私にとって
夏は 戦争の季節
あの夏の夜 アメリカ海軍の艦砲射撃を受けた
梅雨明け間近かの
昭和二十年七月十七日の深夜だった
ピカッ! 閃光が走った
学校のすべての窓ガラスが 閃光に脅えて鳴った
ビリビリッ! ビリビリッ!
続けて ドッカーンと大砲の音
「これは爆撃ではねえ!艦砲射撃だ!」
誰かが叫んだ
「山へ逃げろ!」
土砂降りの雨の中 私たちは走った
母は 弟の手を引いた
私は 妹を抱っこした
ひたすら 走った
閃光の明かりを頼りに ひたすら走った
走った 走った 走った
行く先は 山のトンネル
多くの人々が すでに逃げ込んでいた
どこかで 子供が泣いた
「泣かすなー!」
大人が怒鳴った
蚊帳を身にまとった男が 震えていた
誰も笑わなかった
みんなから 笑う気力が失せていた
次の朝 少しだけ事態が分かった
被害を受けたのは 日立市の軍需工場だった
その二日後 私たちの町は 焼夷弾爆撃を受けた
町の大方が 燃えてしまった
私にとって 夏は 戦争の季節
国民学校五年生の夏だった
別館として、写真俳句ブログの「ひよどり草紙」を開いてます。
ご覧いただけると嬉しいです。
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女学校2年生でした。
私のほうがお姉さんですね。
↓加齢憂鬱症候群、拝読いたしました。
近頃は失うものばかりです。
私も日々加齢を意識しています。
振り払っても振り払ってもまとわりついてきます。
戦争体験のない私にも、いつ頃からか、映画や体験談や関係本などで、恐ろしさが分かってきました。
受けた恐ろしさ。
与えた恐ろしさ。
人間は戦争で鬼になってしまうのです。
人が変わったようにという言葉がありますが、正しく、正常の状態ではないまま、突き進んで行く。
絶対に起こしてはいけない過ちなのですね。
これは鮮烈な記憶として忘れられないでしょうね。
平和ボケした今の世にこういうことを知らせてるのは
意義があります。
北茨城の当時の様子は知りませんでしたので驚きました。
夏になると、戦争の頃を思い出します。
ひどい傷を負って終結した戦争だったのですが、日本はそこから何を学んだのか、情けないような気持ちです。
悲惨な犠牲を払って立ち上がったのに、次の一歩を踏み出していない感じがします。
虎や狼が跋扈している意識がないように想います。
戦争は鬼と鬼の戦いになってしまいます。
絶対にしてはいけない野蛮な行為だと想います。
その野蛮な行為をしかけないため、野蛮な攻撃を受けないため、今の日本の備えは万全かという点で、私は不安を感じております。
現行憲法があったから、今まで平和でいられたという妄想があり、日本人の多くが縛られております。
太平洋戦争によって、約300万人の日本人が死亡しました。
他国の犠牲者も多きに達しています。
戦争勃発の原因については、まだ諸説があるようです。
立場によっても認識に差があるのは仕方がないと想います。
今後どうあるべきかについて、議論事態がタブーになっている面があり、恐ろしく想っています。
先日来、ラジオでも戦争の特集をしています。
私と同世代の人の投書が多いようですが、
皆さん揃って「父は戦争の話を全然しません」と言われます。
語りたくないほど悲惨な経験をされたからでしょう。
私の父も殆ど語りません。
満州の冬の寒さのことは時に話しますが。
生地の海の正面が高松です。
高松も空襲を受けました。
見た人もかなり居ると思いますが、聞いたことがありません。
私より上の年輩の人は、戦場体験があります。
私は被害者としての体験なので、いくらでも話せます。
心ならずも、加害者の立場の身を置いた人は、とても話せないのではないでしょうか。
私の叔父も、決して話しませんでした。