日本に於ける「ライトパシフィック」の歴史は
昭和6年 C54(1~17)が登場(C51より最大軸重で1.34t軽量化)
昭和10年2月 C55一次型(1~19)(日本蒸機の近代的標準スタイルに移行)
昭和10年12月 C55二次型(20~40=流線型)(亜幹線に多い60フィート形「通称18m」ターンテーブル対応目的で全車軸間距離を240mm縮小)
昭和12年2月 C55三次型(41~62)(下回りは二次型と共通、上回りは一次型類似で運転室全体が小振りで床が105mm高い)
昭和12年3月 製造途中のC5563・64に様々な新機軸を導入して新形式とし、C571・2として落成しました。
C55形との主な相違点;
● ボイラー使用圧力の上昇(14→16kg/cm)
● それにともなうシリンダー直径の縮小(510→500mm)
● D51(昭和10年)で初採用された箱型輪芯(ボックスポーク)の採用
ボイラー使用圧力上昇でC55形よりも石炭・水の消費量が減少し、かつ出力が向上した事が新形式とした理由でした。
シリンダー牽引力;
C55形 11680kg
C57形 12820kg
C55からの外観上の変化は他に
● 煙室前端部の曲面化
● 蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化
● エプロンの傾斜角変更 (45°→55°)
● エプロンに付けられたステップ配置を外股→内股に変更
C571落成(1937-3-22)はC5562落成(1937-3-17)の僅か5日後です。
C55形とC57形は後年になると共通運用となる場合もありますが、例えば名古屋機関区関西本線の定数が
C51・C55 300t
C57 360t
と、日本初の蒸気圧16kg/cmを実現した新鋭機時代はそれに相応しい使われ方をしています。
常に20両程度で製造されてきたライトパシフィックはC57一次型(1~138)となって完成形を見ました。
C5563として製造開始されたC571の車歴は
1937-03-22 製造(川崎重工兵庫工場=1769)→ 配属[達346];東京局 配置;水戸
1937-04-04 到着;水戸
1939-11-10 郡山工場発(11/10 着)宇都宮
1949-10-12(10/11発10/12 着)千葉
1954-10-06 大宮工場発(10/7 着)新津
1957-06-21 工場入場
1958-03-05 新缶に交換完了(三菱製)
1961-02-09 急行〔日本海〕牽引中脱線転覆→ 復旧の際長野工場で運転室新製
1972-09-23 発(9/25 着)借入;佐倉
1972-09-30 佐倉発(10/3 着)梅小路
1972-10-10 動態保存;梅小路機関車館
1979-06-29 鷹取工場発借入;小郡機関区
1987-04-01 JR西日本に移行
(動態保存以前最終走行距離=3,287,777㎞)
1961年(昭和36年)2月9日羽越本線村上~間島間にて急行〔日本海〕を牽引中、土砂崩壊現場に突入して脱線転覆大破しました。
破損した車体は2か月以上事故現場に放置された後4月27日に運び出され、長野工場で5か月にも及ぶ修復を受け、9月末に完了、運用への復帰を果たしました。
修復された理由として、トップナンバー機であることの他に、当時は輸送力が不足気味で機関車が足りなかったこと、ボイラーを載せ替えてから3年しか経過していないこと、台枠に損傷を負わなかったことなどがありますが、当時の新津機関区長の決断がその最大の理由といわれています。
先輪・先台車はC59戦前形の廃車発生品が数年間使用され、独特の丸穴ウェッブ付スポーク先輪をつけた姿が写真に残されています(その後C57形の廃車発生品に再交換されました)
事故から復旧後の同機は好・不調の時期が入れ替わっており、当時の乗務員の感想は「乗務割りをもらうと憂鬱になるカマ」や「トップナンバーに恥じない優秀なカマ」など、評価が分かれています。
1972年(昭和47年)3月14日の秋田行き821列車が最後の定期列車牽引となりました。
C571[新津]
C571[新津]
C571[新津]
C571[新津] ナンバープレートはかなり高い位置です。
残念ながらC571[新津]は完売して居ります。
C571は1972年(昭和47年)5月の新潟県村上植樹祭のお召し列車牽引機に指定され、土崎工場で全般検査を兼ねて特別整備を受けました。
その時長野工場特有のドーム前手摺が外され、ナンバープレート取付位置が下がり別の機関車の様になりました。
1979年(昭和54年)8月〔SLやまぐち号〕として甦りました。
甦った事、走る線区が山口線という事は実に素晴らしかったのですが、甦ったC57の醜さは目を覆いたくなるものでした。
現役最後が「お召し」でしたので仕方がない部分はあるのですがランボードには白線、タイヤは研き出し、ボイラーバンドは金、集煙装置を着けた姿は「厚化粧の田舎役者」でした。
更にその姿に“貴婦人”などという全く馴染みも無い恥ずかしい愛称をマスコミに押しつけられ、全身総毛立つ程の嫌悪感を隠せませんでした。
近年になって〔SLやまぐち号〕秋の運転では集煙装置を火の粉止めに付け替えたC571が牽くサービスが行われるようになってきました。
それが最高潮に達したのが2007年10月14日です。
鉄道記念日を記念して現役時代を再現すると称して全身黒く塗りつぶし、デフのバイパス弁点検窓まで塞ぎ、ヘッドマーク無しで運転したのです。
その美しさ!
「C57=貴婦人」はとても認め難いですが「貴婦人=復活C571」は渋々やむなし。
しかしこの姿ならばマスコミの望み通り「貴婦人」と呼んで全然構わないと思います。
“黒衣の貴婦人” ここにあらわる!
http://homepage1.nifty.com/tun-rail/monthly/c577hennge/c57henge02.html
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”重油タンクは偏心、テンダーは新製以降ではありません。
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”IMON蒸機は製造銘板の製造番号も正確です。
模型に於いてもC57はC55に比べて長大編成、重量列車の牽引の任に当たることが多いと思います。
細いボイラー径という不利を克服するために比重19.25のタングステンをボイラーウェイトに使って居ります。
硬く、安定して居り、融点も3422°Cと金属の中で最高ですので加工が困難でしたが成形した状態で18.1という比重のウェイトが出来ました。
シリンダーブロック内ウェイトとIMONコアレス1616強力モーターで長大列車牽引に活躍する事と期待して居ます。
参考文献: 鉄道ファン1997年10月号(交友社)
機関車の系譜図(臼井茂信著/交友社)
機関車表/蒸気機関車の部(沖田祐作編/NEKO)
ウィキペディア(ウェブ)
昭和6年 C54(1~17)が登場(C51より最大軸重で1.34t軽量化)
昭和10年2月 C55一次型(1~19)(日本蒸機の近代的標準スタイルに移行)
昭和10年12月 C55二次型(20~40=流線型)(亜幹線に多い60フィート形「通称18m」ターンテーブル対応目的で全車軸間距離を240mm縮小)
昭和12年2月 C55三次型(41~62)(下回りは二次型と共通、上回りは一次型類似で運転室全体が小振りで床が105mm高い)
昭和12年3月 製造途中のC5563・64に様々な新機軸を導入して新形式とし、C571・2として落成しました。
C55形との主な相違点;
● ボイラー使用圧力の上昇(14→16kg/cm)
● それにともなうシリンダー直径の縮小(510→500mm)
● D51(昭和10年)で初採用された箱型輪芯(ボックスポーク)の採用
ボイラー使用圧力上昇でC55形よりも石炭・水の消費量が減少し、かつ出力が向上した事が新形式とした理由でした。
シリンダー牽引力;
C55形 11680kg
C57形 12820kg
C55からの外観上の変化は他に
● 煙室前端部の曲面化
● 蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化
● エプロンの傾斜角変更 (45°→55°)
● エプロンに付けられたステップ配置を外股→内股に変更
C571落成(1937-3-22)はC5562落成(1937-3-17)の僅か5日後です。
C55形とC57形は後年になると共通運用となる場合もありますが、例えば名古屋機関区関西本線の定数が
C51・C55 300t
C57 360t
と、日本初の蒸気圧16kg/cmを実現した新鋭機時代はそれに相応しい使われ方をしています。
常に20両程度で製造されてきたライトパシフィックはC57一次型(1~138)となって完成形を見ました。
C5563として製造開始されたC571の車歴は
1937-03-22 製造(川崎重工兵庫工場=1769)→ 配属[達346];東京局 配置;水戸
1937-04-04 到着;水戸
1939-11-10 郡山工場発(11/10 着)宇都宮
1949-10-12(10/11発10/12 着)千葉
1954-10-06 大宮工場発(10/7 着)新津
1957-06-21 工場入場
1958-03-05 新缶に交換完了(三菱製)
1961-02-09 急行〔日本海〕牽引中脱線転覆→ 復旧の際長野工場で運転室新製
1972-09-23 発(9/25 着)借入;佐倉
1972-09-30 佐倉発(10/3 着)梅小路
1972-10-10 動態保存;梅小路機関車館
1979-06-29 鷹取工場発借入;小郡機関区
1987-04-01 JR西日本に移行
(動態保存以前最終走行距離=3,287,777㎞)
1961年(昭和36年)2月9日羽越本線村上~間島間にて急行〔日本海〕を牽引中、土砂崩壊現場に突入して脱線転覆大破しました。
破損した車体は2か月以上事故現場に放置された後4月27日に運び出され、長野工場で5か月にも及ぶ修復を受け、9月末に完了、運用への復帰を果たしました。
修復された理由として、トップナンバー機であることの他に、当時は輸送力が不足気味で機関車が足りなかったこと、ボイラーを載せ替えてから3年しか経過していないこと、台枠に損傷を負わなかったことなどがありますが、当時の新津機関区長の決断がその最大の理由といわれています。
先輪・先台車はC59戦前形の廃車発生品が数年間使用され、独特の丸穴ウェッブ付スポーク先輪をつけた姿が写真に残されています(その後C57形の廃車発生品に再交換されました)
事故から復旧後の同機は好・不調の時期が入れ替わっており、当時の乗務員の感想は「乗務割りをもらうと憂鬱になるカマ」や「トップナンバーに恥じない優秀なカマ」など、評価が分かれています。
1972年(昭和47年)3月14日の秋田行き821列車が最後の定期列車牽引となりました。
C571[新津]
C571[新津]
C571[新津]
C571[新津] ナンバープレートはかなり高い位置です。
残念ながらC571[新津]は完売して居ります。
C571は1972年(昭和47年)5月の新潟県村上植樹祭のお召し列車牽引機に指定され、土崎工場で全般検査を兼ねて特別整備を受けました。
その時長野工場特有のドーム前手摺が外され、ナンバープレート取付位置が下がり別の機関車の様になりました。
1979年(昭和54年)8月〔SLやまぐち号〕として甦りました。
甦った事、走る線区が山口線という事は実に素晴らしかったのですが、甦ったC57の醜さは目を覆いたくなるものでした。
現役最後が「お召し」でしたので仕方がない部分はあるのですがランボードには白線、タイヤは研き出し、ボイラーバンドは金、集煙装置を着けた姿は「厚化粧の田舎役者」でした。
更にその姿に“貴婦人”などという全く馴染みも無い恥ずかしい愛称をマスコミに押しつけられ、全身総毛立つ程の嫌悪感を隠せませんでした。
近年になって〔SLやまぐち号〕秋の運転では集煙装置を火の粉止めに付け替えたC571が牽くサービスが行われるようになってきました。
それが最高潮に達したのが2007年10月14日です。
鉄道記念日を記念して現役時代を再現すると称して全身黒く塗りつぶし、デフのバイパス弁点検窓まで塞ぎ、ヘッドマーク無しで運転したのです。
その美しさ!
「C57=貴婦人」はとても認め難いですが「貴婦人=復活C571」は渋々やむなし。
しかしこの姿ならばマスコミの望み通り「貴婦人」と呼んで全然構わないと思います。
“黒衣の貴婦人” ここにあらわる!
http://homepage1.nifty.com/tun-rail/monthly/c577hennge/c57henge02.html
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”重油タンクは偏心、テンダーは新製以降ではありません。
C571[梅小路]“黒衣の貴婦人”IMON蒸機は製造銘板の製造番号も正確です。
模型に於いてもC57はC55に比べて長大編成、重量列車の牽引の任に当たることが多いと思います。
細いボイラー径という不利を克服するために比重19.25のタングステンをボイラーウェイトに使って居ります。
硬く、安定して居り、融点も3422°Cと金属の中で最高ですので加工が困難でしたが成形した状態で18.1という比重のウェイトが出来ました。
シリンダーブロック内ウェイトとIMONコアレス1616強力モーターで長大列車牽引に活躍する事と期待して居ます。
参考文献: 鉄道ファン1997年10月号(交友社)
機関車の系譜図(臼井茂信著/交友社)
機関車表/蒸気機関車の部(沖田祐作編/NEKO)
ウィキペディア(ウェブ)