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イベント 東京国立博物館 手塚治虫の漫画と仏像でたどる釈迦の生涯「ブッダ展」その1

2011年06月09日 | イベント
kan-haru blog 2011 ブッダ (第1巻) (潮ビジュアル文庫)
    
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特別展「手塚治虫のブッダ展」
手塚治虫のブッダ展は、東京国立博物館本館特別5室(台東区上野公園13-9)で4 月26 日から6 月26 日まで開催され、5月25日に見てきました。博物館本館の特別5室は、1階の大階段裏に吹き抜けの広大な空間をもつ展示室で、過去には数々の名品の展示場にあてられてきた特別展の会場です。
ブッダ展の主催は、東京国立博物館、東映、TBS、後援が文化庁、読売新聞社で、協力が手プロダクション、日本通運、(財)全日本仏教会、ニトリ、カラーキネティクスジャパンにより開催され、展示会の観覧料が一般800円で、大学生が600円、高校生が400円で、中学生以下は無料です。

 手塚治虫のブッダ展会場(:ブッダ展開催の国立博物館本館、:国立博物館本館特別5室会場、:手塚治虫の漫画ブッダ)

展示作品は、漫画「ブッダ」の手塚治虫の直筆原画52 点と、重要文化財を含むガンダーラや日本の博物館、寺院貯蔵の美しい仏像約20 点によってブッダの生涯をたどる、漫画と仏像による展示会史上初の試みです。

 ブッダ展パンフレット(左)と入場券(右)

手塚治虫
手塚治虫は1928年(昭和3年)11月3日に、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に、父・手塚粲と母・文子の長男として生まれました。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで、本名は「治」と名づけられました。

 手塚治虫氏

治虫は幼い頃から見様見真似で漫画を描くようになり、特に小学4・5年生頃漫画に熱中し、ノートに漫画を描いて学校に持っていった時に教師に取り上げられ、職員室で回し読みされ漫画を描くことを黙認される、クラスでも一目置かれるようになりました。
戦時中の1941年(昭和16年)に、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学し、戦時中の修業年限短縮により北野中学を1945年3月に4年で卒業。同年6月、勤労奉仕監視哨中に大阪大空襲に遭遇して、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る空襲体験をして、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれています。
1945年7月、手塚は試験を受けて戦争の長期化に伴い軍医速成のために臨時に付設された、大阪帝国大学附属医学専門部に入学し、1951年に医学専門部を卒業して、大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1953年7月に国家試験を受けて医師免許を取得しています。
1950年(昭和25年)11月より漫画マニア誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始し、翌1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになりました。

 鉄腕アトム、ジャングル大帝マンガ 

手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事であり、1961年(昭和36年)に手塚プロダクション動画部を設立し、アニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する。翌1962年に「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かり、1967年(昭和42年)には原作『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞しました。

 鉄腕アトム、ジャングル大帝アニメ

手塚は自ら「冬の時代」であったと回想して、1968年から1973年を作家としての窮地に立たされ、1973年に経営者となっていた虫プロ商事、虫プロダクションが倒産しました。
しかし、1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』は、手塚を代表するヒット作へと成長していくことになり、さらに1974年『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』もヒットし、手塚は本格的復活を遂げることになりました。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていました。文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものになりました。
1988年11月、上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により入院し胃癌と判明し、1989年(平成元年)2月9日に死去しました。

 「ブッダ」マンガ

仏陀
仏教を開いた釈迦ただ一人を仏陀とする。しかし初期の経典でも燃燈仏や過去七仏など仏陀の存在を説いたものもあり、またジャイナ教の文献にはマハーヴィーラを「ブッダ」と呼んだ形跡があることなどから、古代インドの限られた地域社会の共通認識としては既に仏陀が存在したことを示している。
多くの仏教の宗派では、「ブッダ(仏陀)」は釈迦だけを指す場合が多く、悟りを得た人物を意味する場合は阿羅漢など別の呼び名が使われる。(Wikipedia)

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