ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

しおり

2013-10-08 | マンガ
「マンガを買ってくる」のは、
ウチの亭主の 数少ない美点のひとつだ(笑)。

忙しかった週末が終わって、
今朝 私は 
亭主が読み終わっていたこの本を
イッキ読みした(爆)。





『大正野球娘。』 1~5巻、
 
原作:神楽坂淳、作画:伊藤伸平、2009年4月~2011年4月、
徳間書店、COMIC リュウ

タイトルの最後に、「。」が付いているので、お間違えなく(笑)。

まだ女性の社会進出が一般的でなかった大正末期にあって野球を始め、
さまざまに努力を重ねる少女達の、明るい学園生活が描かれる。

――ウィキペディアより抜粋。

テレビアニメにもなって 好評を博しているらしい。



         


           






いや、フツーにマンガとして面白かったんだけど、
一番ウケタのは、‘しおり’だったので。

最近 金回りが良くなったのか、亭主は新本もよく買ってくるので、
このマンガは古本かどうか、よくわからないんだが、
基本、入っていたものは 亭主ははずさずに そのまま挟んでおく。



1巻目に入っていたのは、シティホテルのコースター。

(お金に余裕がある証拠?)

亭主が出張で泊った事のあるホテルだし、
亭主が自分のものを挟んだのだと思った。



2巻目に入っていたのは 薄い紙で、
‘しおり’に不向きだったので 
これは私がはずした。



それから、これは 3巻か 4巻辺りにはっていたもの。
 


噴き出してしまった。

申し訳ない。

仏教徒なのに!(笑)



それにしても、実家のお寺で18歳までを過し、
その後 お坊さんや お坊さんのタマゴがいっぱいいる大学に4年間いて、
こんな仏教臭にまみれた言葉って、
あまり目にしない気がする。。。

            





私、もう少し 仏教にまみれた方がいいのかなぁって、
少し、反省中(爆)。

美しい文字に、すこしだけ、嫉妬(涙)。



しみじみ『ペコロス』

2013-09-07 | マンガ
ようやく読み終わった。

『ペコロスの母に会いに行く』。

(西日本新聞社、岡野雄一著、2012.7.7、1200円)





ペコロスというのは、ほら、あの、ミニ玉ねぎの事。

いろんな料理に、そのまま使える、可愛い コロンとした小さな玉ねぎだ。



体型&頭髪状態から名付けた、作者本人の事だ。









ほのぼのした雰囲気を 長崎弁が醸し出す。

実際、この方言がなかったら これほどじんわりした感動は 
感じられないかもしれない。

方言というもの そのものに 温かみがあっていい、
というのもあるかもしれない。

けれど 激しい、人を傷つけるような言葉が出てこないから、
だから いいのかもしれない。

その良さを 方言が増幅しているのかもしれない。






長崎弁にはなじみがないが、
字面で読んでいる分には、
「母に捧げるバラード』の博多弁や 
がばいばあちゃんの佐賀県の言葉に近いように思う。

私の郷土の言葉と違い、
丁寧な言葉や 敬語がある。

おだやかに話すようにできている言葉かと思う。






認知症で グループホームに入所している母。

会いに行く長男。

時間は ゆったりと、そして確実に 流れていく。





少し読んでは その度に しみじみとした余韻に浸り、
もう少し読んでは いろんなことを思い出す。

そして まぶたに じわじわと うすく滲んでくるものがある。

とてももったいなくて、すぐに次のページに進むなんて、できない。


少しずつ、少しずつ 読み進めて、
ようやく、ようやく、読み終わった。

手に取ると まだ じんわり、しみじみとした感情が
掌から伝わってくるようだ。













なんとか、亭主にも読ませたい。

亭主は 身につまされて 号泣するかも!?










なんと、この 自費出版マンガ(マンガエッセーとか言ってたかな?)が、
今度 映画になる。

というか、なった。

11月16日より 全国ロードショー!

成人男子に 哭く人が続出するかも!?



むずせな

2012-04-17 | マンガ
『いつか、菜の花畑で――東日本大震災をわすれない』
(著者:みすこそ、扶桑社、2011.9.11、952円)


                





台所で晩御飯を作りながら(苦笑) 読んでいた。

ふと 「むずせな」という言葉を思い出した。



息子がリビングで 私のパソ子をいじっている。

「ちょっと検索してくれない?」

息子の方から 何か 音声が聞こえた。 

たぶん返事をしたのだろう(苦笑)。

あのね、ひらがなで、四文字。

「む・ず・せ・な」。



何もひっかからないかも? と思ったが 何かヒットしたらしい。

パソ子をのぞきに行く。

方言だ。





母から聞いた方言ではない。

母方の祖母の口から よく聞いた言葉だ。

「むずせな。」



それは、可哀想、という意味の言葉だ。

だが 「可哀想」という意味だ、と言うと、それは間違いだ。



ある人は、
それは「慈悲」という意味ではないか
とか
観音菩薩の「慈愛」ではないか
とか 書いている。
(→思いのままに



普段 テレビで耳にする「かわいそう」という、
薄っぺらな、
どこか 上から目線での感情ではなく、

自分自身の心の奥のどこかが
ムズムズするような(?)
かきむしりたくなるような(?)
苦しみを内包した 悲哀の感情。

そんな印象の言葉だった。






あ、この記事、カテゴリーは「マンガ」だった(笑)。

私が 何十年かぶりに 
「むずせ」(?)「むずせい」(?)という言葉を思い出したマンガだった。

小学生の落書きのような絵で(失礼!)
淡々と 事実を羅列しているようなマンガだが
読んでいて ウルっときてしまう。

ドラマチックに脚色してくれたら
思い切り号泣できるかもしれないのに。

でも できないんだよねー。

「ああ! かわいそう!」
じゃなくて、
「むずせぃなぁ」
と感じる内容だからなのかなあ。

エピローグの「再生」に出てくる女の子の
卒業式の「答辞」は
心に沁みてくる。






どうか 皆さん 東日本大震災を 忘れないで。

みすこそさんの マンガブログ
是非 一度 覗いて見てね。



『クロスゲーム』

2012-01-29 | マンガ
『クロスゲーム』(全17巻、少年サンデーコミックス、小学館)は
あだち充の野球マンガ(と呼んでもいいのか?)である。

スポーツ用品店の息子がいて、
バッティングセンター(喫茶店も併設。でも、店名は「南風」じゃないよ)に
幼馴染の4姉妹がいて。

そのうちのひとり、ワカが死んじゃうんだけど、
この子の夢を実現させるために、
甲子園に向けて頑張っていく。

でも、双子の弟の方が死んじゃう名作の 『タッチ』とは、違う。 






   あだち充のストーリーって、 
                         ゆる~く進行する。
                         「スポ根」とは言わない。 






なんか、‘柳の下のどぜう’を狙ったようなストーリー。

で、当然のように、『タッチ』にくらべれば、駄作だと思う。

ついでながら、
出てくるペットは 犬のパンチじゃなくて、猫のノモ。

テレビアニメになっていた事は知らなかった。

ノモの声は、野沢雅子だって。 贅沢!(笑)。






東 雄平クン。    「おまえ、今 笑ったろ?」






最終巻で コウが アオに言う言葉。

「人が本当に亡くなるのは、
 その人のことを思い出す人が
 いなくなっちゃった時なんだよな。」



近年 よく聞くようになった言葉だと思う。

そして、それは、当たっているとも思う。













だから、時折、思う事がある。

私は忘れないよ、って。

私だけは、忘れないでいるよ、って。











こんなに忘れっぽい私だけどね。



『のぼうの城』つづき

2011-06-25 | マンガ
小田原に籠城した北条氏を 
数十万に膨れ上がった豊臣方が攻める。

北条方である忍城(現在の埼玉県行田市)を
成田氏は 1000人で治めている。

城主は 手勢500を率いて 小田原(の籠城の加勢)に向かい、
城に残った者、500。

(算数が簡単でいい!)

そこを 石田三成が攻める。

勝敗は明らかであるように見える。







田植えの際の田楽踊り(小学館『のぼうの城』p72)






三成が 地元の百姓に尋ねる。

「なにゆえ 百姓が 成田長親を見知っておる?」

「へえ、のぼう様は 野良仕事とあれば 
 必ず手伝いに来られますゆえ。」

「のぼう様?」

「いや、長親(ながちか)様のことにござりまする。」

「なぜ のぼう様じゃ?」

「いや、それは・・・・・・・・・、

 でくの坊ゆえ、皆 のぼう様 のぼう様と
 お呼びいたしてござりまする。」

「そう呼ばれておると知れば、
 成田長親めは 激怒するであろうな。」

「いや、面と向かって呼びまするが、一向に。」 (下巻p71~73)



忍城の城代となった 成田長親は 
「のぼう」とか「のぼう様」と呼ばれていたのだった。





  p74






城主が 秀吉に内通しており、
三成に すんなりと城を明け渡す予定だったが
図らずも戦となり、籠城準備には 百姓も駆り出される。

家老たちが 百姓たちを 駆り出しにゆく。

百姓にだって 勝つ見込みはないことがわかっている。

その上、戦はないはず、と 百姓たちも 皆 知っていたので、
田植えまで初めていたのだった。

当然、怒り出す。



「ならば 何様が 戦をしようなどと 仰せになられた?」

「長親じゃ。」



そこで百姓たちは「わっ」と爆笑(爆)、

「しょうがねえなあ、あの仁も。」

「のぼう様が 戦するってえならよう、
 我ら百姓が 助けてやんなきゃ どうしようもあんめえよ。

 なあ皆。」









丹波:「皆、城代に誓え。」

靱負:「何をです?」

丹波:「これより 長親を城代と仰ぎ、我ら軍勢の総大将とすることじゃ。」

靱負:「いいですよ。」

丹波:「いいのか? もう少し 考えた方がいいんじゃないのか?」

和泉:「おめえが言ったんじゃねえか。 長親の下知なら 俺は聴くぜ。」

丹波:「似合わぬことを申す。 なぜだ?」

和泉:「下知しそうもねえからよ。」






  p54







『忍城戦記』によると、
士分百姓らを合わせた忍城の籠城兵の総計は、
3740人だったという。

が、女・子供まで入城しており、
戦力となる16歳以上の男は2627人。(上巻p215)

対する三成方は 館林城の降兵を合わせて 23000だった。






  同じく、p54






のぼう様こと 長親は みんなに謝る。

「ごめん。戦にしてしもうた。」(上巻p216)



  p94


  p92






荒川と利根川とにはさまれた 湿地に浮かぶ城。

その立地の為、珍しくも面白い? 闘いが繰り広げられる。

敗北を喫した三成方は 
利根川と荒川とを結ぶ 長大な堤を築いて 水攻めに出る。

(この時の堤は、今も<石田堤>として 残っているという。)













坂東武者としての誇りを失わず、懸命に戦った、
その心意気や、良し。

それを発揮する場が 戦でしかなかったのは 残念だけれども。

そういう歴史的な背景を持っているから、
高度成長期の日本のビジネスマンは
過労死をもいとわず、闘いに明け暮れたのか?












義を重んじ、筋の通った 百姓をも含む成田家の家中の者たちに
心地よさ・小気味よさを感じる。

メタメタな内閣を見慣れているためか?

現代日本人が忘れてしまったものを 
彼らが持っているからなのか?

爽快感を覚えるのは
歴然とした勢力にもかかわらず 実際に 太閤に一矢を報いた 
唯一の攻防戦だったからなのか?

大軍を前にしても 彼らが怯まなかったからか?

彼らの時代の すべてが良かったわけではないし
軟弱、草食系、などと呼ばれる 現代の若者たちを 
否定するつもりもないのだが

彼らに 嫉妬に似た感情を覚えたのは 確かだ。








マンガの視覚効果と合わせて 堪能した読書体験だった。


                 今さらながら、の 完。(どうも。)(汗)



砥部けいこさん

2010-01-30 | マンガ
砥部けいこさん(とべ・けいこ=漫画家)。

今朝の新聞に死亡広告にあった名前だ。



その名前を見て、
「まさか。」 
「違う人であって欲しい。」
と思った。






28日 死去。

52歳。



視線を先に移すと・・・。



「自閉症の子供を持つ母親の奮闘を描いた「光とともに・・・」が
2004年、文化庁メディア芸術祭優秀賞を受賞、テレビドラマ化もされた。」

とある。



ああ、やっぱり。

あの漫画の著者だ。






別に お会いしたわけでも ご縁があったわけでもない。

テレビドラマになっても一度も見ていない。

けれど 『光とともに・・・』は 深く考えさせられる漫画で、

少なくとも 私にとっては
「自閉症」という病気の教科書だった。






「マンガ」というカテゴリーを持っている私は

こんなマンガがあるのよ!

こんなのを読んだのよ!

こんなことを考えたのよ!

ということを この窓で伝えたい、と思っているのだが



なかなか記事にするにいたらないものが多い。

その中のひとつに『光とともに・・・』がある。

ウィキペディアによると 作者の病気療養のために連載を休んでいたらしい。
(→『『光とともに…』



残念。

すご~く、残念。



きっと たくさんの自閉症児を持つお母さん方が
残念に思ってらっしゃるだろうと思う。

そして ご本人が きっと一番 無念だったろうと思う。



合掌。



『MASTERキートン』

2009-03-07 | マンガ
このマンガのファンは キートニアと言うらしい(→MASTERキートン復刊運動

(浦沢直樹、ビッグコミックス、小学館 全18巻)

1988年から1994年にかけて「ビッグコミックオリジナル」に連載された。

アニメにもなったらしい。



浦沢直樹氏は 『YAWARA!』や『MONSTER』、
『PLUTO』などで有名なマンガ家。

最近では『20世紀少年』で話題になっている。

連載マンガは 連載中に 1、2度 読み飛ばすと
ストーリーがつかめなくなってしまうものだが、
『MASTERキートン』は
この作者のマンガのワリには、一話完結型で 読みやすかった。













亭主の友人、○山さんという人にはお会いしたことがある。

最初は もう何年も前、たまたまお会いして
ほとんど言葉も交わさなかった。

2度目は、○山氏が 我が家に来てくださった。

その時、廊下の書棚にずらりと並んだマンガをご覧になって、
感心なさっていた。

ウソは良くないし、どうせバレバレだから、
子ども達でのはなく、親の趣味です、
(子ども達のマンガは、もちろん、廊下ではなくそれぞれの部屋にある)
とお話したら、感激なさった。

「○○さんが、マンガを読むんですか!」と。

それほど亭主と親しい間柄ではなかったらしい。。。

それから、○山さん、貴方の方こそ、
マンガをお読みになるタイプには見えませんから。。。






先日 亭主が出かけた時には
お会いすることが お互いにわかっていたらしい。

○山氏は なんと
この『MASTERキートン』全18巻を
小ぶりの段ボール箱に入れて わざわざ持って来て、
亭主に渡したのだという。

「読んでください」と。

そして、読み終わったら、返してほしいと(笑)。

そ・・・そんなに価値あるマンガなのか?(汗)













主人公の平賀・キートン・太一は 日英ハーフの、一応、考古学者。

大学で 考古学の非常勤講師の職を得たり 
クビになったり、の繰り返しをしている。

副業として ロイズの保険調査員をしていて忙しい。

且つ、とても危険!

冴えない風采だが
元・英国特殊空挺部隊のサバイバル教官で
素晴らしい能力を発揮する。

保険の調査で サバイバル能力や 考古学の知識などが
無理なく発揮されており、

事件そのものも ちょっといい話や しんみりする話に持っていくので
陰惨・悲惨な話も読みやすくなっている。







気の早いユリは もう芽が出ている。 まだ鳥に食べられていない。






彼は ロマンチストでもある。

(考古学者はみんなそうなのか?)

犬が死んでしまって泣きじゃくる少女に

「人類に文明をもたらしたものは何だと思う?」と問う。

「農耕と牧畜。」

と少女は答える。

教科書にあった答えだ。

キートンは

「ところがそうじゃないんだ。

 答えは犬さ。」(第15巻 p42)



犬は 家畜や畑の番をし、狩を手伝い、ソリを引いた。

犬がいるから、人類は 初めて
獣に襲われる心配もなく 安心して眠れるようになった。

5千年ほど昔、
人類が犬を飼うようになって初めて
我々は 文明を持つだけの余裕が生まれた。



なるほど、そうかも?(笑)

(参考になるかな?
 『MASTERキートン』の話って本当なの?













彼は ‘ドナウ=ヨーロッパ文明説(「西欧文明ドナウ起源論」)’
を信じている。

ドナウ河流域に眠る ヨーロッパ文明の源を発掘する夢を持っている。

(どうやら、その遺跡は ルーマニア近辺の村に眠っているらしい。)



その説の提唱者である、彼の考古学の恩師の言葉がいい。

繰り返し出てくる言葉で、

「人間は どんな所でも 学ぶことができる。

 知りたいという心さえあれは。」

というものだ。



いいなあ。

私も、興味・関心が ひとつ所に集中していれば
今からでも 論文のひとつも書けるようになれるだろうに。。。?

そういう性格じゃないから、論文は無理だが、
いろんな、雑多なことに、
これからも、いつも興味を持っていたい。






このマンガは 少なくとも、○山氏や 
‘『MASRWEキートン』復活運動’に署名している人たちにとっては、
大事な本のようだから、
大事に読んで お返ししなくては。。。

(その割には、食べ物のカスが、
 チョイチョイと はさまってたけどね。)



『龍―RON―』

2009-01-22 | マンガ
大変だった。

『龍―RON―』全42巻を読むのは(苦笑)。

すっごく、すっごく、大変だった。

「鰹節」を書きながら読破するのは(爆)。



これは、太平洋戦争を背景とした、大河ドラマだ。

亭主がドッサリと買ってきた。

これを「大人買い」と言うの?(笑)

(村上もとか著、小学館、ビッグコミックス)













日本史の時間に習いそびれた近現代史は
全く頭に入っていない。

私にとっては空白の日本史の学習にもなる。

「小学館漫画賞」を『墨攻』の次の年に受賞したそうだ。








最近 寒い上に風邪気味で 外に出ていない。正月に撮った写真ばかり。
春になったら甘いキャベツになる?






主人公の龍(りゅう)は 京都の学生。

ずば抜けた体格と 丈夫な身体と 運動神経を生かして
武道専門学校(通称:武専)で 剣道に邁進している学生だ。

その程度だったら、ついていける。

同じ作者の『六三四の剣』見たいな感じで読んでいける。

かもしれない。

(『六三四の剣』も 後半は読んでいなかった。)

京都に住んでいるなら、舞妓との恋も必須(笑)だろう。

一方、龍の妻となる 田鶴ていの出世物語でもある
(実在の日本女性初の映画監督がモデル)。
 





けれど、龍は 秘宝を追って中国に渡り、
記憶をなくして中国人・龍(ロン)となり、
上海の暗黒界で顔役になり・・・。

その上、奥地の山の中で中国武術を極め、
馬賊の親方となって 
更に秘宝を追い求める・・・。

となってくると、ついていくのが大変(苦笑)。

身の丈に合わないマンガは 理解も難しい?



同じように 
主人公が 急速に進歩したり 昇進したりすると、
『サラリーマン金太郎』もそうだったが、
鼻白む思いというか、応援する気もなくなるというか、
ついていけないのだ、私には。

感情移入ができなくなっちゃうんだなあ。

唖然・呆然として ただ眺めるだけになる。







こっちもキャベツだと思うんだけど、同じ時期にこんなに違う様子の畑がある。






日本近代史の読み物としては大変面白く、
これで 登場人物の名前を忘れなかったら
かなり日本史通になれそう。

伊達順之助なんて人、知らなかったし。



実在の日本人の映画監督を想起させる人物も何人も登場。

北一輝とか 河上肇とか 名前は知ってても
いまひとつつかめなかったが
マンガだと 主人公の身近にいて、動き、語る。

中国に於いても 実在の満映の甘粕正彦は重要な役どころを担う。

実在の政治家や軍人も多数 出演(?)している。
(周恩来も毛沢東も出るよ!)

史実とごっちゃになってストーリーを楽しむ事ができるのは
割と私好みだ(笑)。



最後の締めくくりを 最初に想定して
物語を構築していったのだとしたら、
作者は天才だと思う。

支離滅裂な私には とうていマネできない(笑)。



テレプシコーラ 第2部!

2008-08-18 | マンガ
六つの花散る冬の日も、
黄金を溶かす夏の日も、
臥薪嘗胆 鍛え越し・・・。

これは、母校の応援歌の一部。

(なにしろ、旧制中学時代からの応援歌なもので。。。汗)



高校野球の地区予選などで歌ったものだった。

冬に散る六つの花、というのは 
六角形の結晶を咲かせる雪のことだった。

このマンガの主人公は
「六花」と書いて「ゆき」ちゃん。

読めないよネエ。。







ン?     ああ、シッポ、パタパタしてくれてるのね?(笑)






バレエマンガというのは、
昔からたくさんある。

マンガはバレエを描くためにあるのではないか?というくらい、ある(笑)。
  
細川智栄子も書いたのではないか?

北島洋子にもあったのではないか?

細野みち子にもあったね。

牧美也子は得意だったはず、
お金持ちのバレエをやってる少女と、
貧しい女の子の友情物語、なんてね。

槇村さとるにも、あるでしょ。

(あれはバレエじゃなくてフィギュアとダンスか?)

一条ゆかりもあるかな?

有吉京子の『SWAN―白鳥―』に『まいあ SWAN act2』。







いいよ、いいよ、わざわざ出てこなくても。






こんな所を見つけた。→少女漫画研究室、少女漫画とバレエ

やっぱり、少女マンガは バレエを描くためにあるのでは?(笑)

おお! 萩尾望都も描いてる!







あくびしてるお前も大好きだよ。






山岸涼子の傑作は 
何と言っても『日出ずるところの天子』だと信じているが、

バレエ好きには 
なんといっても『アラベスク』(古い!)と
『テレプシコーラ/舞姫』なのかもしれない。

『テレプシコーラ』は、第一部で 第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。

って、これ、すごい賞なんだろうか?







 





『テレプシコーラ』は 近年単行本で読んでいる。

このマンガのいいところは、
主人公が完全無欠のすごいバレリーナじゃない、というところか(笑)。

バレエを、本当は何も知らない人が読んでも
すごくよくわかるし バレエの知識が身に付くところか?

マンガの中で 少女たちは 
演技や 骨格のことや 学業との両立や ダイエットなどなど、
さまざまに思い悩む。



現実の少女たちは
登場人物に自分を重ね合わせて、悩んでいたに違いない。

また ダイエットについての知識も 
このマンガから得ていたのではないだろうか。

少女たちの悩みには バレエをしている、していない、は
あまり違いはないはず。

六花の姉の千花の話には う~~ん、とうなってしまった。

他に別のストーリーの選択はなかったのか? と
作者に問いたくなってしまう。
  












もっとも、
私は この中に出てくるダイエットについては
賛成できかねるものもあるので

成長期の少年少女を含め、
あまり真似をしていただきたくはないのだが。

人間に、特に日本人にとって
一番大切な栄養素は 
でんぷん質だと 私は思っているので。












その、第2部が単行本で刊行されはじめた!

(第2部 第1巻 2008年7月26日、メディアファクトリー、590円)



巻末には 首藤康之氏との対談が掲載されている。

これはオイシイ!(笑)



これで、気になっていた元同級生の 空美ちゃんの
あれ以降の動向もわかるようになるだろう、というもの(笑)。

骨格の問題で プリマドンナにはなれないであろう六花ちゃんの
成長物語になるのだろうか。



『雲の上のキスケさん』

2008-03-12 | マンガ
そんなに好きな絵じゃないし
そんなに好きなストーリーでもない。

でも、何故か、ハマっちゃう。

そんなマンガが 『雲の上のキスケさん』。

カバー裏には「おもしろピュア感覚のラブ・ストーリー」とある。

(1~5巻、鴨居まさね著、集英社、Yong You Comics、
 1998~2004、505円) 







土手の日当たりの良い場所では そろそろ菜の花が咲きだしている。
その周りには、イヌフグリが散らばってたように咲いていた。






キスケさんは漫画家。

OLの眉子といい感じに。

コメディにすれば 
オバサンにだって楽しめるんだね、ラブ・ストーリー。

物語全体のストーリーは 他の恋愛モノと たいした違いはない。

恋愛モノは、恋愛モノ。

でも 仕事の話とかの サイド・ストーリーが
とっても面白くて引き込まれる。

当然ながら、脇役がいい。

(マニーちゃん、カワイイ。)

それから、職場の イヤ~~な人間や
客の‘コマッタさん’なんかも
「いる、いる!」って感じで(笑)。

そして 彼らの関係が面白くて楽しい。







何が植わっているのか? それともこれから植えるのか?






キスケさんは 日光アレルギーで 日中は家に閉じこもっている。

彼のアパートの大家のオバチャンの亡くなった旦那が
生前、閉じこもりっぱなしのキスケさんを心配して言った言葉。

「地べたっから 真っ黒い雲が 見ええるんよのう。

 しっかし その雲を

 上っ側から見りゃあ

 太陽の光が当たって

 銀色に輝いとるんよの。」

この話が 漫画のタイトルになってるんだと思うんだけど、
これ、イギリス文学の話なんだそうだ。

・・・・・・・・・よく わかんない。。






第5巻で キスケさんと 友達の横地君が 
ファミレスで お茶を飲んでいる場面がある。

(この横地君も、奇妙なキャラ。)

キスケさんがしゃべる。

「こないださ・・・。

 何年かぶりに うちの親父から 電話があって、ビビった。

 今ごろまた 家業を継げとか言い出して。

 トシ取って ボケたか弱ったか 知んないけど。」

横地君が反応する。

「家業って・・・。

 おまえん家 寺じゃん。」

背景には 筆で書いたようなかすれた文字で大きく、
「ゴーン」と。。(爆)(p175)



登場人物の実家がお寺、って、
意外な状況を作り出す魔法みたいだね。

幸い、というか 残念ながら、というか
キスケさんと 実家のお寺とのやりとりは
ほとんど発展しないで お話は終結するんだけども。

やっぱり、珍しいのかねー。

数十軒とか数百軒とかの村に お寺はひとつだもんねー。






キスケさんが 知り合いの葬儀に参列して
眉子の部屋に帰って来たとき

‘清めの塩’がポトリと落ちた。

「清め塩・・・。

 お葬式だったの?」

「うん。

 その塩いらない。
 
 清めなきゃいけないようなことは 何もないから。」(p191)

「何もない」の「何も」って、何?



これってやっぱりフツーじゃないよね?

実家の父も 玄関先で 塩で清める、なんてことは
一切 しなかったように思う。

でもそれは
「私が読経して成仏させるから。」
とかいう理屈だった?

キスケさん、亡くなったその人のこと、尊敬してたんだね。



‘穢れ’の 最大のものは 死の‘穢れ’で、
(次が、血の‘穢れ’?)
やっぱりそれは 清めるべきもの。

お葬式に行って 塩で清めないと 何かやっぱり マズイかな?  



我が家は かなりいい加減(汗)。

清めたことも、あるんだけどねえ。。。

義母の時は 清めなかったと思うなあ。

亭主はやっぱり 
清めよう、とか 清めたい、とか 清めなくちゃ、とかは
思わなかったのかな?

神道では 重要視して 必ず清める気がするなあ。







何が蒔いてあるのか、細めの畝のビニールトンネル。






ところで、4巻(p24)にあったんだけど、

金木犀と 銀木犀と モチノキを セットで植えると
お金持ちになるって話、あった?

眉子の実家でも 植えてたんだって。



植えなかったから、私の実家は ビンボーが治らなかったのか?

なんと、その3種類、一本もないよ!(爆)



3月、
お彼岸が近づいてくると 
お墓から沈丁花の匂いがただよってきて
私はわけもなく フワフワした気分になったものだった。



藤原カムイは天才だ!

2008-02-10 | マンガ
藤原カムイは、天才だと思う(笑)。(→公式サイト:カムイズノート

とは言っても 
我が家にあるのは 『創世記 I、Ⅱ』と 『西遊記』だけだと思う。

あれ? 『帝都物語』はどこへいったかな?(苦笑)







プリムラ・シネンシスが 今年も咲いてくれた。






とにかく 絵がきれいで 
読んだ後で B○○K ○FFに持って行きたくなくなる(苦笑)。

(ちなみに 「ドラゴン・クエスト」系とは 我が家は縁がない。。)

私の大好きな上橋菜穂子の『精霊の守り人』
(夜、テレビでアニメでやってるよ!)を
藤原カムイがマンガにしてくれた時には嬉しかった。

(この『守り人』シリーズ、
 児童文学にしておくのはもったいない、と思っていた。

 最近では フツーのファンタジー小説として 文庫になっている。

 ファンタジー好きの方には ぜひ、オススメ。)






ファンタジーというのは
作者が創造者となって 新たな世界を創りあげなくてはならない。

そして 完成度の高いファンタジーほど
創り上げられた世界の完成度が高い。

ゆがみのない世界がそこに広がっている。

つじつま合わせや 都合による変更があると 興ざめ。

『指輪物語』も『守り人シリーズ』も
きっちりとした世界が出来上がっており、
主人公たち登場人物は その世界の中で 縦横無尽に活躍している。

藤原カムイも その種の天才かと思っている。



そういえば 鳥山明の『Dr.スランプ アラレちゃん』も
とんでもないマンガだったけど
世界は確立していた気がする。

鳥山明も 天才なんだなあ。。

(ドラゴンボールはどうだったろう?)







プリムラ・シネンシスは 去年の4月3日の記事に初登場している。






藤原カムイの『雷火(ライカ)』を読んだ。

(スコラのデラックス版、全12巻)

(そして、これは亭主に 
 B○○K ○FFに持っていかれそうだ。

 絵の美しさが そういやいまひとつ?)



『雷火』は 寺島優との共著ではあるが
読んでて 
「やっぱ、藤原カムイは、天才だ~。」
と思った。



主人公は カミナリ頭の持ち主、ライカ。

生まれる時に 産屋にカミナリが落ちて
母の死とともに生まれでた男子(どこかで聞いた設定)。

生まれた時から 
黒々とした髪がバクハツしたようなヘア・スタイルだった。

時は 卑弥呼の存命中から物語りは始まる。

ライカは ‘雷火’、カメラではない。







さて 『雷火』の中で 気を引かれたセリフ。

第1巻 43p、

「国はいずれ滅びる。

 最期に残るのは おのれ自身じゃ。



 どう生きて どう死ぬのか

 それが いちばん 大事なことじゃ。」



物語の冒頭で
老師さまと呼ばれる、神仙術の達人? 道士? 方士?
のじいさまが ライカたちに言った言葉だ。

地球が滅びの危機に瀕したような現代において
この言葉は意味を持つのか?
なんてムズカシイことは 考えなかったが。







第8巻 191p、

「新しい文化が 活気良く出入りしている限り
 国は決して古くならねえし 
 滅んだりはしねえ。

 わたしの理想は
 そういう国を造ることだ。」

邪馬台国が自分のものになると確信したヒメキコソが 
自分の造りたい国の理想を ライカに語る場面。

過去の日本、そして 現代の日本について
ごにょごにょと考えていると
この言葉にはうなってしまう。

どうなんだ? 今の日本。



この時 ライカは 義父(実は、実父?)のヒメキコソに
大地の果ては 丸い球みてえな形をしていた、と告げる。

「ひょっとすると 大地はぐるりとひと回りして
 どこにも果てはないのかも知れねえ。」

だったら・・・。

今 オレが立っているこの場所が 
大地の中心であり 大地の果てでもある。

その球形の大地がまた
宇宙の中心であり 宇宙の果てでもある。

オレたち人間 ひとりひとりが
宇宙の中心であり 
同時に 宇宙の無限の果てに生きてるんだ。

「倭の国が 大地の中心であり大地の果てでもある。
 
 そいつは あんたの言う 開かれた国てことと一緒じゃねーのかな。

 オレたちは いつの間にか 

 おんなじことを考えていたんだ。」(p190~194)

その晩、ヒメキコソは 邪馬台国を目の間にして斃れる。。



この会話は 壮大な哲学であり、宗教でもある。

実際、仏教というのは こういうことを教えてくれる学問でもあった。

小さく見ていくと どこまでも小さくなり、
大きく見ていくと これまた どこまでも際限なく 大きくなるもの。

手のひらに乗りそうで つかみどころのないもの。

人は そんな事を 古から考えてきたんだろうなあ。。などと
思いを馳せたりもする。







マンガの中の世界観を 侮ってはいけない(爆)。



『NANA』

2007-10-03 | マンガ
『NANA』、映画では『NANA 2』も公開された(→はてなダイアリー「NANAとは」

原作は 矢沢あい氏のマンガ。
(集英社、りぼんマスコットコミックス クッキー、2000・5・20~ )
(現在、18巻まで発売中。)

ハチこと小松奈々と ロック歌手の大崎ナナの 
ふたりの女の子の物語。

「何度読んでも面白いマンガ」というのは、
主人公の魅力もストーリー展開のよさも重要だけど

たいていは 脇役がイキイキしている。

このマンガもそうだと思う。

特に 奈々の親友の淳子ちゃん!(笑)






ウミブドウ。大好き。





「あひるんるん、あひるんるん」と
あふらっくのCMで歌っている 宮崎あおいちゃんを 
初めて『NANA』で見た時、

「そうか!

 そうよ!

 奈々って、こんな顔で こんな声で 
 こんな表情だったんだわ!」

と思えたのだった。



宮崎あおいちゃんが 
NHKの連ドラ「純情きらり」に出たり
大河ドラマで篤姫になったりするから
忙しくて出られなかったのか?

それとも ギャラが上がってしまって
交渉が決裂したのか?

『NANA 2』では
違う女優が奈々の役を演じている。



ドラマや映画になったら 誰が演じるか?を考える、

ファンにはそんな楽しみ方もあるだろうと思う。

まして このマンガには
カッコいいロック・ミュージシャンがゴロゴロ出てくる。

私も前回映画になった時に 
「ちょっとそれはないだろう」、
などと 画面に向かって呟いたり
「え~~! これが○○なの?」
と叫んでみたりしていた。

読者はそれぞれの思い入れをもって 
誰がどう演じるのかを見ているだろうから、
不満もやはりそれぞれあることだろう。

それも楽しみのひとつか。



『NANA』は テレビアニメにもなっている。

(のみならず、ゲームにさえなっている。
 やっぱり、あれか?
 恐怖の大魔王とのバトルを繰り広げるわけか?)

テレビの方は 一度だけ
声優の声を聞いて
あー、この声を持ってきたか~、よし、よし(笑)
とか思って見たけど

私はマンガで読めばいいので
テレビは一度だけしか見ていない。

このマンガ、
娘が 途中から あまり面白くなくなったから
もう買わない、と言っている。

わからなくもない(苦笑)。

だから ここ2冊ばかりは 私が買ってきた。



だって、この先どうなるか、すごく気になるんだもの。

それは 
各章の終わりにつづられた 
奈々 (または ナナ)の、独白のせい。




あの頃 あたしが もう少し大人で
ナナの弱さに気づいてあげていたら
今とは違う未来があったの?         (第4巻)

あの時 知らぬまに つないでいた その手を
本当は ずっと 
握りしめていたかった
いつまでもずっと              (第4巻)

ナナは あたしの憧れで
ナナのようになりたかった
ずっとそう思って生きてきたの
だからお願い
もう一度 歌って              (第5巻)

ねえ ナナ
夢が叶う事と 幸せになる事は
どうして別物なんだろう?
それは未だに分からないよ          (第6巻)

ねえナナ 
たとえば あたし達が
恋人同士なら
それは抱き合えば
埋められる程度の
隙間だったのかな
それとも こんな寂しさを
誰もが持て余しているのかな         (第7巻)

ねえ ナナ
もう がんばってなんて言わないから
好きな歌を空を見上げて歌えばいいよ     (第12巻)



ね~~っ、ね~~~っ、
この先にどんなことがあるか、すっごく気になるでしょ?(笑)

で、買っては 娘に
「ナナの最新刊、買ったよ♪」
なんてメールをしてる、バカ母なのだ、アタシわ。

くらもちふさこ

2007-08-09 | マンガ
先日 新聞に 誰かが

「くらもちふさこのマンガの中で 
 一番の傑作は
 『おしゃべり階段』だと思う。」

というようなことを書いていたので
私は「う~~ん。。」と唸ってしまった。

(でも、『いつもポケットにショパン』も捨てがたいよ。。)





物語で大切なのは エピソードだと思う。

だから 映画をテレビ放送で見る私は
カットされているのでつまらない、と思うことが多い。

『この胸いっぱいの愛を』を見ても、
「?」と思う展開があり、
しっかりストーリーを最初から追っていれば
もっと感動できたかもしれない、と
つい思ってしまう。

だから、NHKの大河ドラマの総集編は絶対見ない。

小さなエピソードがカットされることによって、
じんわりとこみ上げてくる感動が
削がれてしまって興ざめだ。

大好きなエピソードが 
物語の進行にあまりかかわらない場合、
まるごとカットされていて
がっかり!!!なんてことも、1度ならず。



その、エピソードのひとつひとつが
キラキラと輝きを失わず、
あとで大きな輝きに転ずるのが
くらもちふさこ(→ウィキペディアへ)のマンガなのだ。

なんでもない展開の中に 
じわ~~んとこみ上げてくるものがあって
抑えることができない。



『天然コケッコー』とかいうヘンテコなタイトルのマンガが
評判になっていると知ったのは 随分前だと思う。

マンガから遠ざかっていた頃で、
実際に目にすることはなかった。

そのマンガが、
実写映画になったらしい(→『天コケ』)。




「そよ風の村 パノラマ地図」(部分)、
『天然コケッコーの散歩道』(集英社、2007年7月24日、1238円)所収。



このマンガ?映画?のキーワードは
「田舎」か「方言」じゃないかと思う。



気になる。

すご~~く、気になる(笑)。


『大奥』

2007-08-07 | マンガ
よしながふみ(→ウィキペディアへ)のマンガは
『西洋骨董洋菓子店』を読んで、面白かった。

この人のマンガには カッコイイ男の子がいっぱい出てきて
それぞれが違う魅力を持っている。

『西洋骨董洋菓子店』は
『アンティーク』と題したテレビドラマになったが
イケメン俳優がゾロゾロ出てきて
そのひとりひとりの俳優にファンが付いて
まさにテレビ向きの題材だったと思う。







収穫したてのトウガラシ。






よしながふみ(この作者って、オトコ?オンナ?)の『大奥』は 
書店に平積みされていて 気になっていた。

そのうちに、と思っていたら
そのうちに ブック○FFに出回っていたらしく、
(当然、100円じゃ買えない。高価!)
亭主が買ってきた(1~2巻)。

(白泉社、JETS COMICS、2005年10月4日~2006年12月4日)



読んで、びっくりした。

やはり 男の子がいっぱい出てくるマンガなのだが
大奥の男女が逆転しているのだ!

つまり、上様がオンナで、
大奥に居るはずの 大勢の女性たちが 全部オトコ、
の物語なのだ。

悲喜こもごも!




第1巻では 質素倹約を強調した吉宗公がオンナ。

(加納久通もオンナ。)

暴れん坊将軍、というわけか、気は強い(笑)。

特に美しい男の子たちを集め、居並ぶ彼らに
「そちたちのように容色のすぐれた若い男なら
 すぐに婿のもらい手がみつかる。」
と 暇を出す(笑)。



第2巻は 家光。

そもそも 男女逆転の大奥ができたのは
家光が29歳で疱瘡で死亡したため。

(ふつうの疱瘡ではなく、赤面疱瘡。

 お福が気張って 疱瘡では快癒したのにね。)

家光の隠し子の女の子が
家光として三代将軍を継ぐのだ。



家光は まだ少女だ(処女ではないが)。

僧侶から 還俗させられ、
無理矢理連れてこられた若者<お万>(当然、美形!)が
死んだ猫の墓をこしらえる。

猫の名は <若紫>。 源氏物語だねえ。



お万:「どうか <若紫>が成仏できますよう
    念仏を唱えてやって下さりませ。」

家光:「嫌だ。

    唱えたところで
    猫が生き返ってくるでなし。

    何になる。」

お万:「上様。

    弔いというのは
    残された者が
    気持ちの整理をするためにあるものだと
    私は思うております。

    念仏を唱える間 しばし心を落ち着け

    失ったものを思い出しては また念仏を唱える。

    そうするうちに 人は 
    少しずつ悲しみから立ち直ってゆくのでは
    ございますまいか。」(p189)




これは 私の 死者を弔う、
あるいは 追善供養をすることに対する考えと
とても似ている。

この<お万>の言葉も
充分に傷ついた家光の心には
すんなりとは 入ってはいかなかったのだが。

死んだ人は 帰らないのだ。



恨みは 晴らしたからと言って 本当に晴れるものではない。

死んだ者は 帰ってこない。

その怒りにも似た悲しみを
私たちは どうやって 克服したらよいのだろう。



念仏を唱えるもよし。

念仏でなくともよし。

泣きわめくもよし。

ただ ひたすらに 鎮魂を祈るのも
心の整理をつけるためには 有効かと思う。

それでも 
のたうちまわるような 苦しみや 悲しみや 怒りが 襲ってきたら。

そうしたら やはり 同じ事を 繰り返すしか ないのだろう。






きのうの土手に生えていたキノコ。





昨日は 原爆の日。

苦しみも 悲しみも 恨みも 祈りに替えて
私たちは 平和を希求する以外に できることはないかもしれない。

「あやまちは くりかえしませぬから。」

本当に 繰り返してはならないのだけれど。

それを 世界中の人に 伝えたいのだけれど。

恨みを忘れることを拒否する人々に
私たちは 何と言ったらいいのだろう。
    
あったことを 忘れてはならないと思うのだけれど
忘れてしまいそうな私たちは
どう生きていけばいいのだろう。


『さくらん』

2007-03-14 | マンガ
一時期、
書店のマンガ本売り場の入り口の平積みの場所が
安野モヨ子という人のマンガでいっぱいだったことがある。

嫌でもその著者の名前を覚えた。

ある日亭主は 中古書店から
安野モヨ子の『さくらん』(→アマゾンへ)というのを買ってきた。



ドデカイ目。

華奢な体つき、指先。

細い、細い眉。

とんがった顎。

なんとまあ、イマドキの女の子の絵だ。




テーマカラーにかかわらず、いつものオキザリスはこの色。
取り除いたはずの場所に残っていた球根が きれいな花を咲かせてくれた。
オキザリスは、この、咲くちょっと前、という時が 可愛らしい。



亭主も私も 
「なかなか ちゃんとしたマンガになってるじゃん。」
という感想を持った。

絵の感じからいくと、理解不能だったり チョーくだらなかったり、
そんなマンガである可能性も感じられたから、
よけいに いいマンガだと思えた。

筋立てもしっかりしていて
読んでいるうちに 主人公が好きになる。

あの顔が 気にならなくなってくる(爆)。

でも 手元に取って置くことはせず。

今はもうない。



最近映画になって(→映画『さくらん』公式サイト) 
それなりに話題を振りまいている。

土屋アンナ(→オフィシャルサイト)の主演だ。

ドデカイ目、線を引いたような細い眉、
ハーフっぽい顔(っていうか、ハーフだし)。

なんとまあ、‘さくらん’そのもの。



過日 とんねるずかなんかのテレビに出ていたが
私は見ないでお風呂に入った。

出てきたら 亭主が
「今、『さくらん』に出てる女の子がテレビに出でたけど、

 ・・・なんつうか、‘さくらん’だった。」

わかるよ、わかる。

‘さくらん’そのものだよね。

「あの子、『下妻物語』に出てた子だよ。」

「ああ! そーかあ。」



映画『下妻(しもつま)物語』は 茨城県下妻市が舞台。

なので 通常の興味・関心とは 全く別の方向から見始めた。

義弟夫婦が 以前住んでいたことがあるので
私達も行った事がある。

というか、地方の雰囲気が出ていて それは下妻に限らないものだ。



土屋アンナは モデル出身ということもあって
さすがのビボウにプロポーション。

「この子、美人だね~。」と、私はすっかり気に入った。

あの可愛い深キョンが イモに見えるもの。

イバラキのヤンキーも似合ってるし。

ハスキー・ボイスも ロックな感じで合ってる。



『さくらん』では 土屋アンナのほかにも 
きれーなオネイサン達が勢ぞろい、
なんとも華やかな映画のようだ。

椎名林檎の歌も イメージに合ってると思う。

そのうち娘がDVDを借りてきてくれるだろう(笑)。

あ、その頃には 娘は一人暮らしか。。。





しばらく忙しくて 記事の更新も ブログ散歩もしていなかった。

それでも あせりもなければ 欲求不満にもならなかった。

忙しいとは言っても それ程でもなかった気もする。

やはりきっと 気持ちの余裕がなかったのだろう。

というか、記事にしたいことが目白押しで
しかも どれもまだ 書き出せるほど 内容が固まっていなかった。

これがみんな固まってきたら、書くのが忙しいぞ~(笑)。