ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

音無美紀子さんのうつ

2008-01-14 | 
乳がんを克服した女優のひとり、
音無美紀子さん(58)の記事が
昨日の新聞の日曜版の「一病息災」にあった。

(→「死考えた陸橋の上」)


「スーパーへ買い物に行っても、献立が思い浮かばない。
 食料品売り場を一周して、かごの中が空っぽ、
 ということもよくあった。」

あ~、やっぱり、そうなんだ~。







年末、風邪気味の私に代わって 
亭主と娘で選んできてくれた 我が家の注連飾り。 カワイイ。
きょうは、これをはずす日らしいよ。 どんど焼きも今日?






私は根っからのノーテンキで
死にたい気分にはなったけど 死のうとまでは思わなかったし

骨の髄まで?の食いしん坊らしく、食べ物はいつも美味しかった(爆)。

けれど ホルモン療法の影響というのは侮りがたく、
簡単にうつになってしまった。

いや、その前提に 「癌」というのがあるわけだけど
私は癌だからといって うつになったりはしなかった。

あくまで、ノーテンキのままで手術し、退院したのに。






買い物が不便で 仕事で家を空けられないこともあり、
私の場合は スーパーのかごがからっぽ、ということはなかった。

その代わりに 
冷蔵庫に詰めてある食材を前にして 途方にくれる、

そんなことが 何度かあった。

気力を振り絞って 食材を取り出して 
「いや、これじゃない。。」と思って また冷蔵庫に入れて。

なんとか作れそうな材料を並べて それを眺めて。。。。。。。。。。

泣きたくなって。

ため息しか出なくて。

涙が滲んできて。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



思い出しただけでため息が出そうだ。

あんな思いは もうしたくない。



音無さんは
「当時は うつ病の知識もなく 云々」
とおっしゃっているが
それは 現在の うつに悩む人や その周囲も
そう変わりはないかもしれない。

職場の人や家族に理解してもらえるだけで
どれだけ助かることか・・・。

「地獄をはいずり回っているような毎日でした。」

現在、地獄を這いずり回っているような日々を過ごしている人にも
今年は幸が来るように。。






SSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSSS




きょうは成人式、
朝刊の和歌の欄、「四季」には

華やかな振袖、髪飾りに フワフワのショール、
の成人女性たちの写真と共に



父母(ちちはは)が
 
   頭かき撫で 幸くあれて

     言ひし言葉ぜ 忘れかねつる



という 万葉集の 丈部稲麻呂(はせつかべのいなまろ)の歌が
紹介されている。



20年。

いろいろなことがあったろうと思う。

辛いことも 悲しいことも 悔しいこともあったろうと思う。

けれど

あなたたちのすぐそばには
あなたのことを思う誰かが 必ずいたはず。

心配し、将来幸せになってくれることを祈る人が いてくれたはず。

親の心は 万葉の昔と ひとつも変わっていない。

健康に気をつけて 
能力を存分に発揮して
イキイキと生きていってくれるように。

幸くあれ!



鬱になると

2005-01-31 | 
いちめんの キャベツ、
いちめんの キャベツ、
いちめんの キャベツ、
いちめんの キャベツ、
いちめんの ・・・

*********************************

「ダイジョブだよね。
 ダイジョブだよね。」
「なにが?」

「ダイジョブだよね。
 お寺の子だもの。
 ダイジョブだよね。」
「だから、なにが?」

これが 私を産み落とした時の
母と産婆との会話だという。
(さすがに、私は覚えていない)

へその緒を首に斜めに懸けていると、
「袈裟懸け」と言い、
「袈裟懸け」で生まれた子どもは
長生きしないと 言われていたらしい。
昭和30年代の話だ。

入院できる産婦人科もあったけれど、
現金がないので
母は産婆を呼んで 我が家で私を出産した。

この子はお寺の子だから、
袈裟を懸けて生まれてきても 
早死にする事は ないでしょう?

取り上げてくれた産婆は 不安げに
母に繰り返し そう尋ねていたらしい。
泣き声も すぐにあげたわけでは なかったらしい。



「医者は やるだけのことは やった、と
 言ってるんだよなあ。」
何日も熱が下がらず、朦朧とした意識の中で
母が父に告げた言葉が聞こえた。

「ああ、私は 死ぬのかなあ。」
とぼんやりと思った。

そのあと、しょう紅熱だと 診断された。
「若草物語の、ベスがかかったびょうきだなあ。
 あのあと、ベスは 死んだんだよなあ。」

しょっちゅう高熱を出していて
高熱に慣れていた私も、
あの時は 苦しかった。




「よく あんたみたいな 身体の弱い子が
 20年も生きてこれたわねえ。」

私の成人式の時に
4つ年上の姉が 涙ぐんで言葉をつまらせた。



「あなたは 最初の子どもの時も
 二人目の時も
 子どもを生めるような 身体じゃなかった。」
恵比寿の整体師に言われた言葉だ。



鬱になると こんなくだらないことを
ぐるぐると思い出して
「私は生きてちゃいけなかったのかなあ。」
などと 考えたくなる。



でもなあ。
こお~~んな年まで 生きてきちゃったしなあ。

あの時はしょう紅熱じゃなくて、はしかだったしなあ。
 
結婚だって、できたしなあ。

子どもだって、うまれてきちゃったしなあ。

しかも、ふたりとも 私の子供の頃より、
ずうっと 元気だしなあ。

うん、ふたりとも、元気だ。



そうやって 立ち直っていける。

「チアノーゼとか言って、
 息をしなくなって 体中冷たくなって、
 紫色になってしまうのがあって、
 ママは小さい頃しょっちゅう
 そんなんになってたから、
 おばあさんは ママが小さい頃
 《この子は 大人になるまで 
 生きていけないのに違いない》
 と思って、
 ママを過保護に育てたんだよ。」

と話したら、子供達には大ウケで
大笑いされたっけ。



2003年12月、
子供達はふたりとも
推薦で進学を決めてくれた。
これは、嬉しかった。
というより、
心底、ほっとした。

鬱のつづき

2005-01-31 | 
年々 数が少なくなってゆく、
スノードロップ。
今年はついに 
たったひとつになってしまった。
見れば見るほど、
こんなに可愛い花はないと思う。

********************************

ろくに勉強もしないで手術を受けた乳がんを
退院してから 
欝の最中に
いろんな本や 雑誌や サイトで 勉強した
ということは 前に書いた。

たとえば 
10年たたないと
再発・転移の心配は 「ひと安心」とは言えない
とか。

乳がんは とても再発・転移しやすい癌である
とか。

20年以上たって 再発・転移する人もいる
とか。

私の癌は 大きかった
とか。

いろんなことを 鬱のなかで考えて、
そうして 立ち直った。

「私、もう、滅多な事では 鬱にならないわよ。」
友達にも そう うそぶいていた。
自分でもそう信じていたし、
鬱にならない自信があった。



ところが どうだ。
去年も、寒くなったら、あっという間に
りっぱな鬱だ。



今年も寒くなってから 
たびたび 落ち込む。
でも自分で鬱っぽいな、とわかるだけ、
去年よりマシ。

そんな時は 無理をせず
食事も手抜きで済ます。
亭主に甘えて 外食にしてもらったりもする。
(遅く帰る子供達には ほか弁を買ってあげるのだ!)
一日ゴロゴロ ベッドにいたり
マンガを読んで過ごしたりしている。

元気な時も あまり外にはでず
ホットカーペットの住人になっているが
「ウツウツとした気分」ていどに
収まることが多い。

まだあと3年続く ホルモン療法。
いろんなことを ホルモン療法のせいにするのは
もう飽きたし、潔くない気がする。

私は このまんまで 私。

お料理と鬱

2004-10-05 | 
なんで、どうして、欝だと お料理できないんだろう?
いや、みんなが 欝だとお料理できない、というわけでは ないかもしれないが。

鬱だと 「やる気」がなくなってしまう、という。
けれど 料理なんて、いつだって そんなに「やる気」出して作ってるわけじゃない。
仕方がないから 作ってる、その方が多い。
よその主婦もそうだとは 限らないが。

では 私の場合、なぜ 欝だと 料理ができないか。
私は 姉と 「料理ができない」の話をしていて、それは、想像力が 働かないからよ、
という理由を見つけた。

料理というのは、総合芸術である、なんて
どこかの料理研究家みたいな事は 私には言えないが、
それでも 料理は さまざまな 能力を必要としているように思う。
少なくとも私には必要だ。
特に、想像力。

まず 冷蔵庫に 食材が入ってなければならない。
あまり外出しない我が家では、お買い物は 週に一度の ビッグ・イベントだった。
忙しいと先延ばしになるので、冷蔵庫はカラ、という事はよくあった。
(冷凍庫は メいっぱい詰め込んでおくので、滅多にカラには ならない。)
買い物に行くと、「使う食材」ではなく 「使いそうな食材」を どっさり仕入れる。
これで 冷蔵庫を満たしておき、
料理を作る時に冷蔵庫を開けて、さて、何を作ろうか、と 悩むのだ。
(ただし、夕食時のみ。)

これとこれで 味噌汁を、と 野菜室から 具になるものを 取り出す。
これで 今日の メインディッシュを、と チルドルームや 冷凍室からから 肉や魚を。
冷蔵室あるいは野菜室をもう一度覗いて 副菜になるものを。
その間、頭の中では 出来上がり状態を 想像していて、
結構ぐるぐると 頭を働かせている。
そして 調理に必要な 粉や 乾物を 食品庫から、
イモ類を勝手口(玄関とも言う)から持ってくる。

この味噌汁には ジャガイモをいれよう、いや今日は里芋がいい、
ああ、ぜひ油揚げを入れなくちゃ。
木耳がほしい。
人参の赤を入れよう。
おかずの調理に油を使うときは、味噌汁は あっさりめ。
味噌汁ひとつでも、味や歯ごたえまで 想像している。
切り方、切る大きさで 雰囲気も変わる、どんな風に切ろうか。
味噌を複数使っているときは 混ぜ具合まで、
こんな割合にすると こんな色で、こんな風味で、と 想像して、
おわんに盛った時に こんな風、と想像しながら、
一番美味しそう、と思ったように 決めていく。

おかずもまた然り。
食卓にお皿を並べた時に、美しくと言うよりは 淋しくないように。
めいめいに盛るか。
大皿でど~んと出すか。
付け合せは何にするか。
味付けは、どうするか。

私の好きな料理は しょうゆ味のものが多い。
一生懸命作るほど、田舎料理で 茶色のものばかりになる。
それでも しょうゆ味のものばかりにならないように 気をつける。
砂糖醤油味だけに ならないように 気をつける。
味の組み合わせに気を遣う。

そうすると、
これとこれを 甘辛く煮付けて、
これは おひたしに、
これには醤油をたらさず、塩コショウね。
これにはちょぴっと酢を加えて さっぱりと。
きょうは カレー風味で。
ごま油の風味で。
すりゴマを振って。
おかかをまぶして。
もどしたワカメをそえて。
ゆでたジャガイモを添えたい。
ゆでたマカロニでもいいな。
赤いパプリカはないかな。
トマトを切って テーブルの真ん中に置こう。
ゆでたブロッコリーやアスパラがあったら、きれいだろう。
色の組み合わせも少しはかんがえる。

そうやって お皿の様子、
お皿の乗ったテーブルの様子を
いろいろ 頭の中で 想像して、
「おいしそうだな」と思ったときは、ウキウキと 仕事に取り掛かれるが、
そうでない時は やっつけ仕事になる。
味噌汁の具になれそうなものが ワカメしかない、とか。
何も作りたくならないときは、「え~い、何でもいいや」、と。
おまえら、文句があるなら、食うなよ。

今夜のメニュウを考えながら、私は 想像力を働かせている。
食材・調味料をどう組み合わせるか、 想像しているから 作れるのだ。


(―――料理も、男と女も、国際関係も、「組み合わせ」、これが 大事だ。と思う。)


想像力が働かない時。
食材を前に、何も作れない私がいた。
あちこち 開けて 中を覗いて、
それでも 何も作れない。
どうしていいか わからない。
料理の仕方を知らないのと 同じだった。
こうすればこうなるだろう、と 想像できないからだと思う。
不安で、悲しかった。



お料理を作るなんていう 原始的な作業に、
想像力が必要だなんて、思ってもみなかった。
けれど あらゆる仕事の ほとんどが 
想像力を必要としているはずだ。

こうすれば こうなるだろう、
もっとこうすれば もっとこうなるだろう、
もっともっとこうすれば、こうなってしまうかもも知れない。
そうして 人は 想像力を駆使して、日々 仕事をしているのだ。
想像力を働かせてこそ、クリエイティブな仕事ができるはずだ。
料理も掃除も子育ても クリエイティブな 仕事だったんだ。



想像力が働かない、という事は、重大な欠陥なのだ。
だから 「何もしない」という事は、
その時期の 私にとっては 当然のことだったし、
何もしちゃいけなかったんだと思う。

姉は 一番鬱がひどい時でも、ハーブの手入れだけはできたという。
私は何ができたっけ。
食べることかな。
好きなことだけはできるらしい。
というより、
好きなこと、できることだけを やるべき時なのだろう。

一度はっきりと鬱になって初めて、
ああ、あの時もあの時も 私は鬱だったなあ、と過去を振返って思う。
ああ、今、私は少し うつっぽいなあ、と 感じる。
できることから少しずつやっていく。
少しずつやっていくには、
自分の体を 少し無理して 動かさなくてはならない時がある。
けれど できない時には無理をせずに のんびりやっていこう。
私は わがままが許される、恵まれた環境にある(事が多い)のだから。

鬱について、もう少し。

2004-10-02 | 
おしりが痛いけど、
もう少し。

著者は、うつ病を治療するために、
認知療法の本を読み、
自分の考えが歪んでいることを自覚し、
自信を持ち、やる気のなさを克服し、
理想の60%でよしとする考えを知り、
安らかな心を得よう、
としている(ようである)。


私は 自信のかけらもないけど、
まあ、いいや。式のあきらめや 開き直りは得意で、
会社に出かけることもなく いつも家の中にいるので、
それでそこそこ やっていける。

それでいつもは それなりに 楽しいのだけれど、
平々凡々の毎日の中でも それなりに
風が吹き、波も立つ。
がっくんと なることだってある。
それどころか、しとしと雨が降っているだけで
がっかりしてしまうことも 多い。

快適とはいえない そういう日に、
認知療法の本のことなんか、思い出さないし、
わらにもすがりたい思いのときは、
文字を読んで 内容を理解する事ができない。
できなかった。


私みたいなノウテンキには、
難しいことよりも、
もっと簡単なことを 習慣にしてしまったほうが よさそうだ。
私向きの 治療法、それは 生活スタイルを変える、というもの。

体を動かすと、うつ状態が良くなるという。
作業療法だ。
園芸療法というのがある。
これは ただ体を動かすだけでなく、
植物や 土や 大地から 元気がもらえる。
空や 風からも もらえるかもしれない。

明るい所に出る。
季節うつ病と言って、日照時間が短くなると、
うつ病が増えるらしい。
これを克服するために、人工的な照明の光を当てても
効果があると言う。
膝の裏側に光を当てると、特によい、とも聞いた。
座っているより、立ってた方が いいらしい。
明るいところで作業療法、2倍の効果?

神経は、短調な刺激を与えると、興奮が収まる。
眠れないときは、
姿勢を正して、ゆっくり、呼吸をかぞえる、これで必ず眠れる。
ほんとかな?
試した事は、実は、まだない。

GABA(ガンマアミノ酪酸)が 神経を抑制するしくみが
睡眠剤や 入眠剤に 応用されている。
GABAを含む食べ物を 日ごろ 取り入れているか、
定期的にチェックするのは、面倒じゃなく できるかな?
このごろ 玄米を食べていないな。

セロトニンの分泌を促す、リズミカルな運動。
ガムを噛む。
歌う。
歩行。
呼吸。
そして、規則正しい生活。
これよね。



鬱についてのあれこれ

2004-10-02 | 
私たちは ストレスにあうと
脳内の視床下部から 「副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン」が分泌される。
これが 下垂体に働き、副腎皮質刺激ホルモンを 分泌させる。
これが 副腎皮質に作用して、コルチゾルというホルモンを 分泌させる。
このコルチゾルの役割は ストレスに対応できるようにすること。
 
戦う時、逃げる時、私たちは 筋肉のエネルギーを使うが、
エネルギーとしてブドウ糖を 血液に送り出し、血糖値を上げるのが、コルチゾル。
(また、戦う時は 交感神経が働き、血圧が上がり、心拍数が上がる。)
ストレスが終わると、コルチゾル分泌は 正常に、つまり、低くなる。
ところが 鬱の人は、このコルチゾルが 常に多い。
つまり、
鬱の人は 絶え間なく ストレスを感じているのだ。

このコルチゾルがストレスによって常に多い状態が続くと、
脳細胞は機能を低下させ、それが続くと、死滅し、脳細胞に障害をあたえる。
記憶の保存庫である海馬は、
うつ病の期間が長いと、小さくなってしまう。
うつ病以外に、
過度の興奮や 非常な恐怖によっても 海馬の神経細胞は 死滅する。
同様に、判断および感情をつかさどる前頭葉も 小さくなり、
判断できなくなったり 感情を抑えられなくなる。
うつ病が続き、脳細胞にダメージが与えられると、ボケも早まる。
実際、ボケている高齢者は ひどいストレスに晒されている事が多い。とか。

脳を守るには、心を平静に保つことが大切である。



昔、高血圧薬レゼルピンを飲んで 鬱になる人たちがいた。
脳内の神経伝達物質が減っていた。
結核治療薬イプロニアジドを飲んで、快活になる人たちがいた。
神経伝達物質の脳内の量が増えていた。

神経伝達物質。
モノアミン(セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリン)、アセチルコリン、
アドレナリン、GABA などの、
不思議。

薬によるうつ病の治療は、この中の
セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンを増やすものが主流。とか。
乳がんのサイトで、パキシルという薬の名前は 目にした事がある。
薬をやめた後の 再発がこわくて やめられない人が多い。とか。
そのための、認知療法。



女性ホルモンのエストロゲンは、
このセロトニンの分泌を刺激し、気分を安定させる。
エストロゲンが少なくなると、
反対に気分が不安定になり、うつ的になる。
ああ、月経の前から始まりにかけての、あれね。PMS。

同様に、出産後には 胎盤が体外に出てしまうので、
エストロゲン量は 急激に減る。
産後うつ。

また、更年期障害も同じく。
卵巣機能が衰え、エストロゲンの分泌が減るため、精神的に不安定になる。

男性は。
コレステロールから男性ホルモン(テステステロン)、
男性ホルモンから エストロゲンが作られ、
更年期には やはり 男性ホルモンが減る。

一時期、「中高年男性のうつ病」が騒がれた時期があったが、
「うつ病」より「更年期」で説明した方があっている人のほうが、
実は多かった、
という記事をどこかで見た。
今、毎日更年期症状の嵐の中にいて、
亭主の不調を見ると、ああ、こいつ 更年期だ、と思うと、
納得する事が多い。



私たちの脳は、
ブドウ糖、脂肪、たんぱく質の 絶え間ない補給を 必要としている。
特に、たんぱく質のトリプトファンはセロトニンの、
フェニルアラニンや チロシンは ノルアドレナリンや ドーパミンの
原料になる。
人間は、これらのたんぱく質は、食べ物として口から摂取しなければならない。
トリプトファンは 肉に含まれる。
牛、豚、マグロ、カツオ・・・。

ダイエットによって、これらのたんぱく質、糖、脂肪 などの 摂取を控えていると、
脳の栄養不足を引き起こす事が 考えられる。
実際、極端なダイエットをする女性は、非常にうつ病になりやすい。

鬱なら治るだろうが、低インスリンダイエットで ボケになっては 困る。
閉経が早かった人は ボケやすいと聞いたこともある。
がんは 治療法が 確立しているけれど、
痴呆症は そうではない。
だから、発ガンの確立が増えても、ホルモン補充をやっている、
という女性の記事を雑誌でよんで、驚いた。
私も、ボケるかもしれない という不安は、きっと他の人より、強い。

ボケた時の事は、ボケてから・・・ああ、悩めないんだなあ。
ボケは そんなに 悪い病気では ないのかもしれない。

欝の認知療法

2004-10-02 | 
鬱について、こんなに書きたい事があるとは思っていなかった。
いい加減 別の話題に移りたいが、
自分にとって興味のある事は、
イコール、面白い事でもあるので、
面白いから もう少し書いてみよう。

前述『認知療法でうつ病が治った』による。

他人はあなたを 惨めにはできない。
惨めさせているのは、あなた自身である。
世界中であなただけが あなたを惨めにさせ、嫌な気分にさせる。
なぜなら、相手の行為、態度、意見をあなたが判断し、
それによって 自分を傷つける感情を生むから。
同時に、自分が嫌いだという 自己嫌悪の感情も 他人には 作り出せない。
あなた自身が 作り出しているのだ。
そのような感情を 生むのも 生まないのも、あなたの考え方による。
あなたのゆがめられた考え方が うつを招く引き金となるのだ。
そのことを「あなた自身が認める」、
そうして認知療法が始まる。

こんなこと欝の時に聞いても、なんにもならないよなあ。



うつ病の自己診断
1、 不幸な気分になる
2、 悲しい気分になる
3、 泣きたくなる
4、 希望がなくなる
5、 がっかりする気分になる
6、 自分は無価値だと思う
7、 将来に希望が持てない
8、 罪悪感がある
9、 自分を責める
10、決断ができない
11、孤独
12、家族や友人に興味を持てない
13、家族と過ごす時間が少ない
14、仕事に興味がもてない
15、やる気がしない
16、仕事をしないようにする
17、人生に満足できない
18、疲れる
19、食欲がない
20、眠れない
21、健康が心配
22、性に興味を失う
23、自殺したくなる

以上、 ない:0、 時々:1、 かなり:2、 非常に:3
と自己判定して点をつけてゆき、
   得点0~8・・・・・正常範囲
     9~20・・・・軽いうつ状態
    21~40・・・・中程度のうつ病
    41~55・・・・重度のうつ病
    56~66・・・・強いうつ病

正常の範囲内でも、5点以上の人は 比較的 不幸な感じにとらわれているんだそうだ。
あ、きょうの私は鬱だ。不幸だ。



どんなひとが鬱になりやすいか。
1、 38度くらいの熱で仕事を休むことは、他人の迷惑になると思う。
2、 手抜きは嫌いで、几帳面に こつこつ 仕事をする性格だ。
3、 周りに気を遣って 宴会などでは 場を盛り上げるほうだ。
4、 仕事にはこだわるほうで、周りから わりと 信頼されている。
5、 嫌でも断れない 優しさがある。
6、 他人(上司、同僚、部下)の評価を気にする方だ。    など。

几帳面で真面目な人は 鬱になりやすい、とは よく聞くが、
問題は、几帳面、優しい、の裏側にある、
周囲のことを 非常に気にすること、
他人によく思われたいという気持ち、
他人によく思われないと 将来はない、と思う考え方にある。

わたしは、やっぱり、鬱になるはずじゃなかったんだ。
あてはまらない。
しかし このころ 私が亭主に逆らったのは、
「一番風呂は 寒くて嫌いだ、だから、後ではいる。」
このくらいだったろう。



一般に 心理的な理由で うつ状態になった場合には、
薬より認知療法のほうが 効果がある。
薬を使って効果があっても、必ず考え方を変えるようにしたほうが
再発の可能性を 低く抑えられる。

やっぱり、私は 関係なく鬱が治ったわけだ。
私の鬱は、ホルモン療法によって、
脳下垂体からの 性腺刺激ホルモンの分泌を 抑制したことによる。
その副作用は あっちこっちに 影響をおよぼして、
想像以上だ。








鬱の克服

2004-10-01 | 
鬱を克服する方法なんて、数学の定理みたいには いかない。
こうすれば 鬱から 脱出できるなんて、誰にも言えやしない。
ひとはみんな 鬱になった原因も 経過も きっかけも
それから 置かれた状況も それぞれ違うから。
誰の参考にもならないが、
私の鬱が 収まるきっかけ、それは
「春」
だった。

温かくなった。
明るくなった。
それだけでよかった。

冬に一度、そのうえ 春にも一度 風邪を引いた。
そして そのたび なかなか治らなくて、
何にもできなくて、自己嫌悪。
何もできない自分にも、なかなか治らない自分にも。

ようやく 春が来た時、
私の庭には、チューリップがなかった。
秋に ガーデニングを 止めてしまったから。
これから手術なのに、花の事なんて、と。

私は たびたび ホームセンターへ出かけて、
毎回どっさり 花の苗を買ってきた。
植え付けは その日のうちだったり、翌日だったり、
一週間後だったり。
楽しかった。
土をいじって。
根っこを見つめて。
葉やつぼみに触れて。
スコップでわっしょ、わっしょと 地面をほじくりかえして。
綺麗な花の咲く日を想像して、肥料を施して。

雑草抜きは、好き。
根っこから スポッと抜ける雑草が好き。
だから 雨降りの後の 雑草抜きは、大好き。
この春、私の家の庭は、今迄で 一番きれいになった。


自分としては バリバリ動いているつもりだったが、
亭主は「から元気」と呼んでいた。

2003年3月1日、イトーヨーカドーへ 買い物に行く。
ほんの一握りの、私の病気を知った人たちへの、
快気祝いを選ぶ。
途中で くたくたに くたびれて、しゃがみこむ。
いかにも 病後の人らしくて、芝居かと思った、と亭主。
自分でも なんでこんなに くたびれるのかと、あきれる。

3月4日、
生協の店で買い物。
この前のようにヘトヘトヨレヨレには ならなかった。
昨日までとは 疲労感が違うと感じる。

3月5日、
放射線終了後 二回目の 恵比寿の整体師のところへ。
少々の疲れはあったが、
疲労度も 治療の心地よさも 先週とは 比較にならないくらい、
ずっといい。

3月10日、
娘とデート。
ちょっと遠出(私にしては)。
デパートのある街まで車を運転してゆき、
私のロングドレスを購入。
映画『指輪物語』を見る。
娘は 好きな映画じゃない、という。
確かに、どちらかというと 息子向き。
でも息子は 一緒に映画を見に来てくれないし。

3月11日、
本来ならば 今日が リュープリンの注射の日だ。
手や足の関節の、痛む部分が増えている。
耳鳴りがある。
おりものかぶれによる痛みとかゆみがある。
午後、頭痛がする。
たぶん、夜眠れないせいでの 頭痛だろう。

3月14日、
学校帰りの息子と駅で待ち合わせて、成田のホテルへ向かう。
姉と義兄、姪とその夫になる人物に会った。
なかなか面白い男性。
身長は高くない。学歴も年収も高くなさそう。
それでも姪がこの人、と思った人物、きっと よい伴侶になってくれるだろう。

3月15日。
姪の結婚式。
新調のロングドレスを着て、
おばさんは 歌をうたい、スピーチをした。
姪の性格から予想したとおりの 地味婚で、
親戚だけの披露宴になった。
友人や職場の人たちののパーティーは、済ませてあるという。
華やかさに欠けるぶん 馬鹿騒ぎもなく、
落ち着いた、心温まる披露宴になった。
こういうのも、いいもんだ。


わたしは。
私は 家族で一緒に出かける事ができて、
ただただ 嬉しかった。
姪の結婚式では 家族でホテルに泊まった、
これは、二度目だ。
この前は、娘が小学生の時だった。
嬉しい、楽しい事がいっぱいの、春だった。

怒涛の更年期症状―鬱③

2004-09-16 | 
姉が 電話口で話してくれことがある。
「不思議とね、ハーブの世話だけは、できるのよね。」
姉が欝で、食事の支度が できなくなってしまった時の話だ。
ふ~ん、と聞いていた。
「がんばれ」と言っては、行けないのよね、と思いながら、
「いいんじゃない。」
なんていいながら、
そばには いられない妹は、ただ話だけを聞いていた。

私もそうだった。
記憶が曖昧で、日記帳にも何も書いてないから
いつ そうだったのかは わからないけれど、
食事の支度ができないのだ。

台所に入る。
胸には空洞があって、
冷たい空気が流れていて、
しゅ~ん という音がしていて、
なぜだか、
何をすればいいのか わからないのだ。

何もする気になれないのに、
ご飯の支度をしなくちゃ、
とは思う。
思って台所に行くけれど、
何も手がつかない。

亭主に、
「きょうはご飯の支度ができない。」
と言いに行った。
亭主は、どうしたっけ?
「具合が悪いのか?」
と聞いたなあ。
泣きたい気持ちだったなあ。
「泣きたいの。」
なんて、私は言わなかったろうなあ。



ホルモン療法がなくなったと聞いた時、
亭主はおこった。
「なんでだよ。」
「先生が、欝で自殺したら、困るからって。」
この会話は、2回ぐらいした。
そして最後に
「なんで・・・。」
と、言葉を飲み込んだ。
欝になんか、なるんだよ。
私の胸の空洞に、そんな声が聞えてきた。

その後の亭主がどうだったのかは
よく覚えていない。
子供達が帰るのを 駅まで迎えにゆき、
帰りにスーパーで買い物をして、
食事を整えたりしていたはずだ。

「きょうは、作る。」
ぽそっと言って、食事を作る日があって、
そんな日が増えていったのだろう。
「きょうは、作れるか?
 おれ、あっち(仕事場)で
 仕事してきて、大丈夫か?」
うっとおしく聞いてくる日々が、結構 あった。



私の鬱は 強い注射のリュープリンの副作用だから、
注射はやめる。
飲み薬のノルバデックスは そんなに強くない薬だから、
これは 続けて飲んで。
そんなふうに言われ、
はい、と答えて帰ってきたのだ。

欝の薬は飲んでいない。
そうそう気持ちが軽くなるはずもない。

姉が言ってたように、
何にもやる気にならないのだ。

テレビを見てもつまらなくて、
うるさいだけなので、消してしまう。
新聞を読もうにも、
視線が紙面の上をすべるだけで、
なんにも頭に入ってこない。
本は読めない。
マンガも、文庫版は字が小さいので、
見ていられない。
読むのをあきらめたものが、たくさんある。

どうせ、わたしは、なにもできない、不必要な存在・・・。
自分という人間についての考え方も、
かなり、ひどかった。
もともと、自分自身に対するの評価は低かった。
いつも、何もしてないし。

食事の支度が出来るようになってきて初めて、
鬱から少し抜け出せたように思う。
鬱の気が薄くなってきて初めて、
食事の支度ができたのか。



あの日
下の方から ぞわぞわと 体を這い上がってきた何かに
私は 絡め取られてしまったが、
「それ」は 
いつも身近にいて、
どこかで私に引っ付いている。
さびしがりやの 子供みたいに。
体中を包まれてしまう事は稀だったけれど、
何処かへ消え去ってくれるわけでもなかった。

毎日何もできず、何もせずに
何かしらを考えていた。
それは 決まって 恐ろしい事ばかりで、
考えると 胸はいっそう冷えて
しゅ~ん という音は いっそう大きくなり、
心臓は どきどきしたけれど、
考えずにはいられなかった。
だから
その状況に身を任せていた。

そして最後に、
めんどくさい、と思った。
いろいろ ぐだぐだ 考えても、面倒だ。
人間、死ぬときゃ、死ぬ。
再発や転移してからの事は、再発・転移してから 考えよう。
B 型人間の復活だ。

それでも 「それ」が 
頭の上のほうから ほわほわと 何処かへ
飛んで行ってくれたのは ずっと後で、
私は足元に「それ」を引きずりながら 暮らしていた。
飛んでいった「それ」が またすぐ戻る、ということが
なくなったのは、
暖かくなってからだった。



今。
「それ」は 何処かに浮遊していて、
私が少しでも 下を見たり 後ろを向いたりすると
そばにやって来て、また引っ付こうと、待っている。
いや、いつも どこかにくっついている部分があるかもしれない。
きょうは、くっついている。
関節が痛むからだろう。

そんなときは 今でも、
「つまんない、つまんない、つまんない、つまんない・・・・・・。」
「やだなー、やだなー、やだなー、やだなー・・・・・・。」
などと 胸の内でつぶやきながら 生きているのだ。

「それ」は 勝手にむこうからやってきて
ひっつこうとしているものなのだから、
向こうが 離れていってくれるのを 
私としては 待つほかはないのだ。
その辺に見え隠れしていると、いらいらするけれど。

また捕まえられたとしても、
もう それほど怖くはない。
共存していけそう。
だたし、頭からすっぽりと 包まれてしまうのは、
もう なしにしたい。









怒涛の更年期症状―鬱②

2004-09-14 | 
「その日」の前日、
がんセンターの帰りに
私は ホームドクターの佐藤先生の元を訪れている。
先生は、わたしが乳がんとわかってから、
いっそう 優しく丁寧に診てくださるような気がする。

術側の手の指に ささくれができて 赤く腫れて痛んだ時には、
がんセンターに電話して 了解をもらってから、
佐藤先生に 化膿止めを処方してもらった事もある。

「このごろ手の指の関節が痛いんです。」
「痛み止めや 炎症を抑えるお薬を 処方しますか?」
「いいえ、まだいいです。」

「このごろ足の、この辺と、この辺が痛みます。」
「お薬はどうしますか?」
「まだいいです。」

そんな会話が増えていた。

そして、とうとう、
「このごろ私、欝っぽいんです。」
と言ったのだ。
「軽い抗鬱剤を出しときましょうか?」
わたしは ちょっと考え、やはり 断った。
まだ、お薬を飲むほどではない。

その時は、そうだった。
私が鬱でお薬を飲むなんて、
そんな事になるはずはない、とも思っていた。
母や姉が 時々飲んでいると言う、
抗鬱剤とか、睡眠剤とか、
私に必要になるわけがない。



翌日、
「その日」、
いつものように、放射線治療のために、がんセンターへ。

冷たい靴に足を入れ、
冷え切ったハンドルを握り、
駅のホームに凍えて立つ。

「ああ。きょうも 欝っぽいなあ。」

じっと、耐えて、耐えて、耐えて。

病院に着く。
顔は上を向かない。
ガクンと下を向いたまま歩く。
ちょっとした挨拶でも、ぎこちない笑顔。

ぞわぞわと 下のほうから 全身を包み込もうとする感情がある。
つかまりそうだ、つかまりそうだ。

なんとか 放射線治療を終える。
あとは、帰るだけだ。
もう少しだ。

ところが。
廊下を歩いていて、
涙が出そう。
出ない。
でも泣きそう。
泣きたい。

あれっ。
涙が、ほんとうに、出そう。
こんなの、初めて。

ああ、
もう、我慢が できないや。

わたし、
ほんとうに、おかしくなっちゃった。

もう、普通にできない。
もう、笑えない。


私は、外科外来受付へ向かった。
助けてほしい、と 思った。

わりと好きな、話しやすい、顔見知りの看護士がいた。
いつも、忙しそうだ。
おかけになって、お待ちください、と言われた。
椅子に座って待っていたら、
私のところへやって来て、
幼稚園の先生みたいに、
しゃがんで 目線を低くしてくれた。

欝っぽいんです、とでも言っただろうか。
すると 色白の 肌の綺麗な看護士は
眉間に大きなしわを寄せて、
「ああ。」
と言った。
「辛いですよねー。」
わかってくれてた、わかってくれている、と思った。
だけど、心のどこかで、
あんたにわかるわけないだろう
とも思っていた。
そして私は それきり口をつぐんで そっぽをむいた。


主治医の診察室に呼ばれて入った。
「どうした?」
と言いながら 私の顔を見た主治医は、
「あーーっ。
 やめ、やめ。」
と叫んだ。

「もう、ホルモン療法は、やめ。
 そんな、鬱になってまで、
 治療 続けることなんか、ない。」

「そんな顔して。
 自殺したりしたら、大変だから。
 ホルモンの注射は、やめ。」

「ねー。もう、これも、これも、やめちゃおう。」
と言いながら、
主治医は コンピューターの画面から
私の リュープリンの予約を 消した。

そして、今後の治療方針を話すための日を決めて、
私は 診察室を出た。

ああ。
「佐藤先生から、抗鬱剤を処方してもらって、いいですか?」
と聞きに来たのに。

これが、私の、「その日」のできごと。


その日のあとも、
私の欝は、
もちろん、快方には なかなか向かわなかった。







怒涛の更年期症状―鬱①

2004-09-14 | 
「その日」がいつだったのか、定かでない。
たぶん 姉が帰った 2003年2月17日以降、
私の欝は いっそう鬱らしくなっていったのだ。

熱が下がった後も、
私は体がぼーっとしていて、仕事も家事もできなかった。
少し体を動かすとへとへとになってしまい、動けないのだ。

家族は、
「今は ママの放射線治療が 一番大事」
と、また いろいろなことを 
無理をしたり 我慢をしたり することになった。

私は何の役にも立たない、穀潰し。
それどころか、
我儘で 手のかかる、荷厄介。
自分の生きている意味が 見つからなくなっていた。


先月亡くなった田原節子さんは
亡くなるほんの少し前、
乳がん または 癌関係の
フォーラムか何かに 出席なさっていた。
体調が悪いのをおして、
車椅子での出席だったそうだ。
そうして、
「人の役に立っていると思うとき、
 生きていると実感する」
とおっしゃった。

その通りだと思う。
人は 人の役に立ちたいのだ。
人は 人とのかかわりにおいてのみ、
自分の存在を実感できるのだ。

私は放治に通うのみで、
人の役にたたず、
人とほとんどかかわらずに日々を過ごし、
自分に存在価値を見出せなくなっていた。


夕方家に帰ってから、晩御飯とお風呂の時間を除いて、
する事がない。
私は ノートパソコンで 乳がんについて 検索し始めた。

乳がんは、再発・転移しやすい。
乳がんは、10年経たないと 安心できない。
乳がんが20年後に再発した人がいる。
ホルモン療法で生理を早く止めた人は、痴呆になりやすい。
40歳以上の人の乳がんは、高リスク群に入る。
私の癌は、・・・大きい。

怖かった。
調べれば調べるほど、
怖くなった。

知らなかった、
乳がんについて、あまりにも。
手術後は、あんなに楽だったのに。

怖いけれど、
読みすすまずにはいられなかった。
ひとつひとつ 知らなかった事を知るたびに、
怖くて体が震えた。

胸には大きな空洞ができていて、
冷たい空気が通り抜けていた。
空洞の隣では
心臓の拍動が 大きく、早くなった。
指先が震える。
頭の中では、シューンという音がしていた。


主治医には、私の症状や私の気持ちは、
知っていてもらいたい。
私はこうだ、と訴えたい。
こうだとどうなのか、教えてもらいたい。

放治が終われば、通院は月に一回になる。
放治の間に 聞きたい事は全部聞いておきたかったので、
私は度々 外科外来受付に行っている。

質問をすると、内容によって、
待つ事になるが、時間は大丈夫か、と確かめられ、
主治医の診察室に入れてもらった。

ある日、
私は 書き散らしたメモを一枚にまとめて持って行き、
主治医に渡した。

「生理が止まった事による 女でなくなったような 喪失感
 乳房がひとつ ぐちゃぐちゃになってしまった悲しみ
 関節痛が これからどこまでひどくなるかという 大きな不安
 上半身が 突然熱くなったり汗をかいたりする不快
 膝から下が とにかく冷えて辛い
 夜中に必ず目が覚める
 毎日 生きているのがつまらない 
 時々 突然泣きたくなってしまう
 自分自身に 存在価値が全くないという苦しみ
 私には友達も理解者もいないという孤独感
 さまざまな症状が 母親(70歳)にそっくりになっていく恐怖
 胸のくびれは 夏になったらかぶれてしまうのではないか?
 誰の役にも立っていないという無力感   」

主治医は、リュープリン注射の 副作用だと言う。
ホルモン療法をやめて 抗癌剤に替えると、
「大変だよー。
 髪は全部抜けちゃうし、
 吐き気はするし。
 大変だよー。
と言う。

私は 何と言って 帰ってきたのだろう。
もう少し考えて見ます、とでも言ったのだろうか。
日記は つけていなかった。


「わたしは いつまで 生きられるのだろう。」
過去におけるほとんどのがん患者がつぶやいたであろう疑問を、
あろうことか、この私も抱いていた。


2004-09-06 | 
一昨日の新聞に、真赤なカルメンの衣装の 木の実ナナの広告が
ありました。
シオノギ製薬の、抗うつ薬の治験協力者募集の広告です。

曰く、
 「あなたの理解が、『うつ』からの出口でした。」
 「うつになるといろいろなものを失ってしまいます。
  笑顔、睡眠、元気、意欲・・・。
  一番つらかったのは、家族や友人との距離が遠くなることでした。
  『もっと早く言ってくれたらよかったのに』。 言いたかったけど、 
  怖くて自分からは相談できなかった。
  『そう言えば、つらそうな顔してたよね』。 つらくて助けてほし 
   かったけど、うつを知られたくなかった。
  これ以上、迷惑をかけられないと思い込んでいた。」         
                                     


最近、私は すこ~し鬱になりました。
プチ鬱です。
夏の疲れ。 
お盆前後の仕事の疲れ。
亭主の実家に行った時の、精神疲労。
オリンピックを見るための夜更かし。
8月最終週から学校が始まる、息子の朝の送りのための早起き。
睡眠不足。
生活リズムの乱れ。
このブログが、どんどん楽しくない時期の内容に、突入していくこと。
直接的には、週に一度の私の遠出の 治療院のハシゴの日に、
外出禁止になった事が 原因だったかと思います。

あさっては 東京に行けない、となった日から、
どんどん、目線が下がる。
ぐううう~ん。と音がして、口角が下がる。
すごーく 「へ」の字の 口です。
ため息が多くなる。
何もしたくない。
日を追うごとに、つまらない。面白くない。

ああ、鬱だなあ。
自分でわかったのですが、家族は誰も気づかないみたい。

思い切って、亭主にカミング・アウト。
「私、ちょっと、欝っぽい。
 今日は、ぐでぐでしてる。」
「夏の疲れがでたんだろう。
 マンガ読んで、寝てろよ。」
嬉しかった~。

そして、しめしめ、とばかり、
マンガをかかえて、ベッドルームで、ぐでぐで。
食事は、チョー手抜き。
こ~んなにラクチンしていいなんて。
もっと、早く言えばよかったかしら。

ぐでぐでの日々は、残念ながら、二日と半で 終わってしまいました。
ぐでぐでが 効いたのか。
規則正しく 早起きを続けたのが 良かったのか。
亭主が 遊んでる私を 責めないのが効いたのか。
ぐんぐん良くなってきてしまって、
プチ鬱とは オサラバできたのでした。


広告の中の文章が続きます。
 「うつには、うつを理解して、気づいてくれる人が必要です。
  だから、あなたの周りのサインに気づいてあげてほしいのです。
  うつには、相談しやすい環境が必要だから。」
 「あの人をうつからとりもどそう。」

去年の2月の私は、
自分が欝だということに まったく気づいていませんでした。

欝の始まり

2004-09-05 | 
渋谷まで出かけて、完璧な乳房再建の難しさの知って、ショックを受けて 疲れて帰ってきて、
次の2月3日は、いつもより 寝坊した。
日記には、「節分も淋しい」なんて書いてある。
 
2003年2月4日、
朝、駅の階段を登るときに 右ひざが痛んだ。
この日の日記。
「ゆうべは いろいろ考えて、ねむれなかった。
 初めてだ。
 答えは 出ない。」
何を考えてたのか。乳房再建を、多分もう あきらめていたと思うが。


このころ、
書きなぐったメモがある。
電車の中で書いたものが ほとんどだと思う。

「私は 何になりたかったのだろう
 私は 何をしたいのだろう
 私は 何をやりたいのだろう
 私は どう生きたいのだろう」

「つまらない つまらない つまらない」

「私には 友達が いないのだ」

「そうだ、私は 普段 緊張する事がないのだ。
 電話のベルにも 緊張しなくなったし。」

「思索。哲学すること。」

むちゃくちゃな内容だが、思った事をそのまま 文字にして、
小さな手帳に 小さな字で、精一杯 丁寧に書いている。
忘れたくない思いだったのだと思う。

「自分らしく生きるためには エゴイストになれ、
 というタイトルの本があった。
 ドッキリして 悲しくなった。
 私に必要なのは、こういう本だと思った。
 だけど 本当に 自分が やりたいことや
 自分に必要なものが わからない。
 こんな悲しい事ってあるだろうか。
         ※渋谷駅前の子供の本のお店で見つけた。
          私、こんな本のお店を したかったなあ。」

「絵を描きたい。 
 歌をうたいたい。
 語学が好き。
 イーゼルがほしい。」

「2月です。
 これからの さまざまなことを
 計画したいと思います。
 いろいろなことを、無理をせずに。」

「泣きたいくらいつまらない。」

「私は 頭は 悪くないのだ、と 思いたい。」
 
「どうせ○○できっこない、
 というふうには 
 あきらめないこと。
 できないかもしれないけど、
 やってみよう。」
 
「あなたの夢は なんですか?
 
 --夢をみつけることです。
 いつかはきっと 見つけたいと思います。」


こんなに いろんな事を考えたのは、久しぶりだったと思う。
考える事自体は、嫌いじゃなかった。


この冬は、寒かった。
少なくとも私には、寒かった。

朝、痛む足を なんとか靴に入れて 玄関を出ると、
そこには 枯れた花が あった。
玄関前の植え込みの 一番日の当たる場所は、
いつも 華やかな色の 花を植えている。
秋から冬の花に 植え替えをするのを サボった。
サボる理由ができた、というところか。
そうして、暗い気持ちで出かける私を、
枯れたベゴニア・センパフローレンスが 見送り、
また 疲れて帰る私を 迎えてくれるのだ。
首は 痛いほど下を向き、
枯れた花がそのままになっているのが 嫌でも目に入る。

冷たいハンドルを握って 駅へ向かう。
駅は 風の通り道。
電車を待つ5分や10分は、
田舎育ちの私には 待つうちには入らないはずなのだが、
そのわずかな時間を ホームで じっとたたずんでいるのは、
この上なく辛い。
じっと。
ただ、じっと。 
耐える。


そして週末、風邪で熱を出してダウンした。
放射線治療に通うのに、飽き飽きしていた。