ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

新しいおっぱい

2005-03-30 | 乳がん
‘おっぱいを作る会社’に 
おっぱいを作りに出かけたのは、
2004年11月にはいってからだった。

型どりをした。
私の左右のおっぱいの位置は、
約2センチ ずれていた。

温泉に入った時に目立たないように
ノーブラおっぱいに似せて作るか、
洋服を着た時に自然に見えるように
ブラをつけたおっぱいに似せてつくるか。

私は 温泉は そのまま入れると思ったので、
ブラ着用型で作ってもらうことにした。



温存の人のおっぱいは 
(たぶん、形状がフクザツだから)
作るのは難しいそうなのだが。

もう どんどん増えている、
そして これからもっと増える 温存手術、
(だって、術前化学療法とか、早期発見とか、
 どんどん進んでるんだし。)
それでも 元の形には戻らない悲しみと不便。

‘おっぱいを作る会社’さんには
温存おっぱいも、頑張って作ってもらわねば。



12月、
石膏で作った型が出来上がった、とのことなので
仮合わせに出向く。

中学の美術の時間にいじったような白い石膏で 
おっぱいが出来上がっていた。

術側の胸に当てて、ブラをつけて、
シャツを着る。


石膏の型のほうが、大きい。

ショック!
健側の胸が、一月の間に ヘタってしまったのか!

もう一度 型の作り直し。



12月末、型ができたとの電話。
年が明けてから 伺う事にする。

2月初旬、ようやく行けることになっていた。
亭主の仕事も 私の用事も 全部その日にあわせて
空けていた、ちょうど その日、
私は風邪を引いて寝込んだ。

2月下旬、
ようやく出向いて、
もう一度 白い型を 胸に当てる。
シャツを着る。

これなら!

微調整の仕方、手入れの仕方、
いろいろな説明を 改めて受けて帰ってきた。



そして、3月下旬。
ようやく私の新しいおっぱいが届けられた。

可愛らしいピンクの薄紙にくるまって。

写真は、その裏側。
形のフクザツさ、少しはわかるだろうか?

私の肌の色に最も近い色。
ニプル(乳首)のないタイプ。
肌との境目に、薄いフレア付き。



これをつけていると、車を運転している時に、
胸の谷間に収まらずに
術側、左の胸の方にずれてくるシートベルトを
5分おきに戻さなくて済む。

これをつけていると、トップバストの位置が、
左右同じ。

これをつけていると、
Tシャツも今度は 自身を持って着られるはず。

完全なオーダーメード。
税込み、12万6千円。
明日、振り込んで来よう。

ブラ・パッド(2)

2005-03-28 | 乳がん
私のタンスの引き出しには、
いろいろなブラ・パッドが
まだ たくさん 入っている。
恥ずかしいくらいに、たくさんある。



2004年の初夏、
暑くなってきて、私はもう一度 ブラ・パッドを
いろいろ試していた。

やはり暑い時は、暑い。
半そでや ノースリーブの上に
長袖を羽織らずにいられたら。
そう思っていた。

クーラーの冷気に弱い私は
ギリギリまで我慢して、
クーラーはなるべく使わずにいたかった。

外出のたびにいろいろなパッドを見て、買って。
通販でも、買ってみた。

大きいもの、小さいもの、厚いもの、薄いもの、
まん丸、楕円、レモン型、硬いもの、柔らかいもの。



これなら Tシャツや タンク・トップの上に
何も羽織らずに 来客に対応できる、
と思ったのは、まん丸で 薄くて 硬めのものだった。

左右のブラのカップに入れる。
薄めだから、バストが大きく見える事はないけれど、
硬めだから、その形を保っていてくれる。

術側の胸は 指でつつくと へこんでしまって、
元の形にもどらないけれど、
おっぱいを指でつつかなければいいんだし。

同じものをいくつも買って、
手持ちのブラ全部に入れた。

Tシャツ用の 縫い目のないブラは
持っていなかったけれど、
いつもその薄くて硬いパッドを入れて
シャツやブラウスを羽織らずに過ごしていた。



ある日。
近頃めったに覗かなくなった鏡を 何気なく見ると。
視線はいつの間にか、おっぱいの方へ。

その時。 
私の目に映ったものは。

段差のあるおっぱいだった。



縫い目のあるブラは、身体にフィットした服の場合、
その縫い目が服の上から見てわかる。
わかるが、気にしない事にしていた。

そうしたら、
トップ・バストの縫い目の位置が
左右で 激しく違う。

小さくなって 胸にへばりついているおっぱいと
地球の引力に抗しきれずに垂れてきたおっぱいと
トップの高さの差が はっきり表れていた。



ショックだった。
こんなに違うなんて。
いままで こうして 人前に出ていたなんて。

左右のおっぱいの大きさの違いは
本人が気にしているほど 人にはわからない。

「そう言われて見れば」程度の事が多い。
私もブラさえつければ、大きさの差は
気にしない事にしていた。

だけど、この 左右のおっぱいの
トップの位置の高さの差。

これは、言われなくても、
見れば歴然としていて、誰にでもよくわかる。

こんなに左右の高さに差があるのは 普通ではない。
見た人には おかしいと思われたのではないか。

「あの人のおっぱい、変。」
と誰かに思われなかっただろうか。



私はすっかり 自信を失ってしまい、
人前に出るのを できれば避けたい位だった。

おっぱいを作る会社から 
東京相談会のお知らせが また届いたら、
絶対すぐに連絡をして時間を決めてもらい、
おっぱいを作りに行こう。

そう心に決めた。



それなのに、‘お知らせ’が届いた時、
何故だか私は ぐずぐずと連絡をせずにいて、
時を失してしまった。

届いた封書を いつも電話代の上に置いて、
連絡もせず、棄てもせず。

何もしないで ホコリが積もっていくのを見ていた。

こんなぐずぐずは いつものこと、
ずっと前から こうだった。

何か新しいことに挑戦、だなんて、
柄にないことを決めたのに、
やっぱりいつものぐずぐず。

すっかり自己嫌悪。

だから、その次に 
また東京相談会のお知らせが来た時には
すぐに亭主の承諾を取り付けて 
東京事務所に電話したのだった。

ぶろぐ(2)

2005-03-26 | 考えたこと
大学に入った娘の様子を見ていて、ピンときた。
パソコンの前に 毎晩 絶対 陣取って
ひとしきりカタカタ キーボードをたたいている。

帰宅は早くて9時。それから夕食。
朝は息子の登校時間に合わせて送り出され、
お風呂に浸かる時間も長く、
家でのんびりする暇はないのに。

やっぱり。
娘もいつのまにか goo でブログを始めていた。


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スノードロップの次に咲く、シラー。
チューベルゲニアナという名前だったと思う。
私が覚えた、最初のフクザツな名前の花だ。
ささやかなピンク色で、
ブルーの花のそばに置くと よく似合う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


あちこち覗いて コメントをしたり 
トラックバックしたり ということは
していないようだった。

コメントをしてくれるのは、
高校の時の友達と 今の大学の友達だけ。

遊びに行くのも 友達の所だけ。

それはそれで 楽しいらしい。



娘のブログが 気にならない、と言えば嘘になるが、
読む気になれず、ほとんど覗いた事もない。

文字があまりに 小さくて、
あの子らしく ウルサイ画面なので。
(まだまだ コギャルっぽい)

娘の方でも 私のは ほとんど見ていないと思う。

私がブログをやってることは 
ずっと隠しておいたのだ。



ある日、とうとう 感づいた。
唐突に聞いてきた。

「ママもブログやってんの?」
「・・・・・・うん。」
「やってんの?」
「うん。」
「やってんの?」
「うん。   なんで?」
「え~~~!!
 ママ、ブログ やってんの~~~~!?!?!?」

ショックだったらしい。なんでかな?



わからないことがいっぱい出てきて、
教えて欲しいと思ったことも何度もあった。

けれど 大学に入ってからは 新しい生活に夢中で、
何一つ教えてはもらえなかった。

空いた時間は、少しでも寝ることに使いたいようだった。
ムリもないか。

そのうち娘は goo じゃないとこへ 移ってしまった。

そちらで ブログを続けているのだけれど、
見たいとは思わなくなった。

どうせ 細かい文字で、ゴチャゴチャした画面だろう。

今でも 娘がパソコンをいじると、
次に開いた時に 文字サイズが[最小]になっていて、
イライラする。



私も 最初のうちは 
ひとつ 記事を投稿すると 
へとへとに くたびれていたのだが、
だいぶ慣れてきた。

使えないワザは 多いけど、
タイピングは 少しずつ思い出した。

いまでも まだ ‘・’と ‘。’と ‘、’は
打つのに だいぶ時間がかかったり、
(つまり、何度も 同じところを間違えて打つのだ。)
それから ‘p’を打つところで ‘@’を打ってしまい、
その画面のユニークさに 自分でウケたりしている。

バックスペース・キーだけは、エンター・キーと同じ位、
上手に打てるようになったが。



去年の暮れだったと思うが、
恵比寿から 中目黒方面へ向かう地下鉄のホームの、
階段を降りてすぐの所に
「日経MJ発表! 2004年ヒット商品番付」
という広告が付けられた。
(今も付いてると思う。)

ホームで電車を待つ間、
興味深く見ていた。

「番付」だから、東西に分けて、
横綱とか大関とかの順に書いてある。



東 韓流      横綱   アテネ特需   西

  聴く       大関   松下ドラム式
  ケータイ端末        洗濯乾燥機

  サッポロ     関脇
  ドラフトワン         花王アジエンス 

  シャープ     小結  「世界の中心で
  ヘルシオ          愛をさけぶ」
                      



こんな風だった。オモシロイ。
もう少し下に行くと、
東に ‘ピン芸人’、
西に‘電車男’や‘負け犬の遠吠え’などがあり、
それから・・・
西に‘ブログ’というのが あったのだ。

知ってるわよ!
アタシ、やってるわよ!

オバサンは、叫びたかった。
ニマっと笑うだけに抑えたけど。

‘東ハト「暴君ハバネロ」’だけは、
今でも何だか わからない。



漢字は親より読める文系息子に
「ブログって何?」
と聞かれたのは、つい三日ほど前。

娘と私の説明で 納得した顔にはならなかった。
娘は自分もやっている、と明かしたが、
私は黙ってた。

ぶろぐ

2005-03-24 | 考えたこと
Living as a breast cancer survivor の掲示板に
ひとりだけ出入りしている男性がいる。
数少ない 男性の乳がん患者、では、ないが。

いつも 検査の結果やらなにやらで
一喜一憂する女性達を 落ち着いた目でご覧になって、
コメントをくださったり 元気付けてくださったり。
その名を、arfa さんと おっしゃる。
文字通り、プラス・アルファの存在。
ヘンテコな笑えるサイトを見つけては 
教えてくださったり。

その時も
「こんなのがあるよ。
 皆さんの闘病記を書いてみては?」
というような言葉で教えてくださったのが、
goo のブログだった。


+++++++++++++++++++++++++++++++++

ああ、やっぱり。
ゴチャゴチャしてるなあ、と思った部分は、
写真にとると もっとゴチャゴチャして見える。
花器は、ガラス・ブロック。

++++++++++++++++++++++++++++++++++


書かれたアドレスをクリックして
goo ブログを 覗いてみた私は、
簡単そうだし、面白そうだな、誰か、やらないかな、
と思っていた。

自分でやってみよう、なんて、
ツユほども 思わなかった。

それなのに。
なんで?
不思議。



今見ると、
最初の記事は 6月12日の 午前4時の投稿。

だからたぶん、
やってみよう!と思ったのは 11日だと思う。

いつものように 夜中に目が覚めて 暑くて汗をかいて、
そのあと いつもと違って 
やたら目が冴えてしまった私は
おそらく3時ごろに起きだして、
ドキドキ・ワクワクしながら、
「何から書こうかな。ドキドキです。」
などと 打っていたのだ。



それから もう 9ヶ月。

こんなに続くなんて、思いもしなかった。

人生、何があるか わからないから、面白い!?

それもこれも、‘何かしら新しいことにチャレンジ!’
の精神からだった。
ブログが 私の 6月のチャレンジになった。



最初は 闘病記のようなものだけは 書きたくない、
と思っていた。

それが、どうだ、ビョーキのことばっかりだ。

どうしても 自分が一番 気になっていること、
興味のあることを 書きたくなる。

書きたいと思っているのに 
なかなか 書き出せないこともある。

頭の中で 書きたいことを 一応まとめてから
書き始める。

書きたいことが カタマリになってきて、
出口を求めて 指先から出てくるような感じ。

それなのに
書き始めたら、当初 考えていた方に進まずに、
思ってもいなかった記事なったりもする。

どうしよう・・・と困惑しつつも、
これも私の真実、と思って 
投稿ボタンをクリックする。



そして、これも意外だったのだが、
書きたいことが 次々に出てきて、
投稿が追いつかない。

一日に 3つも4つも 記事を書けば、
頭の中に溜まっている書きたいことを 
吐き出せたろうか。

書きたいネタは いつもたくさんあって、
悩みは どの記事を書こうか、どの順番で書こうか、
ということ。
まだカタマリになっていないネタ達が
頭の中で 押し合いへし合いしている。

悩んでいるうちに 時事ネタは 賞味期限切れになる。



ある日 arfa さんは 
ステキなおせっかいをしてくださった。

そうして 知り合えた、たくさんの人達。
教えていただいた、いろんな事柄。

風さんから 初めてコメントをいただいたのは、
8月29日、
チャカさんのは 8月30日だった。

それから いろんな所へ飛んでいって、
いろんな華を 見て歩いて。

いろんな人と おしゃべりをして楽しんできたけど、
閉鎖されるブログもあって、
寂しい思いも味わった。

私は ずっと続けたい。
50歳の誕生日には 
きょうで私は 50歳ですよ~と 伝えたい。

だから、不義理をすることがあっても、
細く長くで やっていこうと思う。

ひらきなおり

2005-03-23 | 考えたこと
とにかく、
術後一年半の検査の結果を聞いた後、
私は もう何度目かになる 
‘ひらきなおり’をした。
いつ 再入院になっても
後悔しないように 生きていこうと。


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ステンシルは 嫌いじゃないけど、
ステンシルを施す前の、生地のままが好き。
これは 手芸品店で買ってきた、
ホーローのコーヒーポット。
用途は、キッチン用の花入れ。

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カタログ・ショッピングでは、
もう 何点か 迷っていたものを 購入済み。

真赤は 子供達に反対されたけど、
これならいいかな、と買った、
ワインカラーのジャケット。

少々色が明るすぎ。
これが、カタログ・ショッピングの辛いところ。

他にも、欲しいけど、買えないで
あきらめていたものを、いくつか。

でも、アクセサリーは、アキラメた。



お出かけは、まあ、この仕事で食べている限りは、
少し我慢。

しばらくは ビデオやDVDでの 習い事。



屋根や壁は 建てて10年たったら
塗りなおしだし。

壁紙は その時に 貼り変えよう。
フラワーボックスも、その時に。

庭は、しょうがない、予算がないから、
自分でスコップを振るおう。



シミは とてもお金が足りないから、そのまま。

整形手術は・・・・・・。
若い頃は 気に入らないパーツばかりで、
全部取り替えたかったこの顔だけど。

いろんな人を見てきて、
造作の美醜じゃなく、
綺麗に見える人が たくさんいることがわかった。

全然美人じゃないのに、
その人の前に行くと 
ドキドキしながらも 
視線がそちらへ 取られてしまう。

時には、うっとり 見つめてしまう。

そんなステキな人が 大勢いらっしゃる。

私はそんな女性を目指そう。

ペチャ鼻だけど、
ペチャ鼻でも美人の方もいたもの。

美人じゃなくても、美人に見える、
ステキなオバサン、オバアサン。



でも なにか 自分自身、物足りなさを感じていて、
イライラすることもあった。

何かを 忘れているようで。
落し物を したようで。

でも それが何かが わからなくて。



そんな時に 中山庸子さんの本を読み返して、
「毎月 何かひとつ 新しい計画を立てよう。」
という一文にひかれた。

そうね。
私も毎日 同じ家の中でくすぶっていないで、
たとえ 週に2回のお出かけはできなくても、
できる範囲で 何かしら‘新しいこと’、
やってみたいな。

そう思えた。



ノートに やりたいことを 山ほど書き出した。
すぐにやれること、将来やりたいこと、
試しにやってみたいこと、すぐにでも始めたいこと。

中山庸子さんの
‘毎月 新しい計画を立てて、月ごとに 反省する’
は、私の中で 
‘毎月 新しいことに 挑戦する’
に変わっていった。



だってほら、
4月には プールに行ったし、
5月には 温泉に入ったし、
そういう ワクワクするような事に
これからの私は チャレンジしたいワケよ。

今までの私じゃ できなかった事にも。

じゃあ、今度は 何に挑戦しようか?

そう考えるだけで、ワクワクしてくる自分が、
嬉しい。



‘すぐに毎日したいこと’は、
‘早起き’ と ‘朝の味噌汁作り’
(実はこれは 一年前と 同じ)、
次が‘玄関をきれいに’だった。

我が家の玄関は、
ゴミ置き場 兼 野菜貯蔵庫 なので。

ぼやき

2005-03-20 | 乳がん
それから、
術後一年半くらいで、
主治医にも慣れた。
主治医の早口に、負けないくらい早口で答える。
「はい。」「はい。」「はい。」「はい。」
「ありがとうございました。」
ドアを出ようとノブに手をかけると、
主治医はやっとそこで 人間的な言葉をかけてくれる。


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入れ物が気に入って買った、
おフランスのバター。
「味はフツーのより薄いのに、
 コクがあるな。」
え? あ? そう?
そうかしら。  そうかも。

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その日、私は 主治医の診察を待った。
何度目かの、二時間半待ち。

もちろん、予約した時間からの、二時間半だ。

お昼を遥かにまわって、
腹ペコだけど どこへも行けずに
じっと 外来で順番を待つ。

もう慣れっこになっていて、諦めているので、
読みたいものを 
どっさり カバンに詰めて持ってきている。

そうやって待って、やっと自分の時間が来て、
診察室に入ると、
早口の主治医が パキパキとしゃべる。

緊張しつつ、ハキハキと答える。
‘3時間待ちの3分診療’を 地でいっている。



子どもの頃から 慣れ親しんだやりとりでもある。

私が小さい頃のホームドクターは、
‘軍医上がり’で、‘パンカリ(?)’で、
腹を立てた医師に 怒鳴られないように、
患者も看護婦も ピリピリ、ドキドキしながら 
診察をしていた。



その日 主治医は
私が「ありがとうございました。」と席を立ち、
ドアノブに手をかけたところで、
「だいぶ待った?」
と声をかけてきた。

いい加減 ウンザリするほど 毎回待たされていた私は、
素直に、はっきりと
「はい。」
と答えた。

ちょっと はっきり 答えすぎたかな、と思い、
振り返って、にっこり笑った。
「ほんの、少し。」

そしたら 主治医は 突然 机に 突っ伏してしまった。
「あ゛~~~~~、もう、
 ど~~~して こんなに 
 忙しいんだろう!」



たっぷり待たされているのに、
にっこり笑って「ホンの、少し。」は、
いっちばんイヤミだったかも。

それにしても 主治医の突然の、
しかも本音の、
しかも派手なボヤキに、
びっくりした私は そそくさと 出てきてしまった。

その頃からかなあ、と思う。
今しもドアを出る、という時に
主治医が 会話らしい会話を仕掛けてくることに
気がついたのは。

それまでの 緊張した、味も素っ気もない
優しさや 温かみも感じないやり取りの
イイワケをするように、
‘人’としての会話を そこで ほんの少し 交わす。

でも そのおかげで 患者の私は
ホッとした気分で 診察室をでることができる。



主治医の診察の予約を入れる時、
空きがないと、12時とか 12時半とかに入れる。

2時とか 3時とかまで、
もう 周りに 診察待ちの人の影が 少なくなっても
待っているのは、私の主治医の診察を待つ女性のみ、
という状況。

逆に言えば、主治医は お昼を食べる暇もない。
いや、きっとどこかで食べているだろう、とは思うが。

週に3度の 診察日、
週に3度の 手術日。
手術は 一日に4件。
手術日のほうが、
きちんとお昼を 食べられるかもしれない。
(単に、想像。)



ドクターは、健康でなきゃ勤まらない仕事、と思う。
自分が疲れていては、患者にやさしく接したり
思いやりを持ったりが できないと思う。

理想の医療からすれば 私の通うがんセンターも
なにかしら 文句のつけどころがある、
いっぱいある、と思うけれど、
医療者も 毎日(文字通り)走り回っている。

尊敬しているし、心からありがたいと思う。

のんびり椅子に座って 順番を待つ 
元気ながん患者・私は 
主治医の健康を気遣う余裕まで 生まれてきていた。



乳腺外科のドクターが 
運営するHP 上で
さまざまな質問に答えるコーナーでは
ドクターが 答えを入れている時刻を見て
毎日ビックリしていたことがある。

1時、2時、3時・・・。
それから間もなく 体調を崩されたらしかった。

自身の命を削るように 日々励む医療者たち。

悲しいことに、それでも がん患者は
増える事はあっても 減る事はないようだ。



「どうして こんなに 忙しいんだろう!」
主治医の叫びは、主治医ひとりのものではないだろう。

癌になったら 医療を受ける、のではなく、
病気にならない、
病気になっても 自力で 治す、
そんな力を 私たちは身につけたい。

未来の医療は 
身体に異変を感じて、
あるいは 検診で異変をしてきされて受診する患者を 
医師が 病院で待つのでなく、
漢方でいうところの
‘未病’の段階で 治せるようにならないだろうか。

でないと、
‘乳がん’という
とってもトレンディーな(死語?)
この病気を専門にしてしまった私の主治医は、
当分「ど~~~~して?」な状態が続きそうだ。
(そのうち停年になってしまうだろうけれど。)

それにしても、
医者の‘ぼやき’は、私はその時、初めて聞いた!

術後一年半で

2005-03-19 | 乳がん
術後 一年と半を経て、
私は 乳がん患者である事に慣れた。
主治医が まるで口癖のように 口にするという
「一年や二年は かかるんだよ。」
という言葉に 
素直に うなずけるようになった。


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今年の春は 二月ごろから
私の気分は なぜか ミントグリーン。
似たような色の服を何枚も買って、
ウキウキしている。

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前から、二年経っても変わらなかったら
主治医に文句をいってやろう、
と思っていたことがある。

術側の胸が たびたび痛むこと。
すごく不安になる。

冷たいものを飲むと いったん術側の胸に溜まって、
それから 胃の方へ流れ落ちて行く感じ。
そんな説明は術前になかった!

術側の腕の感覚が まったく普通じゃなくなってる。
ずっとこのまんまなんだろうか。

などなど。

術後一年で 思ったほど変わっていなかったので。



そうしたら、二年を待たずに、
一年半で だいぶ良くなったので、
文句をつけられなかった。

痛みは薄くなり、痛むことも少なくなったし、
このころは 暖かかったせいか、
胸の中に冷たいものが流れ込むことは
なくなったと思っていた。
(実は 今でも たまに少し痛むし、冷たい。)



術側の腕の 特に 二の腕の内側の感覚が鈍く、
そのくせ 触ると痛む。

これも 感覚の鈍い部分の面積が だいぶ狭まった。

触っても うでに 分厚いゴムを貼り付けて、
その上から触っているようだったのだが、
貼りつけたゴムが 薄くなったような感じ。

こうして だんだんと 
普通の感覚になっていくだろうか。
(感覚は 完璧に元に戻るんだろうか?)



術側を下にして 寝られなかったのは、
傷や 硬い胸が痛かったのと、
本当は 痛くないかもしれないけど 
痛いような気がしていたのと、
それから 浮腫が心配だったのと。

それが、まるで 恨みを晴らすように
術側を下にして眠れるようになった。
(腕枕は、術後していない。
 少なくとも、術側の腕は。)

これは 噛み合わせのためには、良くなかったようだ。
片側の歯だけで 噛むようになっていた。
顎関節痛。
ひどい時には うどんも よく噛めなかった。

なるべく 横を向いて寝るのは やめた方がいい、
と 歯科医に言われてしまった。

今でも 術側を下にして寝ることが多いが、
整体と ハリと 歯科治療などのおかげで、
かなり 噛みあわせはよくなった。

噛み合わせが良くなると、
左右の歯で 均等に噛めて、
これは、予想できないくらい、快適!



ただ、腕のスジ(?)は 
リハビリとして ストレッチを続けていかないと、
どうも退化してしまうらしい。

頑張ってストレッチして、動かせるようになって、
それで 運動を止めてしまうと、
また 大きく動かすのが 痛みを伴うようになる。

私は得意じゃないが、
たゆまずに ずっと続けて行くことが 必要のようだ。

これまで 半年に一度の割合で
腕を伸ばすと痛む時期がきている。

ストレッチをサボらなきゃいいのに。



術側の胸が 柔らかくなったのも、
一年以上経ってから。

「柔らかくなってくるから。」
という 主治医の言葉を 素直に信じていなかった。

柔らかくなんか、ならないじゃないか、
と思っていた。

乳房の下の方が 少し柔らかくなってからは、
これ以上 柔らかくならなくていい、
とも思っていた。

おっぱいが硬いというのは、
存外カナシイものだ。

柔らかくなって、
おっぱいの感覚は まあまあ 元に戻った。
(触られても 不快ではなくなった。)
(もちろん、限定一名!)

子宮筋腫(2)

2005-03-18 | 乳がん
横森理香さんは 
子宮筋腫が 大小ごろごろあって、
妊娠しづらかったらしい。
『愛しの筋腫ちゃん』という本に
いろいろ書いてあった。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

我が家は かなり南北に長い。
我が家の敷地は もっと南北に長い。
その東側の境界線上は 無粋なブロック塀。
塀を隠す目的で アイビーを植えた。
勝手に増えてくれる、という点では
手がかからない と言えば かからない。
ただ 繁殖しすぎるので 
年に2回は 刈り込んでおかないと ブロックの穴から
隣家を侵食してしまう。

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『もっと健康、もっと幸せ!――愛しの筋腫ちゃんPart Ⅱ』
(集英社Be文庫、2004・3・25、630円)
というのが出たので、読んでみた。

著者は 『愛しの筋腫ちゃん』を書き上げた時には、
気づかなかったが 妊娠していたのだそうだ。

筋腫があると 受精しても着床しづらく、
早流産の原因にもなるらしい。

また PMS が重いだけでなく、
月経の時の出血量が多かったりして
貧血になりやすくなる。

母になりたい人には とても困った病気だ。
でもなんだか 近年増えていないか?



著者は 40歳で 自然妊娠、自然分娩(安産!)で
女の子を出産した。

東洋医学や 民間療法、気功、対抗催眠、
ロルフィング、ヒーリング、
例の玄米食などのオーガニックな食生活や、
ピラティス、くれにおせいくらるわーく(?)、
レイキ治療、ひぷのせらぴー(?)、
それに 温泉(!)なんかで
体調がよくなり、
妊娠・出産にいたったらしい。

実際には 心理的なもの、心の持ち方なんかが
ずいぶん変わり、
多分 それによって 体調の方も 
ぐんぐん良くなったのだろう。

何にしても 大きな筋腫を切らずに
自然妊娠、自然分娩、
しかも 出産時の出血量も 中量だったというから、
相当エライと思う。



著者は 取材も兼ねて 
いろんなアヤシイ所へ行き
(いや、アヤシクないから出産できたのか)、
さまざまな治療を受けているが、
読んでいると 興味が湧いてくる。

お金とか時間とか、事情が許せば、
私もやってみたい、やってるとこを見てみたい、
そんな治療(とよんでいいのか?)が
いっぱいある。

一度、そういうのにハマってみたかった。
まあ多分、ハマりきれずに 
最後はしらけてしまうかもしれない、とは思うが。



さて、四国の友人I ちゃんは
切腹して筋腫を取ったのだが、
その後 更年期症状などもあり、
春はまだ ホワホワしていたようだった。

しかし 徐々に本調子となり、
なんと
夏には 趣味で続けていたスイミングで
マスターズに出る事になった!

出場直前には弱気になって
やめときゃよかったよ、なんて言ってたが、
初出場の割には、の前置詞がつくにせよ、
まあまあの記録が出せた。

もう 体力も気力も 心配なさそう、と
私も安心したし、感心したし、ほっとした。



そしたら 最近 海外から 絵はがきが届いた。
I ちゃんは お姉さんとふたりで 
トルコへ行って来たのだそうだ。

トルコは親日的でとても良い所と聞く。
遺跡なんかも素晴しく、
温泉にも入ったりしたらしい。

ひとりも友達のいない四国へゆき、
社長と社長夫人である舅・姑に仕え、
徐々に会社と社員を支える重責が
I ちゃん夫妻に 重心を移した頃。

子供達が 高校生になり、
あるいは卒業し、
子育ての苦労が 小さい頃のそれとは
性質を完全に変えた頃。

何故だかそんな頃に 身体に異変が現れる。

I ちゃんも 手術をはさんで
何かを乗り越えて
何かをふっきれたのかもしれない。
おねえさんと 海外旅行だなんて。



いいなあ。
うらやましいなあ。
ウチは まだ 当分行けないなあ。

でも I ちゃんとこも 
だんな様は お仕事大好き人間だそうだし、
自営の働き者亭主を持つ妻は
ヨボヨボにならなきゃ 夫婦で旅行はムリだよなあ。

子宮筋腫

2005-03-15 | 乳がん
さて 
当面の 乳がんの再発の心配が なくなった私だが、
カルテに 見たことのない文字がある。
迷った末に 
外科外来の受付で 看護士に質問。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

写真は 私の得意料理。
菜っ葉の油いため。
一番 美味しいのは 大根葉で作るやつだと思う。
‘三重なばな’と書いてあったけど、
美味菜とか べんり菜とか と同じく、
当地では ‘かき菜’と呼んでいる。
今回は豪勢に、油揚げ入り!

&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&


カルテに書いてあったのは、
「Uterus に 46mmの myoma を認めます。」
というもの。

質問に答えてくれたのは 
私が鬱になった時に 対処してくれた看護士。

あの時は 少し不満を抱いたのだが。

私が ヘンテコな質問をしに行くと
いつもそこにいて、いつも変わらぬ優しさで
忙しいのに 嫌な顔ひとつせずに 答えてくれる。

どの看護士も 本当に よくやってくれていて、
頼りになる。

わからない事は 診察室の主治医に
確認してきてくれる。

忙しい医師にとっても 頼りになるスタッフ達だと思う。

患者にとっては 医師よりも 聞きやすく、
時として 医師よりも 頼りになったり。



uterus は子宮、myoma は 筋腫のことだそうで。
つまり、私のお腹には 4.6センチもの大きさの
筋腫がある、というのだ。

びっくりした。
ショック、というより、ただ びっくり。

子宮の影像が 今回は よく見えた、
ということかもしれないが、
筋腫があるとは 今まで一度も言われたことがないので
やはり 最近 大きくなったのではないか。

なんと。
横森理香と おんなじではないか。

それから・・・。
四国に行った友人とも 同じ。



友人I ちゃんは
東京生まれの東京育ち。

細くて 小さくて 丈夫で
しっかり者だった。
大学時代に サークル活動で 一緒になった。

東京で サラリーマンの夫と 娘に息子、
ウチと 年の差があまりない家族と
都内の実家の近くのマンションに住んでいた。

ご主人のお兄さんの急逝で
突然 ご主人が家業を継ぐことになり、
ちょうど受験期の子供達と共に
完全に引越した。



引っ越す際には
電話で不安を訴えてきた。

「たまに行くぶんには いいけどさ。
 笑ってごまかしても すぐにこっちに帰ってきちゃうし。
 でも、ずっと行きっぱなしになるとするとねー。

 だいたい、言葉が通じないんだよ。
 向こうはさ、
 同じ日本語だから、
 通じないわけないと思ってるらしいんだけど、
 全然 何言ってるか わかんない時もあるんだよ。

 向こうは 私が 何言ってるか わかんないってことが
 わかんないらしくてさー。
 日本語なのにって。」

「英語なら辞書があるけど、
 辞書がない分、
 英語より大変だね。

 わかるよ。
 私も 関東から 関東だから、
 こんなに 知らない単語が いっぱいあると
 思わなかったもん。
 こっちにも 変な単語が いっぱいあってさ。
 わっかんないよねー。」

「そーだよ。
 私にとっては 
 英語とおんなじだよ。」

ああ、そうだ、I ちゃんは 国文だったっけ。



それからは たまに東京に来るという時に
「会える?」
と電話がきたり
(たいてい、私を除いた
 関東在住のサークル仲間が集まる)、

たまに メールのやり取りをしたり、
という付き合い。

四国に行く前より かえって親密になった。
子どもの手が離れる時期だったからか。



そのI ちゃんが 子宮筋腫で 手術を受けると
メールをくれたのは
去年の暮れ。

年が明けて 手術をしたらしい。

心配しようにも 見舞いにも行けない私。

折々のメールのやりとりで
まだ 空元気らしいと思っていた。



子宮内膜を刺激するオクスリ(ノルバデックス)を
(できるだけ)毎日 飲んでるんだから、
気をつけていればよかったのか?

気をつけても できる時はできるんだから、
しょうがなかったのか?

食事にいくらか 気をつけていたのだから、
以前の食生活のままでいるよりは
これでもずっと よかったのか?

で、なんで 主治医の説明は、「オーケー」なのか?



ひとりになって いろいろ考える。

たいしたことがないから、
「オーケー」なんだろう。

ノルバデックスを飲んでる限りは 
しょうがないだろう。

生理があるわけではないから、
子宮に筋腫があっても
生理が重くて苦しむこともないから、
別に、いいだろう。

もし 次回に もっとずっと大きくなっていて
なんとかしなきゃいけない、と言うときには
主治医も「オーケー」じゃなく、
なんか言ってくるだろう。

気にしない、気にしない。
痛くも痒くもないんだから。

ただ、ちょっと、びっくりしただけ。

自分の身体に 何があるのかは
ちゃんと知っておきたいだけ。

カルテを見るようになって、
怖いけど、
安心していられるようになった。



そうそう、健側の胸には MP(乳腺症)がある。
辞書を引いても出てこない単語が 多い。
子どものお下がりの辞書じゃ、ダメかな。

やりたいこと

2005-03-12 | 乳がん
きんかん。
この、まるくて
かわいらしいもの。
北原白秋が 詩にうたったことは
なかったかしら?

**********************************

カタログ・ショッピングだけじゃ 満足できない。

私は他にも やりたいことは 山ほどあるぞ。

週に2回の外出の訴えは 亭主に却下されたけど、
もしも再発とかしてたなら、
もう 好きなだけ 出かけちゃうもんね。

‘あゆむ会’や 朝日カルチャーに行ってた頃は
今よりずっと 充実してたなあ。
行きたい所は どこでも行っちゃうぞ。

お姉ちゃんは 太極拳をやってるけど、
私は気功を習ってみたいな。

娘と一緒ではなくなったけど、
ピアスの穴を開けに行こう。
ピアスも2、3個は いいのを買い揃えなくちゃ。

家の模様替えをしよう。
ホントは癌とわかる前の夏に やりたかったのよ。
外壁の色は、壁紙の色は・・・・・・
間取りは変えなくてもいいかしら。

40歳を過ぎた頃から 突然色が濃くなった
右頬のシミ。
レーザーかなんかで 取ってもらおう。
ああ、あちこちに 気になるシミやホクロがある。

そういえば おっかさんは 私が小さい頃から
「この鼻。この鼻だけは、
 おめが いがぐなったら 整形手術しで、
 たがくしてもらわしぇ(高くしてもらいなさい)。」
と言っていたっけ。

おっかさんには「身体髪膚、これ父母に・・」の思いは
あんまりないんだな。
ピアスを開けたのがばれても、叱られないな。

整形手術をするんなら、
あごもちょっといじってもらおうかな。



そうそう、フラワーボックスを付けてもらおうと
思っていたんだった。
とうとう亭主は作ってくれなかったじゃない。

スモールガーデンの本で見た、
あんな風に庭を作ってみたい。
自分じゃ出来ないから、あの業者に頼んで、
作ってもらおう。

あそこの社長なら、私の好みを
亭主よりもわかってくれるはず。
高くても妥協せずに
石の乱張りを施してもらわなくちゃ。

あら、なんだか、
こういう夢が実現するんなら、
再発した方が嬉しいみたい。

それにしても、スモールガーデンの本って、
見れば見るほど 頭にきちゃう。
ウチの庭の 数倍はあるのに、
‘スモール’だなんて。
じゃあ、私のこの庭は 何て言えばいいの?



愛犬がのんびり昼寝をする庭を見て、
私の好みに庭を造るには、
狭い庭だけど結構費用がかかることに気がついた。

そして、再発したら、
治療にお金がかかることにも。

だいたい、
最初の治療は 入院してやると言われたし、
入退院しながら いろんなことを楽しむ
気力と体力は 私にあるんだろうか。

体力のなさだけは、自信がある私に。



あー。
お金かあ。

もう少しお金持ちだったらなあ。
私のお給料が せめて昔の私くらい あったら。

亭主は ふたり合わせた分の給料が 
ふたりの給料、と思っているらしいけれど、
私には そうは思えない。

私の分の給料は
毎週 恵比寿の整体師と 
武蔵小杉の鍼灸師のところへ行くと
電車代と 駐車料金と 治療費で
キレイになくなる。

お昼代は出ない。
ましてや 本や雑誌やマンガを買う分は。

まずは癌の治療に お金がかからなくならないと
遊べないなあ。

つまんないなあ。



2004年6月の初め。
検査の結果は良好。
「はい、オッケー。」
「ありがとうございました。」

あの不安は いったい 何だったんだろう?

不安と怖れ

2005-03-10 | 乳がん
フランスパンのガーリックトーストと
山形産の‘こごみ’と
ベーコン。
国籍不明。
これぞ、現代日本の食卓ダァ?

*********************************

「なるべく病院には オレも一緒に行くよ。
 大事な時や 節目の時には 絶対、
 いや、絶対と言っても絶対じゃないけども、
 一緒に病院に行くよ。」
亭主はよくそう言っていた。

当然でしょ、とも思う。
折角の自営なんだし。

それにしても この頃までの亭主は
「一緒に病院へ」
と繰り返していた。

告知を受ける際に 私がたったひとりだった事や
ニョウボが癌であることを 最初に知ったのが 
自分ではなく近所のオバハン(養護教諭)であった事や
数日間は 癌と教えてもらえなかった事など、
亭主の好みでない事が 多かった後遺症かと思う。

(なにごとも 自分の思い通りに進めたがるオトコだ。)

それなのに 新しく始めた仕事が忙しくて、
しかも 今まで家でやる仕事が多かったのに
外出することが急に増えた。



半年ごとの検査に行くときには
「ひとりで大丈夫?」
と聞いてはくれるけれど
一緒に来てもらえた事は ほとんどない。

「大丈夫でなくても、どうしようもないでしょ。」
「うん、どうしようもない。」
「来てもらっても しょうがないし。」
「それは、そうだけど。」

そうやって たいていいつも ひとりで通っていた。
居てもらっても 一緒に待つ事ができるくらいで、
どうってことはない。

亭主が煙草を我慢しているのを見ながら、
亭主に染み付いたヤニの匂いを我慢するだけ。

ま、帰り道で ‘一度入ってみたい’と思っていた
レストランなどに 寄り道できるけど。



2004年6月の
検査結果を聞きに行く日も
前々から 亭主は 出張が予定されていた。

いつも通り、のつもりだった。

ところが 一週間くらい前から
私は急に不安になった。

考えれば考えるほど 怖い。

がん細胞が 残っていて、
身体の他の場所で 増殖していたら どうしよう・・・。

子宮の検査だって 手術前にもやって
なんでもなかったんだから、
今頃急に 転移があって、
すぐにどうこうしなくちゃならない、
なんて事はないはずだ。

術側の胸には 放射線をかけたし、
対側の胸も 
ゴッド・ハンドの主治医の触診をうけたのだから、
大丈夫なはず。

不安になった時でも いつもは 
「私は大丈夫」
「再発や転移なんてあるはずない」
と思えていたのに
今回は 不安が膨らんで
日中ひとりでいるとドキドキしてくる。



どうやら 
出張など少なかった頃の亭主が 
ちょうど告知の日に 泊りがけの出張で 
ひとりでどうするか迷った心細さが
小さなトラウマになっていたらしい。

今回の検査結果を聞きに行く日も
亭主の出張先が 普段は行かないような遠隔地なので、
小さなトラウマが 大きな不安を 生み出したのだろう。



今度は 抗癌剤を使った治療になるだろう。
今なら 吐き気と戦うのも(ホントはヤだけど)
それから髪が抜けるのも 
怖くない。

ただ、再発すること、
再発だったら、と思うこと、
それだけが無性に怖い。

再発したら、どうしよう。



毎日ひとりで留守番をしながら
再発だったら、何をしようかと
考えをめぐらせていた。

やりたいことをやる!

これに尽きるのではないか。

じゃあ、何をやる?

目の前に広がる山ほどのカタログから、
これを買っちゃおうかな、
これも買っちゃおうかな、
ああ、これは 前から欲しかったのに、
値段が高くて、我慢していたんだ、
これも買っちゃおう、
あら、
だんだん楽しくなってきた。

ノーテンキにも ほどがある?

オシッコ

2005-03-09 | 乳がん
「いまごろの季節に 会津の山さ行ぐどなあ」
今も覚えている、母の言葉。。
「うるいっつうのがあって、
 ゆでで(茹でて)おひたしにしてくうづど(食うと)、
 うんめんだぁ。」
おっかさん、
「いまごろ」がいつごろかはわかりませんが、
幻のウルイも 山形産なら、
最近 駅のコンコースで売ってます。

************************************

5月は 半年ごとの定期検査の月でもある。
胸部レントゲン、
超音波検査(乳腺エコー)、
超音波検査(腹部エコー)、
血液検査。

腹部エコーの日、
私は うっかり 朝食を食べてしまった。
朝8時ごろまでに軽い朝食、というのは、
午後に検査のある人で、
午前中に検査のある私は
食べてはいけなかったのに!

しょっちゅう、こんなドジをやっている。
検査技師も こんな患者は嫌いだろう。
でもまあ、慣れてもいるだろう。

実はこれこれで、と申し出ると、
午後一番の検査にまわしてもらえた。
玄米ご飯を 普通にしか噛まずに飲み込んでいるから、
エコーに 玄米のツブツブが 
いっぱい見えたら、笑えない。・・・笑うかも?



午後になって 検査してみると、
ツブツブは映らなかったが、
「胆嚢がちゃんと膨らんでいるので、検査は大丈夫です。」
と言われた。

???・・・・・・!!!
私にしてみれば、新発見! のようなもの。
食事の後で(油分の多い食事をすると特に)
胆嚢が胆汁を出して ぎゅっと縮んでしまうと
エコーで見えなくなってしまうんだって。

私の胆嚢は ちゃんと膨らんでいる、と
画面で示してくれた所は、
なんとなあく、まあるいものが映っていた。

(エコーを判読できる人は、
 それが癌であれ アカンボであれ、
 尊敬に値する!)

そういえば 油ものは 食べなかったもんなあ。
以前のパン食だったら、
必ず油が入った食事になったよなあ。

ちょっと嬉しい、私。
今年のドジは 大ドジじゃなかったんだ!



2回続けて 
腹部エコーの時に
大ドジこいた。

オシッコを溜めてなくて、
子宮の映りが悪かったのだ。

映像が不鮮明、とかで、
子宮の様子が イマイチよくわからないらしい。

たしか 術前にも検査はしたと思うし、
その時は しっかり 食事を抜いたり
オシッコを溜めたり したと思うんだけど。



骨シンチの時には、
膀胱にオシッコが溜まっていると 
写りがわるくなるので、
直前にオシッコをする。

エコーで子宮を見るには、
反対に 水を飲んだりして
オシッコを溜めとかなきゃいけないんだ!

これを 半年の時と 一年の時と
2回 できなかった!
しっかりしろよ !!!



二度目の時には
同じ失敗をした自分のドジ・バカさ加減と、
転移があったとしても
検査でそれがわからないのではないかという不安とで
かなり落ち込んだ。

そのときの落ち込み方は 
ホルモン療法でひどい鬱になった時を除いて
私としては 初めてに近いものがあった。

まっすぐ家に帰りたくなかった私は
エイヤっと 美容院に電話して予約を取り、
死にたい気分で 駅から美容院まで 車を飛ばした。

いっつも明るい美容師のあっちゃんに
その日は本当に 助けてもらった。

バカ話をして 不安も鬱の気も発散して、
普通の顔で 家に帰れた。

あっちゃんは 私の救世主だ!



今回は 朝ごはんは食べちゃったけど、
オシッコを溜めとけて、よかった。
だけど。。。

これからお風呂に入ります、
これから出かけます、
これからご飯を作ります、
これから電車に乗ります、
これからリハビリ室に行きます、
これから検査します、
・・・・・・こんな時は オシッコ、したいよね?
特に超音波室に入る前には、
トイレに行きたくなる。

温泉デビュー!

2005-03-08 | 乳がん
四つのつぼみが全部花開いたのに、
向きがあちこちで どうもうまく写せない、
このまえのミニ胡蝶蘭。
鉢の向きを 変えたからか?

***********************************

プールは 娘と2回行って、
今度からは 一人で行けると 自信をつけて、
でも それきり 行かなかった。

春から 亭主には 余計な仕事がひとつ増えて、
これがなかなか忙しく、
私が出かける素地が作れない。

そのまま5月に入って、
いつものように 
どこへも出かけないゴールデンウィークが始まった。



ところが、‘国民の休日’という
何だかよくわからない休日の仕事が
キャンセルになった。

「ヤッタ、これで どこかに行ける」
と思った、と亭主。
どうやら 家族をどこへも連れて行かないことに
罪悪感を抱いていたらしい。



亭主は 小さい頃 公務員の両親に 
毎年 家族旅行に連れて行ってもらったという。
家庭をもったら 毎年家族旅行に行くんだと
私によく言っていた。

結婚前の私は 「変な事を言う奴だなあ。」と思っていた。
私は家族旅行に 揃って出かけた、
なんて事はなかったもの。

結局 私たちの家族旅行は 
一大決心で出かけた、
娘が小学6年の夏の一回きり。



それでも 子どもが小さい頃は 
年に一度、こどもの日あたりに
少し足を延ばして、
日帰りで遊んできたりは していた。
(なぜか こどもの日には 仕事が入らない事が多い)

温泉地があちこちにあるので、
帰りは温泉に浸かってから、
ということも 何度かあった。

そうやって訪れた場所のひとつに、伊香保があった。
いわずと知れた、温泉地。

伊香保にはグリーン牧場というのがあって、
小さいの子どもたちには イイのではないかと 
連れて行ったのだった。



この日、2004年5月4日は
天気があまり良くなかったので、
アウト・ドア以外でも楽しめて、
温泉に入れるところ。
もちろん、日帰り。
よし、伊香保に決まり。

だって以前に伊香保に行ったときには
子どもが小さいから、
竹久夢二美術館に入るのは
諦めたんだもの。
決定権は、ママにあり!



グリーン牧場の入り口で 
ソフトクリームをなめた頃から 雨が降り出し、
よかった、中に入らなくて、と
竹久夢二美術館へ向かう。

数々のオルゴールや 硝子アートも見て、
トリックアートのシスティーナ美術館にも行き、
遅い昼食をゆっくりとったら 
公営の温泉は もう閉まる時間だという。

お店の人に教えてもらった 
渋川のスカイテルメという公営の温泉に 
行き先を変更。



Living as a breast canser survivorの中では
いろんな人が スポーツ・クラブに入ったり
温泉に行ったり すごく前向きに 生きている。

影響されて 温泉・命! なわけでもない私も
温泉、温泉と 亭主にプレッシャーをかけていたのだ。

何人かの人が書き込んでいた、
手術の後の温泉の入り方を 私も実践するのだ!

だって・・・。
娘と一緒なんだもの。



変形したおっぱいを見せて入って、
娘が 「ああ、あの人のムスメ」という目で見られたら、
いたたまれない。

それに、私のおっぱいを見た人が
びっくり!して ドキ!っとして
のんびりした気分じゃなくなってしまったら、
と思うと 申し訳なくて、
堂々と見せては 入れない。

肩から 浴用タオルを術側の胸に垂らして歩く。



ちょっとした身体の動きで 胸が見えることも
あるかもしれないが、
見えてしまっても 見ない振りくらいは
できるだろう。
 
気づかない振りを しやすい程度には、
隠れているだろう。

だけど、肩のタオルが ずれたり落ちたりしないよう、
気をつけていたので、
少々面倒だったし、疲れた。

でも タオル一本で サウナでも
(だいたい)平気!



温泉や銭湯が大好きな子供達も喜んでくれて、
キャンセルしたお客様には、もう、感謝!
の一日だった。

プール!

2005-03-07 | 乳がん
シンビジウムも いく鉢か 持っているけれど
(どれも いただいたものばかり)、
今年も、
咲いてくれたのは この鉢だけだった。
もうラベルもなくなって、
名前もわからない。

*********************************

2004年
娘の春休みは長かった。
長いけれど 夏休みほどではない。
中途半端で アルバイトにも教習所にも通わなかった。

私は 暇を持て余した娘を誘って
ついに出かける事にした。

プールに!



ずっと行きたいと思っていた。
新しい水着も買ってあった。

そしたら、がんになった。

そして、太らないほうが いい、と言う。

仕事に休みはないけれど
亭主がいれば 出かけられる。

買っておいた水着と
高校で揃えたスクール水着とで
いざ、市民プールへ!



新しい水着は 脚は太ももまである。
背中の開きも少ない。

昔 ハイレグが流行っていた時は
ムダ毛の処理がめんどうだった。

これは 袖はないから 
脇の下はケアが必要だけど
‘ビキニライン’は
気にしなくていいので、すごくラクチン。



水着を着て 更衣室を出る。
鏡を見るまでもない。

そこには 大きな大きなお腹があった。

なんと、術側の胸が小さいことより、
お腹の大きさが目立つのだ!




お腹が出ると 着られる服が少なくなる。
絶対に出来ないファッション、というのができる。

洋服だけではない。

着物も、
あれは 寸胴体型の方がいい ということで
補正をして 体のラインを消す。

私も若い頃は お腹にバスタオルを巻いたものだ。

だったら太っていても良さそうなものだが、
‘でっぱり’は やはりダメなのだ。

特に下腹部は おはしょりで隠しきれないと、
よくわかってしまう。

着物というのは、
上半身はともかく、
お腹とか お尻とかの下半身は 
体型が バレてしまうものなのだ。



着たい服が着られない、
というのは、
QOL を 著しく損なう。

これは、とってもカナシイ事実。

ピッと背筋を伸ばして 下を向くと
そこには 視界を遮る大きなお腹。

おふくろさんの安心感を 少し逸脱していそう。

気にしない、気にしない と 言い聞かせても
網膜に残像として残る、そのお腹!

恥ずかしくて、
早く 水の中に 身体を入れてしまいたかった。



水温も気温も一定にした温水プールで、
ひさびさに全身水に入ると、
ドキドキしてしまう。

最初は歩いて、
それから バタ足で、
泳いだ。

クロールをしたら、
術側の腕が ダルダルになってしまったので、
あとはゆっくり バタ足で。

ハイレグ水着で ベビースイミングに通って
やっと覚えた息継ぎを 
すっかり忘れていた。



というわけで、
乳がんの手術をした とは言え、
おっぱいのことは 全く気にならなかった。

乳房温存手術だからこそ。

そこに そこはかとなく 
‘乳房のようなもの’があるのだから。

そして こんな私だからこそ、
不必要な乳房全摘出は 悲しいし、許せない。

ようやく 「これこれの場合は、温存手術!」
というようになってきたようだ。

反対に、
術前化学療法によって がんが小さくなっても
温存が難しいことも 多いらしい。

たとえしこりがなくなっても 
がん細胞が まだらに残ったり するからだとか。



私のように大きく切り取った人も 
変形が大きくて 面倒だったりする。

いっそ お腹が で~~んと 大きいままの方が
目立たなくって いいだろうか?

もうすぐ J 開幕!

2005-03-02 | 考えたこと
最近 私が ハマっているもの。
1リットルの湯沸しポットに
ティーバッグを入れて飲む、熱いお茶。
はと麦茶、ほうじ茶、玄米茶・・・。
すぐに湧くのがいい。
すぐになくなる。

************************************

息子が高校生になって もうひとつ変わったのが、
登校時間。

それまでが異常に早かったのだ。
6時前に家を出るなんて。
今度は6時に起こせば、間に合う。

朝 駅へ向かいつつ
私はNHK第一放送の ‘ラジオ朝一番’を聴いていた。
ニュースも少しは耳にいれないと。
目には入れないのだから。

それが、6時半に家を出ることになると、
第一放送では、ラジオ体操になる。
第2放送を聴いたこともあるけど、
これは子供達には不評だった。(やっぱりね。)



コマーシャルが入るのは好きじゃないけど、
FMで いい番組を見つけた。
‘NACK5(ナック・ファイブ)’という放送局で。

FM は FM 群馬、FM とちぎ、
それにこの‘NACK5(FM さいたま?)’が入る。
(FM東京は入らない、泣。)

我が家は電波が弱く、
運転中だけ快適にラジオを聴くことができる。
帰宅して車庫に入るまでの、
ちょっとした楽しみ。

6時台は 音楽や 交通情報とともに
サッカー情報が満載なのだ。



海外の情報、Jリーグ情報、
土曜日には 過去の有名プレイヤーの物語。

少々 浦和レッズ情報に偏っているのは
仕方がないし、それも嬉しい。
去年 私は 浦和レッズに注目していたから。

大野勢太郎というぼんやりした声のパーソナリティが
マリノスや アントラーズのサポーターからも寄せられるメールを
精一杯 声を張って 読み上げたり、
レッズの選手への直接インタビューを放送したり。



去年は 大事な試合で 勝ちを落としたレッズだが、
開幕を 土曜日に控えて、
気分は盛り上がりつつあるようだ。

もちろん 故郷を離れて ウン十年の私は
特別な思いで 鹿島アントラーズを応援している。
今年はタイトルを ひとつは取ってもらわないと。

がんばれ、トニーニョ・セレーゾ?
気張れ、小笠原満男!



息子の登校時間は、
部活の朝練だの
英語の補習だの 
英語の再試験だの
数学の再試験だので
たびたび早くなるけれど(学校の先生って、お気の毒!)、
早くしないと、あのコーナーの放送が終わっちゃう!
などと思いながら、
ふたりをせかして、駅へと向かう。