ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

鬱になると

2005-01-31 | 
いちめんの キャベツ、
いちめんの キャベツ、
いちめんの キャベツ、
いちめんの キャベツ、
いちめんの ・・・

*********************************

「ダイジョブだよね。
 ダイジョブだよね。」
「なにが?」

「ダイジョブだよね。
 お寺の子だもの。
 ダイジョブだよね。」
「だから、なにが?」

これが 私を産み落とした時の
母と産婆との会話だという。
(さすがに、私は覚えていない)

へその緒を首に斜めに懸けていると、
「袈裟懸け」と言い、
「袈裟懸け」で生まれた子どもは
長生きしないと 言われていたらしい。
昭和30年代の話だ。

入院できる産婦人科もあったけれど、
現金がないので
母は産婆を呼んで 我が家で私を出産した。

この子はお寺の子だから、
袈裟を懸けて生まれてきても 
早死にする事は ないでしょう?

取り上げてくれた産婆は 不安げに
母に繰り返し そう尋ねていたらしい。
泣き声も すぐにあげたわけでは なかったらしい。



「医者は やるだけのことは やった、と
 言ってるんだよなあ。」
何日も熱が下がらず、朦朧とした意識の中で
母が父に告げた言葉が聞こえた。

「ああ、私は 死ぬのかなあ。」
とぼんやりと思った。

そのあと、しょう紅熱だと 診断された。
「若草物語の、ベスがかかったびょうきだなあ。
 あのあと、ベスは 死んだんだよなあ。」

しょっちゅう高熱を出していて
高熱に慣れていた私も、
あの時は 苦しかった。




「よく あんたみたいな 身体の弱い子が
 20年も生きてこれたわねえ。」

私の成人式の時に
4つ年上の姉が 涙ぐんで言葉をつまらせた。



「あなたは 最初の子どもの時も
 二人目の時も
 子どもを生めるような 身体じゃなかった。」
恵比寿の整体師に言われた言葉だ。



鬱になると こんなくだらないことを
ぐるぐると思い出して
「私は生きてちゃいけなかったのかなあ。」
などと 考えたくなる。



でもなあ。
こお~~んな年まで 生きてきちゃったしなあ。

あの時はしょう紅熱じゃなくて、はしかだったしなあ。
 
結婚だって、できたしなあ。

子どもだって、うまれてきちゃったしなあ。

しかも、ふたりとも 私の子供の頃より、
ずうっと 元気だしなあ。

うん、ふたりとも、元気だ。



そうやって 立ち直っていける。

「チアノーゼとか言って、
 息をしなくなって 体中冷たくなって、
 紫色になってしまうのがあって、
 ママは小さい頃しょっちゅう
 そんなんになってたから、
 おばあさんは ママが小さい頃
 《この子は 大人になるまで 
 生きていけないのに違いない》
 と思って、
 ママを過保護に育てたんだよ。」

と話したら、子供達には大ウケで
大笑いされたっけ。



2003年12月、
子供達はふたりとも
推薦で進学を決めてくれた。
これは、嬉しかった。
というより、
心底、ほっとした。

鬱のつづき

2005-01-31 | 
年々 数が少なくなってゆく、
スノードロップ。
今年はついに 
たったひとつになってしまった。
見れば見るほど、
こんなに可愛い花はないと思う。

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ろくに勉強もしないで手術を受けた乳がんを
退院してから 
欝の最中に
いろんな本や 雑誌や サイトで 勉強した
ということは 前に書いた。

たとえば 
10年たたないと
再発・転移の心配は 「ひと安心」とは言えない
とか。

乳がんは とても再発・転移しやすい癌である
とか。

20年以上たって 再発・転移する人もいる
とか。

私の癌は 大きかった
とか。

いろんなことを 鬱のなかで考えて、
そうして 立ち直った。

「私、もう、滅多な事では 鬱にならないわよ。」
友達にも そう うそぶいていた。
自分でもそう信じていたし、
鬱にならない自信があった。



ところが どうだ。
去年も、寒くなったら、あっという間に
りっぱな鬱だ。



今年も寒くなってから 
たびたび 落ち込む。
でも自分で鬱っぽいな、とわかるだけ、
去年よりマシ。

そんな時は 無理をせず
食事も手抜きで済ます。
亭主に甘えて 外食にしてもらったりもする。
(遅く帰る子供達には ほか弁を買ってあげるのだ!)
一日ゴロゴロ ベッドにいたり
マンガを読んで過ごしたりしている。

元気な時も あまり外にはでず
ホットカーペットの住人になっているが
「ウツウツとした気分」ていどに
収まることが多い。

まだあと3年続く ホルモン療法。
いろんなことを ホルモン療法のせいにするのは
もう飽きたし、潔くない気がする。

私は このまんまで 私。

寒くなると

2005-01-30 | 乳がん
ブロッコリーの収穫が済んだ後の畑。
太い茎。
きっとこの茎の頂には
緑の小宇宙のようなブロッコリーを
重たげに載せていたに違いない。


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それまでなんとか頑張ってこれた2003年の冬も
寒くなったら、もう、からっきし。



朝は 月が輝き、星が瞬いている時間に起き出し、
6時前に家を出て
車のライトを点けて 駅まで夜間走行。
ホットフラッシュがくると 
ママの座る運転席の辺りだけ 窓が曇る。

愛犬の散歩も 土手の上というのは
風を遮るものが なにもない。
洗濯物は あまり早い時間に干すと
凍ってしまい、一日かけてそれが融ける。



毎日のリズムが 狂う。
なにより 寒いと 身体が動かない。
心も 動こうとしない。

仕事で疲れているであろう亭主を
隣のベッドから 揺すって起こす日々に舞い戻り。
そのくせ 目覚めた後にはお決まりの
ホットフラッシュがくるので 眠れない。



寒い。
心が暗くなる。
寒い。
暖かい所から 出たくない。

私の生活のスペースは 
畳2~3畳のホット・カーペットの上だけになった。

洗濯物を干す仕事は 亭主に返した。
台所にいる時間も 短い。
ガーデニングは・・・。



その年の春の 何もない庭の寂しさを思い出し、
あんな春は もうたくさん、と思う。
チューリップの球根を
寒さと うつうつとした気分に耐えながら
ようやく植え付けた。

去年のように 風邪を引いて寝込む事がないように。
毎日ちゃんと 食事の支度ができるように。

それ以外は なんにもしたくない。
毎日ホットカーペットの上で、ごろごろ。



これは、いま現在も 似たようなもの。
けれど 去年より 寒いと思うのに、
去年より 身体が動いている。

子ども達との 朝のドライブは 
6時半ぐらいになったし。
たまに 窓ガラスは 曇るけど、
なんとか今でも起きて送っていける。

愛犬の散歩は 距離はごく短いながら
時間も 暖かくなるのを待って
なんとか 出かけている。
時には デジカメを お供に。

洗濯物は その後に干す。
亭主は洗濯物が干せなくてかわいそう。

ホットカーペットは 私の巣。
何が悪い?

微笑みの効用

2005-01-29 | 健康オタク
きのうは、とおってもいい天気!
いつも歩く土手を下から見上げると、
こんなふう。
朝の土手の散歩のほかに
畑の中の道を 川まで行って来た。
デジカメ片手に、1時間40分。

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姉からその電話があったのは、
2003年の 寒くなり始めのころ。

「何の気なしに 顔を上げたら、
 洗面所の鏡に映った 自分の顔が 見えたんだけど、 
 それが、すっごく不機嫌そうな、いや~な顔してんの。
 別に普通にしてたのに、よ。
 べっつに 機嫌が悪かったわけでも なんでもないのに、よ。
 こわ~い顔してんだもん。
 びっくりしちゃって。
 あたしって、いっつも こんな顔してんのかしら、
 と思ってサ。
 が~っかりしちゃってさァ。」
(以上、可能ならイバラキ弁で読むべし)

うつの、深い底の方から 這い上がってきた姉だから、
言葉に気をつけつつ、
相槌をうつ。



「だからさあ、
 これから、口角を上げていようと思うの。
 だって、にこにこしてれば それだけでね、
 にっこりしなくても、
 口角が上がってると それだけで
 脳の中に いいホルモンが出て、
 健康にも 美容にも いいって言うししサ、
 はたで見てる人も気持ちいいと思うしィ・・・。」

「え? そうなの?」

ちょっと最初は信じられなかった。
でも そういえば そんなこと 聞いたような気もする。
落語を聞いた後には 
リウマチの人の関節の痛みが激減するとも言うし。
それは「笑い」の効用。



それからしばらくして、広報誌の
医師が書いたコラムに
同じ事が それらしく書いてあるのを見て、
「ああ、ホントにそうなんだ」と確認した。

その記事が 今 見当たらないのが残念だが、
口角をあげると それだけで
脳が 「ああ、私は今 いい気分なんだ」と勘違いをして、
リラックスした時と同じ状態になるのだという。

脳って、案外、おバカ。



他にも、お化粧をしたりして 
手で顔を撫でるという動作が
特に女性にとって 大変いい影響があり、
呆けた老人の表情も イキイキしてくる
という 新聞記事を読んだことがある。
姉は努めて実行しているそうだ。
これも似たような効果だろうと思う。

脳が分泌するさまざまな物質に関しては
まだまだわからないことが多いらしい。
少しずつわかってきていることも
とても興味深い。
認知療法の本も面白かったが、
今は だいぶ前にブームになった『脳内革命』を
興味深く読んでいる。



微笑むだけで。
いや、口角をあげるだけで
脳内ホルモンが分泌されて、
精神的にはうつに強く。
お肌はキレイに。
集中力はアップ。

ああ、いいことばかり。
おまけに、元手がかからない。

一周年記念日

2005-01-26 | 乳がん
小さな小さな庭だけど、土の部分を残せてよかった。
愛犬が好き勝手に 地面に穴を掘る事ができる。
写真はお気に入りの窪みに すっぽりと納まる愛犬。
この窪みは 暑い時と寒い時に 収まっている事が多い。
シーズンごとに メンテナンスも しっかりやっている。
(穴を掘りなおし、土をやわらかくして。)






入院・手術から 一年を迎えた時、
私の胸の しこりがあった辺りは、
まだしばしば 鋭い痛みがあった。

主治医に訴えると、
「がんが大きかったからねー」
で、終わる。

どんな質問にも 口癖のように
「一年から二年はかかるんだ」
と答えるという主治医。

まだ一年だから、
それほど変わらないってことか。
これで2年たっても 変わらなかったら、
はっきり聞いてやる。



胸の痛みのほかに、
・冷たいものを飲んだ時に、
 飲んだ液体が いったん術側の胸に溜まってから
 流れ落ちるような感覚がある。 

・一度は動きがよくなった腕が、
 運動をさぼっていると また ひきつれるように
 動かすと痛む。

などなど、術後に変化した事への不満は
いくつかあった。
これらは 程度は穏やかにはなったが、
いまでも残っている。

イライラしたり 不安になったりするほどではなくなったので、
主治医に
「一体、いつになったら こんなことがなくなるんですか?」
と 突っかからずに済んで、ほっとしている。



乳がんの治療をした日を
「第二の誕生日」と呼ぶ人たちがいる。

生命の危険のそれほどある手術ではないのだから
(病気そのものは
 そのままにしておくと危険だけれど)
大げさな気がしないでもないが、
私にとっても、大事な記念日。

真摯に 一年間生きてこれたことを
神仏に、また 協力してくれた家族に 
感謝したい気持ちになる。

正直に言えば、お祝いして欲しい!

私は手術の日が その日だと思っているが、
娘は入院の日や 退院の日のほうが
印象が強いと言う。



2003年12月のその日(手術の日)、
亭主と私は 電車で県庁所在地まで出かけ、
ホテルの最上階のレストランで ディナーを楽しんだ。

学校関係で一度だけ 
私はそこで贅沢なランチを食べた事があり、
眺望も サービスも 味も 気に入っていたのだ。
なんでも有名なシェフがいるとかで、
できたらいつか ディナーを、と 憧れていた。

亭主が快くOKを出し、
学校帰りの子供達と駅前で待ち合わせ
(学校は二人とも 家より県庁の方が近い)、
夜景のきれいな最上階で カクテルを飲み、
美味しいフランス料理を食べた。

私は入院からこれまで
不便をかけたこと、協力をしてくれたこと、
我慢してくれたことなどに対する 
感謝の気持ちを 素直に言葉にして
「これからも続くのでヨロシク」と乾杯をした。
(「これからも」のところでは 
  子供達は ちょっと嫌そうな顔をした)



春の亭主の誕生日のステーキを食べた夜に
足指の激しい痛みで目覚めてから
肉やバターは 控えめにしていた私だが、
この日は たとえ後で痛くなっても
どんなに油っこくても
きれいに食べてやる!
という悲壮(?)な覚悟で臨んだ夕食会。

そのお味は とても優しく柔らかく、
油を使ってないはずはない、と思うのに、
全くしつこさがなく、いくらでも食べられそう。
このレストランにしてよかった! 
と 感激する美味しさだった。
心配した関節痛も ひどくならずに済んだ。

その美味しさと カクテルの味見(ちょこっとだけ)で
子供達も大満足、上機嫌で、
楽しい、楽しい 夕食会になった。



残念だったのは、予約をしていなかったので
(予約を、と訴える私に、亭主は応じなかった)
平日だったのに 眺めのよい席は とれなかった事。
「今度来るときは 予約して あっちの席に座ろうね」
とみんなで言い合った。

去年のクリスマスに(ええ、仏教徒ですけれど)
気楽でおいしいイタリアンのお店で食事をする、
と亭主が宣言した時に 
すかさず私は 「予約したの?」と聞き、
ついで それを聞いた娘も 開口一番
「予約した?」
と尋ねてきた時には おかしかった。

亭主も珍しく予約を入れてくれた。
久々のナイフとフォークを 怪しく操っていると、
じきに満席になった。
「予約してなかったら、入れなかったねー。」
とりあえず 小さな失敗から
何かを学んであろう亭主も、ほっとしていた。



今現在の不満は、さまざまな理由から、
2周年記念日を ちゃんとお祝いしていない事。
美味しいものを 食べに行くだけでいいのにィ。

自分のカルテ(2)

2005-01-23 | 乳がん
義さんちは、百合を中心に栽培する、花作り農家。
蘭の栽培農家もある。
年末にいただいたこの蘭も、
多分、一緒に保育園の役員をやった、
あの若夫婦の 愛のこもった作品だと思う。
**********************






癌とリンパの写真は、カラーだった。
白黒のもある。
骨シンチの写真だ。
白く写っている私の骸骨。
その中に、黒く見えるところがある。
ドキッ。

「前回同様 頚椎右側に degeneraribe cange を示唆する
 集積増加を認める。」
なんのこっちゃ?
ま、主治医が「オーケー」と言ったんだから、
大丈夫なんだろう。



エコーの写真も、白黒。
liver: S2 に 15mm 大の hypoechoic area を認める。
前回指摘のS6 のhypoechoic area は描出されなかった、云々。
GB:異常を認めない
CBD:6mmで拡張(-)
pancreas:異常を認めない ・・・すい臓
kidney:異常を認めない ・・・腎臓
(もしかして、キドニーパイって、なにかの腎臓?)

しまいには、面倒になった。
手も疲れたし。
(頼めば、コピーをとってくれるんだけどね)



骨は、何かがあったのだろう。
ムチ打ち症に関連して キレイじゃなくなったのかも知れない。
癌の転移では、なかった、多分。
それでも黒々とした所を見つめているのは、おそろしい。

やはり 転移の可能性を考えると 怖いが、
再発・転移があれば、
今までやっていない抗癌剤治療がある。

一年間がん患者をやってきて、
髪が抜ける事は なんとも思わなくなった。
(吐き気は、いやだけど)

なんとも思わないけど、
これはやはり 癌とわかってから だいぶたったからこそ、
言えること。

癌の告知と一緒に始まる治療だったら、
さすがの(?)私も、のほほんとしては
いられなかったのではないか。
ショックだったのではないか。
もっと早く鬱になっていたのではないか。

やっぱり私はラッキー・ウーマン。
抗癌剤だって、怖くない。

主治医がオーケーだと言ったことは、
心配してもしょうがないんだから、
大丈夫なんだから、
気にしないでいこう。



中身を落としてなくさないよう、
気をつけてしまい込み、立ち上がった、
寒い日の窓際の椅子。

ときどき震えがきそうに寒かったのは、
窓際だったからか。

呼吸は浅く速くなっていて、
ドキドキは しばらく続いた。
2003年の、冬の日。

自分のカルテ

2005-01-21 | 乳がん
寄せ植えにあったガジュマルが残った。
作ってくれた娘さんに
「どのくらいまで大きくなるの?」と聞いたら、
「・・・・・・・・・どこまででも。」との答え。
どこまでも大きくなったら、どうしよう?
だたいま、40センチ、倍になった。





「あゆむ会」で質問が出た。
「自分のカルテを 見てもいいんでしょうか?」
あ、それ、私も聞きたい、と思った。
カルテは患者本人のものであるはず。
病院内を移動する時に 自分で持って歩く日もある。
でも なかなか見る勇気がない。
見ても、いいの?

帰ってきた答えは、
見てもいい、
でも、中には大事なものが いっぱい挟まっているから、
なくさないように気をつけて。
というものだった。

なあんだ、やっぱりいいんだ、
よし、見てやろう。



機会がやってきたのは、
術後一年目の 定期検査の時期だったと思う。

ロビーのはじっこで 
おそるおそる 分厚い資料を引っ張り出し、
開けていった。

それだけで、もう、ドキドキ。
見つかったら、叱られるんじゃないか。
(なんで?)



見て行くと、亭主が見せられたという、わたしの癌の、
写真があった。
最初の注射で青く色づけられた部分が、
癌の本体?

切除したリンパの写真もある。
こっちは、小さい。

もう、ドキドキ。
これが、私の、癌なのか。

きゃっ、見ちゃって、良かったのかな?
とも思う。
でも、自分の体にあったものだもの、
私は、見たい。
できれば、切除した実物も見たかった。



検査の結果の数字もある。
懸命にメモする。
丁寧に書こうと思っているのに、
手が急ぐ。
汚い文字や数字で 
いつも持っている小さな手帳に書き写す。

肺活量、3150ml。
ああ、これは 手術前の検査だ。
検査室で、「すって、すって・・・」とか、
「はいて、はいて、はいて・・・」とか、
大きな声で 励ましながら 検査をしてくれる
きれいなオバサンがいたっけ。

正常な中世脂肪値も ガビーンと上がった後の数値も
いっぱい数字が並んでいて、
とても知的な雰囲気だ。
(文系の私だけど、
 数字を見るだけで頭痛がするわけではない、
 なんだかわからないから 目が回るんだ。)
これらは みんな よく見れば 意味がわかる数字だから、
そして 私自身の数値だから、
興味深く、面白く、エキサイティングな数字の羅列だ。

腫瘍マーカーは 
上がったり下がったりしているけれど、
全部 正常範囲だ。
(正常範囲でも、癌はあったのよね。。)



診断   2a3 硬癌・・・硬癌だったっけ?
病理診断 2a2 充実腺管癌・・・どっち?
stage  ⅡA ・・・・・・あ、Ⅱで合ってたのね。
多発有無 なし・・・・・・そうよね。
数    1・・・・・・多発の有無はないんだから、一個!
長径   36mm・・・うん。
短径   31mm・・・大きいよね。

MMG    2a2 硬癌・・・説明聞いたよなあ。覚えてないけど。
MMG    最大径55mm・・・おおきい!
MMG    石灰化なし・・・石灰化って、よく聞くけど。
US 2a2 硬癌・・・しつこいなあ。
US 最大径 38mm・・・MMG とかUS って、何?
閉経状況:閉経前・・・・・・リュープリンで、即、なくなった。
断端陰性・・・・・・これだけね、ホッとするのは。



病理学的腫瘍径 : 16mm
これが、癌の大きさ。
しこりは 3センチくらいあった。
ようやく少し
忘れていた言葉を思い出す。

思っていたよりも、癌があちこちに飛んでいて、
予定よりも大きく切った、と。
ま、断端陰性なんだから、いいか。

白菜の漬物

2005-01-21 | いろんな人
亭主はお新香が好き。
漬物をマメに漬けた義母の影響か。
私も故郷では冬になると
白菜の漬物か沢庵を 
毎日毎日 食べさせられた。

写真は1月2日の河川敷の畑。
ここには 白菜はないようだ。





ご近所の義さんの奥さんも、マメな人。
時々奥さんの漬けた白菜をいただいていた。
亭主はいつも小躍りして喜ぶ。

私が漬ける白菜漬けは、
割った白菜を刻んでしまってから 
プラスチックの漬物器の蓋を ぐるぐる廻してつける。
一度にたくさんは漬けないし、重石も持っていない。
食べても、「漬物」の味ではないような気がする。

漬物のコツが 塩加減と重石にあるのなら、
問題は、重石だ。
40歳をすぎたあたりから、
私も塩加減は 失敗がなくなったてきたから。
ぐるぐる廻すような蓋では 
おいしく漬からないのかもしれない。

義さんちの白菜漬けは、塩だけのシンプルなもの。
唐辛子や 柚子などのアレンジは 後からでもできる。
にんにくを一緒に漬け込むのも 美味しいらしい。



それまでも時々いただいていた 義さんちの白菜漬けだが、
私が入院してから、毎週いただくようになった。

奥さんが漬けたのを 少しだけ、
義さんが すい~っと自転車で持ってくる。

事務所で亭主が仕事をしていなければ、電話をかけてくる。
「事務所の前に置いといたから。」
私を呼び出さない方法をとるのだ。
毎週。



花作り農家の義さんの家は ごく近く、
私たちは公私ともに たいへんお世話になっている。
親子ほども年の離れた私たちを、
ずっと一人前に扱ってきてくれた。

義さんは 周囲の人たちからの 人望も篤く、
自治会の会議などで 義さんが発言すると
長老達もみな 静かになって 耳を傾ける。
義さんの発言が終わると、それはもう 決定事項になって、
それを前提に 話が進むことも多い。

若い頃は やんちゃな面もあったそうだし、
勉強嫌いで 高校へ行かなかったという義さんだが、
頭は良く、思慮深く、自分の発言が及ぼす影響もよく知っていて、
普段は めったに発言しないで 黙っている。



その義さんが 自転車で持ってくる白菜漬けで、
私の留守の間の 亭主や子供達の食事が
より食事らしくなっていたのだろう。

去年も 今年も 
義さんの奥さんは 白菜を漬け、
義さんは 自転車で持ってくる。
毎週。

そうして 我が家は ほぼ毎日、
おいしい白菜漬けを 食べる。
なくなると、定期便が すい~っとやってくるのだ。



こんな 人たちの おかげで、
私たち家族は 親戚もいない当地で
やってこられた。

食べきれないよ!

2005-01-19 | いろんな人
最近になって 
よくお野菜を下さるようになった
農家の方がいる。
これは、その倉さんからいただいた、
ほうれん草。





いつも、なんでも、いただくお野菜は、
「出荷しているつもりか !?」
と思うくらい、多い。
ダンボール一箱のジャガイモ、
きゅうり10キロ、
長ネギ10キロ、
大和芋3キロ、
キャベツ2玉、
レタス2玉、
大根2本、
etc.

ウチは4人家族だって、みんな知ってるのに。
3人家族で、うちひとりは アカンボだって頃から、
どうしようもない量でいただく。

これが不味けりゃ、
文句を言うなり 捨てるなり するところなんだけれど。



ところが、これが、めちゃくちゃ美味しい。
採れたてだから?
それだけじゃない。

地味がいい、ということらしい。
早い話、土が甘いから(?)、
甘みのあるお野菜が採れる、ということ。

大農は土を作り、・・・とかいうんだったかな?
土を作ったのは、もちろん、大自然の理。
でもそれを維持するのは、農家。

その土の上で懸命に日々の労働に汗を流し、
自然の恵みを享受する働き者たちがいる。

我が家でいただくのは、そのおすそわけ。
農家でない家は 少ないから、
我が家のように 畑を持たない輩には
季節になると 汗の結晶が
山ほどやってくるのだ。

これは、ほんとうに、ありがたい。



寒い冬でも 真夏のように暑いハウスに
出たり入ったりして 収穫・出荷する。
凍った土に 鍬を入れて、畑から採ってくる。
日差しを遮るもののない畑で 真夏の雑草取りをする。
腰の痛みに耐えて、苗を植える。
本当に農家は大変だ。



去年は夏の水不足や台風の影響で 野菜が高値だった。
倉さんは、そんななか、
得意満面の笑みで レタスやほうれん草を
持ってきてくれた。

年が明けてから 亭主がムラで倉さんに会った時、
「そのうち また 持ってってやるヨー。」
と言ってくれたそうだ。
亭主が家に帰る前に、倉さんのほうれん草などが届いていた。
「あ、そのうちって、今日だったのね・・・」

美味しいほうれん草を、家族でいただく。
贅沢だ!

でも、近所に 農家でない家がないんだから、
我が家からは おすそ分けが なかなかできない。

倉さん、できたら、ほうれん草はこの10分の1で。
レタスも、キャベツも、一個ずつ
(いや、できたら、2分の1)
にしてくれると、もっと嬉しいんだけどなあ。

だって、ほら、
一生懸命食べているのに、
もう袋の下のほうは、溶けてきてるよ。。。

『魔法の杖』

2005-01-18 | 読書
当地を取り囲む山々は、
白い顔料を含んだ刷毛で
毎日 色を塗り重ねているかのように
少しずつ 白さを 増してゆく。




きょう 書店の店頭で
『魔法の杖』というのを 手に取った。
(ソニー・マガジンズ、2002・6・6、1800円)

この本の使い方:両手で本を持って深呼吸しよう
           ↓
        イエスかノーで答えられるような質問をします
           ↓
        本を閉じたまま、ここだと思ったところを 
        ぱっと開きます
そこにあるのが あなたの問いに対する答えです

とあるので、問いかけてみる。
そしたら 私の心に浮かんできたのは、
乳がんの事ではなくて、
「私は私らしく やりたいことをやって、
イキイキと生きていけるか」、
という質問だった。



開いたページには
「力のカードが出ました。
 あなたには きちんと整理して 
 やりとげる 力があります」
とあるではないか。

すっかり嬉しくなって、買って帰ってきた。
「力があるんだから、あとは 私の努力次第、よね。」
などと考えながら。



似たような本は 同じワゴンの中に
幾種類もあったので、
せっかくだから、全部開いてみた。
こちらは全部、私の乳がんは完治するか?
と問いかけた。

すべて、いいような事が書いてあったので、
アラ?
悪い事は書いてないのかな?
と、すこしがっかり。

今 帰宅して 『魔法の杖』をめくってみると、
必ずしも良いほうに解釈できる言葉だけではなく、
がっかりする言葉や 厳しい言葉も含まれている。
しばらくは、楽しいおもちゃになりそうだ。

店頭では 深呼吸もしなかったし、
片手で持っていたので、
後で 気合(?)を入れて、
やり直してみるつもり。

カルチャーおばさん

2005-01-17 | 考えたこと
久々に 暖かな朝だったので
散歩を4kmコースにしたら、
急に冷たい風が吹いてきて 寒くなってしまい、
途中で引き返した。
一番近くに見える山も、こんなふう。




2003年11月
カルチャー教室を2回だけ、受講した。
憧れの朝日カルチャーを、横浜で。
横浜まで、恵比寿からは すぐだった。

午前中に整体師のところで治療を受け、
駅ビル“アトレ”で ささっと昼食、
鍼灸師のところは キャンセルしておいて、
すっ飛んで横浜へ行くと 
ちょうど始まる「代替医療」の講座があり、
そのうちの 養生食と 気功とを 受講。

役に立たないことばかり 面白くて覚えている。

そのうち、師匠の養生食の講座では
すでに知識として入っていることも多かったが、
「発酵食品」についての話が 心に留まった。

味噌汁、漬物などの 発酵食品を 常に食べること。
煮物、和え物、おひたし、そして
それらよりも、発酵漬物を。
漬物と味噌には 
酢、醤油、油よりも お金をかけて、いいものを。
朝の味噌汁と漬物は 精神にも 影響するのではないか(?)
などなど。



それより とにかく 
私にとっては 外界へ出る、ということが嬉しくて。
治療院めぐりでは つまらない。
それさえ行けない時は鬱っぽくなるが、
たとえ行っても、 
ショッピングの時間も(お金もだけど)ない。

考えて見たら、カルチャー教室は
勤めていた頃からの 憧れだった。
だから 出かける先がカルチャー教室、というのは、
もう、スキップしたいくらい、嬉しかった。

「カルチャー教室、行きたいなあ」と思い始めたのは、
勤務先の先輩が 習い事を始めた、と聞いた頃から。
趣味を楽しむ、教養を深める、キャリア・アップになる、
そんな習い事を 始めた先輩達がいたのだ。
その頃の私は 給料が安かった。
「カルチャー教室」というのは、結構お金がかかる。

当地へ来てからは
アカンボを抱えて 年中無休、
食材の買い物にさえ 思うように行けず、
おまけに退職して私は無給、
亭主の給料は トラバーユしたのに
上がらなかった。

ある大学の先輩と 都内で合った時。
彼は朝日カルチャーの講師をしていて忙しいと、
得意そうにスケジュール帳を見せてくれた。
その時も私は腕に乳飲み子を抱えていた。
お金は、やはり、余裕がなかった。

亭主が独立して。 
家を建てて、雨露を凌げるようになって。
事務所を新築して。
無我夢中でやってきて。

いくらか金銭的な余裕が出来たと思ったけれど
年中無休、時間的余裕は もっとなくなった。

ただ 仕事には慣れ、土地にも慣れて
それまで手を廻せなかった仕事にも
手をつけられるようになった。
子どもには 手がかからなくなってきた。



そしたら、わたし、もう少し 家を出ても
いいんじゃない?
不満が充満しているときの、癌告知。

放射線治療が終わったら、
わたし、もっと、外へ出かけたいの。

亭主の答えは、「週に一度」。
私はそれを 治療院への 通院に充てた。

スーパーへの買い物は 外出には入れない、
これだけが私の小さな反抗心。



私の夢は、カルチャーおばさん。
興味の広がりようは、留まるところを知らない。
役に立つこと、立たぬこと、なんでもいいから、
なんでもかんでも、習ってみたい。
あちこち、飛んで歩きたい。
できたら 亭主と一緒に飛びたいのだが。
亭主の恋人は、仕事。

防災とボランティア週間

2005-01-16 | 考えたこと
防災とボランティア週間というのが
1月15日(土)から始まったようだ。
週末に始まる週間だったが、
防災の日の1月17日をはさみ、
毎年1月15日から21日を
期日としている。


阪神淡路大震災の起きた日が またやってくる。
もう十年になるという。
NHK の朝の連ドラも震災にひっかけているし、
テレビでは特集番組が目白押し。

どうぞ、どうぞ。
いっぱい特集して放送してほしい。
私たち人間は、忘れやすいイキモノだから。
原爆記念日と同じように、
ずっとずっと 忘れないでいるように、
忘れずに特番にしていってほしい。

けれど当事者達は 決して 忘れはしないだろう。



昨日のNHK の ETV 特集を見た。ちょっとの間だけだが。
作家・高村薫さんは 
自身の小説の中で 人が殺されることや 事件が起こることに
興味をもてなくなってしまったという。

結果、自分をモデルにした「晴子情歌」を
5年かけて執筆、出版した。
無名の人の人生を見つめるようになった、
なんでもない 普通の人生が尊いと 思えるようになった、
と話している。

ところが、この本は 今までの彼女の読者には
受け入れられなかったらしく、
販売部数が伸びていないそうだ。

こんなふうに
人生観が変わり、作風まで変わったのだが、
高村さんは
震災の悲劇を 「辛い」と感じることに
どうも罪悪感があるらしい。

大阪・吹田市で揺れを体験したけれど、
家も無事、家族も失っていない自分が
そんなことを言えるのかと。

悲しみの只中にいない人たちにも、
震災は 大きな爪あとを残している。
その爪あとは これからも消えないだろう。



この前日、14日には TBS で
「阪神淡路大震災10年悲しみを勇気にかえて」を見た。
これも 途中で出かけたりなんだりで、
三度に分けて いい加減にちょっとずつ見ただけなのだが、
そのちょっとの間に、
涙がボロボロ。

いつから泣いていなかったろう。
涙はじんわりにじむだけで、
こぼれることはなかったのに。

いつもの「再現ドラマ」とはちょっと違う気がした、
10年の節目で、力を入れて 作ったのだろう、
それにしても 泣けるとは 思っていなかった。
震災のニュース映像では 泣かなかったのに。

私のなかで、阪神淡路大震災が
済んだこと、過ぎ去ったこととして
風化した事の顕れか、と思う。

本当に悲しい時に 涙が出ない人もいる。
私は父の急死にも 泣かなかった。
自身の癌の宣告にも泣かなかった。

ただ 顔がゾワゾワして 冷たくなっていく気がして
その場から逃げたいのに 動けない、
そんな反応しかできなかった。

だから この日 ひとつひとつの物語に
垣間見ただけで そのつど ボロボロ泣ける自分に
驚いた。
そして 過ぎ去ったことなんだ、と実感した。

きっと 当事者達は まだこんなふうには泣けないだろうし、
チャンネルを合わせることさえ
できないにちがいない。

阪神にも 北海道・奥尻にも 新潟・中越にも
去年の台風の被害や今回の津波の被害のあった国々にも
親類・縁者がいなかったから、
私は平気で涙を流して 見ていられたのだと思う。

それは 決して 被災者の流す涙とは 違う。
どこか、「よそごと」、ドラマ、といった感覚が
あるのではないか。



だからといって 高村さんの意識の変化を
偽善だとは思わないし、
私の共感も嘘ではない。

人のちっぽけさ、人知の幼稚さを感じ、
できることを 精一杯しようと思う。

阪神淡路での教訓を 中越で生かし、
中越での教訓を 今後に生かそうと
奮闘している人たちもいる。――ガンバレ!
 
ちっぽけな私にも できることは いくつかある。
それは 小さいことだけれど
大きな希望に繋がると 信じたい。

『遺書』

2005-01-14 | 読書
書こうと思いつつ年が明け、
新年早々書けないと思っていたのが、
この本のこと。
もう、鏡開きも過ぎたし、
祖母の葬儀のときの事も書いちゃったし。




あんまり楽しい書名ではない。
読む気になったのは、
「笑う乳がん闘病記」という副題に
ネアカそうなイメージを持てたから。

著者、田原節子という人については、
ジャーナリスト・田原総一郎の妻、
という認識しかなかったのだが。



むかし、「容貌が衰えた」という理由で
番組を降ろされた女性アナウンサーが裁判を起こし、
勝訴した、というニュースを聞いた覚えがある。
「すんごいオンナがいるなー。」
と思ったのだ。
けれど年齢はまだ若かったし、
テレビに映っても 充分キレイな人だと思った。

彼女は、その日本テレビのアナウンサーだったらしい。

この本の表紙では 精一杯お化粧をして
にこやかに微笑んでも
ブクブクとしたオバチャンでしかないが、
すごくスタイルも良く、才色兼備で、
気の強い所もある女性だったようだ。
そして この写真の頃は、
薬の副作用や ムクミもあったようだ。



彼女の病気は、炎症性乳がん。
普通の乳がんとは違うらしい。
5年生存率が1~2%と言われていた。
(最近のテレビドラマのタイトルにもなった、
 初期の乳がんの5年生存率の87%と
 くらべれば、すごく違うのがわかる。)

彼女は退院後、本や資料を読みあさり、
その炎症性乳がんの生存率が3~4%という記述を見つけて
「生きる希望が倍になった」
とホッとしている。

数年後、主治医から
「今、僕の周辺では30%ですよ。」
と言われて、
「やった!」
と小躍りしている。

最近のアメリカ国立がん研究所のサイトで
アメリカでは 炎症性乳がんの5年生存率は
50%を超えた、という情報をえている。

そして、がん友と
「私たち、とてもいい時期にがんになったね。」
と言い合っている。

なんというネアカさか!



本当に、彼女の言うとおり、
「がんになるんだったら、なるべく遅いほうがいい」
ようだ。

「病気を細く長く引き伸ばしていれば、
 治療のほうが 追いかけ、追いつき、
 追い越してくれる。」
新しい治療法が 
つぎつぎと可能になってくるからだ。

抗癌剤の認可のスピードも、これからはもっと
早くなると期待したい。



田原節子さんは 
創刊された雑誌『がんサポート』のなかで 
がん治療のエキスパート達と対談したり。

本を夫と共著で書き上げたり
 (その本は、彼女の遺書だった、
  と俵萌子氏はいう)。

「這ってでも行きます」、と言って
がん体験者のリレートークに出向き、
車椅子で講演したり。

「転がってでも行くから」と言って、
ストレッチャーで病院から舞台に到着したり。

とにかく 最後まで 精一杯生きて、
最初の手術から6年近く生きて、
置き土産に
NPO法人 日本乳がん治療ネットワーク
の立ち上げを(途中まで)して、
そして逝った。

やはり「すんごいオンナ」だなあ、と思う。

リュープリンとゾラデックス

2005-01-13 | 乳がん
2003年9月、
がんセンターへ行き、
いつものように処置室へ行くと、
外来に行ってきてください、と言われた。

外来へ行くと 主治医の診察室に呼ばれ、
注射が変わる、と告げられた。

それまでの注射は リュープリンと言い、
処置室のカーテンの中で
椅子に座り 看護士に 健側の腕に打ってもらっていた。
初めて打ったのは 退院前、若い医師に。
「痛いらしい」とその医師に聞いていたのに、
それほど痛くなかったのは
皮下脂肪がたっぷりあるからか、とも考えていた。

それを きょうから ゾラデックスという注射に替える、
という説明が、わざわざ主治医からされたわけだ。
そして、ゾラデックスは 
看護士ではなくて 医師が注射すると。

「ほんとうは 看護婦の方が、注射はうまいんだけどねー。」
と主治医。

替える理由は、保険がどうとか いうことだった。
リュープリンを使う場合、
一本に付き5万円を 病院が払わなきゃいけない、
とも言っていた。

「? ? ?」

「ゾラデックス」という注射薬の名前は
ネットでいろんなところで見て知ってはいたので、
不審に思うところは なかった。
けれど、保険制度に関しては まったくわからない。

テレビドラマにもなったマンガ『ブラック・ジャックによろしく』
のなかで訴えられていた、
混合診療になるというわけでは ないだろう。
もうずっと 認可されて使っているわけだし。



リュープリン、一般名:酢酸リュープロレリン、
子宮内膜症と 子宮腺筋症と 前立腺がんと 
閉経前乳がんのクスリ。
卵巣機能を抑えて 月経を止める。

ゾラデックス、一般名:酢酸ゴセレリン、
閉経前乳がんの術後補助療法として
腫瘍細胞の増殖を促進するエストロゲンの産生を
抑制する作用をもつ。

どちらもLH-RHアゴニストと呼ばれるクスリらしい。
脳下垂体からのLH産生を抑制することにより、
卵巣からのエストロゲン産生が抑制される。
そのため、血中エストロゲン値は
閉経後の女性と同等のレベルにまで低下する。

これにより、エストロゲン受容体陽性の腫瘍が
必要なエストロゲンが得られず、
増殖や分裂が出来なくなる。
というわけだ。

私のガンは、このエストロゲン受容体が
とっても陽性だったらしい。



リュープリンまたはゾラデックスの注射のほかに
飲み薬があるが、
私のようにホルモン受容体がプラスのガンは
これらのホルモン療法によって
抗癌剤と同じ効果が、
しかも脱毛や吐き気や感染症などの副作用ナシに
得られる。

・・・ただし、ホルモン療法にも 重い副作用が
人によって表れるのは、
いままで書いてきた通り。



というわけで、注射の種類が替わる、ということを了承して、
もう一度処置室へ戻って、注射をしてもらった。
今度は、ベッドの周りにカーテンを廻して、
ベッドの上に横になって お腹を出し、
お腹に打ってもらう。
その後 しばらくの間 アルコール綿で押さえ、
改めて看護士がやってきて 
出血が止まったかどうか 確かめてから、
絆創膏をはって、おしまい。

面倒になった。

面倒になっただけではなく、かなり、痛い。
これを 毎月一回、2年間続けるのは、
かなり、気がめいる。

リュープリンとゾラデックス、あわせて、
私は 最近3年目に入った。
主治医にお願いして、
もう一年追加したのだ。
ああ、まだ月に一度、痛い日が来る。

愛犬のこと

2005-01-12 | 考えたこと
我が家の愛犬は、
戸外の地面に打ち込んだ杭に 鎖をつなぐという、
由緒正しい 伝統的な 飼い方をしている。
お風呂に入った後も、
一通り家の中の探検がすむと、
外に出たくて、落ち着かなくなる。




写真は オリーブの木の根元で くつろぐ愛犬。
7歳。
もう一匹、茶色の犬がいたが、3年前に5歳で死亡。

2匹とも 雑種、メス、捨て犬。

すぐそばに河原があるものだから、
捨て犬が 後を絶たない。
断然、メスが多い。

猫も捨てられるが、なぜかこれは 目立たない。
野良猫は 人の姿を見ると
向こうが 逃げて行ってくれるからか。

捨て犬は 狂犬病の感染や 
人を襲って噛み付く恐れがあるから、
地元の人が 一生懸命捕まえて、
保健所に引き渡す。

当地へ来てから、
そんな犬を 何頭見てきたことだろう。



ひところは 立派な猟犬が 
シーズンの終わりになると 何頭も残されていた。
人懐こいのに 人を恐れ、お腹をすかしていた。
可愛そうだけれど、
そのままウロウロさせておくわけには いかない。

ずっと飼って、えさをやって面倒を見て、
訓練・鍛錬をしていくよりも、
シーズンごとに 訓練の行き届いた犬を
新たに購入した方が、安いのだと聞いた。

保健所に連れ去られてゆく 犬の鳴き声は、
血統書が付いていようといまいと、
同じように切ない響きがある。



そんななか、我が家で引き取ることになった、
二匹の犬達。
ことにこの犬には、先輩犬が亡くなった時には
ずいぶんと なぐさめてもらった。

今は 私の運動療法(散歩)にも 付き合ってもらっている。
ずっとずっと 元気でいてほしい。

今朝の新聞に、
ペットの寿命が 延びていると言う記事があった。
犬は11・9歳、猫は9.9歳が 平均寿命。

ワクチンの接種率が上がり、感染症が急減したため、
12年前にくらべて犬は3.3歳、猫は4.8歳も
長生きするようになったとか。

長生きするようになった結果、死因は
ガンや心不全などの 生活習慣病が 7割を占めるという。

そういえば 周りにも
老いて 歯の抜けた犬、歩けなくなった犬などの話が
多くなった。

この愛犬にも、そのくらい 長生きしてほしい。



最近越してきた若い夫婦に、
初めての子どもが生まれ、
二番目の子どもが生まれ、
ついで かわいい子犬がやってきた。
そこのご主人から 聞いた話。

保健所に引き取られた犬の中から、
自分たちで出向いて 
「この子がいい」と決めて、
もらってくることができる施設があるらしい。
その家でも、 
どの子にするか 子供達を交えて 話し合って決めて、
連れてきたのだと言う。

我が家の愛犬が 幸せかどうかは 
本人に聞いて見ないと 何ともいえないが、
幸せな 捨て犬が増えていくことは
彼女も喜んでくれるのに違いない。

せめて、生命のあるものを 無責任に捨てる人が 
いなくなってくれますように。