半年ほど前から、仏壇の前で、お経を読んでいる。
(お経をあげると言うのだろうか)
「門前の小僧、習わぬ経を読む」どころの話ではない。
去年の暮れ、はじめて見た孫は、怪訝そうな顔をした。
朝、孫は私の隣に座る。お鈴を鳴らすのは孫の役目なのだ。
(仏壇の中に、母親の位牌があることを、孫はまだ知っていない)
「なーに?」 と聞かれたので、「お経を読んでいるンだよ」と答えた。
「お祖父ちゃんが、お願いしますと言ってから、お鈴を鳴らしてね」
これがわが家の役割分担となった。もちろん、息子がいれば、孫は息子と一緒だ。
自分で言うのもヘンだが、続けている内に、なんとか声が出始めた。
時々CDで聞くので、気合いは分かってきたようだ。
中身の理解までには、まだまだ到っていない。ほど遠い話だ。
すでに孫は息子と帰って行った。
今朝、私の隣に、孫は座っていない。
別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いてます。
ご覧いただけると嬉しいです。
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お経を読むと言っても、まだまだこれからです。
ブログに書いたのは、継続を自分に強いるためのようなものです。
つまり、「他力」に頼るわけですから、かなり不純ですね。
これもまた一つの方法です。
僧職のある方にそのように言っていただけると、俄然その気が湧いてきます。
頭を空っぽにすればいいのでしょうが、まだまだそのような境地には到っておりません。
しかし、読まないと始まらない気持ちにはなっています。
我が家の大人は、それぞれの参り方で毎朝仏壇の前に座ります。孫たちは、供物を頂く時だけ手を合わせたり鐘を鳴らしたりしています。
いいものですよ、気持ちが安らぎます。
お経は意味など解らなくてもいい、というお師家様もいらっしゃいます。頭空っぽにして、はらの底から声を出すようにしていると、こころも体も落ち着きませんか。無理をせず、マイペースで続けられることをお勧めします。いつも、コメントありがとうございます。合掌
私はもともと信仰心が厚くなかったのですが、年を経る毎に、心から手を合わせるようになってきました。
当然のところへ行くようです。
実父がよく唱えていました。
今は実弟があとを継いでいるようです。
子どもが神仏に手を合わせる姿を見ると、胸にじ~んと来るものがあります。
内孫と外孫という言葉、懐かしいですね。
わが家はみんな外孫みたいです。
ところで、「きみっこする」という言葉を覚えておりますか?
私は子供のころに使っていました。
「あれあれ、あいつキミッコしちゃったぞ」見たいな使い方ですが。
日常が戻ってきましたが、なんとなく慌ただしくしています。
今年は生活のスタイルを変えないと、全てが中途半端になりそうです。
まさか今ごろ綿毛が飛んでいるとは思いませんでした。
考えて見れば、まだまだ枯れ草には沢山の綿毛がついているのですね。
今ごろ気づいているなんて、迂闊過ぎます。
小生は毎朝、神棚と仏壇に手を合わせてるが、お経を読む、など思いも及びませんでした。
手を合わせる姿、外孫は怪訝そうでも、内孫には既に無視されてます。
やっと日常の生活なったとはいえ
寂しくなられたのではないでしょうか
綿毛がキレイにそして寒そうに枯葉の中へ飛んでいったのですね
そこから春には芽を出すことでしょう
今年芽が出なくても来年はきっと。。
優しいおじいちゃんに付きっきりのSちゃん可愛いですね
お鈴をならす役目ね
おじいちゃんとの息もピッタリ (^。^)
羨ましいですねえ。
私はずーっと理科系のガチガチなので、とんとラチが明きません。
肺活量が問題なほどの声は出さず、借りてきた猫みたいに、みゃーみゃーとやっています。
感心していただいて、とても恥ずかしいですよ。
四十の手習いならず、今になってなにを迷っているのでしょうか。
お経を習うより、早く浄土へ行ったほうがいいかもしれません。
読経は肺活量が要りますね。息継ぎが難しいのですね。
お坊さんが朗々と上げて下さると惚れ惚れします。
ひよどりさん えらいですね。感心いたします。
私も和尚様から お経の御本も CD も頂いているのですが いまだ 続きません。般若心経は若い時覚えましたのでこれわ大丈夫なのですが........
なかなかなのです。