新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
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入り口から違っていた安保論

2015年09月26日 16時47分24秒 | 政治・経済

 国中を湧かせた安保法制論が、スッキリしない形だったが決着を見た。

 今になっても、強行採決だとして、民主党や共産党をはじめ野党が騒いでいる。来年の参院選で逆転させようと戦術を練っているようだ。

 国会論戦で繰り返された中身のカラッポさには呆れたが、国民の側としては、がっぷりと組み合って議論をしてほしかった。

 かかる事態に陥ったのは、「戦争反対」、「九条守れ」を叫び続けた野党の的外れな論議が悪かったが、その場凌ぎの政権側の議論の進め方も稚拙極まりなかった。

 安全保障に関する本質論や危機の認識論から論議をしてほしかった。

 アメリカに押しつけられた憲法かどうかは別として、現行の法制で国を護ることが出来るや否やの議論が欲しかったのだ。

 いきなり「集団的自衛」の議論ではなく、中国の台頭や北朝鮮の問題から考えて、現在における日本の力(外交力や軍事力)で、領土・国家・国民を守り切れるのかという整理が必要だったのではないか。

 つまり、「自分の身を自分で護るために、我々はどのようにすべきか?」という論議が欲しかったのだ。

 中には、「現行憲法の平和主義があれば、日本は今後も平和を維持できる」という論議があっていい。

 「そんな夢みたいなことがあってたまるか。対抗力がなければ、瞬く間に蹂躙されてしまう。それが地球社会の現実だ」

 そんな反論があり、自衛力の増強が必要かどうかという議論に繋がっていく。

 核武装していない日本が、単独で外圧に対抗できるのか。

 核兵器を持たない日本が、どのようにして国を護ればいいのか。

 なんと言っても、日本にとって中国の台頭は大いなる脅威だ。

 脅威に対処するためには、個別的な自衛力の増強を図りつつ、その上で、「核抑止力」を中心とした「集団的自衛力」を強化するという方策で論議しなければ、言葉遊びや理想論ごっこで終わってしまう。

 もちろん、「九条があったから、戦後70年の間日本は平和だった」と思っている人には、世界の現実を見てもらう必要があるのだが。

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