ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

バカな女

2013-06-30 | いろんな人
私が ある意味 頼りにし、尊敬もしている女性なんだけど。

もう 何十年もの付き合いなんだけど。

あえて、「バカな女」と呼ぼうと思う。

バッカだな~! と 感心してしまったお話を。

その女性は、乳がんになった。













乳がんになったけど、手術をしたくなかった。

乳がんとわかったのは、
たぶん、シコリに気がついたのだろうと思う。

そして そのシコリが 
だんだん大きくなっていったからだろうと思う。

私が 乳がんの話をするのを聞きながら、
「わたしも乳がんなんだけど、と思っていたわよ。」
と言う。













乳がんになったけど、手術をしたくなかった。

乳房の切除を嫌ったのだろうか?

何か、信仰上の理由があったのだろうか?



それはともかく、なんと、彼女は、医療機関を受診していなかった。

健康診断を受けていない事は 私も知っていた。

(受けさせる事ができなかった私の無力感を、アンタは知ってるか?)

けれど 乳がんとわかって
医師に相談しない人がいるとは 思わなかった。

無理やり手術を受けさせられるとでも 思っていたのだろうか?

もしそうなら、
それこそが 彼女のバカなところだ。



サインして ハンコ押さなきゃ、
どんなお医者さんだって、手術してくれないっつーの。













彼女がとった手段は、「放置」だった。

癌がどんどん大きくなって、出血するようになったそうだ。

「どこ?」と聞いたら「胸からよ」と言うから、

癌が 胸の上で 花開いたのかと思う。

出血するから、そこにタオルを当てて 生活していたけれど、
貧血を起すようになったのだそうだ。

貧血を起しながら 受診しないなんて、
やっぱり、バカだと思う。













最終的に 彼女が 救急搬送されたのは、
肺転移による呼吸困難だった。

せきがひどかったらしい。

独身で 自営で 一人暮らしだった彼女は

「死ぬなら死ぬでいいや、と思ったのよ。

 お墓も、実家に入れてもらえるように
 甥っ子に頼んであるしサ。」

とのたまう。

強い女である事は 認めてあげるよ。

でも、救急車、自分で呼んだんだよね、苦しくて。













大学病院に入院して 治療が始まる。

化学療法。 

抗がん剤だ。

なにしろ、全身転移だ。



始まって、どうなったか。

「最初の一回目が終ってから、すぐに楽になったの!」

 こんなに楽になるんなら、
 もっと早くやっとけばよかったと思ったわよ~!」

それは、アンタが、バカだから。



彼女の場合、吐き気は一切なく、
とにかく、楽になったんだって。

楽になって、元気になったんだって。

「食べるものも、美味しいしサ。」

それは、アンタが、バカだから。



「後で聞いたんだけどさ、
 ドクターも、看護師さんたちも、
 私が生きて病院を出るって思わなかったんだって。

 なにしろ、あちこち転移してて (画像が)まっ白だったから。」 

それは、アンタが、バカだから。



抗がん剤だって、
いっぱい、いっぱい、いろんな種類があるって、
知らなかったんでしょ?













それでも、髪は抜けた。

眉毛も、まつ毛も抜けた。

ところが、それが、生えてくる。



彼女の場合、癌が治る事は、一生(笑)、ないから、
抗がん剤投与は ずっと続けている。

髪は、抜ける。

けれど、ホヤホヤとした髪が また生えてくるのだ。

結局、いつも ツルツルにはならない。

残念ながら、普通の人には「異常なアタマ」にしか
見えないだろうけど。













彼女は現在、ホヤホヤと髪の生えた頭で
週に一度 病院に通いながら
元気(そう)に 仕事を続けている。

こんな人もいる。

誰の参考にもならないけれど。

あまりマネしないように!



画像は あまりに殺風景になるかと思って
だいぶ前に撮ったものを貼り付けた。

二度目の掲載になるものがあったら、
ゴメンナサイ、バカな女なもので。



こう・せん・ちん

2010-06-06 | いろんな人
「こう・せん・ちん」 すなわち、「高専賃」
という言葉を 6月1日の朝刊(5面)で見つけた。

「高齢者専用賃貸住宅」の略だそうだ。

入居者を 高齢者に限った住宅なんだそうで、
ニーズに合わせて、
食事・掃除・洗濯などの家事サービスがついた物件が増えてきた、
とある。

現在、「こう・せん・ちん」に登録するためには 
一戸当たりの面積が25㎡以上、とかの決まりがあるらしい。







いただいたセッコクの鉢についてきた多肉植物を義父にあげたら
廊下でこんなに大きく育って 花まで付けていた。 
高さは1メートルを超している。






義父は現在、高齢者専用アパートに居る。

イバラキには 調べによると まだ「こう・せん・ちん」は
2つしかないんだそうだが、
義父のいるアパートもなかなかだ。

病院がそばにある。

なにより、こちらは自宅からも 比較的近い。

食事は三食出る。



契約は 通常のアパート契約のようになっている。

敷金と礼金がかかったように記憶している。

部屋の中に キッチンも お風呂も トイレも 洗濯機置き場もあり、
それらの家事ができない人は
介護保険を使って ヘルパーさんにきてもらう、
あるいは 家族が来て 手助けをする。







写真だと、義父の家も ピカピカのいい家に見える(笑)。






ここのトイレが秀逸?で、
広々としているのは 車いすを想定しての事だと思うが、
部屋に備え付けのタンスを トイレの中に入れてしまっても、
まだ広い!

おかげで部屋も いくらかは(涙) 広々と使える。

(部屋の中に唐突に洗面台がある感じ、では ある。)

最新・IHのキッチンも付いており、
自炊している入居者もいるんだそうだ。



アパートだから、部屋の鍵を自分で閉めて
近所を散歩したり 花見に行ったりできる。

あまり広くはないけれど、
義父がここでの暮らしに慣れて
気に入ってくれたらいいなあ、と
私たちは思っている。







これは、去年 ダスキ○に頼んでお掃除してもらった、亭主の実家のキッチン。
ピッカピカだよ!





先日 義父は タクシーを使って 自分の家に行き、
家の中をうろうろ歩きまわっていたら
2時間でヘトヘトになって またタクシーでアパートに戻ったという。

今では杖をついて歩くようになっているが
あの「どっこいしょー!」の家では
2時間でヘトヘト、は 仕方がないと思う(笑)。

大正生まれは、強いね!







下から見上げて撮影。 セダムとか コダカラベンケイソウとかの仲間だと思う。
我が家では あまりに増えるのに恐れをなして
こんなになる前に 処分していたので これを見て仰天、圧倒されてしまった!



おじいちゃんが、ころんだ。(3)

2010-04-20 | いろんな人
さて。

圧迫骨折の痕は、すでに固まっていて、
必要な治療は、ない。

義父の腰は、痛い。



腰の骨に、異常は認められない。

でも、義父の腰は、痛い。

西洋医学的には 有効と認められる治療法はない、
と言い換えるべき?







今年も美しかった、神社の桜。 まだ きっと 咲き残っているはず。






義父の腰痛は 少しは良くなっている。

でも 歩くのに不自由がない、というわけいにはいかない。

レンタルした歩行器で フラットな床を 自由に動き回ることはできるが
自宅での生活に復帰できる見通しは立たない。

なにしろ、玄関から上がる時に
老いも若きも「どっこいしょ~!!!」
と 掛け声をかけなくては 座敷に上がれない作りの家だ。

家の中なんて、とにかく寒くて、そして、段差だらけなのだ。

でも、施すべき医療はない。

病院は、出なくてはならない。



そして、長男の住む北関東にも 二男の住む高層マンションにも
移り住むつもりが、
本人には、まったく、ない。

息子としては、預かってくれる施設を探すしかない。







鉢から飛び出したブラックベリーと勿忘草との 花の饗宴。






地域の福祉の担当者との面会は、数度にわたる。

ここに、こんな施設があります。

ここに、こんな施設があります。

ここに、こんな施設があります。

ここに、こんな・・・・・・・。

でも、ここも、ここも、ここも、ここも、
部屋がいっぱいで、空きがありません。



唯一、空きのあるのが、
入居時に一時金の必要な施設だった。

なるほど(苦笑)。



ただし その施設では 体験入居ということで、
30日間、一時金なしで 入居したのと同じ生活の
「お試し」ができる。

選択したわけではなかった。

実際問題として、そこ以外に 近場に入居できる施設は、
その段階では みつからなかった。



けれど 一時金と言っても 何千万もの大金が必要な高級なところではないし、
月々の支払いも 年金でなんとかなりそうな感じ。

目いっぱい期待して 義父を 病院からそちらへ引っ越させた。







アイボリー色の水仙の つぼみは、何故か、こんな色。






そこは 大きな病院の近くにあり、
入居者には 認知症の患者が多いようだった。

奇声を発する人もあり、寝たきりの人もいる。

義母を思い出させるような感じの人も。



元は会社の社員寮だったらしい古い建物は
廊下がせまく、ドアは引き戸にはなっていない。 

頻繁に 廊下の向こうのお手洗いに行くにも
歩行器に頼る義父にとっては 充分な設備とは言えない。



玄関には鍵がかけられており、通常、外出は認められない。

この人とこの人、というように 登録された人が申し出た時のみ、
外出できる。

それ以外の人間が 入居者を連れ出そうとすると、拒否される。

認知症の人には必要な措置だが、
義父は (幸か不幸か)頭はハッキリしている。



しばらくして 他の施設を探さなくてはならない事が
ハッキリとわかってきた。

何故なら、この期に及んで、
義父はまだ 仕事を捨てられずにいた。。。



おじいちゃんが、ころんだ。(2)

2010-04-18 | いろんな人
入院して始まる、検査、検査。

ところが、義父の腰は、
レントゲンを撮っても MRIを撮っても
異常がなかったらしい。







早春には まだ花のないクローバーの群落の薄緑色にも 心が躍った。






ただ 背骨には 圧迫骨折の痕跡が 2か所もある、とのことだった。

女性は特に 閉経後の骨粗鬆症のために
往々にしてそういうことがある、と知っていたが
男性でも やはり 圧迫骨折をすることがあるようだ。



義母の墓参りをして 家に帰る時に義父は
途中でくたびれてしまい、

立ったまま 何かにつかまって しばらくの間休んで
それからまた 歩いて来るのだ、と 
以前 聞いたが
 
細い坂道、しかも砂利道を登るからだろう、と 
勝手に思っていた。



もしかしたら あの頃 すでに
背骨の圧迫骨折があったのかもしれない。

泣き言を 口にすることが少ない義父なので
息子たちにもわかってもらえずに、
ただ
「お父さんも 体力が落ちた」
と思われていただけだったのかもしれない。







これは、最近の土手。 菜の花の花期も 今年は長いのかもしれない。 
まだ むせかえるような菜の花の匂いでいっぱいだ。






それまで 一人暮らしをしていた老人が入院した時に
するべき事は、数限りなくある。

新聞やヤクルトを止めたり
ヘルパーを派遣してくれていた事業所に連絡したり
通帳と印鑑のありかを聞き出して 預金を下ろし、
病院への支払いに充てたり、

日頃お世話になっていた近隣の人たちや近くの親戚にも
連絡しないといけない。

行っても留守、応答がない日が続く、となったら
とんでもなく心配をかけてしまう。



義弟は仕事を休んで、亭主も忙しい最中に 駆けずりまわって、
なんとかこなした。

どうしてもこちらが休めない時には
義弟の妻(公務員)にも 休暇を取ってもらって
対応してもらった。

ありがた~~~い介護保険のためには、
立ち会う人間が必要だったりするのだ。













また、病院の検査の結果の説明や
これから行う治療の説明があったりする。

義父は 「フン、フン。」と さもよく聞いていそうでいて、
実はまったく聞こえていなかったりする。

医師が病室から出て行った後で
「今の先生の話、ひとっつも、聞こえなかった。」
なんて言いだしたりするので、

てっきり義父が納得したと思っていた義弟が
あわてて医師を呼び戻したり、といった場面があったようだ。

まったく、年寄りは、扱いにくい(苦笑)。













また、日頃 マメで 何でも自分でやっていた義父は
病院でも いつものように動こうとする。

お手洗いも 歩行器(というのか?)を押して
自分で行ってしまう。

看護師に見つかって、

「○○さんは、安静にしていてください!

 私たちがやりますから、呼んでくださいね~!」

と叱られた事も 一度や二度では なかったらしい(汗)。



ぢ主さまである義父が 病院の泌尿器科で出してもらった塗り薬を
自分で塗ってしまい、

「患部がどうなっているかを目で確かめる事も私たちの仕事なので、
 私たちにやらせてくださいね!」

と懇願されたり、



医師が回診に来てくれたので
義父は起き上がってベッドの上に正座する、

医師が 手を伸ばして「そのまま、そのまま!」
とあわててベッドに駆け寄ったり、

といった場面は、私は、この目で見た(笑)。



何でも自分でやっちゃう、自立した老人というのも、
扱いにくいものだ(苦笑)。










おじいちゃんが、ころんだ。

2010-04-16 | いろんな人
亭主の実家の義父が、玄関で転んだ。

転んだのが、おじいちゃんでなくて、
「だるまさん」だったらよかったのに。







亭主の実家の庭に咲くミツマタ。 2月下旬、ケータイで撮影。






今年は 
「サクラが開花した!」となってからが特に、
寒い日が続いている気がする。

そして 特に寒い日には、何故か、
亭主は必ず実家に行っているのだ。

亭主が実家に帰る日、
あるいは 泊りがけで帰っている日に限って、
関東は(全国的に?)寒い日になっている。

当地よりもかなり暖かいはずのイバラキで
雪が降った、などという日には
亭主は必ず、イバラキにいた。

そう、実は 今日も、
亭主は 泊りがけで 実家に帰っている(笑)。













前に雪の土手の写真を撮ったのは 2月2日だった。

乳がんの定期検診の結果を聞いた頃だった。



2月上旬に 満85歳の誕生日を迎えた義父が

これは 桜にも雪にも関係なく、
玄関で転んだのは、2月の下旬。

そして 義父は ふたりいる息子のどちらにも
そんな連絡を寄越さないでいた。

以前 言いわけを書かせていただいたが、
亭主が多忙を極めていて
「おじいちゃんの誕生日に、」などと言いつつも
全然 イバラキには行けずにいた時だった。







これは3月11日撮影。






近場に住む伯母さんが
義父を引き取ろう、などという関係のない発言を交えつつ、
義父を病院に連れて行こう、と大騒ぎをしてくれたのが、
日曜日。

伯母さんは 休日に忙しい長男である亭主の所にではなく、
公務員の義弟に電話をして
騒いでくれたらしい。

義弟からウチに電話が入ったが 
亭主は 仕事で 電話に出られなかった。





この伯母さん、かなり以前から 問題を起こすタイプの方で、
義父母も 何十年もの間 閉口していた方だったので

「あだしが 連れていんから(私が連れて行くから)。」

という伯母さんの申し出を
義弟はやんわりと拒んでいたらしいが、

あまりにしつこいので、
というか、
我が家にも電話してきてくれたので
(亭主は やっぱり電話に出られず、私がお話させていただいた)、

夜になって
「今回は、連れて行ってもらおうよ。」
と 亭主が義弟を説得した。

義弟は しぶしぶ 亭主に従ったように思えた。



「連れで行ってくれる」はずの伯母さんは
車の運転ができないので、
言いなりに動いてくれる 人のいい従兄弟が運転して
翌日、義父を近くの病院へ 連れて行ってくれた。

そこでの診断は、
すぐに別の病院へ行って 入院した方がいい、
という事だった。

伯母さんは、騒ぐ、騒ぐ!(爆)

「あだしがいづも行ってる病院さ行って、入院だ!」






義父は そこは断固として譲らずに、
いつも通っている病院へ、と主張して
とある大きめ病院へ。

想像通り、義父は即、入院となった。

なにしろ、転んだ時に打った腰が
痛くてたまらなかったようだ。



                              つづく
              


Y郎さんの事

2009-02-28 | いろんな人
去年は、
Y郎さんと 親しくお話する機会が何度かあって、
嬉しかった。

Y郎さんは 以前から 
当地の野菜の、本来なら破棄していた部分を
カット・乾燥させて インスタント食品のメーカーに卸し、
商売(の一部)として成立させている。

近年 特に ‘純国産’として 人気も高まっているらしい。

その点に関しては 鼻息も荒く、得意満面だ。







昨年末から ケシポンを使っている。






Y郎さんは、他に、なんと、糠床を商っている。

プレハブ小屋の、いや、工場の(笑)、
いったいどこで、どんなふうに作っているのかは知らないが、

Y郎さんは、この糠床を
「可愛い! 可愛い!」と連呼なさっていた。








私の糠床は 今は 休んでいる。

あまりに冷たくて 
手を入れると 関節痛がでてしまう。

そして その時の‘冷え’が なかなかとれないのだ。

もっと暖かくなってから、再開する。

そうやって使ってはいるけれど、
そんなに年数の経った糠床ではない。

何故なら、時おり、棄てるから(涙)。




そんな時には
海水の味を思い出しながら塩水を作って
最初から糠床を作ったり 

Y郎さんにいただいた糠床を使わせていただいたりした。

Y郎さんの糠床は 
言うなれば「なんちゃって糠床」かもしれないが、
味はいい。

糠味噌漬けを始めるに当たって 躊躇している人にとっては
最高のサポーターだ。






その糠床、
なんでも、Y郎さん自ら、ひとりで、
作っていらっしゃるのだとか。

そして Y郎さんは これを
「可愛い!」とおっしゃる。






糠床を作って 発酵を始めると
糠床は ぷっくりと膨らんでくる。

酵母菌による発酵なのだとY郎さんはおっしゃる。

そして やがて ‘ぷっくり’はとれて しぼんでくる。

乳酸発酵が始まるから、らしい。



そう、糠床は、生きている。

そして Y郎さんは 可愛くてたまらない、とおっしゃる。







新聞・雑誌・ダンボール以外の紙ゴミも 
資源ごみとして 回収してくれるようになったので。






Y郎さんは 野菜を出荷する市場に関しても
責任ある立場にあるらしい。

このY郎さん、近県に友人がいて、
その友人が 
「どうすれば 旨い野菜を作れるか?」
と聞いてきたそうだ。



当地の土は地味が良く、とにかく、野菜はどれも美味しい。

(米も麦もイマイチだが。)

Y郎さんちの辺りの土地は 
ムラでは特に いい野菜がとれるいい土、
と言われている。



Y郎さんの答えは
「3年 畑を遊ばせる勇気があるか?」
だった。

3年間、畑からの収穫をあきらめて、
有機肥料を梳き込み、梳き込み、していけば
絶対、いい野菜が採れる。

友人は Y郎さんに言われた事を 真面目に実践し、
3年後には 素晴らしい土地になったと言う。

採れる野菜も素晴らしいもので、
それをY郎さんは 
ご自身が関係している市場で売っているという。



3年、という言葉に 
私は 土建屋の社長の裏の畑の話を思い出していた。

Y郎さんに話すと 
「素晴らしい!」
と 大感激していらした(笑)。

(でも、その畑、資材置き場になっちゃうかもしれないんだけどね。。。)



我が家の 瓦礫が出てくるブロック塀際の土地も
土のう袋堆肥で頑張り続ければ 
ふかふかの土になってくれるだろうか。。。?



ゴマと七味唐辛子

2009-02-26 | いろんな人
以前にも書いた事だが、
土建屋の社長に 毎年 金ゴマをいただく。

社長自ら 畑で育てて収穫してくださったものだ。



社長は その他に 毎年 七味を作ってらっしゃる。

薬研(やげん)(→こんなの)でゴリゴリやって
ゴマ・青海苔・陳皮・生姜・山椒、などなど、
細かく、細かく、砕いて混ぜたもので、

社長の凝り性がよくわかる(笑)、
香り高くて 辛味がちょうどいい七味が出来上がる。

私は ゴマと同じく、
毎年 これをいただくのを 楽しみにしているのだ。







なるべく 昔の食材を使った 昔ながらの食餌を、と思うと
豆が登場する。
これは、いただいたものではない(笑)。






畑のゴマを見せていただいた事はないけれど、
美しい薄紫の花をつけるゴマの、
小さなツブツブを サヤから収穫するのは
どれほど面倒な事だろう?

それを 社長は「面白いんですヨ。」とおっしゃって、
楽しみながら 栽培してらっしゃる。



畑は 社長のご自宅の裏手にあるらしい。

その土地を買い取って
(社長ご自身は 昔は まるっきり、資産のない方だった)、
楽しみながらの、畑仕事。

うらやましー(笑)。







実が生ったら 私の好きにしていい、と言われている梅が、
ようやく咲いた。






先日 社長がおいでになった時に
茶飲み話でお聞きしたのだが、

その土地、痩せていて あまりいい野菜は作れなかったそうだ。

丸3年、
肥やしをくれてやって 
ようやくフカフカした、美味しい野菜の採れる畑になった、
とおっしゃる。

その畑を、手放さなくてはならないかもしれない、というお話だった。

県道の拡幅にひっかかるらしい。



社長の家は シャカリキに働いて 財を成してからのもので、
県道に面して 
小さいけれども 本建築の家があり、
家の前には 小さな庭があって

やはり社長らしく チリ一つなく手入れされている。

それから やはり県道に面して 資材置き場。

ここには ユンボを積んだトラックなども出入りして
さまざまな資材を仕入れたり 運び出したりする、
重要な拠点だ。



今回の県道の拡幅には
社長の家の玄関は かろうじて引っ掛からないが、

道路ができると
小さな庭と 資材置き場が
まるまる なくなってしまうことになる。

すなわち、
裏の畑は トラックの出入りに不便な資材置き場、に
変更を余儀なくされる。



いくら田舎で 交通量もたいしたことはないとは言え、
県道の脇 すぐに玄関、というのも物騒だし

肥やしを入れて、入れて、入れて、
ようやく地味の良い畑にした畑を
社長は失う。





公共事業の中でも 道路は重要だし

件の道路は
確かに 交通量の割には 狭いし
歩道もなくて危ないなあ、と思い続けてきた道だけれど

社長は畑を失い、
私は 金ゴマと 七味唐辛子を失う(笑)。







他所の家の梅は とっくに満開、早いものは もう見ごろを過ぎている。
でも、咲いてくれたから、文句はない(笑)。






道路の話は まだ決定ではないらしく、
いつ、どうなる、という 具体的な予定もないらしいが
社長は 心持ち 肩を落としてらっしゃったように見えた。   



義父のQOL

2009-02-03 | いろんな人
義父は仕事を持っている。

普段はヒマなのだが たまに仕事が入ってくる。

地方公務員を退職した後に身を入れ始めたた仕事だが、
今では義父の生きがいになっているようだ。







寒さなんて平気、フォックスグローブの際から咲き出す、スノードロップ。






歳をとるということは 体力が衰えるということ。

エベレストを目指す年寄りもいるようだが、
あの人は、別!(爆)。



退職したばかりの頃はよかったが、
65歳、70歳、となってくると 
忙しい時には 義父ひとりでは間に合わない。

休日のない我が家は 滅多にイバラキに帰ることはなかったから
たいてい マメな義弟が 休みの日に行って
手伝っていた。



75歳、80歳。

たまの義弟の手伝いだけでは
義父は仕事をこなせなくなっていた。

仕事はどんどん手抜きになっていったが
それで仕事がなくなるわけではない。

義母が亡くなって
ひとり暮らしになって
義父は毎日食べて生きているだけで大変になった。

それでも仕事を止める気配はない。

儲かるならともかく・・・。(←結局は、そこ! 爆)







日当たりも良く 霜の当たらない場所で
どうやら冬を越しそうな、サマーロベリア。






義父は 「ドッカン治療」の後の最初の診察の日にも
仕事を入れていた。

仕事を断わるか、診察日をずらすかすればよかったのだが
どちらもできなくて
亭主と私が 義父の仕事と 義父の通院を 
ふたりでサポートせざるを得なかった。

決断が必要な事柄に対して、義父は本当に受身な人で、

「どうしてもこの日に」と頼まれると断われない。

絶対無理だ、と思う量の仕事を引き受けてしまって、
くたびれてしまう。



「きょう、私が行って見たら、
 おじいちゃん、くたびれて寝てたんだよ!」

と 立ち寄ってくれた親戚の人から電話をいただいたこともある。



ヘルパーさんは週に2度来てくれるようになったし

亭主も出来る限り実家に帰って
義父の面倒を見たり 仕事を手伝ったりしてはいるのだが。

せめて仕事を止めてくれれば、と亭主も思っているはず。

そんな義父から、
「俺から仕事をとったら 俺はダメになる。」
と、脅しの文句を言われたという。

ここはやっぱり、なるべく今までどおり生活していけるように、
仕事の方もサポートしていった方がいいのかなあ。



義父は間もなく 84歳の誕生日を迎える。







ピンク色の椿。



筑波をドライブ

2009-02-02 | いろんな人
新しい年がはじまってから 
もう既に 1ヶ月以上が経ってしまっているというのに、
古い話をしてもいいかしら?(笑)

義父は 不整脈を持っている。






 神社からいただいたお供物。(去年のこと。汗)






肌寒さを感じることがあっても、まだまだ紅葉には早い。

そんな時期だった。

いつも地味な服を着ていた(つもりの)私が
術後に買ったワインカラーのジャケットを着て行ったことを
よく覚えている。

ジャケットに合わせた 濃いめの口紅を 
バッチリとひいて行ったことも、

常磐線の駅で待ち合わせた亭主が
このジャケットと口紅とを
「すごいな!」
と言ったことも、覚えている(苦笑)。



義父が筑波の方にある病院に行くというので、
亭主と私でイバラキへ向かった。

亭主は義父の仕事を肩代わりするために、
私は 義父を病院へ連れて行くために。





義父は 以前にも書いたことだが
検査や検診は 毎年キッチリと受ける。

その後の治療となると、腰が引けるのだが(笑)。



なんでも、以前からの義父の心不全は 
心房性のものだったが
それが 最近の検査で 
心室性のものになっていたのだという。

心房性は さほど心配はないが
心室性だと アブナイのだという。

「いつ突然死しても おかしくない。」
と医師に脅されていて
義父は 治療をする決心をした。






その治療は、なんでも、全身麻酔が必要なのだという。

短期間ではあるが 入院して 全身麻酔で、という。

最初の頃、亭主は「手術」と言っていたが、
メスを使うものではなかった。

そして なんでも
電気ショックを与えるものだという。

電気治療とは、ちょっと違うみたい?



私のイメージは
映画『E.T.』の中で 
E.T.と 少年とが受けていた治療、

あるいは アメリカのTV番組『ER』の中で
エリザベスなんかが

「○○にチャージ! 離れて!」

とか言いながらやる治療、あれだ。

最後に亭主は 
「おじいちゃんのドッカン治療」と呼ぶようになった。







こんなのが入っていた。 実家でも同じようなお供物のお菓子を用意していた。






私が義父と筑波に向かったのは
その「ドッカン治療」が無事に終わって
最初の診察の日だったのだ。

義父の車は 亭主のよりもずっとキレイ!

小さめな車なので 少し運転すれば すぐに慣れることは、
義母が亡くなった時に 
スーパーにインゲンを(苦笑)買いに行って 実証済み。

その日の筑波方面はお天気もよく、
おしゃべりも楽しく、
スムーズにドライブは続く。

ところが、なんだか、
道路の雰囲気が変わってきた。

「通り過ぎたんであんめか。」

「え~~~!!!」






私は悲しい田舎住まい、
片道一車線道路以外は 走り慣れていない。

ところが、筑波の学園道路は2車線だ。

それを 病院へは左折だというので
早めに亭主の実家を出て
ゆっくり左車線を走っていたのだ。

楽しくおしゃべりをしてるうちに
病院の看板を見落として
学園道路の向こうの端まで行ってしまったらしい。

なんとかUターンして、
今度は必死に右車線を行く。

どこで右折するかわからないのだから、仕方がない。



それでもどうにか看板をみつけて右折、
病院に着いて 意外に美味しい食堂でお昼を済ませ、
診察時間にピッタンコだった。

義父の心臓は ドッカン治療の後は
かなり良くなったようだった。



どんな医師に診せるかで 寿命が大きく変わる時代だ。

こういうのを 早く見つけて治療をするかどうか、で
その人の寿命は変わってくると思う。

義父は 明らかに 寿命を延ばしたのだ、と思った。



それともうひとつ思ったことは、
ひとり暮らしをしている義父には
人恋しい部分がある。

おしゃべりの相手が 本当はもう少し欲しいんじゃないかな。



電気あんかと肌ふとん

2008-09-08 | いろんな人
きょうは秋風が涼しかった。

今年の夏も終わりを告げたこの季節に、
古い話をほっくり返して書き綴ることをお許しいただきたい。

去年の夏は、暑かった。 







ピンクの電気あんか。






私は 
亭主が受験勉強の頃に使っていたらしい電気あんかを使っていた。

もう 表面のモヤモヤは剥げて 
ほとんど鉄板が露出しているので
タオルなどでくるんで ヤケドの心配をしながら使っていた。

あまりよくなさそう、ということで 棄てたのが
去年の春。



「新しいの、買ってこなきゃ。」
と言ったら、

▲▲にあるから、今度持ってくるよ、
と言って
亭主が実家から持ってきたのが、写真のピンクのあんか。

どこかで見た記憶が? と思ったら

義母がグループホームに入所した翌日、
義父が 買わなくちゃ、買わなくちゃ、と言うので

我が家の4人が義父を連れて
初めてグループホームに行く時に 電気屋に寄って
買ったものだった。



「危ないから」と職員に断わられて 持って帰って来たので
誰も一度も使っていなかったに違いない。

だって 亭主の実家では いつも
電気あんかではなくて 湯たんぽを使っているのだもの。

暑かった去年の夏、
私はこのあんかに助けられて
冷えから身を守った。






亭主は 寒がりで暑がり。

いるよね、どこにでも、そんな人が。

冬は寒がって、夏は暑がる。

そして 目いっぱい、冷暖房を使う。



亭主は 普段 事務所にいるから、
あまり私には関係ないが(苦笑)、

夜 寝る頃になると帰ってくるから(苦笑)、
それからが私にとって地獄になる(涙)。



クーラーで冷えるのは、辛い。

普通の寒さとは違って、
キカイ的な冷気は
どうも 私の足にとっては
決定的に冷えをもたらすもののようだ。

しかも、突然の、強烈な冷えだ。






亭主は 毎晩 クーラーを効かして
そして 布団や毛布をかぶって寝る。

今年、

「暑いんなら、何も掛けないで寝れば?」
と言ったら、
亭主は
「こーれが、気持ちいいんだ!」
と言った。

怒りと悲しみとで
「少しは真剣に考えてよ!」
と言ったら 

少しは考えたらしく?
今年は 例年よりも いくぶん弱めに調節してくれたし、
扇風機も導入して 冷気を弱くしてくれた。







これが、肌ふとん。






夏になると 私たちは 肌布団を掛けて休む。

厚さがちょうどよく、
表はシャリ感があり、裏はガーゼで柔らかい。

私のお気に入りだ。

毛布と違って 
亭主も 自分で自分をグルグル巻きにしないで済む(爆)。



けれど この優秀な肌布団は 
風を通す。

クーラーや扇風機が回って
壁に当たった風が来ると
肌布団の中の私の足は 風で冷えてしまう。

しかも、何故か? いつも
風が、または壁に当たって跳ね返った風が
よくあたる場所が 私の寝る場所なのだ。

だから どんなに暑くても
毛布は欠かせない。

毛布を欠かせない自分の足が悲しく、

電気のチカラを利用せずにはおれない亭主が憎らしい。



M女史のその後(2)

2008-08-31 | いろんな人
「え? 何ですか?」

その時 私は 整体院で
身体はうつぶせのまま
上半身をひねって 後ろを振り返った。

いつになく 整体師の声が低くて
聞き取れなかったから。

しかし 何故か 
うつぶせのまま聞き返すことはしなかった。







整体師は たぶん 今言った事と
同じ事を口にしてくれたのだろうと思う。

「Mさんが、亡くなったのよ。」










なんと言っていいのか、わからなかった。

そう言えば 最近 お姿を拝見していなかった。

子宮や卵巣を取ってしまうと 
よほどお腹の辺りに力が入りにくくなるのか、
杖をついてはいたものの

足取りは確かで、しっかりと歩いていらしたのに。










手術後 職場に復帰してからお会いした時には
彼女はがんが再発したようで、
障害者になるかどうか、で 今 悩んでいるのよ、
と 話してくださった。

膀胱か直腸の方に 癌が行ってしまったのだ、と直感した。

その後 
もう一度休職して
抗がん剤で転移癌をやっつけて
障害者にはならずに済んで
ホッとした所までは 
整体院でお会いして お話を伺っていた。











整体師の話では
なんでも 白血球数が異常に低くなってしまっているため、
また(同じがん専門病院に)入院する、と話していた、とのこと。

じゃあ、何?

白血球が少な過ぎて、亡くなったってこと?



世界が混乱して 生き馬の目を抜く時代が来ても
しぶとく生き残ります、という占いに
喜んでいたしたM女史。

そして 誰もが その占いを信じたM女史。

癌との闘いにも 打ち勝ったのではなかったの?

こうして まさかの訃報を耳にするとは・・・・・・。



去年の7月のことだった。







土手のカヤツリグサと 水溜りの水を飲む愛犬






整体師も 長い間その事実を知らなかったそうで、
「私も つい最近 聞いたところなのよ。」
とのことだった。

ご命日は いまだにわからない。



M女史のお父さまは すでに亡くなっており、
老いたお母さまが 
「長生きしたばかりに、こんなに悲しい目に遭う。。」
と泣いていらしたとか。

職場でたまに愚痴を聞かされていた弟さんが
今ではご実家で跡をとっており、
M女史の亡骸を 引き取って 故郷に行かれたとか。

そんな話を伺いながら
その日の 私の整体の治療は 進んだのだった。






白血球が少なすぎて入院する。

そんな時に M女史は 
自分の命が儚いことを考えていらしたろうか?

生きて病院から出てこれると 
思っておいでだったのではないだろうか?



T子さんなら、これも

「そういう運命だったのよ。」

「前から決まっていたことなのよ。」

と そうおっしゃるのだろうか。



M女史のその後(1)

2008-08-30 | いろんな人
M女史は
周囲への気配りが万全の人だった。

いつからか E女史と私が通っている整体院に顔を出すようになり、
退職後 しばらくして 
田舎からエッチラオッチラ通うようになった私とも
たまに整体院で顔を合わせる事があった。

あの頃の 若め?の 独身女性たちも 
いつの頃からか 管理職に回るような年代に入り、
ベテランの彼女も そういう年齢だったはずだし、
実際、そういう地位に立っていたと思う。







雨が続くと 土手にはキノコが生える。






M女史が 平日に治療院に現れた時、
やたら大げさなマスクが気になった時がある。

寒くて 風邪が流行っている時期だった。

彼女は 声を潜めて、
「今、抗がん剤治療をしてるから、
 感染症にかかりたくないのよ。」
と言った。

女史は 現在 休職中だ、ということだった。



私は 自身が乳がんであることを話したが
M女史の癌が どこの癌であるかは聞かなかった。

子宮とか、卵巣とか、そっちの方だったらしい。

そして 両方を摘出したらしかった。







でもこのキノコは あっという間に融けたようになくなってしまう。






あんなに健康に気をつけて
人間ドック受診にも積極的だった。

というか、中小企業である私たちの職場に
社員の検診をきちんとさせるように働きかけていたのは、
彼女だった。

職場の 他の部署の人たちが 検診を受けている間、
私の部署は忙しくて 例年 検診が受けられなかったからだ。

さあ! 私たちも、検診を受けてきましょう!
と 外に出ると 
そこにはもう レントゲン車の姿もなかった、
ということさえ あったのだった。







大きめだけど、やっぱり、すぐに融けてなくなってしまう。






そんな彼女でも
やはり 癌になる。

けれど、
検診を彼女がサボるはずがない。

きっと 初期で見つかり、
今後 深刻な事態には ならないだろう、と
私は楽観していた。


       
                      つづく



K女史とM女史

2008-08-28 | いろんな人
K女史とM女史、
どちらも 昔 
私が勤めていた職場の先輩。

私の職場は女性がほとんどで、
しかも 
一番若い私から 50代の女性まで
私が亭主と結婚するまでは
全員が独身だった。







コロッケ・ボール






当時 おふたりは 20代の終わりから30代の初めだったが
とても頼りになる先輩で、
実際に職場を動かしているのは このふたり、
という感じだった。

おふたりとも よく働き、よく遊び、
そして とてもよく飲み(笑)、
且つ 美味しいものをよく食べる人たちだった。



私はいろいろとご迷惑をかけ、教え導かれて、
お茶汲みのし方、
不必要な仕事の手の抜き方、
職場への要望の出し方、
問題意識の持ち方・保ち方、
それから 
仕事に対する集中力と熱意と誠実さ、などなど、
いろいろなことを教えていただいた。

そして 娘を妊娠した時には
護ってもいただいた。

生涯、忘れられない恩人。






K女史は 
「一日一回 ソバを食べるといい」
とかいう情報をもたらしてくれた人。

ダイエット情報にも詳しく、
食べ物を点数で数える計算ができた人だった。

そして何より、
私が今 通っている
整体師を紹介してくれた人でもある。

国文科の出身だったが、
外国語に興味があるらしく、
毎年 夏になると 
聞いたこともないような言語を学びに
大学に通う学生になっていた。



風の便りに聞いたところによると、
彼女は その後 イギリスに留学し、 
帰国後は 
かつて勤めていた職場と 同じ業界、同じ職種、
けれど ずっと有名で ずっと実力を必要とする職場に
キャリアアップなさったという話だった。



そんな人が、実際に、いるんだなあ。。。。。






M女史は 周囲への気配りが 万全の人だった。

そして 仕事への集中力も 誰よりもすごかった。

用があって話しかけても 聞こえない、
ということが 何度もあった。



ストレスも 大いに溜まるらしく(苦笑)、
その解消法も大胆だった。

旅行も多かった。

一緒にいってくれる友人も多かったようだ。

スキーの時はスキー友達、という具合

もちろん、飲みに行く時は、飲み友達(笑)。



シベリア鉄道に乗って 
冬のシベリア大陸横断の旅は、寒かったそうだ。

事前に日本で 大枚はたいてコートを買ったが 
コートに包まれた見ごろは寒く、

現地で買った帽子とブーツのおかげで
足と頭だけが暑かった、と話していた。



「アフリカの動物は、すっごくキレイなのよ!

 動物園にいる動物とは、
 ぜんっぜん!!!!!!、違うの!!」

と 声を裏返しておっしゃるのを 何度も聞いた。

最初にアフリカの動物に逢う旅に行って 
その美しさに感動したのだとう話だった。

ただし、あすこは 乾燥がひどいらしく、
露出していた部分、つまり顔の皮が 
帰国後もしばらくは むけていたっけ。。。




二度目のアフリカ行きの事前には

「アフリカ行って、
 な~~~~んにもしないで、
 ただ、ぼ~~~~っと、動物を眺めていたいの!!!」

とノタマッテいた。

よほど出来の悪い後輩が
ストレスを与えていたものと思われる。。。(汗)







バブル全盛期に向かう、
「これから暮らしはドンドン良くなるに違いない!」
と信じられていた時代の先輩たちだった。



空芯菜のニンニク炒め

2008-03-17 | いろんな人
空芯菜のニンニク炒め、レシピは、コチラ(→家庭で出来る本格家庭中華料理



「君、日本語が上手だね。」

「あ、ありがとうございます!」

「日本に来て、もう長いの?」

「ええ、まあ。」

ウソは、ついてない。







庭のノビルは ひょろひょろと風にそよいでいる。
野焼きした土手では ようやくノビルが伸びてきた。







たまに 胸につけた名札を見る人がいる。

名札には 「日本人ですッ!」て感じの名前が書かれている。

「あなた、日本人なの?」

「半分、日本人なんです。」

これは、半分、ウソ。

でも そう応えると お客さまは納得して満足した顔になるという。



娘は 日本人と 日本人の間に生まれた、日本人。

でも何故か 東南アジアが好きで 
しかも 東南アジアの国の人に見える。

(私が見ても、見える。爆)







きょうの写真は、土手のノビル特集(笑)。







去年の春から 
東京の一歩手前のサイタマ県のアパートで ひとり暮らしを始めた娘は

こちらの駅前の学習塾で英語を教えるのは止めた。

学習塾というのは 帰りが遅く、
イライラ心配しながら帰宅を待ったものだった。

オマケに 受験生を担当すると 
相当 気を使う、ということだった。



そして
「まかない」狙いで? アジアンフードのお店でのアルバイトを始めた。



本当は 駅前留学の外国語学校の面接試験を受けたのだったが

採用だったら○日までに連絡します、という、その○日、
N○VAが破綻してしまったので、
とうとう連絡はこなかったという(爆)。



アジアンフードの店のアルバイトでは 
娘は自前のTシャツやキャミソールの上に 
上下揃いのアオザイを着るという。

きっと似合っているんだろうなあ、と思う。

そして、来客とは 冒頭にあるような会話がされるという。





高校生の時に 学校の企画したプログラムに乗って
東南アジア某国に 2週間ほどホームステイした娘の写真を見ると
娘は 誰よりも色が黒い。

ホームステイした家庭の高校生の娘さん(お父さんが中国人)よりも

そして
姉妹校になっている私立女子高校の娘さんたちの誰よりも

娘は色が黒い。

鼻も低い(涙)。

東南アジアの国から来ました、と言っても
誰も疑問に思わないだろうと確信している(笑)。






お店で働いているのは ほとんどがアルバイト学生。

それも 本国から来ている留学生たちで、
みんなとてもマジメだという。

問題は‘ことば’で、
彼らは日本語がたどたどしく、
娘は その国の言葉を全く知らなかった。

でも 隣の国などには
ホームステイしたり ボランティアで行ったりしたわけだし
だいたい 隣り合う国の言葉には共通項があるはずだから(?)

(だって、ほら、スカンジナビア半島辺りの国の言葉は似ているので 
ひとつがわかれば、聞けばなんとなくわかる、というじゃない?)
 
なんとか 覚えてきたみたい。

わからなければ、仕事が滞る(笑)。



娘が日本語を教え、彼らは 彼らの国の言葉を教える。

(なんかね、映画で見た『ブッシュマン』の
 ニカウさんが話す言葉に似た音があるんだよ。)

客とのやりとりで 意味が通じないことがあると
日本に来て20年以上(笑)の娘の出番になるらしい。

そして、お料理が美味しいので まかない料理が楽しみ!と、
娘は このバイトが気に入っているようだ。

長期休暇が終わってからは
週末に行って稼いでいる。

そして 
また ボランティアで 東南アジアのあの村にもう一度行くのだ、と
張り切っている。







焼けたところから萌え出でて来るノビルは かわいい形をしている。







夏に帰省した娘が 料理を作ってくれるという。

材料が足りないので 適当に買ってきて、というと
娘は 私が普段行かないスーパーへ行って 
空芯菜を見つけてきた。

お店では 空芯菜を 最初に軽く茹でて 
炒め調理の時間を短くするのだという。

ニョックマムがどうの、と言っていたが
私が持っていたナンプラーで代用してもらった。

美味しかった。 感動した。

もちろん、美味しさに、ではなく、
インスタントラーメンも満足に作れなかった娘の進化に(爆)。







私には ♡に見える。







サイタマ県の 娘のアパートのある辺りで
暴行殺人事件が起きて
こちらが心配する前に 本人がとても慎重になっている。

そう、そう。

なるべく早く帰るんだよ。

そして・・・・・・・・・、
アルバイトなんてどうでもいいから、
なるべく早く、卒業しておくれ(号泣)。

T子さんの話

2008-02-16 | いろんな人
「それにしても、お日さまって偉いわねー。

 きのうは 日が射してなくって、寒かったから、
 ずっとエアコンをつけていたのよ。

 きょうみたいに 日が照ってれば
 こうして 床暖房だけで こんなに暖かいんだもの。」

と、T子さん。







蔵のある家の紅梅。白梅が咲くのはまだ先。






私が 「洋の東西を問わず、神さまになるわけですよねー。」
と言おうと思ったら
T子さんが

「しかも、タダ!」

と言ったので 私は噴き出してしまい、それきりになった。







冬の名残の ツワブキの綿毛。 ほわほわほわ。






T子さんは 50代半ば、独身。

自営業。

私がケッコンする前からの知り合い。

都会のマンションで暮らし、
仕事用に別のマンションを借りている。

私がお会いする時も その駅前の仕事用のマンションで。

(オール電化、オートロック、床暖房付き!)

これも そのマンションでの会話だった。






あれは 5年前の冬。

ちょど今頃かもしれない。

私は 術後に始まったホルモン療法で リュウマチがひどくなり、
痛みの他に 手足の変形が始まったように感じていた。

「これから先、今以上にひどくなったら、どうしよう。。」
と私が言ったら

T子さんは
「あなたが心配することで 病気が良くなるならいいわよ。

 でも 心配したって、良くなるわけじゃないでしょう?

 だったら、心配するのはおやめなさい。

 ひどくなってからだって 心配することはできるんだから。」
と言った。

それもそうだ、と納得して(爆)、
その言葉は 私の座右の銘になった。

先のことは 先になってから 心配しよう(笑)。







三つ目が咲いた 私のミニ胡蝶蘭。






T子さんのお父さまは もう亡くなっているけれど
「拝み屋」と呼ばれる職業だったそうだ。

どんな拝み屋さんだったか、私は知らない。

T子さん自身は 霊が見えるとか前世がわかるとか
そんなことは全くないそうだが
スピリチュアルなことに対しては バリアがない。

バリアがないどころか、積極的に信じているようだし、
特定の人の教えを 深く信仰しているらしい。

それなのに
以前は 宗教的なことが雑談の話題に上ることはなかった。



近年では 
宗教的、あるいは 信仰的な事柄について
時々 さらりと語ってくれることがある。

私も こそっと 
その時々の 心のひっかかりを T子さんに晒す。

T子さんのアドバイスは もう充分にスピリチュアルだ。






たとえば。

実家の母と姉を思う心が 届かない、と思っていた時。

どうすれば届くでしょうか?と尋ねたら

「あなたが 心の中で お母さんやお姉さんの事を 
 考えればいいのよー。」

それだけで? 本当に?



私はそれまで 心配な人や 応援したい人がいる時には

私のパワーを
実際に 見えない玉を持つように 
両手で持って 固めて 丸めて 
その人に届け! という気持ちで 投げていた。

そうすると 届くような気がして(笑)。

けれど そんなことをする必要は 全くないんだって。

心の中で 思うだけでいいんだって。

そうなんだー!

って、すぐに信じる私(苦笑)。