五木寛之著の「嫌老社会を超えて」を読みました。
五木寛之氏らしい捉えかたですが、読後に妙な戸惑い感が残りました。
氏の曰く。
「戦後七十年を生きてきて、今まであまり感じたことがなかった、ちょっとした、しかし拭いがたい、社会に対する『違和感』のようなもの」
を感じたという書き出しでした。
そんなある日、「嫌老」という言葉が彼の脳裏に浮かび、「居心地の悪さ」は「嫌老」だったのだと気付いたのです。
つまり、まだ表面に出てはいないが、この社会の意識の底に「嫌老意識」が息づいていることに気付かされたのでしょう。
この本には、高齢者として対処策が書かれてありました。
かねてから私も感じておりました。
たとえば電車やバスの中、「敬老席」でスマホを弄っている若者を見かけます。
以前は、「マナーの悪い若者」とだけ思っていたのですが、この頃は少し違う印象を抱いております。
単なるマナー知らずの若者もいるでしょうが、「老人の特権は認めないぞ!」という確信的な態度を感じることがあります。
そのような若者たちに、高齢者に対する「社会や世間の底意」を感じます。
どこの社会においても、どのような世代においても)老人を疎ましく思う気持ちはあると思います。それは仕方がないことでしょう。
そのような事態に対し、「オレたちだってやってきたのだ」と言ってうそぶくことは当を得ておりません。
バブル崩壊以降に不景気が追い打ちをかけ、いまだに回復してはいない国や社会の現状があります。
ましてや少子高齢化が急速に進展しつつあるのです。
私たちの世代は10人弱で先輩世代を支えていましたが、これからは僅かな人たちで高齢者を支えることになります。
今後さらにその傾向が進展します。
高齢者を疎ましく思うのは避けられないことでしょう。
そんな風潮に「嫌老」という名前を付け、危機意識を煽ることにこそ私は「違和感」を感じます。
しかも五木氏は、「高齢者は単なる世代ではなく『階級』となった」とまで書いているのです。
まるで世代間離反や世代間闘争を煽っているように聞こえます。
そのような事態を招かないためとして、氏は高齢者の自立を説いています。言葉だけで言えば異論はありません。しかし、「余分な年金は返納すればよい」という話になると、言葉だけで遊んでいる感じがするのです。
また、「二つ目」として、「選挙権の委譲」を提案していました。つまり、「高齢者の側は選挙権を後の世代に『譲る』度量を持つべきだ」とまで書いています。
高齢者の「度量」によって、「選挙権の委譲」をなすべきではないかということなのでしょうか。
このあたりになると、情緒的になっていて論理はメチャクチャです。選挙権は権利でもあり義務でもあります。
いずれにしても、「老人階級」という言い方をしながら「嫌老意識」を煽ることは、知恵ある老人の言葉とは思えません。
私も老人が疎まれていることは分かります。壮年、青年、若年層の苦労や不安や苛立たしさも理解出来ます。
だからと言って、「年金を返納しろ」、「運転免許証を返納しろ」、「選挙権を委譲しろ」と言い立てながら、「嫌老」意識を煽り立てるのは一部「恵まれた特権的老人」のキレイゴトとしか聞こえません。
若者と高齢者が融和し補完し合いながら、国を前進させるには如何になすべきか。
難しい命題です。
「嫌老」という言葉が、死語となることを願っています。
(写真は2009年11月16日撮影の毒キノコ)
老人を毒キノコと擬えてアップしたつもりではありません。