ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

医療記事

2004-07-31 | 乳がん
いつもの読売新聞の一面に、
昨日から 『がんに挑む  克服への道』というのが 掲載されています。

乳がん患者の私にとって、少しは身近な ハーセプチンという 乳がんの承認薬が、
標準的な患者の場合の 一ヶ月の 値段が、
39万円であるとか、
アメリカで承認された 国内未承認の 大腸がんの 注射薬が
一本30万円であるとか、
「混合診療」が認められていないとか、
“金の切れ目が命の切れ目”になりかねない
等と書いてあります。
お勉強になります。

この『がんに挑む』は、
『医療ルネサンス』という 通算三千回を越える なが~い 連載記事の、
一部分です。
ずっと、注目して 読んできました。
単行本として 出版されているはずですので、
書店で 目にしたかたも いるはずです。


父が 脳梗塞で倒れたのは、
亡くなる8年も 前の事ですが、
入院のあと 寺院日誌を見てみると、
みみずの のたくったような 文字に 急に変わり、
途中で 書くのをやめたような箇所が
いくつかあったそうです。
 
脳梗塞というのは、
重篤な発作の前に、
小発作を 何回か 起こすことが 多いそうです。
父の場合も、
そうだったのでしょう。
父は、
自分の調子が 少しおかしいのを、自覚していたわけです。

そんな 新聞記事をよんだのは、
父が倒れて、だいぶたってからでしたが、
悔しい思いをしました。
そんな事は 知らなかったのです。
私も、姉も、義兄も、母も、そして父も。

もういまさら、と思いつつ、
それでも 繰り返し読みました。


癌の治療は 日進月歩で、
新聞記事にも 度々 とりあげられており、
向こうから(勝手に) 目に 飛び込んできますので、
よく 読みふけっています。
なかでも、書いた人自身が がん患者の場合、
ことに 乳がん患者の場合は、
もう、
なにかこう、
必死な 気分で 読んでしまいます。


MY 乳がん―手術前

2004-07-30 | 乳がん
2002年12月7日は、7時まで、ぐっすり眠った。
朝の検温。
8時、朝食。
みかんが、口内炎にしみて、食べられない。

用もないのに、娘が来た。
「パパに行けっていわれた。」
ママは 断然 元気なのに、何のために 早起きして病院へ 行かなきゃならないのか、と 顔に書いてある。

10時、佐藤看護士による説明。
娘は、ベッドで爆睡中!

10時半、N女医、N医師、二人でやってきて、
胸のマークを マジックでなぞる。
土曜日は 手術もないのに、やっぱ、病院に 来てるんだ。

このときは、娘も 気づいて 起きて、
ベッドから降りた。
さっき 佐藤看護士が来た事は、気が付かなかったそう。

夕方、ブラをはずすと、くっきりと マークが ブラに 写ってた。
売店は閉まってたけど、売店前の自動販売機で、ロングライフ牛乳を買う。
110円。美味しい。

10時過ぎ、就寝。
お気に入りのCD を聞きながら、
ちょっと、シンデレラ気分かも。
優雅!
エンヤ、ゴンチチ、小野リサ、大滝栄一、Tabulatura 、スウィングル・シンガーズ、スザンヌ・ヴェガ、坂本竜一、白鳥英美子。
この辺は、私の好み。
亭主からは、Ciel や、OASIS など。
日中聞くのに、大黒摩季や GRAY も 持って来たけど、
聞いたのは、ヒーリング系が 多かった。
眠る前に聞くのが、一番心にしみる。

この夜は、真夜中に 看護士が 懐中電灯を点けて 見回ってくるのにも 気づかずに、
またまた ぐっすり眠る。


12月8日は、日曜日。
朝、なんと、5時過ぎに目覚め。
昨夜、寝るのが早かったもんねー。
日曜の病院は、ちょっと、退屈。

明日は、手術日。
亭主に子供達は、夕方やって来て、駅前のホテルに泊まる。
雪が降るかもしれない という 天気予報だから。
一晩でどっと 降ったりすると、
車で ここまで来られなくなる 恐れがある。

子供達は、制服に 鞄。
他の友達が 普通に登校している日に、
苦労して、苦労して、遅れて登校する、
悔しさと、肉体疲労。
それだけは、今回、避けられる。

その晩、
看護士が持って来てくれた 精神安定剤を、
私は 「要らないみたい」
と言って、断った。
誰でもみんな、飲まされるのかな、と 思ってたけど、
飲む必要のない人は、いいよね。
少数派かも しれないけど。

お気に入りのCD を聞きながら
ぐっすり眠って、
翌朝、5時ごろ 目が覚めた。

ちょっと、起き上がって、窓の外を見る。
雪が心配で。

雪が、降っていた。
うっすらと 積もった雪。
何度も、何度も 起き出して、
窓の所へ行く。
積もった雪は、だんだん 白さを増していく。
すごーく、 心配。
ホテルから、病院まで、来れるのか。

やって来た亭主は、むしろ、嬉しそうだった。
「ゆうべ 泊まらなかったら、来れなくなってたよな。」

でも、他に 来れなくなった人がいた。
放射線医。
放射性物質を注射して、
癌が どこまで行ってるか、調べるために、
必要なんじゃ なかったかな。
予定より少し待たされてから、
まもなく 放射線医が 到着する、と連絡が入って、
注射の順番を 換えて、
最初に 肩に 麻酔の注射を 打つことにする。

痛ーい注射をして
ストレッチャーに乗ると、
もう、意識は、朦朧として。
私って、麻酔が効きそう、とは思ってたけど。
病室を出て、エレベーターに乗って。
病棟から病棟へ、あるいは 廊下へ、という つなぎ目で、
佐藤看護士の、「少し、ゆれますよー」
と言う声がして、ガタン! とゆれる。
それが、何回もある。
静かにしてー、眠るのにー。
ずっと 目は閉じたまま。
ガタン! がなかったら、とっくに 寝てる。

いよいよ 手術室に入るらしい。
お願いします、と、引き継ぐような気配。
ああ、手術、やだなー。
どこかで、
「がんばれよー」
「ママ!」
と、声がした。
おお、そこまで 来てくれてたんだね。
でもね。
ママは、ねむたいんだよ。








MY 乳がん―入院(2)

2004-07-29 | 乳がん
リハビリ室で、体操の実践練習をして、
いま現在の 腕の動きを チェック。
あの リハビリ・ビデオのように、
1センチずつ、こちょこちょと 腕を上げてくような 練習が
本当に必要なんだろか。
―――ばかみたい。
私はリンパを取らない(はず)だし、あんなこと、
しなくて 大丈夫なんじゃない?

ショルダー・スティックなる棒を もらって帰る。
手術した側の 腕を支えるらしい。 
―――へんなの。

検査室と、リハビリ室と、それから帰った時に 病棟のナース・ステーションと、この日、3回 体重を量った。
なんで? 合理的じゃないなあ。
着衣で、58キロくらい。
この夏、60キロに到達してしまったので、生まれて初めて、
ダイエットなるものをした。
小さい頃から、ガリ子だったからね。
毎年 少しずつ体重が増えて、60キロは、ちょっとヤバイ、
と思って。
1~2キロ 減って、ま、いっか、と。
身長は年齢の割には あるほうで、BMIは 問題ないし。

4:45~ 入浴!
ひろ~いお風呂で、くつろげない。
介護されながら入るには、この広さが 必要なのかな。
リラックスするには、本を持って入らなきゃなんない。

お風呂から出た直後に、学校を終えた息子がやって来る。
さっそく、マンガに夢中。
本を本棚にたくさん詰めたコーナーが、病院内に いくつもある。
活字中毒患者には、うれしい。
ちなみに、マンガは 活字文化の 一端です。

私の夕食の後に、亭主は頭痛薬を飲んで、息子と一緒に車で帰る。

この日は、5時過ぎに N 医師(女性)、7時半に T 医師、
8時過ぎに N 医師が 病室に来ている。
何でバラでくるのかな?
T 医師に、口内炎のお薬をお願いする。
ここ2年くらい、口内炎が一度できると、治らないうちに 
つぎつぎにできて、辛い思いをすることが 多くて、
入院した日に できるなんて、不安だし、すぐ治るように、
ビタミン剤も要求した。

貯めておくべきお小水、一度流してしまった。
でも、平気だって。

次の日。
午前3時ごろ、目が覚めた。
腹ペコで、朝食を待つ。
朝ごはんが到着したのは、7時47分でした。
まずい梅干がついている。
ウチにある梅干を持ってきてもらうことにする!

何と行っても、一番おいしいのは、義父の作った梅干で、
ヘタは ついたままだし、傷だらけだし、見た目は 汚いけど、
昔ながらの、本物の味がする。
義母は、
「アタシは、面倒な事は、キライ。全部 おじいちゃんが つくんの。」
この夫婦も、面白い。
ウチのマメな亭主は、この夫婦のところで採れた、なるほど。
このおじいちゃんの、息子か、なるほど。って感じ。

8時10分、回診。
8時30分、臨床医による採血。

新聞を 売店で購入。
130円也。
お金を出して 新聞を買う、って、もしかすると、初めて。
明日から、ウチの新聞を持ってきてもらうことにする。
130円が、もったいない。
夕刊は、ないとのこと。

超音波室で、撮影と、マーキングをする。
油性ペンで 書かれた。
その間、気持ちよく眠ってしまった!

4時前、入浴。
今日は 鼻歌もでて、いくらか広い浴室に慣れたみたい。

高校が早く終わった娘は午後1時に、
息子は5時過ぎに 病室に来た。
そして、ふたりで、マンが三昧のあと、
空腹に耐えかねて 売店へ行ったら、5時半で閉店していた。

亭主は 少し遅めに 荷物を持ってやって来て、
コンビニ弁当で 家族4人で 飲食。
ママは、もちろん、病院食。
味噌汁が なかった!
生味噌のインスタント味噌汁を、リクエストメモに書き入れる。
小さなセンターテーブルで、
ワサワサしているけど、楽しい。
8時過ぎに 3人で 洗濯物を持って帰る。

この日、私の担当看護士という、佐藤さんに初めて会って、
「担当の看護士がいるなんて、安心感ある~」
と思ってたけど、結局、いない日もあるわけで、
いろんな 看護士の世話になったので、
私みたいな 元気な患者には、必要のない 制度だったかも。
そんなに 困ったこともなかったので、相談することもなかったし。

この佐藤看護士に、絆創膏のパッチテストというのを やってもらった。
いろんんな 絆創膏を10個ぐらい、皮膚の柔らかいところに 並べて 貼って、カブレ具合を見るため。
でも、カブレたからって、使う絆創膏を変えるわけじゃ、ないんだって。

それから、
取り除いた癌細胞の一部を、研究のために検体する旨の同意書を渡されるやら、
麻酔医が来て、説明を受けて、麻酔承諾書を提出するやら、
‘手術の担当の看護士’が来て 説明があるやら、
なかなか のんびりは させては もらえない。
あたりまえか。


前に、主治医に、
「あなたの癌は、十数年たって ここまで大きくなった云々」
と言われてから、
ときどき、このしこりに いとおしさを 感じていた。
私の身の内にある、癌子ちゃん、といった感じ。
切り取ってしまうのが、かわいそうな、感じ。
このままずっと、共存できるものなら、
いっしょに なかよく やっていきたいような。
取ってしまうのが、淋しいような。
ワタシって、変?


MY 乳がん―入院(1)

2004-07-27 | 乳がん
2002年、12月5日。
日記によると、暖かな日だったらしい。
お風呂の排水溝を ガシガシやった、次の日の朝。
観葉植物に水をやって、
愛犬に別れを告げて、どっさり荷物を持って、
亭主の車で 病院へ。

病室に行って、パジャマに着替える。
本人、まだ 病人の自覚がない。
触れば 大きなぐりぐりが あるけど、
いま、痛くないし。
手術をすれば けが人になるけど、
まだ、病人じゃないよ、と。
いやだけど、病人らしく、パジャマを着る。
入院に先立って、イトーヨーカドーで新しいのを二着買ったんだ。
着替えたとたんに、なんか、お腹のちからがぬけて、フニフニとしてしまう。

病室は、実は、個室。
この贅沢モノ!
どっちにしようか、私自身は、大いに悩んでいたんだけど、
(四人部屋だったら、お友達ができて、楽しいかもしれないのに。)
亭主の強い勧めで、個室に。
曰く、
「こういう時のために、お金を使わないで貯めてるんだ。」
知ってるよ、しまり屋なのは。強引だね。
しかも、病院側の都合で、新しい方の病棟で、広い方の部屋だった!

すてき~。
ずっと、こおんなマンションに 住みたいと 思ってた~。
作り付けの家具、大きな窓、ミニキッチンに、冷蔵庫、洗面台。
ソファに テーブル、テレビに 電話 !!!
たあくさん持ってきた衣類は、キャスターつきの チェストに入れ、作り付けテーブルの下に 収める。
作り付けテーブルの 奥行きのある部分に、持って来た本や 日記帳を収め、湯沸しポットと CD ラジカセをおく。
電気製品を使う時は、許可証をもらって、貼っておくんだそうだ。
ベッドは、電動でリクライニングする時、膝の部分が上がる。
おっと、これは 子供達がおもちゃにしそうだ。

快適な入院生活へと 夢は広がる。
小説家なら、カンヅメになって、小説を書くだろう。
ベッドの上に渡せる 細長いテーブルも もちろんある。
切った後 痛いから、ベッドで あのテーブルで ご飯を食べるんだな。
ベッドの上の壁には、ゼットライトみたいな アームの 照明があって、
あと、いっぱい、コンセントやら 端子のようなのやらが 付いている。
やっぱ、病室なんだ。
あのコンセントに、いっぱい いろんな機械をつけて、呼吸をさせてもらったり できるように なってんだな。

口やかましい亭主も、この病室には いたく満足のご様子。
CD も いっぱい持ってきたし、
むりやり 綿棒まで持たされた。
退屈する暇がないくらい、本も持って来た。

そして、おしっこをする時は、おしっこをかめの中に入れて、とっとくんだそうだ。
お風呂は、予約制。やだー、予約しなきゃ入れない。

案内され、説明された後に、お昼ご飯。
やわらかめのご飯、
ほうれん草の卵とじ、
ごぼうと鶏肉の炒め煮、
ぶりの照り焼き。
まずまずの お味で、ぶりの皮以外、ぜ~んぶ 食べた。
そのあとで、亭主のお昼ご飯につきあって、病院の食堂で 紅茶を飲んだ。
学食を思い出させる食堂。

手術前検査に、サーモグラフィー検査というのがあった。
癌の手術の、なんかの役に立つんだろう、きっと、おそらく、たぶん。???

リハビリ室へ行って、リハビリのお勉強ビデオを見る。
同じ日に手術をする、あとの3人と一緒。
私より、ちょっと、年配の ご婦人方。
ビデオの後で、実践練習。
手を握ったり、開いたり。
ぐー、ぱ。 ぐー、ぱ。 ぐー、ぱ。 ぐー、 ぱ。
そのときに、リハビリの先生(若い女性)が、
「どちら側を手術するか、知っていますか?」
と聞く。
みんな、知ってる。
と、ひとり、手を上げて、
「私ね、私ね、」
と、しゃべろうとしている人がいる。
どこにでもいます、こういう、自分の事を、しゃべりたい人。
思いっきりテレビでも、嬉しそうにしゃべるオバサンが、多いじゃないですか。
私だって、できたら、しゃべりたい。
そのオバサン、一番年上で、太った人だったけど、こう言った。
「私は、この前は左だったけど、今度はね、右なの。」

びっくりしてしまった。
手術をすれば治る、と信じて来ているのに、
この人は、一回の手術じゃ、治んなかったんじゃない。
(再発・転移以外の乳がんが 反対側のおっぱいにできる可能性、なんてのを、ワタクシ、忘れておりまして。)
それなのに、こんなに、平気そうに、元気に、自己申告するなんて。

どっきりしてしまった。
そんな人がいる、ということは、
私もそんなふうになる 可能性がある、ということじゃない。
そんなことは、考えたくなかった。
だから、忘れることにした。
私は、特別なんだから。
そうして、私は、ほんとうに、忘れた。
シアワセな 忘れん坊。








MY 乳がん―入院前(2)

2004-07-27 | 乳がん
2002年12月5日の 入院まで、毎日何をして、何を考えて 過ごしていただろう。
いつもどおり、ほんわか、ぼーーーっとして 暮らしていたのに違いない。

ただ、お風呂のお掃除だけは、計画的にやっていた。
前夜には、排水の所を 一生懸命に 裸でこすっていた。
計画通りだった。
いま こうして やっておけば、私が 退院して来るまで、だあれも お掃除しなくても、なんとか、もつよ。
なんて思いながら。


冷蔵庫の中は、何にもないようにしておけ、と亭主に言われ、その通りにする。
一生懸命 何かを作って 入れておいて、腐らせた過去があるので、今回は、素直に従う。
おかずになるような 野菜の煮物も、すぐ味噌汁が作れるだし汁も、なし。
「とにかく、なにも 作るな。」
亭主が、しつこく言う。


この亭主、若い頃 アパートで 一人暮らしをしたこともあり、掃除も、つくろい物も、お料理もできちゃう。
 マメで、几帳面で、きれい好き。

「この人とだったら、アタシでも 共働きで、やっていける!」の思いが、結婚を決意する時に 後押しをしてくれた。
この人とだったら、仕事をやめなくていい。
この人とでなかったら、ぐずで のろまで すぐくたびれる私は、仕事を続けられない。

ひき肉とたまねぎで ハンバーグを作れる。
おかゆが 美味しくたける。
得意な料理は、精進揚げ。
こちらに来てから、私が倒れると、ずいぶん助けてもらいました。

・・・・・・でも、このところずっと、料理は 熱湯3分しか、やってない。まあ、私は 入院しちゃえば 手出しできないんだから、おまかせしましょう。

仕事は・・・もともと あまりやってない。
癌とわかってからは、忙しくしていると、いいのかなあ、という 遠慮のオーラを 亭主から感じてた。
「別に、手術をするまでは、今までと おんなじなんだから。」
と、いつものように している私に、亭主は、
「じゃあ・・・無理だけは、するな。」
と、不満げ&不安げに、でも、好きなようにさせてくれた、
ある時期までは。

忙しい節目の時期が、年にいくつもある。
11月にもある。
そして、11月のが、一番私には負担が大きい。
亭主は、負担を 少なくしてくれた。
有無を言わさない 勢いだったので、従ってしまった。
別に、例年通りでよかったのに。
不満はあったけど、ラクチンできるんなら、まあ いいや。 


子供達は、それなりに ショックもあったろうし、もうすぐ入院というと、緊張もあったろうけれど、なんせ、家にいない。

高校2年の娘に、中学2年の息子。
高校受験と中学受験が重なって、混乱しそうな時もあったけど、ふたりとも 受験生じゃなくって、よかった。
手術の時期としては、ラッキーなんじゃん。

二人とも志望校に合格して、電車に一時間ぐらい乗って通ってる。
JRの駅までは少し遠くて、車で送り迎えをしている。
普段は 亭主と半分くらいの負担の この送迎が、ひとりだと、少し重い。
朝が早くて、息子の 部活終了時刻に 合わせる 迎えが、やたら遅い。
そうして二人とも、家にいる時間は、風呂・めし・寝る でほとんどなくなる。

家事も、仕事も、子供達に手伝わせることが 減ってしまった。
そんな中、亭主がひとりで 仕事も、家事も、送迎もする。
負担は 亭主ひとりに かかってくる。

何でもできる亭主だけど、一日24時間にできることには、限りがある。
亭主は、息子に 休部届けを 提出させて、私の入院に備えた。
息子は、すこ~し いやそうだったけど、素直に従った。

ガーデニングは、しなかった。
やっては いけないような 気がしていた。
秋の花壇のまま、入院した。

入院の前に 気張ったのは、私専用に 新しく ノート・パソコンを買ったこと。
亭主の理解に、感謝してます。

「ママのおもちゃ」という位置づけで、
亭主の仕事場にある、あまり使っていないデスク・トップと、
ネットワークで繋いでもらいました。
しかし、あれですね、日進月歩というのは、このことですね。
亭主の ウィンドウズ・Meと、このXPとでは、
ずいぶん違うんですよ。フリーズしないもの。

とにかく、これで さむ~い さむ~い 亭主の仕事場へ行かずに、
インターネットが楽しめます。
これで、退院したら、乳がんについて 調べたり、
俵萌子さんの会の ホームページをのぞいたりするんだ。
入院前の知識は 充分だし。
余分にもってても、じゃまだし。
退院したら、家族に大事にしてもらって、
毎日インターネットで遊ぶんだ!






MY 乳がん―入院前

2004-07-16 | 乳がん
2002年11月1日 15:00、乳房MRI検査。亭主と行く。

無理な体勢をさせられて、全身クタクタ。
(たぶん、体を斜めにしたか、ひねってたか だと思う。私の苦手な体勢です。)
おまけに、写真の現像液のような臭いが 鼻についてしまい、
ず~~~~っと 気分が悪かった。

11月4日 お祝い事があり、茨城の亭主の実家へ。これでも一応、長男の嫁、のはず。

11月6日 14:30 腹部スクリーニング
       15:00 肺機能検査
       15:30 この前書いた乳線フォローは、ここ。

ふたつの検査が 終わった後、はらぺこで病院の食堂へ行き、チャーハンを食べたんだけど、
「おいしかった。」と言ったら、
「相当お腹がすいてたんですね。」と言われてしまった。
こんな事は良く覚えている。
食堂のチャーハン、ほんとは 不味い?

11月13日  8:30  RI 検査前投与
        13:30  骨シンチ検査

この日は、亭主は付いて来てくれていない。
MRIの時に 相当参ってしまってたので、不安だったけれど、なんとか クリア。
タクシー代、駅から1460円なり。
帰りは、バスで、190円。

11月19日 15:00 放診乳腺エコー 

と、書いてあります、日記に。(放診? なんのこっちゃ?)
胸の中の細胞を取る。
三回も!!!
太い注射みたいので、バチン! とやって、取る。
少し痛いかも、と言われていた。
痛い気がしただけで、そうでもなかった。
生まれてこの方 やったことのない検査で、
キカイがあって、
知らない人が何人もいて(三人だったかな?)、
唯一知ってる主治医も いなくて、
痛いような気がするよね。
巨大なバンソーコーを 貼って帰る。

11月20日 主治医の再診。先生と、二度目の逢瀬、亭主付き。
        昨日のバチンの傷の消毒。
        中間報告。

何を中間報告されたか、覚えていない。たぶん、前(10月29日)と おんなじことを、言われたんだろう。

11月27日 主治医再診。亭主と一緒。

「フツーの浸潤癌」と言われた。
少し大きくて、2.5cm × 3.5cm 。
Ⅱ期。 
Ⅱ期とは、ショック。予定外。Ⅰ期だと 勝手に思ってた。
つまり、私は乳がんにはならないだろう、と言う思い込みと、一緒。
大きいというのは、触って、実感しているけど。
センチネルリンパ節生検の 話もあって、
懲りずに、「私は リンパ節は 取られないだろう。」と、勝手に思い込む。

11月29日 恵比寿へ。

もう二十年通っている 骨盤調整の整体師(女性)の所へ行き、
乳がんの手術をすることを告げ、「良いお年を」と ごあいさつ。
確かこの時、治療院で 友人に会っている。
大学時代の友達で、少し前から この整体師のところへ 私の紹介で通い始めた、大好きな友達(B型)。
彼女に隠し事はしたくない、
治療の後に ランチをして、そのあと、ここで 初めての カミング・アウト。

私の実家の母にも、姉にも、内緒にするつもり。
母は 精神的に 少しストレスに弱いし。
姉は、以前、乳房のしこりを2回取っているが、
私には、終わってからの 事後報告だったので、私もそうするつもり。

今になって 思うけど、友人には、おも~い 告白だったかな。
今度、聞いておきますね。

デポジット制

2004-07-15 | 考えたこと
もうひとつ、環境省に ガムバッテもらいたいこと。
それは、デポジット制の 導入。
 
今日の朝刊に、
「はじめまして。自動車リサイクル法です。来年2005年1月にスタートします。」
等と書かれた、自動車リサイクル促進センターの 広告がありました。
新車を買う時に、リサイクル料金を払うんだって。
または、今度の車検の時か、廃車にする時。
これって、モノは 大きめだけど、デポジットですよね。

もっと身近では、飲料用の瓶、缶、ペットボトルなど。
ごみは出したくないけれど、飲み物は、ついつい 自販機で買ってしまうもの。特に、こう暑い日が続くと、冷えた飲み物が いつでも買える自販機は、ありがたいものです。
もっとも、省エネ、省ゴミ、打倒!糖尿病 などのためには、自販機は 宿敵のひとつですが。
(田舎道では、自販機は 貴重な 街灯代わり、という話は ひとまず置いといて。)

我が家の周りには、畑がたくさんあります。
畑を耕す前に、農家の人は いっとき 空き缶拾いをしなければなりません。
道路を走る車から 投げ捨てられた 飲料缶が、落ちているからです。
きれいに耕作された畑にも、投げ込まれています。
苗が植えられた、ふかふかの お野菜のベッドにも、投げ込まれます。
しばらく人が入らなかった畑は、瓶や缶も、たまっています。
信号のある交差点付近は、特に多いようです。

日本人のモラルの失墜、なんて論議も、したくないわけでは ありませんが、
(私は、恥ずかしながら、性善説を かなり 素直に信じてまして)
それでも さまざまなムダを考えると、デポジット制に 考えが 行き着きます。

私が幼い頃---小学生が大きく思えた頃、近所の大きくてナマイキな お兄ちゃんたちは、針金が落ちていると、拾っていました。
ピンク色っぽい針金が あると、あかがねだー、と騒いでいました。
ためて、廃品業者に持っていくと、お金になるらしいのです。
もちろん、子供に集められる量では、お小遣いとして 充分な金額になるまでは、相当の日数がかかったでしょうけれど、
子供が 親や先生にしかられずに、合法的に 小遣い稼ぎが できる、一方法では あったわけです。

いまでも、PTAを中心に、廃品回収(または、リサイクル活動などと呼ぶ)は 盛んに 行われていると思いますが、雰囲気がなんとなく違います。

洗浄すれば、何回でも使える。
溶かして、また 同じものを作ることが出来る。
リサイクルすれば、新しい物に 作りかえることが出来る。
まだ 生命や使命が 残されているのに、
「もったいない。」
という感情は、集めている人たちの、誰も 持っていないのではないでしょうか。
学校などに 頼まれなければ、誰もやらなくなるでしょう。

でも、
「お金がほしい、少しでも余計に、お金がほしい。」
と思う人は、(私も含めて)結構いると思うんです。

デポジットにすれば、最初に購入するときに、5円程度 多くお金を払う必要がありますが、回収すれば、戻ってきます。
お金になるんです。
小学生でも、幼稚園生でも、浮浪者でも、不良でも。

拝金主義は好きじゃないけど、お金になることから モノを大事にすることを教えるのは、そんなに 難しくはありません。
反対に、「もったいない」のココロを 今の人たちに わかってもらうのは、これはけっこう、至難の業。
なぜなら、物質文明の効率主義とは対極の、‘たましい’を尊ぶ感情が 欠かせないから。

泥にまみれたガラス瓶の、ひしゃげたアルミ缶の、残った水が異臭を放つペットボトルの その中に、
確かに‘たましい’が あることを、うすうすでも 感じていないと、わからないものが あると思っています。

私の家のそばには、土手があって、河が流れています。
この河原もまた、捨てられた‘たましい’たちが 行き場を失い、意欲をなくして 寝転がっている名所です。
デポジット制が 導入されれば、みんな こぞって 拾っていってくれるのに、と思わずにはいられません。

・・・・・・ついでに、鉄くずが もっと高く売れたら、
河原の さまざまな 朽ちたオブジェたちは、引き取り手に 恵まれるものを、と 残念に思っています。











環境省ガムバレ

2004-07-14 | 考えたこと
環境省が、めずらしく きりりとしたことを やるようです。
排ガス基準を 満たさない ディーゼル車の 走行を、首都圏&三大都市圏でだけだけど、 禁止してくれるらしい。(今日届いた、昨日の夕刊15面)

神奈川県も東京都のすぐ隣、という場所の人が、
「東京都が ディーゼル車を 規制してくれただけで、
 この辺も かなり 空気が良くなった。
 ここに居て、息をしてて、 
 わかります。」
というので、聞いた私は びっくり。
そ~んなに 違うんだ。
そ~んなに かわるんだ。

東京都は、ゴーインだなあ、というのが、ニュースで 都知事の話を聞いた時の 印象でした。 
リーダーシップというのを、行政が発揮した、ということでしょうか。
凄いことだと思います。
 
最近、行政が 住民のご機嫌取りをしているように 感じることもあって。
住民の皆さんのご意見をお聞きして、といいつつ、
住民の皆さんのご意見が まとまらなければ、何もしないように 思うこともあって。
批判されることを恐れるあまり、最初から逃げを打っているように 思えることもあって。

環境省、ガムバレ。
NOx(窒素酸化物)や、PM(粒子状物質)によって 大気汚染がすすんだことが、光化学スモッグや 喘息の 原因になっていると いいます。花粉症や アトピーに 影響しているとも 言われます。

そして、肺がんの原因になるという 研究結果も 出ているそうです。
まあ、癌ということで、乳がんの 親戚みたいなもんですから。
癌 全体を、撲滅していこうと いうことで。

参議院選挙が終わったばかりですが、行政の、(掛け声だけでなく、本当の)リーダーシップに 期待します。



私の食養生(3)-きっかけ

2004-07-14 | 食生活
合板がふやけて 住んでいられなくなった中古住宅を壊して、ツーバイフォーで 新築してちょうど8年たちました。
システムキッチンの中に 食洗機をビルトインしたい、と申し出る私に、
△■ホームの営業マンは にこやかに言いました。
「食洗機は、ちょっとした食器棚がわりにも なりますよ!」
「いえ、ウチは、朝と昼と夜とで、使う食器が違うので・・・。」

朝は プレートで パンとコーヒー、ミルク。
昼は 大きめプレートか どんぶりで、麺。
夜は、真っ白い ごはんと お味噌汁。
我が家の食事のパターンでした。

亭主に異変が起きたのは、4年ぐらい前の、この時期(もう、はっきり いつとは、覚えていない)。
出張が入ってた亭主は、その前にとばかり、暑いさなかに 外で力仕事をしたんです。
いつも机に向かっている人が、汗を書くのが、気持ちいいと。

ところが、何時になく 疲労困憊して帰ってきたので、私は 
「スタミナ、スタミナ。」を合言葉に、こってりした料理を 連日食べさせました。
胃袋が異常なまでに丈夫な(上に、神経も異常なまでに図太い)私は、胃腸が弱っている人の 感覚と言うのが、わかっていなかったのです。(おそらく、今も。)
亭主は、あっというまに 回復不能なほど 食欲をなくし、下痢をし、体力をなくし、痩せていきました。

8月になっても仕事に復帰できず、不義理を続け
(ついでに 下痢のあまり ぢになり、手術もし)、
私は 子供達にいつもと同じように生活させることと、
亭主の通院の 運転手と、
胃腸に刺激にならないような食事作りとで(毎食おかゆだった)、
てんてこまいを続けていました。

親しい人たちには、神経を使ったからだよ、ゆっくり休んで、と同情され、
そうでない人たちには、長くないかもしれない、と うわさされ。
そのくらい、痩せてしまったんです。

特別出演してくる近所の養護教諭には、大変心配していただきました。
実は彼女は、自分の病気の時の体験から、‘ミキプルーン教’の熱烈な信者です。
布教にも大変熱心で、私もいろいろな商品を 勧められてきました。
ただ ありがたいことに、彼女は これ以上は強引に勧めない、という一線を いつもしっかり持っていて下さるので、私も安心して ‘ミキプルーン教’の教義の 講義を 承っていたのです。

そして 亭主に異変のあったこの時、彼女はせっせと 体に良いものを、ミキプルーンの 製品を混ぜて調理して、度々持ってきて下さったのです。
どんなに助かったことか!

手術のあと、亭主は徐々に快復してきました。
下痢が止まり、食べられるようになり、動けるようになり、
体重も少しずつ戻りました。
8月も末になって ご飯が食べられるようになると、ちからもでてきました。

それまで 医者からもらった「下痢をした時に」という 一枚の紙を参考にお三度をしてきた私は、物足りなさを感じて 胃腸病の医師の書いた本を読み、自分なりに咀嚼して、それから(ここからが大事、)自分が 楽なように、自分が 美味しいと感じるように 調理に 力を入れていくようになりました。

だしは、私が(!)一番美味しいと思う、かつおだし。これに、久し振りに昆布をプラスするようになりました。

おかずには、なるべく、おひたし。ほうれんそうや、小松菜、モロヘイヤ、つるむらさき・・・
かぼちゃや じゃがいもの 蒸したもの。
夏はサラダも大好きだけど、ドレッシングの油には 気をつけて。
お肉より、お魚。
忘れちゃならない、手作り梅干。

イトーヨーカドーの近くの、自然食品のお店も、彼女に教えられて、ときどき行くようになりました。

そして、ごはん。
雑穀を混ぜて炊く 雑穀ご飯は、主人も食べます。息子は、大好き!・・・・・・娘は、キライ。
朝は雑穀ご飯を炊き、夜は白いご飯を炊く。しばらくは これでやりました。

お昼は、麺に戻りました。食べたいものを作るからです。
うどん、そばを 中心に。ラーメン、スパゲティに、焼きそば、焼きうどんも、ときどきは。
添加物は、味が変わるので、もともと気をつけてはいました。

問題は、家族の、[食の好み]です。
みんなが違うのです。
朝は 体のために、なるべく和食を。・・・一番食べてもらいたい亭主が、いやがるのです。
毎食 雑穀ご飯で良い息子と、できたら食べたくない娘と。
この断絶は、玄米ご飯の登場で さらに決定的になり、
いまだ、頭を悩ませているのです。











プチ修行

2004-07-13 | なんとなく仏教?
「ほぼ日刊イトイ新聞」のミッセイさんも 行ったと言う、加行(けぎょう)というのが、修行の キホンかなあ。
   http://www.1101.com/bose/index.html
宗派によって多少違うと思うけど、だいたい2ヶ月くらい、本山と呼ばれる巨大な寺院で、教官もいっぱいいる所で、毎日修行をする、らしい。

行(ぎょう)の最中は、友達と、お互いの頭を かみそりで そりそり するんだそうな。
ある人は、とても頭の形がいいので、「剃ってやるよ~」と言い寄ってくる友達が、何人もいた、らしい。
また ある人は、「お前の頭は、剃りにくいんだよ~」と、友達に逃げられまくった、らしい。
あるいは、身体髪膚、切ったり剃ったりしない、という時期もある、らしい。

行ったことがないもんで。

私が行ったのは、一週間だけの、プチ修行。ああ、お坊さんって、こんな修行をするんだ、というのが 垣間見える感じ。
もちろん、難しい所や 時間のかかるものや、教える側の 準備が大変なのは、省略。
それでも 適当に大変で、修行している気分になれて、それなりに楽しい。

実家を出て、アパートで自炊の暮し。それが、食堂(じきどう)に入ると、もうお精進がめいめいに セットしてあって、素朴な味で 結構美味しい。これは、嬉しい。
‘食事の前にお経を読む’とか、‘ず~っと正座’とか、クリアしなければならない問題はあるけれど(クリアの方法=我慢あるのみ)、一週間で終わりだも~ん。

男子は、当然のように、坊主頭が お約束。剃る必要はなかったけど。

ご法事のお経の読み方とか、お写経とか、基本の基本を やらせてもらいましたが、ほとんど、忘れた。そのほか、講義もあって、何を聞いたか、これは、全部忘れた。
結構 暇なくスケジュールが組まれていて、そういえば、テレビや ラジオや 新聞は、影も形もなかった。雷で電灯が消えたことがあるんだから、電気は通っていたんだけど。

ある時、所用で 外界に出てきた 先生が、
「北海道に、ソ連の ジェット機が 飛んできて、大騒ぎ」
という ニュースをもたらしてくれた。かつがれてる、としか思えなかった。・・・・・年がばれそう。ばれてるか。

二ヶ月の修行の方は、ダイエットになるらしく、夏休み明けのキャンパスには、頭だけじゃなく、お腹や 首周りまで さっぱりして、人相の変わった男子がいっぱい。

義兄も人相がかわりました。かわいそうなくらいに。
サラリーマン家庭に育った人だったから、手をぬかずに 修行しちゃったらしい。

こんなヤツが 将来、住職になるのか! と思うような ちゃらんぽらんな 同級生がいっぱいいたけど、風の便りでは、みんな、住職になったら、ちゃあんと お坊さんをしているらしい。結構、真面目に。
‘責任感’のなせる業だね。お檀家さんをしょってるって、結構、重いもの。

住職に不満があったら、大声をださず、けんかごしでなく、正面から 正攻法で 言いたいことを きちっと伝えると、きっと真面目に対応してくれると思う。

ああ、これ。 今度の主治医とのランデブーの時、思い出せたらいいな。



MY 乳がん-乳腺フォロー

2004-07-12 | 乳がん
2002年11月6日。
乳腺フォローなるものが、最後にあった。
なんだろ、これ。と思っていたが、
癌と宣告されて、初めて癌センターに来た人に対する、
精神的な方面からのサポートだった。

ご自身は「看護婦です。」とおっしゃる女の人で、眠れますか、食欲はありますか、
などと 聞かれた。
カウンセラーという立場は 公式には取れないのかもしれないし、
癌についての基礎的な知識も必要なのだろう。
看護婦、ということは、看護婦の業務も こなしているんだろうか?
まさかね。そしたら、カウンセリングなんて時間は、とれっこないもの。

でも、そんな対応がある、というだけで、嬉しい。
お医者さんとの対面も、食堂でのお昼も終わって、
ほっとしてたし、リラックスして、
よし、わかんない事は、全部、この人に聞いちゃおう、という気持ちになった。

毎晩良く眠れてたし、モリモリ食べてた私に、
ちょっと拍子抜けした(&あきれた)ようだった彼女だが、
たっぷり2時間、私たちにつき合わせてしまいまった。

入院自体は出産で二度経験しているが、麻酔やメスは使っていない。
手術は、13歳の時の盲腸以来です。不安は、山ほどありました。
私は、退院した後、水着でプールに行くと、外から見てわかるかどうか、を気にしていた。
プールの話で彼女と盛り上がったりして。

執刀を先生にお願いした事を話すと、
あの先生なら、安心ですよ、みたいなことを言われた。
機械による検査でも 判別できないくらいのしこりの時、
あの先生の 「気になる」の一言で 切って調べてみると、
癌が見つかったりするんだそう。

始めは外科でも他の部門を志していたらしいけれど、
おっぱい一筋になって、三十年近く。
今や、「あの先生の手は、キカイより精確」と言われるんだそう。

この話は、嬉しかった。
聞いて、とっても 嬉しかった。
たとえ、嘘でもいい、手術の前には、こんな風に
医師の良い評判を 聞きたいものです。
私の主治医に対する信頼の、大きなきっかけになった、乳腺フォローだった。


ところで、私の家の近所に、Ko 医院がある。
アメリカ帰りの、ある部門においては、それなりの権威の先生なんだそうだ。
お会いしたも事あり、とてもステキな、尊敬できる先生だと思っている。

そして、近所に、Sa さんという人がいた。
Sa さんは、前年、つまり2001年の秋ごろに
このKo 先生のところで、検査で乳がんが見つかり、告知を受けた。
もう、手の施しようがありません、と。

彼女は、元気で、働き者で、明るくて、みんなの人気者だった。
野菜や 花を育てて 出荷しながら 子供を育て、
じいちゃんとばあちゃんを 見送った所だった。
よそから 嫁に来た人だが、嫁ぎ先の親戚中でも、一番の人気者の 若いオバちゃん。
私とそう年も離れていなかったと思う。

暮れに一度、お会いした。相変わらず、元気で、明るい人だった。
「お元気そうですね。」
「ええ。でも、・・・そうなんですよ。」
ニコニコしてましたが、それ以上、何もおっしゃらなかった。
私も、それ以上、何も聞けなかったし、
なにも言ってはあげられなかった。
近所中にうわさは 広まっていたのだろう、ウチにまで飛んで来てたんだから。


どんな気持ちだったのだろう。
もうすぐ、あなたは、死にますよ。
夫も、子供も残して、あなた一人で、死ぬんですよ。
実家の父親も母親も元気だけど、あなただけは、死ぬんですよ。
今は毎日元気そうで、コロコロ笑って、いつもと同じように生活しているけれど、
もうすぐあなたは、死にますよ。

Sa さんの気持ちを想像してみたかったけど、できなくて、やめた。
他人の私には、手も口も出せないし。
第一、どうしていいかわからないし。
家族が、しっかりしてらっしゃるから、
きっと、おかあちゃんを 支えてあげて くれるだろう。


春、三月。Sa さんは、旅立った。
家族にとっては、突然の死と 同じようだった。
やっぱり私には、なんにもできなかった。
そして、Sa さんのことを、忘れていた。

やっと、思い出したのだ。

Sa さんは、どんな気持ちだったんだろう。
やっぱり、想像できない。
Sa さんは、Ko 先生に、どんな風に 伝えられたんだろう。
その後の彼女の感情を、病院は、どう受け止めてくれたんだろう。

Ko 先生は、真摯な哲学者であり、
ステキなロマンチストであり、
立派な文学者であり、ときどき 雑文をかきためては 本にしておられる。

最近の著書に、
「こういう大事なことは、本人に正確に話さなくてはいけない、と私は思っております。」
との一文があった。
腰痛で来院した、極めて悪性度の高い軟骨肉腫の 元看護士に、
手術と、その結果失われる可能性のある機能について、説明した、
というくだり。

それは、そうだと思う。
自分の体の事だもの、一番知る権利があるのは、本人だろう。
でも、その状態が 回復の見込みがなかった場合や、
末期的だった場合、
本人に告げて、さようなら、では、やはり、おかしい。

私の大好きな、Ko 先生は、いったい、どうしていたんだろう。
アメリカ式に告知をするのはいい、でも、その後の 精神的なフォローを、
決して 忘れないでほしい。
世の中、私みたいな ノーテンキばかりではないのだから。





MY 乳がん-がんセンター

2004-07-09 | 乳がん
さあ、それからが大変。
亭主は、大きな本屋さんへ行って、
何十冊もある癌の本の中から、よ~く比べてみて、
何冊か選び出して買ってきて 読み始め、
「お前も後で読んでおくように。」だって。

そんなの読まなくても、知ってるよー。
だって、私の趣味は、新聞を読むこと(政治・経済は、少し、除く)。
最新の治療法、診断法、医療ミスなどなど、
いくらでも新聞に書いてある。

最近は、おっぱいは、全部とらないのが、普通になってるんだよ。
全部取るって言ったら、抗議してみるんだもんね。
センチネル・リンパ節生検とかいうのがあるんだよ。
これは、最新の判断法らしいから、
やってなくても、あきらめて、ここで手術を受けよう。
これは、私の、独り言。

亭主は亭主で、本を読んで、知識を仕入れて、
それなりに覚悟を決めて事に臨む構え。
で、私に、
「ややこしいことを言ったりしないで、
少しでも後が安心なように、
全部とるなら、きれーに全部とってもらおう。
おまえも、先生に そう言いなさい。」と、
(いつものように)命令する。

最近、村井ナンタラ言う俳優が、
妻で女優の音無ナンタラが 乳がんの手術を受けるという時に、
自分が不安でたまらなくて、
「おっぱいを残しておかずに、全部とるように」と、命令口調で言っていた、
と告白する本が出たそうな。
とんでもないヤツ! と思う、今の私。
その奥さんは、夫がそんなことを言わなくても、残せない状態だったそうだけど。

2002年10月29日。
初めて がんセンターへ 亭主と行った。
予約時間は、お昼の12時。
最近わかってきたのは、どうしても入れたい予約が 後からできた時は、
12時とかになるみたい。
お昼の時間を削るらしい。

この初めての日から、
待合室では ずいぶん待たされたような気がする。
そして、今も、かなり待つ。
予約時間は、あってなきが如し。
ないが如くだけど、あるんだなあ。
紹介状があっても、予約がないと、原則、診てもらえないらしい。

もう記憶があいまいで、順番なんかは メロメロだけど、
外科の中の、乳腺外科の診察室の ドアのそばで、
2時間以上待ってた気がする。
名前を呼ばれたら(初診の人はマイクで名前をよばれる)、
あのドアの中へ 入るんだな、と、ドアを見つめていられる場所。
そのドアから、やたら若ーい人が出て来たりする。

「あんなに若い人が、来るんだね」と、亭主とひそひそ話す。
私はもう、子供が大きくなっていて、よかったね。
自分に言い聞かす? 
いえいえ、ほんとに。
おっぱい、もう、いらないじゃん。

先生は、大柄ではない、白髪交じりの 眉毛の薄い人。
意外と乱雑な 診察室の中で 診察をした後、
これまたすこーし 乱雑な 机の上の パソコンで、
手術日をきめる。ここしか空いてない、といわれたのが、
12月9日。
えっ。

そんなに先? 
ちょっと、びっくり。
そして、不安。 
せっかく癌を見つけたのに、そんなに手術を先にするの?
先生は予定表を ディスプレイで ずーっと見せて、
「だって、しょうがない。ここしか 空いてないんだもの。
 一日に4件しか、手術できないの。」
やさしさは、感じなかったなあ。
だけど、アノ総合病院の先生が 
信頼できる良い医師として 紹介してくれたのは この先生だし、
他に知ってる先生がいるわけでなし、
執刀は是非、先生に、とお願いして、快諾を得る。

先生曰く。
「あなたの癌は、14,5年 かかって ここまで大きくなったんだから、
 しばらく置いといても 大丈夫。」
14、5年。
14歳の息子の顔を思い出す。
ああ、そうか、と 納得してしまう。
あの頃の私は、癌ができても、おかしくなかった。
そうだったんだ、あの頃できたんだ。

先生によると、私の癌は、左胸にあり、
大きくはないけど、小さくはない、多分3センチぐらい。
でもこのくらいなら、おっぱいは、残せる。
癌をとった後は、周りから お肉を集めて、きれーな形にしてあげる。
その他に、右にふたつ、左にもうひとつ、何かあるけれども、
これは 心配ない、
取る必要がないから、とりません。
こういう手術をします、などなどの説明もあったような気がする。
ひとつひとつ 説明してくれて、
ひとつひとつ うなずくけれど、頭に入らなかった。
たぶん、聞いても良くわかんない、未知の領域の内容だったからだと思う。
今聞けば、きっとわかるのになあ。

亭主は、予定通り、
「残して 後々 悪いことがあるよりは、
 先生、きれいに 取ってしまってください。」
と、ちゃんと、言った。
先生は、
「今は、そうゆうことはしない。取る必要があったら 取る。」
と、少し 不快げ。

そして、私が気にしていたリンパ節に関しては、
「手術の前に注射をして、
 癌がリンパに行ってるかどうか調べて、
 最初に癌が行くリンパに 癌が行ってなかったら、取らない。 
 行ってたら、取る。」
との説明があった。
おお、最新式じゃん! 
期待してなかったよ~! 
いっきに高まる、信頼感。
よかった、この病院を選んで。
このとき、「転移」と言う言葉を遣わなかったような気がする。
でもあれって、リンパ節への「転移」なんだよね。

エックス線と超音波の検査もこの日にあった、
と書いてある、日記に。
アノ総合病院で おっぱいを挟んでせんべいにして写真をとる 
マンモグラフィーなるもの、
こちらは ずいぶん新しく、挟む時に、機械の動きがスムースで、
ギリギリ言う音はしなかった。
でも、痛いのは同じだった。

「痛かったら、言ってください」
って言うから、
「痛い」
って言っているのに、
「ハイ、じゃあ、もう少し」
って、聞いてんの?
と、むかつきつつ、
「アノ総合病院とは、検査の機械も、全然違うんですって。」
という、養護教諭の情報を、思い出す。
ああ、確かに。
おっぱいを挟む板が、すごく スムースに、挟んでくれてるよ~。


 

父のこと

2004-07-09 | いろんな人
私は、ファンタジーが大好きです。
『指輪物語』、『ハリー・ポッター』、『あかんべえ』、『陰陽師』、
『百鬼夜行抄』、『妖精国の騎士』、etc.・・・
『しゃばけ』 (畠中恵著、新潮文庫、2004.4.1、514円)の中に、
「返魂香(はんごんこう)」というのが出てきます。
神の庭山にある返魂樹(はんごんじゅ)から作られる霊香で、
百里をわたる芳香を持ち、
死者の魂を蘇らせると言われるものだそうで。

そんなものがあるなら、欲しい。
そう思う人も、多いのでしょうね。
私は 父が亡くなったとき、そういう思いは、持ちませんでした。
父は、確か54歳の時に、脳梗塞の発作を起こし、
残りの人生が“余生”になってしまって、すでに 八年が過ぎていたから、
かもしれません。

‘死’の前にまた入院させなくて済んで、良かった、とも思いました。
あんまり 突然亡くなってしまったので。

時たま 温泉にゆくのを、楽しみにしていました。
他に、あまりすることもなかったのでしょう。
母は、幼い頃の私に そうしたように、過保護だったのだと思います。

伊香保温泉でした、最後に行ったのは。
帰ってきて、お茶を飲んで、
「やっぱ、うちのお茶は うめーなあ。」と、言ったそうです。
ご飯を食べて、
「うちの 味噌汁は、うめーなあ。」と、言ったそうです。

お風呂に入って 
きれいになって、
そろそろ眠る頃、
呼吸がおかしくなって、
医師に電話。
連れて来て、と言われて 連れて行き、
注射(強心剤だったそうです)を打って、
我が家へ帰る、その玄関の前で、抱きかかえられたまま、
突然 崩れるように 力がぬけてしまったそうです。

義兄がそのまま負ぶって家にあがり、
部屋へ運ぶ廊下で 呼びかけると、
一度、すこうし、目を開けたそうです。

義兄が人工呼吸をしてくれました。
・・・鼻の穴をつまんでいなかったそうです、後から考えれば。
そのうち、体調を崩していたと言う医師が、来てくれました。
ようやく始まる、心肺蘇生法。

「今、医者が来て、人工呼吸してっけど、
 はあ 駄目だから、
 覚悟して、よく 用意をして 来いよ。」
実家から離れて住んでいる私が 電話で 母に言われた言葉です。

お葬式は、 本葬と密葬と 二回にわたりました。
記憶の断片の中で、どれがどっちだったか、わかりません。

母が泣いたのは、四十九日ごろにおこなった、本葬のほうです。
姉も、わたしも、気丈な母が泣いたのを 見るのは、あれが 初めてでした。
また、あまりの突然のことに、それまで誰も 涙を流さなかったのです。

定休日がないので、実家へ帰るのは、忙しい時期が一段落つく 5月の連休明け。
子供も保育園を休ませて、年に一度、一週間。
それがお決まりのようになっていたのに、 
上の子が小学校に入学して、その年は 行けませんでした。
少し遅くなったけど、父のおかげで、
5月の下旬に、学校や 保育園を休ませて、
一週間近く、実家に居る事になりました。

学校を休ませてでも、今年も連休明けに 連れて来てれば良かった、
と思わないわけには いきません。
そして、こちらに帰って来てしまえば、
いつもと寸分たがわぬ日常の生活に 戻ってしまえるのです、
それが、とても 悲しかった。

こんなに早く 父と永の別れに なるとは 誰も思っていなかったので、
第一線から退いていたとはいえ、
仕事面でも(田舎の寺院です)、混乱はありました。

ですが、とにかく、 とにかく、 突然 肉親を失うということは、
とんでもない 苦痛です。
心の整理がつきません。

‘死’の前には、
家族が心の整理がつくようになるまで、
私はしばらく 寝込んであげようと 思っています。
その点、癌は、ありがたい病気です。 

夢に父が 出てきてくれたことが その頃 何度かあります。
目が覚めて、
会えて嬉しくて、
でも涙が止まりません。
このごろは 泣かずに会えると思うのに、
出て来てくれません。
私が忘れてしまっているからでしょうか。
冷たい娘ですね。 

それでも父には 
返魂香の においをかいで 戻ってきて欲しいとは 
思いません。
一生分のやるべき事は やった人生だったと 思っています。
やっぱり 冷たい娘でしょうかね。


私の食養生(2)

2004-07-06 | 食生活
かぼちゃの 美味しい季節に なりました。
今年も 亭主の実家から、大きなダンボールで ごろんごろんと 
いくつもの かぼちゃが やってきました。

まずは、天麩羅。おいしー!!!

でも、術前 72だった中性脂肪が、術後 212にはねあがり、
コレステロールを 気にしなければならない私としては、
そうそう天麩羅ばかりを食べては いられない。

術側の腕に、まちがっても ヤケドをしないように、
長袖エプロンをつける暑さ、これも ものすごいし
(リンパがないってのは、思ってたより、ずっと不便)。

それに、師匠(勝手にこう呼ぶ)は、伝統的な日本の食事に還れ、と言っていた。
いきなり戦前の食生活にはなれないし、なりたくもないけど、
油をたっぷり使った揚げ物は、ご馳走だったはず。
たまに食べるご馳走と、いつもの料理を、分けて考えましょう。
ワタクシ、このごろは、なんで前は あんなに油を使ったのだろう、と思うぐらい、
油の消費量が 減りました。
健康エコナを使う必要も ありません。 

今日は、砂糖・醤油・酒のみで、こっくりと 煮含めました。

でも、本当に美味しいかぼちゃのときは、
そのまま スライスして、ラップをして、レンジでチン! 
これだけで、すご~く美味しい。甘みがあって、味付け不要です。
包丁の刃がたたないぐらいの完熟かぼちゃに出会ったら、
ぜひ レンジでチン! して下さい。

砂糖は、当然白砂糖を避ける。毎日使う 調味料こそ、いいものを。
師匠の教えです。
 
食事の後は、牛になろう。私の、主義です。

MY 乳がん-紹介状

2004-07-06 | 乳がん
予約の時間は、2002年10月24日 午後1時半。
この前初めて会った先生に、二度目の逢瀬。

三日のうちに どこで手術をするか、結論を出せ、なんて、
せっかちすぎやしないかい? 
じっくり悩む暇もない。

それでも、くだんの彼女は、
がん友から 充分な情報を仕入れてくれていて、
感謝、感謝。

で、先生、「癌なら、がんセンターへいきたいです。」
そこなら県内なので、
電車に乗る時間もいくらか短い。
駅からバスに乗れば、病院の敷地内までバスが入ってくれる。
よく知ってるいい先生がいらっしゃるから、と先生もおっしゃったし。

「わかりました。
 あそこの先生には 今日も今からお会いするから、
 よろしく言っときますよ。」
「紹介状を用意して、
 私がいなくても わかるようにしておきますから、
 明日 取りに来てください。」

え。今日もらえないの。
じゃあね~。
あ。 
診察室を出る時 気が付いた。
ハンサムな先生だ~!!! 
あと 十年早く 出会ってたら、一目ぼれしてたかも。
・・・・・・十年前には、あの先生も、もう少しスマートだったろう。
(惜しかった! 視診も 触診もしてもらわなかった。)

実は、と亭主に切り出した時、
意外にも! 亭主は、そうじゃないかと思ってた、と 
いたく冷静。
でも、その告白を最初に聞いたのが 自分じゃないことに、腹を立ててた。
彼女のアドバイスを元に 私が出した結論を、
お前の事だから、お前の良いように、と 
一応 物分りの良いお返事。
地図を見ながら、ここなら 俺や子供達が見舞いにいくのに、一番いいねと。
でも、この日も仕事で 病院に一緒に来れなかった。
「大丈夫? 大丈夫?
 今日、一人で、大丈夫?」
「大丈夫なんじゃない。第一、しょうがないでしょ。」
「うん、しょうがない。」
見舞いに来るの?本当に。

さて翌日、
わかるようにしてあるはずの 紹介状が、わからない。
事務員と看護婦とで、窓口のむこうで、あたふたしてる。
会話が聞えてくる。
「・・・がんセンター・・・・・・」
近くのソファにいた 男の人が、
チラとこちらに視線を 投げた気がした。
よかった、ここで手術することにしなくて。