今日(2023年11月25日)の午後から、近くの図書館へ行き、取り寄せてもらった論文を読んだ。論文は、関東大震災(1923年9月1日発生)で、朝鮮人らが殺害された背景や真実などが記載されている。(
「関東大震災90年 朝鮮人虐殺をめぐる研究・運動の歴史と現在(1)」
大原社会問題研究所雑誌 668 2014.6
発行 法政大学大原社会問題研究所
(愼蒼字、姜徳相、藤野裕子各氏の論文参照)
論文から、私が学んだのは、朝鮮人大量虐殺は、公権力の率先、公権力による事態の隠蔽・責任回避・共同性の論点の問題提起を現在に投げかけているということだ。
関東大震災直後、公権力を使いデマを流布し、軍隊、警察、自警団などは、無実の朝鮮人や中国人、一部の日本人を虐殺した。
朝鮮人虐殺事件は、「日本官民一体の犯罪であり、民族的犯罪であり、国際問題である。」「思想」(1963年9月・1964年2月) 京都大学 松尾尊兊 教授の論文
朝鮮人の見分け方で、教えたのは官憲だ。
例として 「15円50銭」
「らりるれろ、と言ってみろ」
「君が代唄ってみろ」
「都々逸唄え」
自警団は朝鮮人を識別して虐殺した。
以上のほか、時代背景で、当時の伏流可した日本の朝鮮支配を見逃すことはできない。1910年朝鮮総督府ができる。日本が朝鮮支配で警戒したのは、国際化することだった。
1920年代日本軍の戦略は、3.1独立運動、間島事件(かんとうじけん)、シベリア出兵で、思想刈りをし、関東大震災朝鮮人虐殺につながっていったという。
間島事件(かんとうじけん)とは、以下ウィキペディアから。
間島事件とは、間島事件または琿春事件(こんしゅんじけん)とは、朝鮮と国境を接する間島の一部である中華民国吉林省の琿春が1920年9月12日と10月2日の2回にわたり馬賊などにより襲撃された事件。
背景
1919年の3.1独立運動を受けて間島に居住あるいは亡命してきた元義兵などの朝鮮人が日本からの独立運動を起こして武力闘争の準備を進め(独立軍)、日中の国境問題も絡んで緊張を増していた(間島問題)。1920年3月には赤軍と協力してニコラエフスクの駐留日本軍を殲滅し在留邦人を皆殺しにした(尼港事件)。
以上な事件があり、日本は一部の朝鮮人に恐怖を持ったことであろう。危険な人たちを抑えたい気持ちも当然あったと思われる。
日本と朝鮮半島(韓国・北朝鮮)の関係を振り返ると、古くは豊臣秀吉による朝鮮出兵があった。1910年の韓国併合から1945年の日本敗戦までの35年間、日本は朝鮮半島を植民地支配した。 戦争時の慰安婦問題もあり、解決済み、そうではないともめたりしてきた。現在の日韓関係は徐々に回復しつつある。しかし、現状を見ると、朝鮮学校をはじめ、ヘイト問題などがあり、朝鮮人に対する偏見・差別はほとんど解決していない。日本社会・日本人の成熟度が問われていると、私は思う。偏見・差別があってもそれを抑制できないといけない。お互いが衝突ばかりしていては「平和、幸福」はないだろう。仲良くしていく姿勢が重要ではないか。