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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその3

2011年05月09日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
kan-haru blog 2011 加茂川            

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第2日目の旅行行程(3)
石山寺、三井寺のある琵琶湖西南の大津は、修学旅行の栞に「昔の滋賀の都(天智弘文帝)のあった所で、“さざ波や滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな”(平忠度)、今(1951年当時)は人絹工業の盛んな所である」と書かれています。大津での次の見学の行き先は、京阪電気鉄道石山坂本線(石山寺-坂本間14.1km)の終点駅の坂本駅で、比叡山の麓の日吉神社から、山を登り延暦寺へと向かいます(第2、3日行程地図参照)。

 日吉神社、延暦寺、比叡山地図

・日吉神社
日吉神社は、修学旅行の栞に「崇神天皇の世創建、大山咋命を祀る、延暦寺の鎮守神と定めた。叡山の僧徒が当社の御輿をかつぎだして朝廷に強訴した事は有名である。日吉造という特別の建築である」と書かれています。日吉神社へは、京阪電気鉄道坂本駅を下車して、通りを西に進み早尾神社を右に曲がり、大宮川にかかる二宮橋脇の橋を渡り直進すると大山咋神を祀る東本宮で、大宮橋を渡ると大己貴神(大国主神)を祀る西本宮へ向かいます。日吉大社(滋賀県大津市坂本5丁目1-1)は、西本宮と東本宮を中心に、400,000m²の広大な境内を持ち、東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられています。最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である当社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬しました。1571年(元亀2年)に、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰し、現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものです。
東本宮本殿は、1595年(文禄4年)の建立で、建築形式は西本宮本殿に似ており、昭和初期までは「大神神社本殿」と呼ばれていました。

 東本宮本殿(左)と本殿背面(右)

西本宮本殿は、1586年(天正14年)の建立で、檜皮葺きの屋根形式は「日吉造」と云い日吉大社特有のものです。正面から見ると入母屋造に見えるが、背面中央の庇部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形態(縋破風)になっているのが特色です。

 西宮楼門(左)と西本靄本殿(右)

・延暦寺
日吉神社を見学して早尾神社に戻ると、その先の延暦寺学園比叡山高等学校の角は、比叡山鉄道坂本ケーブルのケーブル坂本駅です。坂本ケーブルは、1927年(昭和2年)に開業、1945年(昭和20年)に旅客営業を休止し、1946年(昭和21年)に運行が再開されました。延暦寺には、坂本ケーブルで高低差が484 mで、延長は2,025 mを登りケーブル延暦寺駅から、標高848mの比叡山全域を境内とする次の見学の延暦寺です。
修学旅行の栞に延暦寺は「延暦年間、僧最澄の開祖した寺で天台宗の本山。盛時には三千余りの僧坊を有し、僧兵を蓄え其の勢力は、後白河法王をして「山法師」と嘆を発せしめた程であった。平安以後の名僧は皆ここで修行を積んだものである。大講堂、戒檀院、弁慶の力水、叡山最初の道場で「消えずの灯」輝いている」と書かれています。
延暦寺(滋賀県大津市坂本本町4220)へは、ケーブル延暦寺駅を降りて坂道を登って行きます。延暦寺までの途中で、眼下に琵琶湖が見ます。当時は、現在の様にデジカメなど無く、カメラは大変と貴重なものでした。旧友のY君のお父さんはカメラ関係のお仕事で、カメラを持参してきましたので、修学旅行初めての写真の琵琶湖風景を写しました。当時のカメラは、フイルムのため撮影枚数にも制限がありました。

 延暦寺より琵琶湖を望む(Y君持参のカメラで60年前の昭和26年11月27日撮影 拡大)

U字形の坂道を上がり詰めたところから、左に曲がり直線の階段を下りると比叡山延暦寺本堂(根本中道)です。

 根本中道S君[左]Y君[右](Y君のカメラで筆者が撮影拡大S261127)

根本中堂(国宝)は、最澄が建立した一乗止観院の後身であり、全山の総本堂です。織田信長の焼き討ち後、徳川家光によって1642年(寛永18年) 再建され、中央の厨子には最澄自作の本尊薬師如来像が祀られており、厨子前の三つの灯籠は、最澄が灯した灯明を継いで来たもので、1200年間、消えることなく灯り続けている「不滅の法灯」です。

 根本中堂

根本中堂から戻り右に曲がると大講堂で、1634年(寛永11年)の建物ですが、1951年(昭和26年)に火災にあい、現在の建物は1964年(昭和39年)に比叡山東麓・坂本にある東照宮の讃仏堂を移築したものです。大講堂の西側の丘の上に建つのは戒壇院で、最澄(伝教大師)が建立すべく心血を注がれた天台宗の僧侶に大乗戒を授ける、比叡山中で最も重要なお堂です。最澄が生きている間には許可が出ず、1年後に後継者の義真(初代天台座主)により最初の大乗戒が授けられ、5年後に創建されました。現在の建物は1678年(延宝6年)に再建されたもので、内陣に得戒和尚、釈迦牟尼仏と文殊・弥勒の両菩薩が祀られています。

 大講堂(左)と戒壇院(右)

・京都入り
延暦寺の見学が済み、薄曇りですが幸いと天気には恵まれ、これからピクニック気分で叡山越えですが、ここで持参の3食目の弁当で昼食です。食事が済み夜行の寝不足と疲れを癒して、これから京都入りして1泊目の旅館の宿泊です。比叡山の登山道を、叡山ケ-ブルのケーブル比叡駅までの下り道を行進です。叡山ケ-ブルは、1925年(大正14年)に京都電燈が叡山鋼索線として八瀬(当時は西塔橋駅)とケーブル比叡(当時は四明ヶ嶽駅)間の高低差が561mで、延長は1.3k mを開業し、1944年(昭和19年) に大戦で休止し、1946年(昭和21年) に運行を再開しました。
ケーブルを降りると、京都市左京区にある叡山電鉄叡山本線の終着駅の八瀬(やせ)比叡山口駅から出町柳駅まで乗車して、そこから京阪電気鉄道で当時は路面駅の三条京阪駅までの乗車です。京都での宿泊は三条通りに面したいろは館です。現在は、同場所にいろは旅館とホテル・イロハが営業しています。旅館の夕食までには、若干の時間がありましたので、高校生には牛若丸で有名な五条大橋まで散策にでかけましたが、三条大橋のほうが立派でした。

 三条通りのいろは館(左)と五条大橋(右)(昭和26年11月27日撮影)

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