新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

死に方の問題

2009年06月14日 07時14分47秒 | コラム・エッセー

 医学博士・帯津良一氏の「達者でポックリ」を読んでいる。

 面白そうなタイトルだし、大きな字の印刷なので読み始めた。

「達者でポックリ」と行くための二大要素が書いてあった。

 ① 日頃からの心構えを持ち、自分の死のタイミングを見極める精神性を持つこと。

 ② 日ごろからの「養生」につとめ、日々、「生命」のエネルギーを高め、最後まで自立して 
   過ごすこと。

 つまり①は、「死に時」を察する努力、修養が必要だということらしい。

 しかも、「死に時」を悟ったら医療を拒否できる精神力をつけなさい、とも言っている。

 ②は、そのためにも、日ごろの養生が大切だと説いている。

 医療者の立場として、ずいぶんはっきりとした物言いだ。

 大先生の説だから反論しないが、生死に関しもっと謙虚でいいのではないかと思った。

 患者は真摯に生きることに努め、医療者は病状の改善や苦痛の緩和に努める。

 その過程で、患者は自ずと死期を悟る。「自ずと・・・」が肝要なのだ。

 死期を悟るための訓練などは必要あるまいと思う。

 諄いようだが、患者は生きようと努力し、治療側は医学的な立場で介添えをする。

 そんな過程を経ながら、死ぬ形が決められて行くのだと思うのだが……。

 生きようと努力はする。しかし、誰かの犠牲が前提となれば問題は別。

 仮に私の腎臓機能が劣化し、移植が必要となったとき、果たしてどうするか。

 当然、息子や娘の臓器が一番身近だ。

 私はそれはできない。なにしろ75歳だ。もう責任の大半は果たしたつもり。

 結果として、従容として死を待つことになる。

そう考えるのが自然だろうな。

 いずれにしても難しい課題だ。

 別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いております。

 ご覧いただけると嬉しいです。

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コメント (12)
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