ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

ヒッパレ

2005-07-31 | なんでもないこと
今はもう 放送していないが
『ザ・夜もヒッパレ』という歌番組があった。

私はこれが大好きで 
ビデオにとって 毎日見ながら(聞きながら)
洗濯物をたたんでいた。

大嫌いな洗濯物たたみも、
これを見る(聞く)ことができるなら
楽しい時間になった。

‘今’流行っている ヒットチャート上位の曲を
本人ではなく いろいろな人が歌ってくれる番組だった。


歌手は 今から売れる歌手、かつて売れていた歌手、
今そこそこ売れている歌手、海外からの大物歌手と
いろいろな人が出てきて、
‘今’の歌を歌う。

それが なかなか 味があって、よかった。

いい歌手は 他人の持ち歌でも
巧みに歌いこなして 
しかも 自身の ひとつの世界を創り上げてしまう。

聞いている間に この番組を見ていたんだ、
ということを 忘れてしまうこともあった。



‘今’の曲が好きな娘も 
徐々にわかってきてくれて、
「この人、すごいね。」とか
「うまいね。」とか 言うようになった。

浜崎あゆみの曲は かならず上位にいたから
いろいろな歌手が歌っていた。

娘にとっての 浜崎あゆみは 中学生のころから
‘カリスマ’的存在だったそうだから、
娘もちゃんと聞いていたのだろう。



マックスの“Give me a shake" を 
サーカスが歌ったときは 鳥肌ものだった。

「このオジサンたち、チョーかっこいい!」
と娘にも評価してもらった。

尾崎喜代彦、もんたよりのり、橋幸雄、
歌のうまい人は どんな曲も 自分のものにして
聞かせてくれて、
逆に 若い人たちにも 人気が出てくる、という
おまけがついてきたそうだ。

島倉千代子も 浜崎あゆみの曲をうたったっけ。



私が見に行った ゴスペルのグループも
この番組で知った。

彼らが 華原朋美の曲を歌ってくれたときに
私はじ~~~んと きてしまったのだった。



この番組に夢中になるまで、
そう、息子が 中学生になるくらいまで
私はテレビをほとんど見ていない。

洋画を録画して 見るくらいだった。

テレビの空白期だ。

尾崎豊も 『北の国から』の‘初恋’で使われて
初めて知った。

チェッカーズも 米米クラブも 
よく知らないうちに 解散してしまった。



私のテレビ空白期は
大学に入って上京した時に始まる。

しかしそれでも ラジオと言うものがあった。

小さい頃 テレビを見すぎたせいか、
私は その後 テレビが嫌いになって、
高校生の頃には ほとんど見なくなった。

その代わり 専用のラジカセを買ってもらって
机の上から聞こえる国内外の‘今’の歌を
いつも聞いてきた。



それが 子供が生まれてからは
むちゃくちゃになった。

引っ越して 当地に来たし(FM東京がはいらないし)
仕事も 睡眠も 何も 全部むちゃくちゃ。

そして 息子が生まれて 息子が十分大きくなるまで
その状態が続いていたのだ。



せっかく見つけたお気に入りの番組だったのに
なくなってしまった。

もう一度始まらないかなあ。

りばいばる

2005-07-30 | なんでもないこと
昔 コネで就職したことがある。

そこには 同じように コネで就職した課長がいた。

ユニークな人だった。

芸能界に 知り合いが 何人もいたらしい。

ミジンコの研究家になった ミュージシャン、
ひじやら 頭やらで ガンゴンゴンとピアノを弾く
ジャズピアニスト、
有名になって 海外にも進出して 
忙しくなって 会えなくなった ギタリスト、
有名になって 昭和天皇のモノマネを封印した
サングラスのコメディアン、etc.



そういえば 東京乾電池の芝居を
職場の何人かで見に行くときに
チケットを届けに来てくれた小柄な男性は
佐藤AとかBとかいう人だったし、

キカンシャとかいう劇団のTシャツを
買ってくれ、と 課員に頼んだりもしていた。



その課長が
昔ヒットした曲のカバーが やたら流行りだしたり
昔当たった番組が リメイクでテレビでながれたり
しているのは
ディレクターなんかがみんな
ボクと同じくらいの年代だからなんだよ、
と言って 懐かしがったり 喜んだりしていた。

最近、
と言っても もう ここ何年もだけれど、
私の年代が テレビ局で 実力を振るう場所にきたんだなあ、
と思うことが しばしば。

昭和30年代が 流行。

昭和30年代の食事が理想、これは 関係ないか。



最近のTVでは
アタックNo.1もドラマになったし。

スマップが 光なんとかのCMで
エイトマンの歌を歌っていたり。

引越し屋のCMで キャンディーズの
「ほほえみがえし」が流れたり。

この間は 何のコマーシャルだったか、
井上 尭之バンドの
「太陽にほえろ!」のテーマが流れていた。

ああ、やっぱ、いい曲だわー、と 思って
ぞくぞくしながら聞いた。

同年輩の プロデューサーさんたち、
頑張って!




姉のそれから

2005-07-29 | 考えたこと
なんとか やっている。

姉の頭には ベリーショートが似合っていた。

姉のところには 老犬がいて、
一緒に毎日 歩いているらしい。

動作が 緩慢なのは どっちの病気のせいか
わからない。



ただ 何度か 電話をかけてきては

「あんた、来てくれたんだって?

 ぜーんぜん、覚えてないのよー。

 ぜーんぶ、忘れちゃってさあ。」

と言う。



これを、3回 言われた。



「あらー、忘れちゃったの?

 でも、いいんじゃん?

 忘れるほどに 治ったんだから。」

「そーだよねー。」



姉が倒れる前に 
姉は 私の家に来たがっていた。

それから、
温泉にも 行きたがっていた。

義兄も 仕事がある身、
なかなか 思うに任せられずにいて、

手術中には

「元気になったら 車椅子ででもなんでも

 今度は あちこちに 連れて行ってやろう。」

と言っていた義兄だが
実現はしていない。

そのうち 我が家にも来るだろうし、
一緒に 温泉にも また行くだろうと思う。

ただ ひとりで 電車に乗せて 出かけさせるのは
義兄は 心配なのでは ないだろうか。

そして 姉も、義兄と一緒が 一番 しあわせらしい。

姉の退院

2005-07-28 | 考えたこと
手術は 一応の成功をみたが
すべて今までどおりかどうかなんて、
誰にも わからない。

まして 姉には もうひとつ 病気がある。

手術してくれた医師は
そちらの 姉の 担当医だった。

義兄は とっさに 救急隊員に 
姉の主治医のいる病院へ、と告げたらしい。



手術の翌日
私は娘と一緒に家を出た。

娘は大学へ、
私は 常磐線からバスに乗り換えて
姉の病院へ向かう。

交代しながら付き添うと言って
家族が来ていた。

姪は 赤ん坊のいろいろな荷物を 夫の両親に預けて
我孫子(あびこ)で電車を乗り換え、
千葉県から 毎日 通うことにしていた。



亭主は
「お前の入院の時には
 お姉ちゃんにさんざんお世話になったんだから
 今度はおまえの番だから
 手伝えることがあったら 
 しっかりやってこい!」
と送り出されてきたが
義兄は 最近は 台所をあずかって
それなりに 家事をこなしていた。

私が教えた 玄米食を 用意していたのは 義兄だった。

「手は足りてるから。」
と断られてしまった。

疲労困憊している義兄のために
何がしかの役に立てるかと思っていたが
かえって邪魔かもしれない とも思い、
かえって私の体の心配をするかもしれない
とも思い、
甥っ子に 
それとなく 料理が出来るかどうかを 聞いてみた。

甥は 「まかせて」と言わんばかりの
自信に満ちた表情。

でもなー。

甥っ子よ。

そんな、パスタなんか、
毎日 毎日 日に三度も 食べられないんだよ。



私は あくまでも 自分を中心に考える。

自分の体の快適のために
週に一度 治療のための外出を  止めなかった。

空いた時間に 姉の病院に行ける日を 探す。

姉のために、何でもしたいという気持ちは 
あったけれど
甥や姪や 義兄が 毎日だれかしらいる病院には
さほど必要とは されていなかった。



ただ、姉に教わった爪もみを
手と足とに してあげた。

姉の足は 冷えていた。

しばらく やっていると、
暖かくなるのがわかった。

その翌日、
うつらうつらとしていた姉が
パッチリと目覚めたと 義兄から電話があった。

私は密かに、爪もみの 効果もあったと思っている。

それから 私は 自分のことと 仕事とで
忙しくなってしまい、
あまり 姉の病院へ 行けなくなってしまった。



ある日 
思わず「どうしたの?」と聞きそうになったくらい
素っ頓狂な声の義兄から 
電話があった。

「明日、退院するんだよ!」

よくなると 急にどんどんよくなった姉が
退院できるというけれど
私は 先日 車椅子の姉を見ていたので
にわかには 信じられなかった。

それにしても
義兄は とんでもない声を上げた。

嬉しさがあまると あんなふうな声がでるのか。

もう、一生、あの声で からかってやるんだ!



姉の退院。

2005年の2月のことだった。

姉の手術

2005-07-28 | 考えたこと
日曜の午後、
姉の手術は 始まった。



昨日 義兄が帰宅するのを待って 
お風呂に入った姉。

お風呂場から 小さく悲鳴が聞こえたと言う。

それでも 姉の意識は 薄れることはあっても
ずっと 意識不明の状態には なってはいないという。

姉は 私が行ってからも
手をベッドに縛り付けた紐を解こうとしたりして
ひっきりなしに 動いていた。

時々 眠たそうに うつらうつらしながら。



ずっと 意識があったからといって
それが どうしたというのだ。

父が脳梗塞で倒れた時だって
意識はずっとあった。

けれど なにか そのことが
姉の くも膜下出血が 軽いことの証しのようで
「きっと たいした事ない」と思い込もうとしていた。

その場の、みんなで。



手術は 実質2時間くらい、
その前後に けっこう時間をとる、と聞いた。

私は 早ければ5時、そうでなくても6時ごろには
終るだろうと 予想をつけた。

予想をはるかに過ぎて
みんなの心配と苛立ちがピークになったころ、
手術着の若い担当医が出てきた。

7時半くらいだった。



私は 姉が病室に戻るまでは ウロウロしていたが
私は 姉にとって 夫でも子供でもない。

家族がちゃんとついているので
娘を連れて帰宅することにした。

甥や姪の前で 妹(わたし)は威張り散らせない。

邪魔でもあるだろうと思ったし
娘は 翌日 大学へ行く。

真夜中になったけれど 帰宅した。

姪は 赤ん坊を 夫の両親に預けることになった。

姉の入院

2005-07-28 | 考えたこと
父が脳梗塞で倒れたのは 54歳の時だった。

義兄は もう 修行を終えて 家族とともに
実家にいた。

けれど 零細寺院のこと、
会社勤めをして 家族を養っていた。

父の仕事は 母と義兄と姉との三人で
分担して 同じようにこなせるように
頑張っていた。

姉は 父がやっていた 内職を手がけ始めた。

忙しいときもあるが 
収入として まとまったお金が入ると
大きな助けとなっていた。

その内職をするようになってから
姉は 血圧が高めになった。

まだ 30代だった。



同じ仕事をしている 他所の人も 
何人かが
脳血管障害で 重篤な事になったと聞いて
姉は内職を止めた。

けれど 血圧は変わらず高めだった。

そんなこんなが 姉の中で
見えない変化をもたらしていたのかもしれない。



2004年12月の日曜日の朝、
義兄から電話があった。

姉が 昨夜 くも膜下出血で倒れ、
きょう 手術をするから、と。

忙しい日曜だけど
息子もいるし
私は 娘と一緒に すぐに出かけた。



上野へ出て 常磐線に乗り換える。

病院へは 降りた駅から バスがでている。

実家へ帰るよりも ずっと便利で近い。

病院へ着くと エレベーターを降りてすぐのホールに
家族が揃っていた。

普段 なかなか帰ってこない 東京の長男に
京都の次男。

嫁に行った長女とその夫とは
彼女たちの結婚式以来だ。

生まれたての 姉の初孫に
この日 初めて 私は会った。

姪っ子から生まれたのに
その夫にそっくりな女の子だ。



姉は ナースセンターの隣の病室で
髪の毛を剃っているのだという。

不思議な興奮と にぎやかさと 不安と 絶望とが
みんなの周りを ぐるぐるまわっていた。

やがて 剃髪が終わり、
私は 姉のそばに行った。

バリカンで刈られた姉の頭は
驚くほど 亡くなった父に似ていた。

頭の形、髪の生え際のかたち。

それが こっけいで 可笑しくて
哀しかった。



姉、おひつじ座、B型。
50代の はじめ。

パソ子が

2005-07-27 | なんでもないこと
いや、パソ子の左脇についてる
黒いものが
どうやら 具合がよくない。

戻ってくるまで あまり 遊べない。

つまんない。

ぐすん。

画像も せっかく これを、と思って
取り込んでおいたのに、使えない。



おまけに デジカメも 壊れたらしい。。。

こっちは もっと つまらない!

写真を撮って 皆さんに見ていただくのが
こんなに私の楽しみになっていたなんて。

嬉しいけど、今は悲しい。。



あちこお邪魔するのは しばらくおあずけ。

ワン!

私が死ぬ季節

2005-07-27 | 考えたこと
2004年 冬。
寒くなって また 精神的に辛い季節になった。

私は あっさりと 鬱っぽくなった。

そして 確信した。

私は きっと 冬に死ぬだろう。



こんな寒い季節に死ぬなんていやだ、とは思う。

けれど どう考えても
寒くなって 気分が暗くなった時に
きっと死ぬのに違いない。

「今日は 死ぬのに とっても いい日」
とかいう 本が どこかにあるらしい。

けれど ‘死ぬのにいい日’なんて心境には
私は決して なれそうにない。

暗い気分で 「ああー、やだなー。」
なんて思いながら 死んでいくのに違いない。



寒いとそれだけで
辛い気分になる自分が 信じられない気もするが
これは 確信、今も変わらない。

どんなに冷静に考えても 
私が死ぬのは 
きっと 冬。

過労気味の亭主を気遣い、
時には 週に一度の外出も 
亭主の都合でダメになり、
時には うつうつと、
時には 過食に陥りつつ、
2004年は 徐々にくれてゆく。

(でも、まだまだ 終らない:笑)



今年植えたばかりの クルクマ。

早くも花を咲かせてくれた。

来年以降 株が痩せないようにできるか?

腱鞘炎

2005-07-26 | 更年期
2004年12月、
右手首の関節に痛みが走った。

何度目かの 腱鞘炎だ。

子供たちが 赤ん坊だった時の
キクっと走る痛みには
懐かしさもある。



私は そうは見えないらしいが
かなりドジで
仕事がガサツ。

力を入れて ゴシゴシこするようなときに
怪我をしてしまうことがよくある。

だから 術側の左手で 掃除をするのは 
怖くてできなくなった。

力を入れる作業は 全部右手。

お風呂荒い、台所の床の拭き掃除、
全部右手。

そして 毎日 
キクっと 痛みが走る。

子育ての頃に比べると
たいしたことはないが。



今は だいぶ痛みはとれてきたが
冷えは残っている。

手首にも 保温用サポーターをつける。

クーラーの効いた電車に乗る時には
忘れずに持っていく。

こういう小さなことが
不快を和らげてくれる。



困るのは、 サポーターの内側が
かなり汚れること。

人目に触れるのが恥ずかしいほど 真っ黒になる。

そして 水仕事の時には
はずさなくてはならない。

しかし 外側は 汚れもそれほどでもなく、
着けてさえいれば 冷えは気にならなくなる。

内側さえみえなければ、
人目を気にしない(ようにした)。

カッコ悪いとは思うけれど。



退院したての頃には
術側の左手首が痛くなった。

今までと同じようにできるわよ、と 
自分に信じ込ませようと
頑張ってしまっていたから。

1リットルの出し汁のはいった片手なべを
えいやっと片手で持つ。

今では 痛みも冷えも だいぶよくなった左手首だが
どうやら 力の入れ方を 無意識に変えたらしく、
この時 ひじが痛むようになった。



ひじは 左右ともに 痛みと冷えがある。

武蔵小杉の鍼灸師のところで
右手首と 両方のひじに ハリを打ち、
お灸を据えてもらうが、
なかなか すぐには よくならない。

気長にいくつもり。

ハリに通うようになって一年過ぎた頃から
術側にも ハリやお灸をしてもらっている。

主治医には 内緒。

炎症を起こさなければいいのだし。

化膿には 充分気をつけて 治療してくださる
先生を信頼して、
「左にもハリを打ってください。」
と 自分から申し出た。

それほど何度も打つわけではない。

(マネをされても責任は負えないが。)

炎症は ささくれでも起きる時は起きるとわかったし。

だいたい、重いものは持つな、なんて
主婦には 無理だと思う。



2004年12月には
ムラに初めてのコンビニができた。

ムラの一大ニュースだ!

ただし わがムラは 細長い。

我が家は 細長いムラの端っこ。

コンビニができたのは ムラのあっち側。

まだ 買い物に行ったことはない。

2004年の12月は まだまだ続く(笑)。

小さな舞妃蓮

2005-07-25 | なんでもないこと
先日の舞妃蓮の写真の横に
ちらと写っていた 小さなつぼみが
膨らんだ。

つぼみの 先のほうに うっすらと紅をさしたように
色がついていたので
きっと咲いてくれると思っていたら
けさ こんなに綺麗に咲いていた。

小ぶりだけれど 間違いなく 舞妃蓮。
(いただいた苗(?)に書いてあったのだけれど
 なんと読むのだろう? 
 〈まいひれん〉でいいかな?)

落穂拾い

2005-07-24 | 考えたこと
自分たち、あるいは 子孫のために
財産を蓄積していくにしても、

家族や国家を築き上げていくにしても、

あるいは名声を獲得するにしても、

我々は いずれ死ぬ運命にある。

しかし 真実を扱うことにおいては、

我々は不死であり、

変化も偶然も 恐れる必要はない。  (巻頭)

     ヘンリー・デイヴィッド・ソロー




自分自身、すばらしいと認めている目的のために
使われる存在であること、

スクラップの山に放り出される前に
完全に使い果たされた存在であること、

世界は自分を幸せにしてくれなかったと、
病気や苦痛の文句ばかり言っている
自己中心の輩ではなく、
世の役に立てる存在であること、

これこそが 人生の真の喜びである。  (p457)

     ジョージ・バーナード・ショー




神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
自分に変えられることは変える勇気と、
そして そのちがいがわかるだけの知恵を お与えください。
 
     マイケル・J・フォックス   (p395)




ラッキーマンの中の 何か書きたいと思った言葉たちを
抜書きしてみた。

いろいろ 書きたいのに 何にも書けない。



追記:タイトルを落穂拾いとしたのは 誤りだったと思う。

ヨーロッパのどこかで 
落穂は 貧しい農民に拾わせるために
拾ってはならないとされた時代があるという。

しかし これらの言葉は 落穂と呼ぶには 
あまりに大きく重い。

ソーローおじさんに 叱られてしまう。

ささやき

2005-07-23 | なんでもないこと
ゆうべ お風呂に入る前後の
どうしようもなく中途半端な時間に
テレビを点けたら
黒い犬が出産する所だった。

亭主は お茶を飲みながら
私は パソ子を前にして ちらちらと
そのまま 見続けてしまった。



次々生まれる 目も開かない小さな赤ちゃん犬。

何匹かは お母さん似の 黒い犬。
ラブラドール・レトリバー。

残りは お父さん似の 薄茶の犬。
ゴールデン・レトリバー。



とうとう番組の最後まで見てしまって
亭主の言う事には

「愛着があるせいか

 血統書なんかない犬だけど

 ウチの犬の方が 何倍も可愛いなあ。」

大肯定!



今朝 めずらしいことに 愛犬にえさをやりながら
亭主が ささやいている。

「ママが、 お前の方が まさおくんよりも

 ずっと 可愛いってよ。」

え?

それは・・・?

・・・・・・。

まあ、いいか。

間違ってはいないから。

舞妃蓮

2005-07-22 | なんでもないこと
自分としては 重くて大きな中身の記事を
窓の向こうに 三日も続けて放り投げたので
ちょっと気が抜けて 
きょうは呆けていた。

久々の マンガ三昧!

忙しい亭主は 洗濯物を干すのが 午後になった。

良心が咎めるけど こんな日もある。

きょうは、こういう日!

文句をいわない亭主に感謝!



蓮は 昨日も咲いていたのではないかと思う。

薄いクリーム色。

去年はつぼみをつけなかった。

一昨年 初めて咲いた時には
ピンクとクリーム色が
あわあわとして 優しく溶け合う色合いに
惚れ惚れしていたのだった。

ごめんね、
今度植え替えたら
菖蒲とは別にして
肥料もちゃんと あげるからね。

ブロック塀のこっち側が 我が家!(笑)

‘祈り’のパワー

2005-07-21 | 考えたこと
Livng as a breast cancer survivor の
掲示板の中では
ことあるごとに 
「ぱわー」だの「ビーム」だの言って
いい年した大人が
「びび~~~」なんて書いている。

調子が悪い人や 
定期的に受けている検査の結果が出る人、
眠れない人などへ。

初めは私も 「何? これ。」だった。


RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR

知人に 蓮にハマった人がいる。

近所に 蓮友達が 何人もいるそうだ。

要らないのに、送ってきた蓮。

我が家では 植え替えもしてあげていないし
なにしろ 菖蒲と一緒に植えられているのに 
今年も つぼみをつけた。

やっぱり 開花を楽しみにしてしまう。

RRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR


人に祈ってもらえる、というのは
(呪いでない限り)
嬉しいものではないだろうか?

私も 一緒になって 
知り合った いろんな人のために 
祈っているうちに
なんか、祈りが 効いている気になった。

気のせいかもしれない。

けれど、なぜか、確かに届いている、
そんな確信をもてるようになった。

そして、いろんな人が
不安な気持ちを抱えた自分のために
祈ってくれているということは、
なんて嬉しいのだろう!



マイケル・J・フォックスの
『ラッキーマン』の中に
こんな記述がある。

「おりに触れて 人々が
 <あなたのなめに祈っています>
 と言ってくれるのを耳にする。

 そんなものは 単なる表現だ、
 とぼくはずっと思っていた。

 何千、何万という人々から
 本気で送られた気持ちのパワーというものを
 実感するまでは。」

「ぼくはもう 祈るということの威力を
 過小評価したりしない。」p446



そして これも マイケルが読んだ記事の話。

アメリカ・コロンビア大学の研究者たちが
行った実験。

祈りのパワーが 不妊に悩む女性たちを助ける
実験だという。


***********************************************

アメリカ国内の 
数種類の異なる宗教の信者である
見知らぬ人同士のグループが、

韓国の不妊クリニックにかかっている
女性グループのために祈るよう
要請された。

この女性たちには
この実験のことは 知らされていない。

同時に 同じクリニック内の
別のグループには
祈りは送られないようにした。

研究の結果、
祈ってもらったほうのグループの女性のうち
50%が妊娠したのに対し、

祈りを受けなかったほうのグループでは
26%しか 妊娠しなかった。

これは 研究者たちが予想していたものと
まったく反対の結果だった。

彼らの そもそもの意図は、
祈りの効用など ないことを証明しようと
するものだった。p446


**********************************************


この部分を読んで
私は素直に 「そうか!」と 納得した。

こんな時には 不思議と 素直になる(笑)。

「やっぱり、‘祈り’は、効くんだ!」

確かに、そんな気がするもの。



それ以降、
私はもっと真剣に
パワーを送るようにしている。

いろんな人たちに。

そして 
そのパワーは 減る事はない、と 信じている。

(根拠は、ない。)

その上
めぐりめぐって 私自身にも
いい効果があると 信じている。

(やっぱり、根拠は、ない。)

なにより
そんなことで
この私が 誰かの役に立てるのならば。

(根拠が、できた!)



それにしても、
祈りに効果がないことを証明しようとするなんて、
やっぱり、アメリカって、アメリカだなあ
と思ってしまう。



『ラッキーマン』(2)

2005-07-20 | 読書
マイケルが 薬を飲んだのは

「それが治療に役立つからでも 
 慰めのためでもない。

 理由はただひとつ。

 隠すためだ。」p55

家族、ごく親しい友人や関係者以外の人たちに
知られてはならない。

そう思い込んでいたのだ。

スターなのだもの、当然だと思う。

周囲に癌を隠している私にも
相通じるものがあって
ハッとする。
 
彼は そうして 七年間 過ごしたのだ。



悲しみの五つの段階と呼ばれるものがある。

エリザベス・キューブラー・ロスが
著書『死ぬ瞬間』で書いたらしい。

末期がん患者が 死期を先刻されてから、
その死を受け入れるまでに、

① 否定と孤立

② 怒り

③ 取り引き

④ 落ち込み

⑤ 受容

の五段階を経るとされている。



そうか。

これは 末期のがん患者の死期の宣告に際しての
ものだったんだ。

私はてっきり
癌の宣告の時の 患者の受容に関して
言われているのかと思っていた。



いずれにせよ、

「ぼくの個人的なつらい経験が、

 ぼくが会ったこともない 
 スイス人の女性が作った
 ありふれた 長ったらしい リストに

 変えられてしまうのだ。」p274

とは 理解できる感じ方だ。

どんな人も それぞれの体験は
あくまで それぞれのもの。

①、②、③・・・と 番号を振って
そのとおりに なぞって歩いてきたわけではない。



マイケルの場合も
発祥は1990年11月。

マイケル29歳。

通常、パーキンソン病というのは
50歳から65歳のあいだに発病する。

彼の場合は 非常に珍しい 若年性のそれだった
(40歳以下の場合、らしい)。

筋肉の硬直  
動作が鈍く遅くなる
震える
まばたきが減る
顔の表情が乏しくなる
身体のこわばり
姿勢を簡単に変えられない
異常なほど長く 同じ姿勢を続ける

そして ついに患者が 医師を訪ねるきっかけは
手の震え。

その手の震えによって受診し、
診断を受けたマイケルは言う。

「同意する」と「受容する」とのあいあには
遠い道のりがある、と。



「あなたの病気は もう 治りません。」

そういわれた人の気持ちは どんなだろう?

「決して 良くなることは ありません。

 ただ 悪くなるのを なるべく抑えるだけです。

 できるだけ 動けなくなる日が 遅くなるように
 お薬で 調整してみましょう。」

それは 
死の宣告と 同じ意味をもっていたのではないか?

29歳だった彼は
「あと十年は 仕事が出来ますよ。」
と言われたらしい。

スーパースターだった マイケルが
病気の宣告を受けた時の気持ちは
私には 想像がつかない。



そう、
私は 思いがけない時に
たったひとりで 癌の告知を受けた

「もしかしたら 乳がんかもしれない。」
と 漠然とした不安を 
検査の時に 抱いていた。

それに
乳がんは 死の病ではないと 知っていた。

(大きさも 悪性度も
 こんなだとは 思っていなかったけど。)

けれど 思ったより冷静に受け止めて
シャンと運転して帰ったこれたのは

死の宣告を受けたわけではないからだ。



放射線治療に通うのが大変だとか
ホルモン療法の副作用が 無茶苦茶だとか
そんな事はまだ 知る由もない。

乳がんである事、
それだけを 受け止めたに過ぎない。

最初の総合病院の医師の
「乳がんは 今は 治る病気です。」
の言葉に表れているように、
私は 余命告知をされたわけではない。



パニックにならなかったのは
取り乱したりしなかったのは
「否定」も「怒り」も「取り引き」も
体験しなかったのは
 
きちんと治療を受けさえすれば
命にかかわる病気ではなかったからだ。



てっきり
私が ‘死’というものを
身近に感じて育ち、
‘仏の教え’と言われるものをかじり、
‘生と死’について
熟考しつつ生きてきたからだ、
と 自惚れていた。



「あなたは もう 治りません。」

「あとは 死ぬまで 悪くなっていくばかりです。」

そう告げられた人の 心のうちは
私には 想像できない。

姉も 義母も そういう種類の病気なのだ。

いつか 電話で 
姉に
「お姉ちゃんは、大丈夫よ。」
と言ったら
「そういう 根拠のない慰めは傷つく。」
と言われて 困った。

姉は マイケルと同じような
受容の道のりをたどったのだろう。

義母は たどらずに済んでいる。