ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

返信

2011-04-28 | なんでもないこと
拝啓

お見舞いいだだきまして まことにありがとうございます。

私の周りには 直接 大きな被害に見まわれた者が居らず、
少なからずホッとして居りますが
さすがに全域では まだまだ復興の途中です。

然しながら
こちら奥州人の忍耐強さによって
生活も仕事も すべて 
一歩ずつ、しかも 今までよりももっと良い状態にまで
もっていけると信じております。

また、
今回 
日本中の方々、世界中の方々からのお気持ちが
本当に嬉しく、

主義、主張、その他 いろいろな違いはあれど
人と人とは きっと仲良くしてゆけるに違いない、
と感じました。

世界中 どこでも 地震はあり、発電所もあるので
今回を参考に
世界全体が より良く備えられるようになってくれれば

万を超える御霊の供養になるのではないか、
などと思いました。


―――――――――――――後略――――――――――――――――





近々 お得意さまになってくださるはず(笑)の方からのお葉書。

どうやら亭主は 安上がりに(爆)、
まずは葉書を 何カ所かに出したようだ。

甚大な被害がなかったはずの場所の後輩たちからは
返信がなく(怒)、

相当の困難な状況にあるはずの人達からは
こうして葉書が返って来た。

(ただし、原発のない地域だ。)






郵便屋さん。

ありがとう。

たくさんの人たちが、あなた達の頑張りに 感謝しています。






歳若い方からの この返信に
ちょっとジンときた私だった。

今までよりも もっと良い街に。

もっと良い国に。

もっともっと、よい世界に。

そう 私も 祈ろうと思う。



イバラキへ

2011-04-27 | なんでもないこと
私の親戚は 東北に多い。

夜空に星をちりばめたごとくに。

そういえば 計画(???)停電の夜は 二晩とも良い天気で
夜空に星が美しかった。



その親戚たちも 
母が亡くなったように ほとんどが代替わりしていて
疎遠になりつつある。

しかも、すべて 山の側に住まっており、
地震では揺れたろうけれど 決して津波は来ない。






亭主の親戚はイバラキに散らばっているが
従兄弟がひとりだけ 東北に婿入りしており、
こちらは家族全員が避難所に避難して無事な事が確認された。

ただし 船を使った事業は 一からやり直しだろう。

まだ60代半ば、頑張ってくれると信じている。



風評被害は 当地でも深刻である。







まだ 大震災を知らない、2月の写真。 






過日 大震災後 初めて 
亭主と一緒に イバラキへ行った。

私としては 今年初めてのイバラキ入りだ。

亭主も しばらく間をおいての帰郷となった。



道路の両側の家々の屋根には
ブルーシートが掛けられている。

その上には 砂袋が載せられている。

(そういえば、ブルーシート、
 空前の売り上げだったらしいねえ。(笑))



そんな家が並んでいるのに、
亭主は 車を運転しながら すごくビックリしている。

ブルーシートを被った屋根が 少なくなっている、というのだ。

亭主が盛んに行き来していた頃には、
そこいらじゅう、ブルーシートばかりだった、という。

「すごい復興だよ、すごいスピードだよ、やっぱり日本はすごいよ!」

すごい、すごい、と ずっと興奮している。






私は 実家に行って
被害の少なさに 拍子抜けした(笑)。

水際の砂地なので 液状化が発生する事を
亡き父は恐れていて

本堂新築! という夢の実現に当たっては
基礎工事に相当 リキを入れて
(住職がリキ入れても 基礎は固まんないんだけど)、

相当 堅固な(あくまでも、当時としては)基礎を
無理を言って 敷いてもらったはずだった。

そんなでもない基礎を敷いたはずの近隣の家々でも
目立った被害は 見当たらなかった。

実家のすぐそば(当然か?)にある墓地の被害も少なく、

少なくとも今回の大地震では 実家の周囲の地盤は 
さほど 大きく揺れたりはしなかったと見える。






姉と私は 先年亡くなった母について
あるひとつの事で 意見が一致した。

二重に誤解を招くかもしれない言葉だが、
母が この大震災の前に亡くなってくれていて、
良かった。



母の 唯一と言ってもいい娯楽であるテレビが

あんなにも連日、悲惨な、しかも 大好きな東北の様相を
あんなにも一日中、流しっぱなしにしている、
という状況に

母の精神は耐えられなかっただろうと思う。

何事も 心配し過ぎる人であり、
(亭主の親族はともかく、)自分の親族は大好きな人であった。



どうせ この数年の間には 亡くなる、という運命であったならば、
母は 良い時に 亡くなってくれた。

そんなふうな考えで
大いにホッと胸を撫でおろす、という
哀しい思いを 何度か繰り返した。















亭主の実家は 先に書いたように

あちこちで壁が落ちたり柱が割れたりしており、

家中にススが撒かれたようになっており、

亭主はイライラしながら バタバタと掃除しまくっていた。

義母の墓は壊れていたが
義父の暮らすこうせんちんは 新しい建物で 
ビクともしていなかった。

そして、義母が埋葬された墓地にある 他家の墓地は
本当にゴロゴロと 墓石は落ちたり崩れたりしていて
どうしようもなく 荒涼とした気持ちにさせられた。






私にとって 一番大変だったのは、
当地に居る間、

余震があるたびに

「これで また 実家がススだらけになった!」
と嘆く亭主の暗い言葉が 耐えがたく辛かった事。

亭主は 実家の畳のスス掃除で 
くたびれ果てたのに違いない(笑)。



チェルノブイリから

2011-04-26 | 考えたこと
こんな本を知った。

『風しもの村――貝原浩画文集』

本を紹介するこのページの中に
(カバーを外した裏表紙(日付は1999年8月26日) とある。)



「14年経って

 手のつけられない
 
 石棺の中、

 この事ひとつ、

 処理できないで 

 人の英知など

 あるものか」



という文字を見て

本当に、と 哀しくなった。



丸木美術館という所で、
企画展「チェルノブイリから見えるもの」が 緊急的に開催される。






チェルノブイリの事は あまり書きたくない。

調べたくもない。

知れば知るほど、
怒りとか 哀しみとか 吹き出てきそうになるから。



だのに
事故から何年も経ってから
子供たちに 病気が多発した事だけは 
頭に入ってしまっている。

『頑張らない』とか
『それでもやっぱり頑張らない』とかで
有名になったヒゲ面のお医者さまが

チェルノブイリの子供たちのために
活躍したからだと思う。







「鎌田實の見放さない・ブログ」より拝借。(無断。)






『風しもの村』の
<カバーを外した表表紙> という部分には

「たわわな実をつけた

 この小麦が

 刈られることはない・・・」

とある。

それが繰り返されて「14回目の秋」とある。



今月22日の夕刊1面によると、
 
セシウムを吸収させるには、

ヒマワリや菜の花を 
カリウムなどの肥料を与えずに
栽培するのが土壌の浄化に有効だという事だ。

(収穫して 堆肥に利用するのだそうだ。

 焼却すれば 放射性物質の拡散につながる。)



フクシマは。

フクシマの土壌は。



これから

どれくらいの年月を  どう過すのだろう。
 





チェルノブイリ爆発事故から25年が経ったのだという。

放射能漏出防止用の石棺が老朽化している。

黄色い鉄柱は 梁の崩落を避ける補強材だそうだ。

今後 巨大なシェルターで覆い、
それから石棺の解体が始まる。

再び稼働する事のないこの「遺産」の後始末のために 
世界は これからも 莫大な費用を費やしていく。

国連の試算によると
事故による死者は <将来分を含めて>4000人。
 


余震とカミナリ

2011-04-25 | なんでもないこと
先月の末の事。

晩御飯を食べ始めたところで、
突然の大音響! 

そして、地響き!



大地震に大津波に原発。

ついでに、大余震。

今度は、いったい、何なのよ!(怒)

と思ったら、いつものカミナリだった(汗)。






でも あわてないで済んだ。

ろうそくも 懐中電灯も そばにある。

停電には 少し 慣れている。



そして
震度3程度の地震なら 
この私も 怖くなくなった。

(これだけ、地震が続いちゃあ、ね。)

(でも、余震で 震度5 とか 6 とかはないでしょう!?)






子供の頃から イバラキは地震が多くて、

(若い頃に住んだ東京も けっこう地震が多かったと思う。)

震度3は しょっちゅうあったような気がする。



それでも 地震は怖かった。

学校で地震があると
家に帰った時、ちゃんと家があるかどうか、
いつも心配だった(苦笑)。

震度3 は 充分に 怖くて嫌いな大きさだった。



今 余震に怯える日々だけれど、
震度3 が 怖くなくなった、
これだけは 私にとって 良い事だったかもしれない。

人間って、何にでも <慣れ>るものなんだなあ。




当地へ来て
カミナリの派手さとしつこさには脱帽している。

カミナリの<音>は 大嫌いだ。

音が、怖いのだ。

こちらは、まったく慣れない!



治療院へ

2011-04-24 | なんでもないこと
電車のダイヤが戻ってきて
仕事の都合もついて
ようやく治療院に行けたのは、3月末。

(依然、相互乗り入れはできていないんだけれど。)



常磐線の 土浦←→勝田間が復旧した、
とJRの駅で アナウンスされた日だった。

ようやく勝田まで!?

まだ そんなだったの?!

私は、びっくり!

勝田は それほど北の方ではない。

いや、水戸は 県南の人間からすれば 
かなり北だが、
ちょうど県の中央あたり。

勝田は水戸の隣。

まだ 電車が通ってなかったんだ?!






駅の構内に入ったら、暗かった。

照明が消えている。

自動販売機の灯りも消えていて
販売は停止中か? な状態だった。







あちらこちらで、エスカレーターが止められている。
もちろん、現在も。 ラッシュ時には動いているらしいが。






JRの直通運転は まだなかったので
久々に上野に出る。

エスカレーターが停まってる!

どうやら 上りエスカレーターだけ運転していた?

本当は 足や腰に不安がある人は
下り階段こそ 痛かったり危なかったりするんだけどねえ。。



でも 山手・京浜東北線のホームのは
上り・下りとも動いていた。

利用者数にもよる、という事か。。。

ともかく、今はエレベーターが設置されていて
そっちは動いてるんだから、
不自由な人は そちらへどうぞ、って事だな。

(車いすだけでなく、
 ベビーカーの人にとっては すごくいい事なはずだ。)






             
午前中は全部開いていた改札口も
昼過ぎには 省エネのために閉鎖して 部分的に運転。






治療師は 「商売、上がったり!」と
楽しげに悲鳴を上げていた。

電車が動かない、電気が点かない、では
誰も来てくれないよね。

冗談めかしてしゃべってはいたが
悲鳴は現実のものだったはずだ。

けれど これには 誰も補償してくれないだろう。

カワイソウネエ。






この日、工事中の駅の通路は、かなり暗かった。





先週 行った時は もっとダイヤが戻っており、
JRの直通運転も再開。

駅の通路の照明は 半分だけは点いていた。

きっと「暗すぎる!」と 誰かが文句を言ったのだと思う。

前回 行った時には、それくらい、暗かった。



駅の雰囲気だけは、東京地方は、被災地だ。



それにしても、今までは、
どこもかしこも、明る過ぎたのか?



わけ

2011-04-23 | なんでもないこと
原発の状態が 
一進・一退・一退・一退・・・
を繰り返していて

「あれで がっかりして、
 日本の未来を憂えてしまい、
 すっかり気落ちしてしまい、」

と 先月末の記事に書いたが
 
今も思いは同じだ。

(というか、原発の様相が、基本、同じだ。

 着々と、というわけでは、決して、ない。)






  
余震が来ると、やっぱりここが落ち着くらしい。
 





腰を痛めた。

こちらも、一進・一退を繰り返していた。

冷えると余計に痛くなるので
身体を温めるのは 腰のためにもいいはず。

毎日、べたべたと 貼るカイロの大・小を 貼り付けていた。

この腰のおかげで 思い通りに動けないのが 口惜しかった。






けれど、私が落ち込んだ一番の原因は、
「疲れ」だったと思う。

では、いったい、何に疲れたか?



ひとつは、食事作り。

ガソリンを必要とする買い物には
出かけない覚悟を決めており、

すべて<あるもの>で賄う、悲壮(?)な決意!(笑)

工夫を凝らして 何ものをも無駄にせず、
これまでなら 生ごみたい肥にまわしていた部分も
工夫して口に入るようにして。

そうして、愛犬のご飯も手作りして。

(あ、いや、これは 汁かけ飯が基本だったっけ。)



とにかく、
手元にある材料と 残ったものを無駄にせず、

育て方が悪かった子供たちの好き嫌いをも考慮に入れて、

一日に3度の食事作り、

これは、疲れる!



以前から そうじゃないかと思ってたけど、
私は 
ちょっと頑張ると すごく疲れる体質をしているらしく(爆)、

あまり頑張らない方がいいみたい(笑)。

もちろん、仕事が忙しかった事もあったろうけれども。






                       

もうひとつは、外出をしなかった事。

どこへ行くにも 車が必要な地域。

仕事に行くわけでもない私は
ガソリンはすべて 亭主の仕事用にとっておかなくては、
と思っていた。

どこへも行かず、買い物にも行かず。

行くとしても、徒歩。

(という事は、散歩と郵便局以外に 行く所はない。。。)







それに飽き飽きして ウワ~~~ッとなって、
そろそろ ガソリンも出回ってきているから、と
娘と買い物に出かけた。



もちろん、最初はガソリンスタンド。

4件目でやっと開店しているスタンドを見つけた。

しかも、レギュラーをゲット! 

ラッキー!!!



開店している、という事は、
チョー、忙しいわけだ。

スタンドの従業員は
もう、見た事もないくらい、
くるくる、パタパタと 良く動いて
可哀想なくらい。

いつもこれほど忙しければ良いのかもしれないけれど。

きっと この殺人的な忙しさも すぐに終わって
閉店してしまうのだろう。

けれど
<この殺人的忙しさ>を なんとかしのいでいる彼らの働きは

これはもう、
立派なボランティア精神だなあ、と
私は思ったのだった、助手席で(笑)。






買い物に行ったら
ホームセンターは薄暗かった。

そろそろなくなってきていたので 
使い捨てカイロを補充したかったのだが
もう 一箱も残っていなかった。

どうやら、被災地に行ったものらしい。






  電池の棚。 オミゴト!






次に行った大手スーパーは 

こちらも照明が薄暗く、
エスカレーターは止まっており、
楽しい気分にはなれなかった。

もちろん、玉子も納豆も 
「おひとりさま1パック限り」の紙が
ヒラヒラしているのみ(怒!)。

しかも、今までの あの めくるめくような
ビカッと明るい照明は 本当は必要なかったんじゃないか?
と思うと 
これまた 気持ちが落ち込む(苦笑)。






もちろん、交通機関もマヒしていたから
週に1度の治療院は 行きたくても行けない・・・。

気持ちが落ち込むのも 無理はなかったなあ。。





そして今は 
早くそれらを記事にして
過去という「後ろの方」へ 放り投げて
終わりにしてしまいたい、次へ進みたい、と思って
懸命に記事にしている最中(笑)。



腰痛と留守居と生き物係

2011-04-16 | なんでもないこと
3月11日頃は 私は忙しかった。

そして、張り切っていた。

そして・・・、
腰を痛めた(号泣)。

(温水暖房トイレの便座から立ちあがろうとしたら、
 痛みが走ったのだった。。。)



幸い、軽症だったので
コルセットを巻いて 時折 横になって、
で しのいだ。

ただ やたらと腰(と、お尻)が冷えるので
カイロを貼って温めていた。







2月に撮影した写真。 土手の下の畑は ほうれん草の収穫作業だと思う。
今でも ほうれん草に限らず、どの野菜も 売れなくなっているという。






大震災があったからといって
仕事がなくなる事は なかった。

私が 腰を痛めたからといって、
仕事が減るわけでもなかった。

その上、
亭主は しばしば イバラキに帰省していた。






以前にも書いた事があったはずだが、
義父は 公務員を退職してから仕事を始め、
それにかなりのめり込んでいた。

義父の家の近くのバス通りには
(分不相応なくらいに)立派な看板が立っている。

これは 近所の看板屋の大将が
「これから看板屋を始めるにあたって、ぜひ作らせてもらいたい」
と言ってきたので、
やらせてやったのだ、と 義父は言っている。

とにかく、定年後、
あるいは 妻を失った後も 義父はこれまで 
仕事を生き甲斐とし、
仕事に支えられ、
仕事を通した 地域の人達とのつながりで
生きてきた。

いや、生かされてきた。






亭主の実家は ものすごく古い建物だった。

茅葺に トタンをかぶせた屋根の家だ。

やはり公務員の義母と結婚した義父は
共働きを続けて 少しずつ手を入れて
なんとかその家を 見られるように してきた。

定年前に 床の間付きの8畳間と 
ダイニングキッチンと水周り、
それだけを新しく増築してあった。

仕事が軌道に乗って
22年くらい前に 事務所を新築した。

ほんの小さな事務所とはいえ、
これにはリキが入って、
太めの柱に瓦屋根。

アンバランスな気もしたが、
当時の義父は意気軒高、
立派なものができたと 鼻高々だった。






義父は 1年前に転んで腰を打って
病院から施設に移って
現在はこうせんちんに住んでいる。

で、仕事だが、
現在は 亭主が行って 代行している。

もともと 義父が生き甲斐にしていたとはいえ、
それほど忙しいわけではない。

けれど たまに仕事が入った時に 
こちらが暇、とは 限らない。

とにかく1年間 やってみよう、と
これまで亭主が頑張ってやってきた。

ハッキリしたのは、
義父にはもう仕事はできないという事と
(以前にも書いたが、
 杖をついて家の中をウロウロするだけで
 義父は疲労困憊してしまう)、

義父の仕事を 他人にまかせてしまうのは
亭主が承服できない、という事(苦笑)。

亭主は 義父が死ぬまでは、とも思っている。

気持ちは、わかる。



「しょうがないなあ」というスタンスで(笑)、
亭主の出張?を承服し、
留守の間は自宅で
時にはデレッと、時にはアタフタと
こちらは私ひとりで なんとか やってきた。






今回は、震災前後に 我が家が忙しくて 
しかも 震災直後に イバラキの仕事が次々と入ってしまった、
という事。

震災後2度目の仕事の依頼が入った時には
余裕があったはずのガソリンが底をつきそうだった。

「今のこのガソリン事情では
 貴方が ガソリンを使って イバラキへ行くべきではないと思う。

 もっと消費するガソリンが少ない場所に住んでる人に依頼すればいいんであって、
 貴方は行くべきではないと思う。」

私は そう言った。



私としては 腰を痛めている自分ではなく、
亭主の健康が心配でもあった。

イバラキに行って来ると いつも疲労困憊している。

それが 冬に入って 
亭主がうつっぽくなるようになってきていた。

普段 誰も住んでいない実家は 
冷え切っており、
一泊して帰ってくると 
どうも うつっぽくなっている。

それが 震災直後にイバラキへ行った時には
ハッキリとうつになっていた。





古い建物ではなくて
建てて30年の建て増し部分でもなくて
建てて22年の 太めの柱に瓦屋根の事務所の
あちこちの壁が落ちていて
柱には亀裂が入っている。

(ぼろ屋には 被害は少なかった;苦笑)

義母の墓参りに行ってみれば
無傷な墓地はひとつもなく、
なかでも
「将来 イバラキから 今の住所の近くの墓地に移すつもりだから」
と 石屋に伝えてあった義母の墓地は
柵の部分も含めて グズグズになってしまっていて ひどかった。

それでも さお石が落ちた墓地よりはいいのかもしれないが、
亭主は ハッキリ、落ち込んでいた。

あすこもダメになっている、ここも痛んでしまった、
というわけだ。



イバラキを車で走ると
いたる所、ブルーシートをかぶった家だらけで、
それも
亭主の心を暗くしていた。

イバラキは やはり 震源地に近く、
被災した所だったのだ。






自分の身体がキツイ、という事、
それに私が反対した事もあって、
震災後2度目の時には
亭主も悩んだようだった。

1時間並んで 20リットルのガソリンを補給できたのが
2時間半並んで15リットル、というふうに
どんどんガソリン事情は ひどくなっていたのだった。

車に残っているガソリン量は
イバラキに行くまでは充分にあるけれど 
帰宅分はない、というものだった。

イバラキの従兄弟に なんとかならないか?と電話して
「どうーしょーもながったらよ、
 俺んちの ガソリンへえってる(入っている)車、貸してやっから。」
の言葉で 行く事にした。

(アタシがとめたのにね。)



開いているガソリンスタンドがあると 
長蛇の列ができているから、
必ずそれに並んで、
合計 5時間ほどの待ち時間で
ガソリンを補給しつつ実家に向かい、
無事に仕事を済ませて 
自分の車で 帰ってくることができたのだった。

もちろん、留守の間も
余震は次々とあった。

けれど 当地の揺れは イバラキ程ではなかったはずなので、
ガマン、ガマン。

幸い、その時は 巨大余震はなかった。






そのうち 
帰宅困難者体験をしたり
空っぽの棚のコンビニやスーパーを目にしたり
自宅待機を言い渡されたりした
息子・娘が 順に帰ってきてくれて

私は 働くのを止めて
食事係専任に。

(私って、
 花も犬も人間もひっくるめた、
 生き物係だなあ、って 
 いつも思うんだよね。)



備え怠りなく

2011-04-15 | 考えたこと
今回、
たまたま 我が家には
お米、味噌、醤油 が潤沢にあった。

冷蔵庫には いつものように 
肉・魚がカチコチに凍って冷凍庫にギッチリ入っていたし

食品庫には ラーメンに缶詰、佃煮も詰め込んであった。



ボイラーやドラム缶の灯油も ガソリンも 補給したばかりだった。

トイレットペーパーもそこそこあった。



花卉栽培農家から 野菜栽培に切り替えた義さんからは
ほうれん草と人参をいただいた。

白菜とキャベツやネギは
愛犬との散歩の時に出会う人たちに
「あるかい?」
と声をかけていただいており、

どこんちの畑に何があるか、は
だいたい把握できていた(爆)。



そんなこんながなかったら、
今回、もっとパニックになっていた事だろうと思う。













あるピンクの戦士の話。

地震に対する備えは万全だった。

物置には

練炭、練炭火鉢、カセットコンロ、カセットボンベ、布団、水、
トイレットペーパー、簡易トイレ用ビニール袋、ウエットテシュ、
テント、寝袋、石油ストーブ。

地震で家に入れなくなった時のための準備も万全だった。



今回、大地震の後、すぐに大津波警報が出た。

避難指示に従う。

たいした事ないだろうと思いながら、着の身着のままで。

けれど。







この写真が 家のあった辺りだという。

水も出ない避難所での生活。

ようやく水が出るようになって。

4月に入り、避難所をお引っ越し。






家もパソコンも流されて、
そんな中での ブログの更新。

さすがに滅多に更新はないけれど、
それでも ホッとして嬉しかった。

大きな余震があったと聞いて
それぞれ成長して関東に住む子供たちを
避難所から心配している。

親って、おんなじなんだよね。。













心からのエールと わずかな義援金を送るのみ。

顔も 名前も 住所も知らない、
私の大切な親戚・友人たちへと。







この子も 私の友達かしら? いつも同じ辺りをうろついている。






万全に備えていて
たとえそれが無駄になった経験があったとしても
生きている間は 
やはり 非常時のための備えを 
しておいた方がいいだろうと思う。

いつか 役に立つかもしれない。

(役に立たない事が望ましいが。)

(我が家の備蓄資材は 甚だ 不足している。)

(でも、やっぱり、食品だけは たっぷりある。。)



たとえ、東電や 
内閣府の 原子力委員会と原子力安全委員会や
経済産業省の原子力安全保安院なんかが
万全の備えをしてないとしても

だからといって 
国民が 災害への備えを 
同じように軽々しく考えてていい、という理由にはならないはずだ。

天災に対しても、人災に対しても。

(でも やっぱり、原発に対する備えは、なかなかなあ。。。)


踊る軽トラ

2011-04-14 | 考えたこと
「オラあ、めまいがしたと思ってよ。

 こんなにグラグラめまいがすんじゃあ、
 オレももう 終わりかと思ったィね。

 そしたら、道端に停めた軽トラが、
 こんなになって 踊ってんだもんよ。」



意外なくらいに 地震被害の少なかった当地だったが、

畑に出て 仕事をしていた人たちに
「めまいがしたと思った」
という人は多い。

持病があってもなくても、
あんな揺れじゃあ、「もう終わりか」と思っても
無理はないな。






 暖かくしている事務所に置いたモミジの鉢は、
種が飛んできて庭に芽吹いていた ごく普通のモミジだったが、
なかなか紅葉しなかったので 寒い廊下の窓辺に置いた。






避難所によっては 
ペットと一緒に過す人たちのための一室を用意できた、とか
プレハブが一棟 ペットのケージ専用になっている、とかも聞いたし
映像で見たりもした。

反対に 
ペットがいて 皆さんに迷惑をかけるから、と言って
自宅から避難所に移って来ない、という方法を選んだ人も 
何人もいるようだった。



一方、
避難する飼い主によって放たれた犬たちが
野犬のようになって
そこいらじゅうをうろついているので 怖い、
という人もいた。

今日のテレビでは 原発に近い場所で
野牛(?)になった黒牛が4頭、河原付近を移動していた。



生き物を飼うという行為には
少なからず手がかかり、

手がかかるからこそ、愛着がわき、
愛しさを覚えるのだと思う。



飼い主たちは 皆それぞれに
ペットの事では 難渋していたり 苦心していたり
また 癒されていたり しているのだろうと思う。

避難するに当たって
ペットを放してしまう、という行為は
決して あらまほしき姿ではないが
今回は 責められない、とも 私は思っているのだが、どうだろう。

もちろん、被災したペットのために
一所懸命に活動している方々もいらっしゃるのだが。







年が明けて ようやく黄葉?した。 1月末の撮影。






お風呂に入れないなど
被災生活が続いているのに

ペットと一緒の自宅での生活を
相変わらず 飄々とした筆致でブログを綴っては
私を笑わせてくださっている方もいらっしゃる。



その方のペットのワンコは、

揺れる前に、耳が立ち、

少し揺れ出すと、鼻鳴きし、

震度2で立ち上がり、

震度3で歩き回り、

震度4で大騒ぎ、

震度5以上で、大パニック。



という、繊細な震度計でもある(笑)。



おそらくは
私の想像以上に
しんどい思いをなさったであろうに。

暗さのない文章に 私は思わず ホッとして 笑わされて 
癒されてしまっている。



文章の奥の 見えない場所に綴られているであろう苦労を思う。

(お風呂に入れるようになって、よかったですネ!)







春。 新芽も芽吹いた。



被災地にも サクラ前線は 北上中。     







かき菜

2011-04-04 | 明るい農村
一躍 有名になった「かき菜」は
私の大好物。

よく お隣の婆ちゃんが 垣根越しに寄越してくれた。

隣んちの 婆ちゃんと爺ちゃんは、かき菜が好き。

我が家も、好き。

でも 隣んちの 息子と嫁は、ほうれん草は好きだけど、
かき菜が嫌い。

で、畑で作って 食べきれない時は
私たちのお腹に入っていた、という訳(笑)。







かき菜。拝借画像。
葉先のちぢれが特徴かと。






イバラキや 東京に暮らしていた頃には 知らなかった野菜だが
今回、福島やイバラキで栽培されている事がわかった(苦笑)。



ほのかな癖があり、
それが 隣んちのパパとママの不興を買っていたのだろう。

うまいと思う人にとっては、その癖がまた たまらなくうまいのだ。

癌予防になるというアブラナ科の野菜だが(笑)、
他のアブラナ科の野菜とも 
また 少し 違った癖だと思う。

アブラナ、ナバナ とも ちょっと違ったと思う。

今年はまだ 食べていない(涙)。






太い茎も 茹でればすぐに柔らかくなる。

畑には よく 大きな株が並んでいて
トウ立ちしてきた茎を掻き取っては
お浸し、味噌汁、炒め物などにする。

最近 当地では 栽培が少なくなってきていたように思う。

これから 最高に 美味しい季節なのに(涙)。

でも 婆ちゃんも爺ちゃんも亡くなって
隣んちからは もう かき菜は もらえないけれど。






農家は 野菜を作っても ちっとも売れない、と嘆いている。

私なら買うのに。

それとも
小さな子供がいたら、違う産地のものを買っただろうか。



苗床を作る季節になっている。

この冬 何を作れば
今 何を播けば 
消費者は 買ってくれるのだろうか?

風評被害に対する補償、
の その前に、
するべき事が、少し、あるような気がする。






先日 玉子がようやく手に入り、
この度 納豆も 運良く 棚に並べているところに出くわして
「おひとり様 1パック」をゲットする事ができた。

生活は 少しずつ 普通にもどりつつある。

節電は なるべく このまま続けていきたい。






いつかきっと行こう、と思っていた、
五浦の六角堂(北茨城市)。

波にさらわれてしまった。

おとっつぁん、残念だよ。



メモリアル・キャンドル

2011-04-03 | 考えたこと
最初の晩には 
小さなティーライト・キャンドルを灯して 晩御飯を食べた。

次の晩には メモリアル・キャンドルを持ち出した。

なかなか小さくならない、巨大なろうそくだ(笑)。






と、ここで キャンドルの画像が入る、予定だったが、
どうも 調子が悪い。

というか、繋がりが悪い(涙)。






夜は 電気が停まると する事がない。

本も読めない。

だんだん冷えて来る。

石油ストーブを ダイニングに持ち込んであるが
なるべく節約、と思うので
ぐるぐる歩き回ったり 動き回ったりして
身体を温めた(笑)。





なにしろ、全国の家庭の待機電力をカットするだけで
不足分に相当する、と聞いたので
エアコンのコードを コンセントから抜いてまわった。

我が家の暖房は オイルヒーターを主体にしているので、
エアコン依存度は低いのだ。



いつもなら 省エネに興味がなく、
「めんどくせえ。」
のひと言で済ませる亭主が、 

「そんな事なら」
と 率先して やっている。



可笑しい。 (そして、嬉しい。)



ダイニングとの境にある 台所のカウンターの上の照明を
「お前はいつも 点けっぱなしだ。」
とまでモノ申す(苦笑)。

「真っ暗にすんな、貧乏くせえ」
といつも怒っていたのは、アンタだ!(怒)







これは 以前に取りこんでいた写真。 
なんで画像の取り込みができなくなったんだろう?(涙)






南北に長い我が家の廊下には 昼間は ↑ の天窓の光がある。

夜になっても 照明を点けずに 暗いままでも なんとかなる、
と 今は思っている。



日本中が そんな感じで 
少しずつ 痛みを分け合って
少しずつ 省エネに協力しているのだろうと思う。






停電して 亭主がヒヤッとしたのが、
信号機の消えた交差点。

亭主はいつも 言う事が大げさだし、
「おっかなかった~!」
と聞いても実感できなかったが、

まもなく
信号機の消えた交差点での死亡事故が、しかも複数、
報道されたのだった。






私が 停電でヒヤ~~~ッとしたのは、
トイレの便座だった(苦笑)。

暖房便座のスイッチを切り、
夏場のわずかな時期にしか使わない便座カバーを付けて 
対応した。

けれど 暖かい便座の快適さには かなわない。

間もなく 暖房便座復活の予感(苦笑)。



暖房便座といい、シャワートイレといい、
普段 何気なく使っているものが
ものすごく贅沢なモノだったと 再発見。

でも 節約の気運も 
おしりの快適さには きっと負けると思う。。。(汗)。






できない事は する必要がない、と思っている。

でも できる事は 
少しずつ、少しずつ、
これからもずっと 続けていきたいと思う。

だから、パパ、
トイレのフタは 閉めておいてね(→15%の節電に! 笑)






いろいろな事が続いている間に、
いろいろな事が起きていた。



水俣病の熊本訴訟が和解が成立した。

これにより、最大の訴訟派団体の裁判が終結し
未認定患者の救済は 大きく前進する、という。



ニュージーランド・クライストチャーチの地震で
キングス・エデュケーションで被災した方々の遺体が見つかっている。

小さな記事になってしまっているが、
目を留めてしまう。

やはり ニュージーランドの地震を 忘れてはならない。



今年のフィギュア選手権の東京大会が中止された。

フランス氷上競技連盟という所が、
来年ニースで予定されている世界選手権の開催場所を
東京に譲る、と 国際スケート連盟に提案した。

「日本の関係者の無念は 想像にあまりある。」と。

人の心の痛み、気持ちを 推し量る事ができる人が 
世界中に いっぱいいるんだ、と思った。



東京地裁の イレッサ(肺がん治療薬)裁判で 
国と 輸入販売元の製薬会社(アストラゼネカ社)に
損害賠償を求める判決が出た。

国の敗訴は 今回初めて。

(大阪地裁では アストラゼネカ社にのみ 賠償を命じた判決。)

(国とアストラゼネカ社は 控訴を検討する。)



東海村の火力発電所の 
高さ220メートルの煙突の上で
足場の取り付け作業中だった作業員が転落死したが
3人とも広島の方だった。

広島からイバラキに 仕事で来ていて 
今回の地震に見舞われて亡くなった人たちがいた事を

忘れないでいたいと思う。