一畑電鉄の思い出

2010-06-22 | 国鉄時代
RAILWAYSを見て刺激を受け、昔の一畑電鉄の写真を掘り返して見ました。

と言っても「紙焼きの束の中に有ったなァ」と探して見たのです。

ネガとは別なので順番その他が判りません。想像で並べます。

まずは昭和50年代初め頃の家族旅行です。


川跡駅で大社線から北松江線に乗り換え (大社からコレに乗ってきたと思います)


川跡駅のデハニ50形52


川跡駅から左側、松江温泉行きに乗ります。 (急行サボがないのが不思議)


多分松江温泉駅に到着したのでしょう。一畑口がスイッチバックなのでクハ100形103が後になって居ます。 (急行サボがあるのが不思議)


多分松江温泉駅で同じホーム反対側に停まっていた電車だと思います。


デハ20+クハ100。連結器を開いて4連にする準備か?。
クリーム+青帯とオレンジ+白帯が混在していたんですね。

たしか川跡→松江温泉で乗った電車は「急行」だったと思います。
物凄く飛ばしました。
「吊り掛け車の高速走行と言えば一畑電車」と私は暫く言い続ける位驚きました。

私の馴染みの吊り掛け電車は
「目蒲線」 (大井町線、池上線と比べて目蒲は飛ばせるところが多く音は最高に楽しめました)
「京浜東北線」
僅かに知るのが「東海道・横須賀の80、70形」「中央西線の80系」「京浜急行」ですが「もうノッチを切るだろう」と思ってからえんえん力行、加速を続け猛烈に走る電車は一畑に尽きると思っています。
スピード感も抜群でした。 (もちろん大社線はゆっくりですョ)

(速度はたいしたことないのかもしれませんが)

さて、6×6の写真がもうひとかたまり有ります。
電車の番号が違うので違う旅行かもしれません。
鉄研の合宿かもしれません。

当時、この一畑電車を「撮り鉄」しようという意欲は感じませんでした。
鉄研の合宿自体が「撮り鉄」とは結びつかない意識だったのかもしれません。

当時の撮り鉄行動は、旅行の準備の時点から「本業」という意識があって、鉄研合宿とは両立する意識ではなかったのだろうと思います。

「本業」だったら最低バケペン2台+レンズ90mm、150mm、300mmと予備のペンタSP、8ミリカメラ、リュックにはフィルムたくさんという出で立ちのはずです。
(今ならデカビデオの有る無しが本業かどうかの分かれ目でしょうか)

鉄研合宿なら「ヤシカマット124G」あたりかなと思います。


出雲大社前駅


出雲大社前駅


運転室は開放状態


子供は特等席に座りました


兄弟でしょうか


川跡駅


川跡駅 もしかするとこの電車で電鉄出雲市へ出たかもしれません。

よく憶えていません。
記憶を整理するためのアルバムを作っていたら完璧に憶えていられたのに・・・
それは結構価値のある事だった事が今になって判ります。

ともかく 一畑電車、大好きです。




最新の画像もっと見る