新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

艦砲射撃

2007年06月27日 20時18分00秒 | 身辺雑記

 昨日、叔母の葬儀のため、福島県いわき市に行った。常磐線で高萩駅まで行き、その先は、弟の車に乗せてもらって会場へ行った。途中、海岸線を行ったが、ほとんどの地域は大きな変貌を遂げている。発展の勇姿なのだろうか。
 私にとって夏の故郷には、思い出が多く煮詰まっている。母の死。艦砲射撃と焼夷弾空襲、そして終戦。父との夜釣りなどは懐かしい。
 中でも、艦砲射撃にまつわる事柄は、その後の空襲や終戦に繋がって行くので、ずしりと重い。
 やがて敗戦を迎えることになる昭和20年7月。当時の私は、国民学校の5年生であった。今でこそ、7月は敗色濃厚だったと言われているが、子供たちに分かるわけもなく、「一億一心、火の玉だ!」とか、「欲しがりません、勝つまでは」などと唱和しながら、「本土決戦」に向け、意気軒昂たる「軍国少年」であった。

 一方、戦局は厳しさを増し、本土空襲は日常的なものとなっていた。「東部軍管区情報」が、ひっきりなしに「警戒警報」や「空襲警報」を発令し、そのたび毎に、どこかの都市がアメリカの空襲に遭っていた。
 警戒警報のサイレンが鳴ると、学校は早帰りとなり、生徒たちは家路を急がされた。しかし正直な話、危険が身に迫っているような認識はなかった。
 私たちの町は、茨城県最北部に位置する小さな町なのだ。いかなアメリカでも、こんなところまで空襲するとは、思ってもいなかった。それが、当時の大人たちの認識ではなかったろうか。そんな大人たちの雰囲気が、おのずと子供たちにも伝わっていた。警戒警報のサイレンが鳴ると、生徒たちは、いそいそと帰り支度をし、隣組単位にグループを作って、家路を急いだ。浮き浮きした気分だったと記憶している。
 昭和20年7月17日の夜。そんなムードは木っ葉微塵に吹き飛んだ。
 夜8時、激しい雨の中、いきなり空襲警報を知らせるサイレンが鳴った。通常は、警戒警報の後に空襲警報が発令されていただけに、大いに驚いた。しかもその夜に限って、父は不在だった。日立市へ出張に行ったまま、まだ帰っていなかった。いやが上にも不安が募った。
 とにかく避難だ。母と弟妹、それに私の4人が、家の脇に掘った防空壕に逃げ込んだ。続いて近所の人たちも、避難して来た。母子家庭のMさん5人。ご主人が出征していて、母子家庭となっているSさん一家の3人。予備役軍人のHさん一家の6人。
 ほっとする間もなく、「ピカッ!」という閃光と、腹に響く「ドドーン」という轟音に見舞われた。そのたびに何百枚もの学校の窓ガラスが、「ビリビリッ、ビリビリッ、ビリビリッ」、と鳴った。
 覗き見る外は、篠つく雨。
「ひょっとしたら爆撃ではねえぞ!」
 予備役軍人のHさんの判断だ。
 艦砲射撃かもしれないというのが、Hさんの弁。
「どうすればいいンですか!」
 みんな必死だ。
「とにかく、山サ逃げッペ!」
 全員が防空壕から這い出した。
「艦砲射撃は奥地の方から砲弾を落っことし、少しずつ着弾位置を手前の方サ近寄らせて、陸の人を海岸サ集めてしまうんだ。ンだから早く、山サ逃げねッきャ
皆殺しになっつおッ!」
 戦地経験のあるHさんの言葉には、恐ろしいほどの真実味があった。
 家族毎にまとまって、割り山のトンネルを目指すことになった。そこは山を割るように切り開いて道路を通したところであり、その付近に、トロッコ用のトンネルがあった。そこまでは1キロ余りの道のりだが、大雨なので難渋は覚悟しなければならなかった。
 母は大きな荷物を抱え、弟と手をつないだ。私は大きすぎる大人のゴム長靴を履き、3歳の妹を抱いて走った。
 眼にも耳にも、雨水が流れ込んだ。そんな中、砲弾の不気味な閃光を足元の明かりとして、無我夢中で走った。ともすれば離ればなれになりそうなので、母と子らは呼び合いながら走った。途中で何かに躓き、私は転んでしまった。当然のことながら、妹を放り出す形になったのだが、妹は泣きもしない。
 割り山のトンネルは、人々で溢れていた。泣き叫ぶ子供もいた。「泣かせるな!」と怒鳴っている男もいたが、さほど混乱してはいなかった。蚊帳を身にまとって逃げてきた人がいて、みんなでクスクス笑い合ったことを、今でも覚えている。いつ脱げたのか、私の片足にはゴム長靴はなかった。
 次の朝、雨上がりの道を家に帰った。家に帰ったころ、昨夜の轟音が艦砲射撃であったことを知った。アメリカ海軍の砲撃目標は、日立市だったとのことで、被害も出たようだった。
 父の出張先が日立市だったので、ひどく心配だったが、ほどなく帰ってきた。砲撃を受ける前に、汽車で日立市を離れていたのだそうだ。
 艦砲射撃以来、サイレンに対する人々の反応は、異常なほど敏感になった。私たちも例外ではなかった。サイレンと同時に、トンネルに逃げ込んだ。多くの家族は、トンネル内に居場所を定めて、そこで生活するようになった。
 7月19日夜、私たちの町が焼夷弾爆撃を受けるまで、トンネル生活は続いた。
 もう父も母も他界した。苦労の多かった両親の生涯を、私は、この季節、しみじみと思い出す。
 弟妹たちは、まあまあ元気だ。ぜひ仲良く過ごしたい。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 仏の功徳 | トップ | 原爆はしょうがなかった? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

身辺雑記」カテゴリの最新記事