♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■あわれみ豊かな神/関根弘興

2015年11月09日 | Weblog
2015/11/09放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今日も新約聖書の中のパウロが示したエペソ人への手紙の中にあることばを紹介しながらお話いたしましょう。

 エペソ人への手紙2章4節(、5節)
 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、----あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。----

 私たちの神様は私たち一人ひとりに決して無関心ではありません。神様は余りに豊かな方なんですね。ある方は、この「あわれみ」ということばを聞くと、「冗談じゃない。俺は人から憐れまれるほど落ちこぼれてない。」というようにおっしゃる方がいます。何かこう憐れみということばが時々人に優劣を生じさせたり、憐れまれることは自分がだめな存在であることを認めてしまっているような、何かそんな弱々しいイメージを与えるからですね。ですから、「私は憐れまれた」などと聞くと、「ああよっぽどあの人、何もできない弱い貧しい者か」と言うように思われてしまうこともあるかもしれませんねえ。

 しかしパウロという人がここで使っている「憐れみ」ということばは、原文のギリシャ語ではですねえ実は「憐れみ」ということばは二つあるんですね。一つはオイクティルモスということばなんです。これは悲惨な状態への心に喘ぐ同情つまり「かわいそうに」思う心という意味です。しかしもう一つはエレオスということばで、これは他人の悲しみに同情し行動を伴って救助したい助けたいと思う気持ちですね、そういうことばなんです。

 パウロがここで使っていることはエレオスということばなんです。つまり、「かわいそうですねえ、同情しますよ」というだけの口先だけの憐れみではなくて、何としてもその人の状態を変えるために助けたい!という行動が伴う、愛に裏打ちされた思いなんです。人は自分の力で自分を救うことができない弱ーい存在だとパウロは教えています。だから人の本当の救いは憐れみ豊かな神様がいてくださらなければ決して届けられないことなんですね。

 感謝なことに、聖書はあなたを救い永遠のいのちを与え導かれる憐れみ豊かな神様がいてくださると教えています。だから私たちはこの神様の豊かな憐れみのゆえに救いの道があるのだとはっきりと聖書から知ることができるんです。

 (PBA制作「世の光」2015.11.09放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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