ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

STAY HOME

2020-04-27 | 考えたこと
ゴールデンウィークならぬ ステイホーム週刊は 
一昨日あたりから 始まっているらしい。

身近に 新型コロナウイルスに罹患した人はいないが、
少し離れた地域なら あっちにも こっちにも
発症した人達がいて 
少々過敏になっている。

過敏になった原因のひとつは、
間違いなく 娘の出産だった。






何年前かの写真。一重のバラ・バレリーナは、今も元気。





もうひとつの原因は、
危険があろうがなかろうが、
仕事として出かけなくてはならない亭主にある。

医療従事者ではないものの、
エッセンシャルワーカーとは 呼べないものの、
仕事は あるのだ。

そして、マスクもアルコール消毒液も
ほとんど手に入らない。


もちろん、スーパーの棚に 
少々 寂しくはなったが 商品が置かれている事は幸せだし、
集積所に出したゴミを回収してもらえるのも幸せだ。

電気は使えるし、計画停電もない。

水も使えるし、断水の予定もない。

ガスも灯油も電話も使えて、不安もない。

これらが幸運でしかないのは 去年の大雨による被害もあって、
重々わかっている。





今 娘たち一家は どちらの実家にも帰れずに
家族で頑張っている。

可哀想に。

上の子を 保育園で 思い切り外遊びをさせてやりたいと、
早めに実家から自宅に戻ったのだったが。



初めのうちは
上の子を保育園に預けていられるだけ良かったが、
保育園でも 各地で新型コロナ関連の問題が噴出し続けており、
ママが育児休業中なので
預ける事を自粛してほしいとの要請がきたらしかった。

致し方なし。





私は相変わらず 家に居る。

相変わらず 三日に一度も お買い物に出かけたりなんてしない。

亭主が「出かける」と言えば 「いってらっしゃい」と送り出し、
帰ってくれば「おかえりなさい」と迎える。

あとどれくらい仕事を続けるかは
ある程度 自分で決められる。

ただ 亭主も私も 体力が自由にならない(苦笑)。





STAY HOME 
週に一度は スーパーに買い物に行きたい。

大手スーパーには 月に一度 出かける事が、30年来の夢。

だから、開いててもらわなくちゃ。

今は、STAY HOME  。

たくさんの人たちに、お願いをします。


そして、仕事とあらば、
私もマスクをして お客様とお会いする。

できる限りの事をして 日常に居る。




私たちは、傷ついている(2)

2015-03-23 | 考えたこと
先日の記事は、
アタマの中のグニュグニュが 形を成さないまま、記事にした。

どうも、ココロ優しい人達は 
一緒にグニュグニュにお付き合いしてくださっているように思う。



私のこのマーブル模様のグニュグニュは、
〇〇から70年、といニュースが
去年 頻発した当たりで始まっている。

最初の特攻から70年、
東京大空襲から70年、

戦艦武蔵が見つかった、etc.etc...

おまけに、サリンから20年だの、
いろんなのがあって、

4年目が来る、となったら、

吐き出さなきゃいられなくなった。






大きなきっかけになったのは、

どうも 北朝鮮による拉致の問題で、

直接は関係がないのに、
被害者やそのご家族に申し訳なく思ってしまい、

日本政府に代わって 罪の意識を持ってしまっている、

という話を聞いた時だった。



「へ~~。」

「ふ~~ん。」

「そうなんだ?」

「うそでしょ?!」

そう思うじゃない?



しかも、その人は、意識せずに、
つまり、無意識のうちに、って話だ。



そして、とても「生きにくさ」を感じてしまっている、と。



そんな事があるんだ?



拉致された人々と 年齢が近く、
親の年齢も近く、
当然、子供たちの年齢も近くて、
拉致を他人事とは思えない時期があった私には、

それは とても ショックな話だった。



でも、無意識って・・・?






そうしたら、
東京大空襲から70年の日の 新聞の人生案内に、
「<イスラム国>事件に心痛める」というのが載った。

「イスラム国」、最近では「IS いすらみっくすてーと」と呼ばれている。

紙面では 若い相談者が 
「イスラム国」による日本人人質事件のショックから 抜け出せない、
と訴えている。



「宗教とは、人間の本質とは、何ですか。

 非情な争いは なくなりませんか。

 やりきれなくて、悔しくて、悲しいです。」



「この心の苦しさを どうしたらよいでしょうか。」



この事か?!!!



この相談者は まるで 殺害された人質の親類縁者のように
傷ついてる。

が、
もしかしたら、
これは ニュースを知った私達全員の心の痛みなのかもしれない、
と思った。



あの日。

私達は 大きな、あるいは 小さな 胸の痛みを
感じたはずだ。



だったら、北朝鮮による拉致被害と同様に、

自分では意識しないまま、
大きな傷を心に負って
これから「生きにくさ」を感じる人が出て来るのかもしれない。



てか、「無意識」って、何だ!?






新聞の解説者は、
「私たちに出来ることは、 
 <どうしたらこんなことが起きないようになるのか>
 を考えることだと思います。」

と語っている。



そうして、私は、もうひとつ、

私たちには≪祈る≫という貢献ができる、

と考える。






最近、私は、アヤシイ宗教者だ(爆)。



私たちは、傷ついている

2015-03-20 | 考えたこと
私たちは、心優しい。

他人の痛みを つい 感じてしまう。

いや、感じようとしてしまう。

それが、原因なのだと思う。

私たちの心は、深く傷ついている。

(私の胸に 傷はあるけど、乳がんの話では、ない。)






ニュースを見ていて 傷つく。

チュニジアで起きたテロ。

神奈川の河川敷で 遺体で見つかった、中学生。

台風、ハリケーン、大雨、土砂災害。

地震。 津波。 

サリン。

原子爆弾。 大空襲。

まるで 私たちの周りを、悲劇が覆っているようだ。






神戸の時も傷ついた。

クライストチャーチの地震でも、傷ついた。

9・11の時だって、傷ついた。

だから 世界中の人々が 3・11で傷ついているって、
信じられる。






私たちは、みんな、傷ついているのだ。

だから、被災した人の表情なんて、もう 見たくないし、
声も聞きたくないのだ。


だけど、復興は あまりに遅いし。。。






昔の事について 知っている人は どんどん減っていく。

「語り部」は高齢化しているのだ。

けれど 風化を恐れる人は多い。

だから、新たに 語り始める人が出て来る。

戦艦武蔵が出て来る。

そのうち 何も新しいものが出てこなくなる日が来るだろう。

その時は これまで 必死の思いで蒐集されてきた物たちが
何かを語り始めるのではないだろうか?






私たちは 傷ついている。

自覚の有り無しに係わらず、傷ついている。

そうして 勝手に自分の中で トラウマにしてしまっている。



中には トラウマを抱えて 生きにくさを感じてしまう人もいる。

拉致された人たちに感情移入する。

拉致という犯罪を憎む。

これまで何もして来なかった日本という国に対して怒りを覚え、
被害者に申し訳なく思う。






戦争を引き起こした日本国民を憎み、
国内各地で一般市民を巻き込んだ空襲という大量殺戮を憎み、
戦犯たちを憎み、
東京裁判で戦犯たちを裁いた戦勝国を憎み、

それらによっても 深く傷ついている。






戦争に行った親を憎み、
戦争に行けなった親を憎み、
戦争の後に生まれた自分を憎み、
戦争で亡くなったすべての人を憎み、
戦争から生きて還ったすべての人を憎み、

大陸から還って来た人々を憎み、
大陸から還って来れなかった人々を憎み、

それらの人々すべてに同情し、慟哭する。






今の私たちに 何ができるだろうか?

この小さな手に 何ができるだろうか?

私の声で 何を叫ぶことができるだろうか?

私の耳に 許しの言葉は 聞こえてくるだろうか?






今 

私たちは 

過去のすべての過ちの許しを請い、

これからの私たちに 安らぎを願い、

今 安らぎの中に居られない人たちの安寧を祈り、

これからの世界の 平和を祈る意外に 道がないのだろう。






生きにくさを感じている人々へ。

あなたは、あなたにできる事だけをすればいい。

過去に罪はあった。

けれど それは あなただけのものではない。

あなたが負うべき責任は すでに果たしたはずだ。

あなたは 幸せになっていい。

あたなには 幸せになる権利がある。

そうして まだ幸せになれないでいる人々のために
過去に幸せになれなかった人々の魂のために

私たちは 一緒に祈ろう。

一緒に できるだけの事をしよう。

できるだけの事をしつつ、幸せになろう。

あなたは、幸せにならなくちゃいけない。

みんなと一緒に、幸せになろう。

そのために、祈ろう。



節目

2015-03-11 | 考えたこと
節目というのは、存外、あちらこちらにある。

ああ、何から書こうか?

以前書こうと思っていた事は、
今では もうどうでもいいような気がしているし。

でも、ちょっとだけ、今日の節目については、
書いておかなきゃいけないかな?



4年目。






うん。

ちょっとだけ、書いた。



いっぱい、いっぱい、考えてきたんだけど。






これから、ちゃんとサボらずに 
考えてきた事をアップしていけるだろうか?

難しい事を考えてると、
頭の中で<書きたい事のカタマリ>を創り上げる事ができないまま、
グニュグニュの渦が巻いたようなまんまで居る。

それはそれでストレスなので、
なんとか文章にしてみた。



もう少し書けそうな気がしてたけど、今日のところは、ここまでだ。



何日必要?

2012-10-31 | 考えたこと
ある人のブログに ご親戚が突然亡くなった際の話が載った。、

私は

  「肉親をふたり、突然死で失った身としては、
   やはり 最低でも一週間は 
   心の準備期間として 欲しいものです。

   理想は3ヶ月? 1年? 

   私が旅立つ時は 3年くらいあってもいいかな。
   捨てられない物の身辺整理に そのくらいは必要です。
   体が動かない場合は 1ヶ月もあればいいかな(笑)。」

とコメントを入れた。

思いつきで書いたものだったが、
案外 こんなものかもしない?






一昨日の花が 開いたところ。 クレマチスの仲間?







身内に突然に死なれた後での 遺族の心の整理は、大変だ。

私の場合、父も 母も 突然の死を迎えた。



根拠も無く、
そして それは間違った認識だとはわかってはいるが、
きっと 自分も 突然死するに違いない、
という確信を持っている。

根拠には乏しい。 

というより、根拠は、ない。







バラの色が 鮮やかになってきた。
あ! 虫食いがある!(爆)






遺族になる身としては、最低でも一週間。

自身の死を見つめるためには、
身辺整理するためにも、3年間。

身体が動かなくなった場合は、1ヶ月。



思いつきで書いたものだったが、
今でも、案外 こんなものかな? と思う。

あなたは、いかが?(笑)



伝染るんです 

2012-08-03 | 考えたこと
ある朝 亭主が 
「きょうの「あさイチ」は 面白かったゾ!」
と 珍しい事を言い出だした。

なんでも、
最初にNHKの画面に映し出されるいい歳をした3人が3人とも、
目が真っ赤だったというのだ。

直前に放送が終わる テレビ小説『おひさま』の
陽子ちゃんと 親友の女の子との別れの場面を 見ていたためだったらしい。

(古い話で 恐縮デス)



それでも 一人が泣き出さなければ
他のふたりも 泣かずにすんだのではないかな? 
と私は思った。

ひとりが泣き出せば 
なぜか「泣く事が許された」ような気がして、
後に続く人は たやすく涙を見せられるように思う。

それが<もらい泣き>心理?







テーマカラーを赤から黒に移す頃に植えたチョコレートコスモス。
意外に丈夫で 今年も芽を出し、花を咲かせてくれた。






その後 『おひさま』では
空襲など 戦災の場面が続き、
視聴者の新聞への投稿には
「今回の震災を思い出してしまって 涙が止まらない」
などというものがあった。

地震や津波などの自然災害と戦争とは かなり違うものだし、
空襲の場面のある回を見過ごしてしまった私は
「そんなに似てる~?」
と思うのだが、そう感じる人は 多数いるようだった。

たくさんの人の涙腺をゆるませた朝ドラだったかも。







みどりって、キレイ♪






大昔の話になるが、
中学時代の私の親友の結婚式では
婿入りする花婿が 真っ先に泣き出した。

そうしたら、その場に居合わせた人たちが
続々と号泣しだした!

「もらい泣き」というのは確かに存在するが、
あれはすごかった、私のこれまでの人生の中で、一番!(笑)

彼が婿入りする先の、私の親友の家族が 一番泣いていた。

確か ケーキカットのあたりで泣き出したのだと思う。

花婿さん、まさか、悲しみや後悔の涙じゃないよね?(苦笑)







こぼれ種から咲き出したロべりア。 大好きな色!






秋月辰一郎氏の『長崎原爆記』を読むのは、大変だった。

これは 私には とても意外な事で、驚きだった。



私の読書タイムは 
いつも通り、治療院に向かう電車の中。

エアコンも効いているが 
原爆後の長崎の混乱の様子、必死な人々の様子は

テレビ映像での東日本大震災後の様子と 
どうしても重なってしまい、
読んでいると肌寒さを覚える。

しばしば 本を閉じて 
目を車窓の外に転じたりしないと
読み続けられなくなったり。

辛くて 
気分転換してからでないと 先の文字を追えなくなるのだ。

そのうち 気分が落ち着くと 
先が読みたくなる。

本を開く。

読む。

・・・本を また 閉じる。

そんなふうに 読み進めた。

読み終わるのが嫌で 読み終えたくなくて 
気持ちを落ち着けるために 本を閉じることは 
これまでも まま あったのだが、
こんなのは 初めてだった。

不思議な読書体験だった。







こぼれ種からの大株、金魚草。






人の感情というものは、伝染する。

確かに空気感染するし、
読書などの間接接触とも言えない状態であっても、
<想像力>によって 
人は 容易く 他人の感情の波に 同調してしまうのだ。



だから、友よ、
せめて 私たちは 
できる限り 機嫌よく生きていこうよ。

可能な限り、いい<笑顔>で 人と接していこうよ。

そして、
<笑顔>が 隣の人に 感染していくように、
できるだけ長い時間、
機嫌よく過ごしていこう。



イバラキ県民の歌

2012-05-12 | 考えたこと
イバラキ県民である。 

「茨城」は 
「イバラギ」じゃなくて、「イバラキ」と発音するので、
あえて カタカナで表記している。

そう、<こだわり>があるのだ(笑)。







いつの間にか増えた、色とりどりのクリスマスローズ。(3月18日撮影)






子どもがいなくなった家というのは、寂しい。

(静かでいいけど。)

このままずうっといけば、老人の二人暮らしになるんだなぁ。

なぁんて事を 考えたりもする。

(ゾッとしないでもない。。。)



ところで、最近、亭主と話す時に
少しずつイバラキ弁が混じるようになった。




同じ世代の 長年同居してきた家人との二人暮らし、というのは、
思いっきり気楽だ。

そうして、会話に イバラキ弁が混じる。



先日も 娘が言った。

「パパは 怒った時には 前からイバラキ弁だったけど。」と。

ママは?

ママは いつも 標準語でしゃべってたつもりだったんだけど?













イバラキ県民である。

もちろん、「茨城県民の歌」も歌える。

(ついでに、女子は 運動会では 毎年 この歌で踊っていた。

 まだ 踊れる(つもり。):笑)

(ついでに、『茨城県民体操』だって覚えてるぞ!(きっと。))



近年では 初音ミクという架空の人物が 
茨城県民の歌を歌ってくれているらしい(笑)。

参照:茨城県民の歌@初音ミク

(このブロガーの出身地は 私と同じ県南らしい。)

(ミクさん、「いばらきー、いばらきー」の所は、三連符ですから、
 「いーばらきー」とならずに、「い・ば・ら・きー」ですよ。)






さて、「イバラキ県民の歌」だけども、

最近 この3番の歌詞が気になって仕方がない。



世紀をひらく 原子の火 ・・・ このあたらしい 光をかかげ
                   みんなで進む足なみが
                   あすの文化をきずくのだ

この「原子の火」が 東海村にあるって事は
周知していた。

誇らしい思いがあった。

「水と緑とまごころ」(後年の イバラキ国体のキャッチフレーズ)だけじゃないゾ、
ちゃんと、進んだ文化もあるんだぞ、
と言いたい部分なのだと 理解していた。













今 思うと フクザツだ。

あの頃 どうして

原子力研究所が 誇らしく思えたんだろう?

原爆は恐ろしい、原子力は使っちゃいけない、
でも平和利用だけならいい。

あの論理を どう 理解していたんだろう?



キョウイクトハオソロシイ。。。










忘れてないよ

2012-01-30 | 考えたこと
私には 温度が低い(?)ように見える亭主だが、
去年の夏に 一度 フクシマに行っている。

ボランティアではない。

昔の職場の後輩の所へ 行っただけだ。






  再度登場。






一人は 原発から40キロ という、
非常にビミョーな場所に住んでいた独身。

栃木に住んでいる後輩(この人も被災している)と
見舞いに行く予定を、
亭主は 仕事の都合で 一度 延期していた。



で、このMr.栃木が ひとりで出かけたところ、
40キロの町は
「ひとっこ一人いない死の町」状態で、

会ったMr.40キロは 態度がおかしかったという。

きっと人間不信になっているんだ、可愛そうだ、可愛そうだ、
と騒ぎ立てて、
かつての仲間達から 義援金をふんだくって
再度出かけた時には 亭主が同行できた。

義援金は 58万円という、半端な金額だった。



Mr.栃木は かつての勤務先の社長に30万出させ
(この人はお金持ちだから、いいの;笑)、
同じく上司に10万円、
5万円が3人に、1万円が3人。

半端だけど、わかってる人にとっては、
とってもわかりやすい金額なのだ!(笑)






亭主と訪れた時には 普通のMr.40キロに戻っていたらしい。

が、状況は変わっておらず、
裏の山が余震で崩れたらどうする、という感じ。

義援金をもらって すごく喜んでいたという。

それが、やっぱり、というか、
話を聞いてみると、
義援金が嬉しかったのとは 少し違うようだ。



彼にだって 貯金はある。

壊れた部分を直す事も 自分でできただろう。

ただ、原発から40キロというビミョーな場所に位置する彼の家から

母親を別の場所に住まわせて、

人がいなくなったような町に 毎日 ひとりで住んでいて、

孤独感でいっぱいだったように思える。



かつての仲間が 彼を覚えていてくれて
そして 2度も来てくれた、
それが とても 嬉しい。

話を聞いて そんなふうに 私には感じられた。



これは そんな状態になった人じゃないと
心理は理解できないのかもしれないが、

ホッとしたというか?

覚えていてもらえた、

見捨てられていなかった、

また望めばいつでも来てもらえるんだ、という
安堵感というか?



忙しいさなかだったけど、

そして 高速道路の状態は イマイチではあったらしいけれど、

それから、ガソリンの供給状態はまだひどいままだったけれど、

亭主に行ってもらって、よかったなー、と思った。

(もちろん、私はひとりで留守番!)






帰途、亭主は 途中で Mr.栃木と別れて
ひとりで 原発からはもっと離れた、別の後輩の家を訪ねた。

(この人は Mr.栃木とは面識がないので。) 

この家は大家族で、
お嫁さんやら お婆ちゃんやら、家族のみんなから
大歓迎を受けたのだと 亭主は言う。

「あれ以来、初めて、いい事があった!」と。



それを聞いて、何を大げさな、と 私は思ったのだけれど、
みんなで 口をそろえて、
「初めての、本当に、初めての、本当にいい事!」
なのだと強調されたらしい。

その頃、あれ(3.11)から、もう、だいぶ経ってたんだけどね。



去年の夏は 彼からの須賀川の桃が届かなかった。

あれは、世界一、美味しい桃なんだけど。













見捨てていないよ。

忘れていないよ。

覚えているよ。

ここに、いるよ。



そんな事が 嬉しいのかな?と。





だったら、少なくとも 私んちだけは、
忘れずに覚えていようと思う。

そうして、マメにコンタクトをとるように、
亭主に言おうと思う。

忘れてないよ、って 伝えないとわからないからね。

大事なのは、お金じゃないみたいだからね(笑)。







須賀川の桃、美味しいんだよ(笑)。



亭主は ゆべしをお土産に 帰ってきたのだった。



温度差

2012-01-16 | 考えたこと
「温度差」という語がある。

震災後に 
震災に関しての感受性の強弱の違いを言う言葉になったらしい。

日本国民の間に 温度差がある。

被災県の中にも 被害の大・小があり、
被災者の間にも クッキリとした明暗がある。

我が家にも 「温度差」はある。






震災前に東北に旅行に行った娘は ショックが大きめだったようだ。
ボケボケの、娘のお土産。






私の両親の故郷は 東北・フクシマにある。

フクシマにあるけれど、
地震からも原発事故からも 深刻な被害を免れている。

「被災地」とは呼べないけれど、
私の親戚たちの 被災地に向ける思いには 
深刻なものがあるだろう。



被災地・フクシマへの思い。

それが、亭主には、ない。

と、私は感じている。













何といっても、一番の困り者は 原発事故の影響。

これは 当然 私の故郷・イバラキにもやってきており、
県南では 遮るものがないせいか、スムーズに流れて来たようだ。

実家の周辺は 新聞に載った地図によると、
なんでも 国が除染をしてくれるらしい。

あんなに広大な地域の 住宅・田畑・河川を
本当に除染してくれるのだろうか?







当初は こんな家が そこいらじゅうにあった。
だいぶ経って もう修理は済んだか?と思われた10月に撮影。






この所 ずっと
我が家は 亭主の実家の井戸水を汲んできて 使っている。

亭主の実家は高台にあり、
井戸水が  「名水!」と呼んでもいいくらいに美味しい。

逆に あまり 水の良くない実家に比べれば、
これはもう、「財産」「宝物」と呼んでもいいくらいに
素晴らしい自然からの賜り物だと思う。








逆に この頃の屋根屋さんたちは 東北に出張していたようだ。
雨漏りを免れている家々なのかもしれない。







亭主の実家は いくぶん(?)山の中にある。

その分(?) 放射線の影響は少ないらしく、
薄い色で 色分けされている。

おそらく どこも すべて 放射線を被っているはずなのだが
いちいち気にしていたら 気が変になる。

私も亭主も 50歳を過ぎている。

50歳を過ぎたなら、
哀しいかな、新陳代謝はかなりゆっくりで
放射線の影響は あまり受けないようだ。

ならば、何を気にする事があろうか。

私たちは おそらくは放射線が溶けているであろうイバラキの井戸水を
大きなポリタンクに汲んできて
そうして 飲食に使っている。

美味しい(笑)。






この冬 亭主が 寒い寒い実家に
石油ストーブのデカイのを買おうとしたら、
当地では手に入らなかった。

すべて 東北に行ってしまっているという。

手に入る限りの大きなストーブを買って 持って行ったら
充分に暖かかったそうだ。



東北に行っているなら、仕方がないか。

そう思って 腹も立てずにいる。

亭主にしては、珍しい現象だ(笑)。






最近に見たカタログには
60歳以上の皆さん、「2.2ベクレルなら買うよ」とおっしゃっていただけませんか。

という宣伝文句(???)があった。

笑えた。

私たちは まだ 60歳になっていないから、
このお米は買わないでおこう、と思う。



レントゲン宿酔

2011-08-29 | 考えたこと
秋月辰一郎(あきづき・たついちろう)という医師は、
幼い頃から身体が弱く、
そのために医師になったのだという。

そんな秋月氏が 原爆に遭い、
必死の加療の日々を過ごし、
そうして、89歳まで生きている。







クイーン・オブ・スウェーデンは 直立して成長する。
だから、栽培するのに 場所をとらない。
今年は 多少株も大きくなり、
うどんこ病もなく、何度も花を咲かせてくれた。写真は2番花。






「子宮癌、乳癌の転移巣にX線深部治療をする。
 一日、二日と連続して照射すると、
 患者は一種の病的症状を起こす。
 これは「レントゲン宿酔」(レントゲン・カーター)と呼んでいた。」(p119)



医師不足の病院で 
月曜日から金曜日まで、毎日、X 線透視をする。

生来虚弱体質の秋月医師は
金曜日ごろになると、気分が悪くなった。

「ああ、それはレントゲン・カーターだ」と先輩から教わった。



「八月十五、六日ごろ、私は自分の症状が、
 このレントゲン・カーターに酷似していることを
 明瞭に記憶している。」(p120)






   ナスの花






秋月医師は かつて レントゲン教室で
自分の患者や自分自身が 
レントゲン・カーターに苦しんだ時の 治療法を思い出した。

それは 「塩水を飲む」という事だった。

生理的食塩水よりも 少しよけいに塩分を含んだ塩水の飲用を
患者に勧め、また 自分も飲んだ。

そうすると 気分が良くなった。

これは 当時 レントゲン教室で研究・労働していた人々の
常識であったという。

研究しているだけで 被爆を繰り返す、なんて、
すごく乱暴な時代であった事は 確かなようだ。






原爆とは何か? を まだよく把握していない状態の中で
秋月医師は 研究者としての直感として? 
自分が レントゲン・カーターに似た状態である事から、

「爆弾を受けた人には、塩がいいんだ。

 塩が、効果があるんだ。」(p120)

と言った。

「玄米飯に 塩をつけて握るんだ。」

「からい、濃い味噌汁を、毎食食べるんだ。」



ハイ、結果が出たよ。

秋月医師は どれもみんな、オススメしてたようで。

塩も 味噌も 玄米飯も、正解!

いっちばん、つまらない結論!(苦笑)






   ニンジンの花






また消えると泣くから、今日はこの辺で(笑)。



それにしても、
生理的食塩水よりも塩辛いって、そうとう濃い塩水だよね。

塩分の摂取を抑えるようにと 言い渡されている人たちには
カナシイ話だ。



でも、秋月医師が語っているのは、
 
NaCl じゃない、

日本専売公社(現在の財団法人塩事業センター)で売ってたのではない、

昭和46年に 塩田が廃止されて 
イオン交換式製塩法に切り替えられる以前の、塩。

昔、の、塩。

(「食塩」というのは、イオン交換膜製塩法で製造された、
 高純度の塩の事。)



いわゆる<自然塩>なら、血圧は上がらない、というが、
私には それが本当かどうか、は わからない。

わかっているのは、
<自然塩>が 美味しい、という事。

お漬物が 美味しくできる、という事。

お値段が、少々? 高い、という事。



≪塩≫って、案外、ムズカシイよ。



わざわい転じて

2011-06-24 | 考えたこと
禍(わざわい)が 良い方に変化する。

なんて素敵な事だろう。

ガッカリした気持ちが ウキウキに変わるよ。













私の チョーいい加減な記憶では、
娘の大好きな「はじめてのおつかい」という番組がきっかけで
横断が容易になった場所があった、と思う。



<おつかい>を実行するためには、
どうしても渡らなければならない道路がある。

けれど そこは 車の交通量が非常に多く、
道を渡る事は 至難の業。



弟の手を引いて出かけた幼いお兄ちゃんは
「ボクは大丈夫だから、
 だから、神さま、弟を守って」
と 神さまに お願いしながら
道路の横断に挑戦する。

何度も、何度も。

けれど、車は ひきもきらない。

停まってくれる車なんて、ない。

時間は過ぎる。

1時間、2時間・・・。



とうとう、スタッフが 両面の車を停めて
幼い兄弟は 横断歩道を渡る事ができ、
無事にお使いを果たす。

神に祈り続ける母の元に 
自信と喜びに満ちて 弟と帰宅する兄。

母親は涙が止まらない。

そんな<おつかい>だったと思う。



押しボタン式の信号がひとつあれば、
地域の人たちは 安全に道路を渡る事ができ、
不便が解消される。

そのきっかけは、何でもいい。

その横断歩道のきっかけは、テレビの<おつかい>だった。







東日本大震災は、まだまだ わざわいのまま。

何ものにも転じてはいないけれど、
いつかきっと
あの未曾有の災害があったからこそ、
と ホッとする日が来ると思う。

そう信じて 復興を願おうと思う。


きっかけは 不幸な出来事だったかもしれないけれど
きっと もっと良い方へ。

必ず、ずっと良い方へ。

神さま! いや、違った、ホトケさま!(笑)

私たち、努力を続けますから。

だから、見守っていてください。

そして、できましたら、ほんの少し、お力添えを(笑)!





ようやく 写真を いくらかいじれるようになった。

5月に行った つつじ山からの風景。



チェルノブイリから

2011-04-26 | 考えたこと
こんな本を知った。

『風しもの村――貝原浩画文集』

本を紹介するこのページの中に
(カバーを外した裏表紙(日付は1999年8月26日) とある。)



「14年経って

 手のつけられない
 
 石棺の中、

 この事ひとつ、

 処理できないで 

 人の英知など

 あるものか」



という文字を見て

本当に、と 哀しくなった。



丸木美術館という所で、
企画展「チェルノブイリから見えるもの」が 緊急的に開催される。






チェルノブイリの事は あまり書きたくない。

調べたくもない。

知れば知るほど、
怒りとか 哀しみとか 吹き出てきそうになるから。



だのに
事故から何年も経ってから
子供たちに 病気が多発した事だけは 
頭に入ってしまっている。

『頑張らない』とか
『それでもやっぱり頑張らない』とかで
有名になったヒゲ面のお医者さまが

チェルノブイリの子供たちのために
活躍したからだと思う。







「鎌田實の見放さない・ブログ」より拝借。(無断。)






『風しもの村』の
<カバーを外した表表紙> という部分には

「たわわな実をつけた

 この小麦が

 刈られることはない・・・」

とある。

それが繰り返されて「14回目の秋」とある。



今月22日の夕刊1面によると、
 
セシウムを吸収させるには、

ヒマワリや菜の花を 
カリウムなどの肥料を与えずに
栽培するのが土壌の浄化に有効だという事だ。

(収穫して 堆肥に利用するのだそうだ。

 焼却すれば 放射性物質の拡散につながる。)



フクシマは。

フクシマの土壌は。



これから

どれくらいの年月を  どう過すのだろう。
 





チェルノブイリ爆発事故から25年が経ったのだという。

放射能漏出防止用の石棺が老朽化している。

黄色い鉄柱は 梁の崩落を避ける補強材だそうだ。

今後 巨大なシェルターで覆い、
それから石棺の解体が始まる。

再び稼働する事のないこの「遺産」の後始末のために 
世界は これからも 莫大な費用を費やしていく。

国連の試算によると
事故による死者は <将来分を含めて>4000人。
 


備え怠りなく

2011-04-15 | 考えたこと
今回、
たまたま 我が家には
お米、味噌、醤油 が潤沢にあった。

冷蔵庫には いつものように 
肉・魚がカチコチに凍って冷凍庫にギッチリ入っていたし

食品庫には ラーメンに缶詰、佃煮も詰め込んであった。



ボイラーやドラム缶の灯油も ガソリンも 補給したばかりだった。

トイレットペーパーもそこそこあった。



花卉栽培農家から 野菜栽培に切り替えた義さんからは
ほうれん草と人参をいただいた。

白菜とキャベツやネギは
愛犬との散歩の時に出会う人たちに
「あるかい?」
と声をかけていただいており、

どこんちの畑に何があるか、は
だいたい把握できていた(爆)。



そんなこんながなかったら、
今回、もっとパニックになっていた事だろうと思う。













あるピンクの戦士の話。

地震に対する備えは万全だった。

物置には

練炭、練炭火鉢、カセットコンロ、カセットボンベ、布団、水、
トイレットペーパー、簡易トイレ用ビニール袋、ウエットテシュ、
テント、寝袋、石油ストーブ。

地震で家に入れなくなった時のための準備も万全だった。



今回、大地震の後、すぐに大津波警報が出た。

避難指示に従う。

たいした事ないだろうと思いながら、着の身着のままで。

けれど。







この写真が 家のあった辺りだという。

水も出ない避難所での生活。

ようやく水が出るようになって。

4月に入り、避難所をお引っ越し。






家もパソコンも流されて、
そんな中での ブログの更新。

さすがに滅多に更新はないけれど、
それでも ホッとして嬉しかった。

大きな余震があったと聞いて
それぞれ成長して関東に住む子供たちを
避難所から心配している。

親って、おんなじなんだよね。。













心からのエールと わずかな義援金を送るのみ。

顔も 名前も 住所も知らない、
私の大切な親戚・友人たちへと。







この子も 私の友達かしら? いつも同じ辺りをうろついている。






万全に備えていて
たとえそれが無駄になった経験があったとしても
生きている間は 
やはり 非常時のための備えを 
しておいた方がいいだろうと思う。

いつか 役に立つかもしれない。

(役に立たない事が望ましいが。)

(我が家の備蓄資材は 甚だ 不足している。)

(でも、やっぱり、食品だけは たっぷりある。。)



たとえ、東電や 
内閣府の 原子力委員会と原子力安全委員会や
経済産業省の原子力安全保安院なんかが
万全の備えをしてないとしても

だからといって 
国民が 災害への備えを 
同じように軽々しく考えてていい、という理由にはならないはずだ。

天災に対しても、人災に対しても。

(でも やっぱり、原発に対する備えは、なかなかなあ。。。)


踊る軽トラ

2011-04-14 | 考えたこと
「オラあ、めまいがしたと思ってよ。

 こんなにグラグラめまいがすんじゃあ、
 オレももう 終わりかと思ったィね。

 そしたら、道端に停めた軽トラが、
 こんなになって 踊ってんだもんよ。」



意外なくらいに 地震被害の少なかった当地だったが、

畑に出て 仕事をしていた人たちに
「めまいがしたと思った」
という人は多い。

持病があってもなくても、
あんな揺れじゃあ、「もう終わりか」と思っても
無理はないな。






 暖かくしている事務所に置いたモミジの鉢は、
種が飛んできて庭に芽吹いていた ごく普通のモミジだったが、
なかなか紅葉しなかったので 寒い廊下の窓辺に置いた。






避難所によっては 
ペットと一緒に過す人たちのための一室を用意できた、とか
プレハブが一棟 ペットのケージ専用になっている、とかも聞いたし
映像で見たりもした。

反対に 
ペットがいて 皆さんに迷惑をかけるから、と言って
自宅から避難所に移って来ない、という方法を選んだ人も 
何人もいるようだった。



一方、
避難する飼い主によって放たれた犬たちが
野犬のようになって
そこいらじゅうをうろついているので 怖い、
という人もいた。

今日のテレビでは 原発に近い場所で
野牛(?)になった黒牛が4頭、河原付近を移動していた。



生き物を飼うという行為には
少なからず手がかかり、

手がかかるからこそ、愛着がわき、
愛しさを覚えるのだと思う。



飼い主たちは 皆それぞれに
ペットの事では 難渋していたり 苦心していたり
また 癒されていたり しているのだろうと思う。

避難するに当たって
ペットを放してしまう、という行為は
決して あらまほしき姿ではないが
今回は 責められない、とも 私は思っているのだが、どうだろう。

もちろん、被災したペットのために
一所懸命に活動している方々もいらっしゃるのだが。







年が明けて ようやく黄葉?した。 1月末の撮影。






お風呂に入れないなど
被災生活が続いているのに

ペットと一緒の自宅での生活を
相変わらず 飄々とした筆致でブログを綴っては
私を笑わせてくださっている方もいらっしゃる。



その方のペットのワンコは、

揺れる前に、耳が立ち、

少し揺れ出すと、鼻鳴きし、

震度2で立ち上がり、

震度3で歩き回り、

震度4で大騒ぎ、

震度5以上で、大パニック。



という、繊細な震度計でもある(笑)。



おそらくは
私の想像以上に
しんどい思いをなさったであろうに。

暗さのない文章に 私は思わず ホッとして 笑わされて 
癒されてしまっている。



文章の奥の 見えない場所に綴られているであろう苦労を思う。

(お風呂に入れるようになって、よかったですネ!)







春。 新芽も芽吹いた。



被災地にも サクラ前線は 北上中。     







メモリアル・キャンドル

2011-04-03 | 考えたこと
最初の晩には 
小さなティーライト・キャンドルを灯して 晩御飯を食べた。

次の晩には メモリアル・キャンドルを持ち出した。

なかなか小さくならない、巨大なろうそくだ(笑)。






と、ここで キャンドルの画像が入る、予定だったが、
どうも 調子が悪い。

というか、繋がりが悪い(涙)。






夜は 電気が停まると する事がない。

本も読めない。

だんだん冷えて来る。

石油ストーブを ダイニングに持ち込んであるが
なるべく節約、と思うので
ぐるぐる歩き回ったり 動き回ったりして
身体を温めた(笑)。





なにしろ、全国の家庭の待機電力をカットするだけで
不足分に相当する、と聞いたので
エアコンのコードを コンセントから抜いてまわった。

我が家の暖房は オイルヒーターを主体にしているので、
エアコン依存度は低いのだ。



いつもなら 省エネに興味がなく、
「めんどくせえ。」
のひと言で済ませる亭主が、 

「そんな事なら」
と 率先して やっている。



可笑しい。 (そして、嬉しい。)



ダイニングとの境にある 台所のカウンターの上の照明を
「お前はいつも 点けっぱなしだ。」
とまでモノ申す(苦笑)。

「真っ暗にすんな、貧乏くせえ」
といつも怒っていたのは、アンタだ!(怒)







これは 以前に取りこんでいた写真。 
なんで画像の取り込みができなくなったんだろう?(涙)






南北に長い我が家の廊下には 昼間は ↑ の天窓の光がある。

夜になっても 照明を点けずに 暗いままでも なんとかなる、
と 今は思っている。



日本中が そんな感じで 
少しずつ 痛みを分け合って
少しずつ 省エネに協力しているのだろうと思う。






停電して 亭主がヒヤッとしたのが、
信号機の消えた交差点。

亭主はいつも 言う事が大げさだし、
「おっかなかった~!」
と聞いても実感できなかったが、

まもなく
信号機の消えた交差点での死亡事故が、しかも複数、
報道されたのだった。






私が 停電でヒヤ~~~ッとしたのは、
トイレの便座だった(苦笑)。

暖房便座のスイッチを切り、
夏場のわずかな時期にしか使わない便座カバーを付けて 
対応した。

けれど 暖かい便座の快適さには かなわない。

間もなく 暖房便座復活の予感(苦笑)。



暖房便座といい、シャワートイレといい、
普段 何気なく使っているものが
ものすごく贅沢なモノだったと 再発見。

でも 節約の気運も 
おしりの快適さには きっと負けると思う。。。(汗)。






できない事は する必要がない、と思っている。

でも できる事は 
少しずつ、少しずつ、
これからもずっと 続けていきたいと思う。

だから、パパ、
トイレのフタは 閉めておいてね(→15%の節電に! 笑)






いろいろな事が続いている間に、
いろいろな事が起きていた。



水俣病の熊本訴訟が和解が成立した。

これにより、最大の訴訟派団体の裁判が終結し
未認定患者の救済は 大きく前進する、という。



ニュージーランド・クライストチャーチの地震で
キングス・エデュケーションで被災した方々の遺体が見つかっている。

小さな記事になってしまっているが、
目を留めてしまう。

やはり ニュージーランドの地震を 忘れてはならない。



今年のフィギュア選手権の東京大会が中止された。

フランス氷上競技連盟という所が、
来年ニースで予定されている世界選手権の開催場所を
東京に譲る、と 国際スケート連盟に提案した。

「日本の関係者の無念は 想像にあまりある。」と。

人の心の痛み、気持ちを 推し量る事ができる人が 
世界中に いっぱいいるんだ、と思った。



東京地裁の イレッサ(肺がん治療薬)裁判で 
国と 輸入販売元の製薬会社(アストラゼネカ社)に
損害賠償を求める判決が出た。

国の敗訴は 今回初めて。

(大阪地裁では アストラゼネカ社にのみ 賠償を命じた判決。)

(国とアストラゼネカ社は 控訴を検討する。)



東海村の火力発電所の 
高さ220メートルの煙突の上で
足場の取り付け作業中だった作業員が転落死したが
3人とも広島の方だった。

広島からイバラキに 仕事で来ていて 
今回の地震に見舞われて亡くなった人たちがいた事を

忘れないでいたいと思う。