医学博士・帯津良一氏の「達者でポックリ」を読んでいる。
面白そうなタイトルだし、大きな字の印刷なので読み始めた。
「達者でポックリ」と行くための二大要素が書いてあった。
① 日頃からの心構えを持ち、自分の死のタイミングを見極める精神性を持つこと。
② 日ごろからの「養生」につとめ、日々、「生命」のエネルギーを高め、最後まで自立して
過ごすこと。
つまり①は、「死に時」を察する努力、修養が必要だということらしい。
しかも、「死に時」を悟ったら医療を拒否できる精神力をつけなさい、とも言っている。
②は、そのためにも、日ごろの養生が大切だと説いている。
医療者の立場として、ずいぶんはっきりとした物言いだ。
大先生の説だから反論しないが、生死に関しもっと謙虚でいいのではないかと思った。
患者は真摯に生きることに努め、医療者は病状の改善や苦痛の緩和に努める。
その過程で、患者は自ずと死期を悟る。「自ずと・・・」が肝要なのだ。
死期を悟るための訓練などは必要あるまいと思う。
諄いようだが、患者は生きようと努力し、治療側は医学的な立場で介添えをする。
そんな過程を経ながら、死ぬ形が決められて行くのだと思うのだが……。
生きようと努力はする。しかし、誰かの犠牲が前提となれば問題は別。
仮に私の腎臓機能が劣化し、移植が必要となったとき、果たしてどうするか。
当然、息子や娘の臓器が一番身近だ。
私はそれはできない。なにしろ75歳だ。もう責任の大半は果たしたつもり。
結果として、従容として死を待つことになる。
そう考えるのが自然だろうな。
いずれにしても難しい課題だ。
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