ホット・フラッシュはくるし。

 変わりありません。」

先生、関節痛も辛いんですう、

そんな泣き言を、もうちょっと言っておけば
よかったかな。

味来

2006-07-05 | 明るい農村
「みらい」、と読む。

トウモロコシの品種の名前。

今が旬なのだと思う。

先日 行きつけのスーパーで買ってきて食べた。

期待を裏切らない、甘さ。



以前 亭主が 出かけた帰りに
当地からそれほど遠くない場所にある‘道の駅’に立ち寄り、
トウモロコシを何本か買ってきたことがある。

亭主は(おでこに、ズバっと、の;笑)
トウモロコシが大好き。

その道の駅で 亭主が聞きこんだ話。



「味来」は 道の駅のある場所から程近い
ある農家の人が作出した品種。

ところが 一生懸命な農家だから、
商売に疎い。

せっかく作り出した優秀な品種なのだが
あちこちに同じ品種を作る農家が出てきた。

今じゃ、「味来」の本場は
北海道だと思われている。



私も美味しくいただいたことがある、
北海道の「味来」。

それに「みらい」と発音する、
別な当て字のトウモロコシも。

でも、いいなあ、
そんな、商売下手なお百姓さん。

日本中でおいしいトウモロコシを食べられるわけだし。

ちなみに、
北海道とこちらとでは
出荷時期が違うそうなので
(つまり、こちらの「味来」の出荷が終わった後で
 北海道の「味来」が出荷の時期を迎える。)
うまく共存できそうな気がする。

私たちは、ず~~っと、
おいしい「味来」を食べられる(笑)。



「味来」が気に入った亭主は
その年のお中元を 全部、「味来」にした。

もちろん、その道の駅まで、わざわざ出かけて。

いろんな人に びっくりされたけど、
「甘くて、美味しい!」
と評判のよいお中元になった。



トウモロコシの品種に気をつけるようになったのは、
「ハニー・バンタム」というのが出回るようになった時。

‘流行り’というのは怖ろしい(笑)。

日本中、ぜ~~んぶ、ハニーバンタムになった。

八百屋の店先には 
ただ「ハニー」と書かれたダンボールの名札が立って。



それから
「ピーター・コーン」というのが出た。

ピーターラビットが
おいしそうに、嬉しそうに 立ったままかじっている、
そんなトウモロコシのイメージに近い。

(いや、あれは、ニンジンだった!)

美味しいトウモロコシが出たなあ、と
感心したり 嬉しく思ったりしていた。



そして、今、トウモロコシは、「味来」。

とっても美味しい。

産地はどこでも、
なるべく新鮮なもの
(切り口ができるだけ瑞々しいもの)を
召し上がれ。

私は 今度 ぜひ その道の駅に行って
「味来」のジェラートを いただきたいのだけれど。

おでこのしわ

2006-07-04 | なんでもないこと
昔 母がよく言っていた。

おでこのしわが
ズバっと一本通った人は
一つのことを とことんやり通す、と。

そのころ出てきた力士に
そんなおでこのしわの若手がいたのだ。

名前を、保志と言った。

予言どおり、
母のお気に入りの力士、保志は
精進して どんどん番付を上げていった。

その後 改名して北勝海(ほくとうみ)という四股名になった。

今は 多分 ‘なんとか親方’になっている。


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この春の花シリーズ、ビオラ。

せっかくキレイに咲いて デジカメに収まったのに
見ていただけないなんて、つまらないでしょう?(笑)



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普段忘れていたこんなことを思い出したのは

ワールドカップを見ていて、
「おでこに、ズバっ」
の選手が 何人かいたから。

イングランドのジェラードがそうだったと思う。

それから、ドイツの・・・。

ほうら、もう名前を忘れてる。

でも、ドイツは まだ試合を見られるからね(笑)。



ウチの亭主も 実は ‘ズバっ’型。

ひとつのことしかできない、不器用なだけのオトコだけど。

そのうちモノになるかしら?



中田英寿選手も
おでこに一本、だった。

だった、と書いては いけないかな?

突然の引退表明にはびっくりしたけど
なんか 納得している私がいる。

プロ・サッカー選手としては、引退だけど、
きっとこれからも どんどんと
サッカーに関連した面白いことをしていってくれるに違いない、
と思う。

だって、
「おでこに 一本、ズバっと」の人だから(笑)。

着付け

2006-07-03 | なんでもないこと
ゆかたをひとりで着始めたのは
小学生から中学生になった頃だったと思う。

オレンジ色の半幅帯だった。

その頃の私にとって、
着物というのは 夏の浴衣のことだった。



姉が高校生になった年の暮れ、
私たち姉妹に 母はウールのアンサンブルを作ってくれた。

私の中で 着物とゆかたは 違うものになった。

着付けは 簡単なものなら なんとか自分でできた。

着崩れたら、脱げばいいのだから。



その後 
日本は高度成長の波が農村部にまで及び、
収入は増えたが 
インフレもものすごく、
父は貯金というものをバカにして
まったく、本当にまったくしなかった。

母は どうせお金を使うのなら、と
父が浪費する前に 
娘の私たちに着物をこしらえようと
せっせとヘソクリを貯めては
呉服屋へ出かけた。

もっとお金持ちのお得意さんだったら
呉服屋の方から訪問してくれるらしいが
学費にお金のかかる時期のこと、
そうそうへそくりも貯まるはずもなく、
それでもめげずに 
母は 一枚 一枚 
私たちの着物をふやしていってくれた。

自分が結婚した頃の年齢に 姉がなっていったので
嫁入り道具、のつもりだったようだ。

いざ結婚、となった時に
半年や一年で あれもこれも、とは 揃えてはやれないから。

そういう言い訳もあって
母は 着物を誂える喜びを味わっていた。

そんな母に同行して
呉服屋や 染物屋ののれんをくぐって
私も結構楽しんでいた。



東京に下宿する大学生になってからも
二十歳になるころまでは頻繁に実家に帰った。

実家に帰れば
夏休みには ゆかた、
正月には 袷(あわせ)を着るようになった。

母は どうしてもうまくいかない部分があるので
公民館主催の着付け教室に何度か通い、
着付けの腕は相当上達した。

私の着付けの腕も 母に鍛えられて(?)
少しは手際が良くなった。

母の着付けは 決して、きつくない。

けれど、決して、着崩れない。

楽で、キレイで、晴れがましい気分になれて、
着物を着る、それだけで嬉しく 楽しかった。



二十歳を過ぎた頃には
あまり実家に帰らなくなった。

そのまま東京で就職し、
ますます実家に帰る日は減った。

当然、着物を着る機会も減り、
減れば着るのが億劫になり、
どんどん着物との縁が遠くなった。

母は 相変わらず 呉服屋に行っては
今度は私の嫁入り支度を整えていた。

近所の息子さんの‘たて仲人’を引き受けた時には
結納の時や あいさつ回りの時など
花嫁に着付けをしてあげて
喜ばれては嬉しがっていた。

(ただし仲人はこれ一回きりだった。)



私が結婚をしたのは
母が結婚した年齢より、そして 姉が結婚した年齢よりも
だいぶ遅くなった。

そして その頃には すっかりシティーガール(爆)になっていた私は
着物というものを 
すっかり忘れていた。

「せっかぐ こしぇーで(=こしらえて)やったのに。」

自分で着られないんだから、しょうがないじゃない。



同じイバラキ県人と結婚することになったが
仲人は東京の人、招待客もほとんど東京、
披露宴は都内ですることになった。

結納は東京で行い、結婚披露宴をする会場の美容室で着付けてもらった。

きつかったけど、緊張していたので乗り切れた。

結納のあとで
私の実家から 亭主の実家へ 桐のタンスが運ばれ、
着物は 田んぼの中から 山の中へ移動した。



義母に着付けてもらう最初の機会は
新婚旅行から帰ってきたすぐ後の
近所への挨拶の時だった。

この頃は 義母もまだ 着付けは下手で、
自分のは着付けられるんだけど、という状態だった。

その後 
義母は 通信教育で着付けの免状を取った。

通信教育だと、
一定期間のスクーリングがある。

夏の暑い時期、
都内に泊り込んで 学校に通ったのだが
その時 義母は風邪を引いて熱を出しつつ
気力で頑張りとおして 資格を取った。

これは
自分で着る、
人に着せる、
それから 説明しながら人に着せる、などなど、
所要時間も何分と決められた
やはりそれなりに高度なテクニックを必要とした資格だったようだ。

紋付・袴のほか、裃も着付けられる、と
義母は言っていた。



すると それまでの いい加減な着付けではなくなってしまい、
私には手が出せなくなった。

着付けは 着ている本人も 自分の前の部分は
手伝える。

私も少しは自分でやれていた(はず)。

それが
義母のやり方が変わり
私には何が何やらわからなくなったのだった。



子どもが生まれた後には
何回か 着物を着る機会があり、
洋装だとウエストが合わなくなってしまっている私は
手持ちの和服が経済的。

そのたびに義母に着付けてもらったが
私は ただ カカシのように 突っ立っているだけになった。

義母の着付けは 実家の母の着付けとは違い、かなり苦しいのだった。

そして 子どもが成長してからは
着物というものがこの世にあることを忘れていた。



義母の急死の知らせを聞いて
私は喪服の準備をしたが
長じゅばんを持っていかなかった。

着物というものを忘れていたので
どれが長じゅばんかを忘れてしまっていたのだ。

そういえば
仲人が亡くなった時には
父はまだ生きていて

結婚するときに誂えた喪服を
自分の親の葬式ではない時に着ることができるのは
いいことだ、
と 義母は喜んでいたっけ。

あの時は
東京にいくらか近い我が家に 義父母に来てもらい、
義母には留守番と子どもたちを頼み、
喪服を着付けてもらって
義父と亭主と三人で出かけたのだった。

あの時も
喪服はきっちりとしていて 少しの着崩れもなかった。

苦しかったけど。



義母の葬儀は
斎場が空くまで待つことになり、
時間の余裕ができたので
亭主は一度 
修理中のワンボックスの代車として借りていた
ワゴンRを運転して家に戻り、
自動車屋のアニキに返した。

やりかけの仕事をきっちりやり終えてから
修理を済ませたワンボックスで
もう一度実家に来る時に
亭主に 私の長じゅばんを持ってきてもらった。

置いてある場所がハッキリわかって
亭主に説明できたから、持ってきてもらえた。

長じゅばんを触っていながら、
これじゃない、と 脇へのけておいたのだ。

父の葬儀の時には ちゃんと準備して持っていけたのに。

着物を忘れるにもほどがある(涙)。

噛みたおす

2006-07-01 | 考えたこと
「まさか死ぬとは思わなかった。」
と 亭主は言った。

亭主の実家に着いた私に
すれ違いざまに、小声で。

正直な気持ちだったろうと思う。

だけど。

アンタ、あたしのおとっつあんの時に
なんにも学習しなかったのね。



今の亭主の‘忙しいのに儲からない仕事’には期日があって、
あと3年半、
あと3年、
あと2年半で暇になる、

あと2年半、オフクロがもっていてくれれば。

最近ではいつもそんなことばかり言っていてた。

そんなには 義母は待っていてくれなかった。



考えてみれば
・・・それは全部 あとで考えてみれば、なのだが、
自力で物を食べられなくなった人が
長生きすることは難しい。

胃に穴を開けて 栄養を送り込む、
なんてことになった時点で
もっと真剣になるべきだったのだ。

けれど つい
そうあってほしい、という願いもあって
栄養を改善すれば もう一度元気になってくれる、
と信じていたのだ。

信じ込もうとしていたのだ。



義母は
昔から 歯が悪かった。

入れ歯、差し歯だらけの口内だった。

硬いものは噛めなかった。



口の中に金属を入れていること自体、
不自然だと言うべきかも知れない。

それはとにかく、
噛むことは 
あごから脳に信号が送られて
脳の活性化につながる、
認知症を予防する、
頭が良くなる、
などと言われている。

義母のアルツハイマーと 関係があるのだろうか?



私の父は 奥歯がなかった。

虫歯になったときに
歯医者(のみでなく、医者全般)嫌いの父は
たとえ痛くても我慢して我慢して
やっと歯医者に行っていたので
すぐに神経を抜かれ、
やがて歯を抜かれた。

というか、本人が 
虫歯の治療よりも 抜歯を望んだのだ。

そんな治療が また まかり通っていたのだ。

父がもし 丈夫な奥歯を持っていたなら
脳梗塞なんかにならなくて済んだのだろうか?

それは疑問ではあるが
少なくとも 健康のためには
歯は丈夫なほうがいいはず。



丈夫な歯で よく物を噛んで食べること。

昔の日本人は 
小さい頃から親に口うるさく言われて
よく噛んで食べることを 身に付けていたはず。

消化吸収のために
エンザイムを使わなくて済めば、
ミラクル・エンザイムを その他のことに使える。

たとえば、体内に毎日できるがん細胞をやっつける、
とか
活性酸素を中和させる、とか。



以前、(いつ頃だったろうか?)
マイセンさんという方
私の窓にコメントしてくださった
「噛みたおす」という言葉は 
私の胸に残った。

時々 牛みたいに 記憶の中から引っ張り出して
咀嚼しなおしている(笑)。

当たり前のことだけれど、噛むことは、大事。



義母は グループホームに入って間もなく
噛み合わせが悪くなった。

歯が悪い上に、噛みあわせが悪い。

これでは、丸呑みするしかないではないか。

最初の誤嚥事故は 起こるべくして起きたのだ。



噛みあわせが悪くなってしばらくすると、
義母の発音は明確ではなくなった。

そのうち何を言っているのか わからなくなった。

もしかしたら ちゃんと筋道の通ったおしゃべりを
していたのかもしれない。

自分で噛めず、しゃべれず、
手芸もできず、楽しみもなくなって、
判断能力が劣った義母が
あの状態のまま 長生きできるはずはなかったのだ。



以前 乳がんのサイトで
術後の人たちが 次々に歯が悪くなって 
次々に歯科医に通い始めて、
「こんなことも伝染するのかしらね?(笑)」
と話題になったことがある。

伝染したのではなく、
歯や歯茎が弱くなる時期と
病気になる時期が 近いのではないかと思う。

私も 以前に治療した歯が
再治療の必要が出てきて
随分通っている。

そして 歯の治療そのものよりも
噛み合せを整えてもらうことが重要のように思う。

噛み合せが良くなると ものを噛むのが楽しみになる。

食べていて 満足感がある。

よく 噛んで 食べて 
生きている間は元気でいたいと思う。

口に入れたものは、噛み倒せ!(笑)



画像はこの春のもの。

亭主はこんなはかなげな色が好み。

亭主の好みの花を玄関先に植えてあげれば
ガーデニングに散財しても 
大目に見てもらえる♪