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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町学びや 60年前の高校時代の関西修学旅行を追想するその1

2011年05月03日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
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60年前の高校修学旅行
物入れを整理していると、茶色にやけたざら紙の「修学旅行の栞 (しおり) 1951. もりこう」と書かれたガリ版摺りの冊子が出てきました。このしおりは、今から丁度60年前の1951年(昭和26年)に高校3年生の修学旅行用に、大森工業高等学校で作ってくれた学習資料で、大変と懐かしい思いで読み耽りました。丁度60年前の修学旅行の想い出がよみがえってきました。
高校は工業系の学校ですが、当時の校長は以前に関西に住まわれており文化や歴史の造詣が深く、文科系の学習科目が少ない生徒にこれを機会に歴史文化を伝えようと、修学旅行の1月前から週の1、2回を割いて特別の講義をして頂いた時の副読本でした。

 60年前のガリ版擦りの修学旅行の栞

今昔の高校修学旅行
・米持参の修学旅行
60年前の旅行と今日の旅行を比べると、いろいろと違いがあり当時はアナログ的な旅行であり、現在はデジタル時代です。ここで、当時のアナログ的修学旅行を、現在のデジタルに変換して追想してみたいと思います。
60年前の1951年は世界大戦終戦からまだ6年目で、1940年(昭和 15年)に開始された米や麦などの主要食糧の配給・消費規制は太平洋戦争と敗戦後に強化され、1941年にはこの配給量の不足分を補う為のパン、ウドン、ソバなどの食料品の入手も可能でしたが、その後日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、主食の米に次いで調味料、魚介類、肉はもとより野菜まで、口に入る物は全て配給制度に組み込まれたので、余分な食料品の入手ができなくなりました。
1943年に主食の配給は二合七勺から二合五勺に減らし、戦局はまったく絶望的となり満州や朝鮮からの食糧輸送路も切断されて1945年5月には二合三勺に減り、同7月には二合一勺(297グラム)に減少しました。戦後の同8月には、物資は無く食糧難で配給の時代が続き国民の食糧不足は極度に深刻化し、生きるためのヤミの買い出しが激増しました。
飲食物は国鉄(現在のJR)の駅前の露天の闇市では闇料金で売っていましたが、学生や生徒は近づけないところです。この時代に修学旅行などで旅館に宿泊する場合には、主食配給のお米を持参する時代が戦後も10年以上にわたり続きました。半世紀前の修学旅行では、3泊の旅館に米一升六合五勺を持参して、その他に弁当が第1日目の夜食と第2日目の朝・昼食用の3食の他、第六日目の朝食代が徴収されました。
その後も、高校修学旅行の4年後の大学研修旅行でも米を持参して、社会人となり仲間と登山で山小屋に泊まるにも当時は米持参で余計な荷物を担いで歩いたのです。1981年になり、やっと配給制度が無くなりました。

 米穀通帳(昭和16年の出来事1941から)

・列車は夜行鈍行の3等車
関西への修学旅行の行程は、京都、奈良、吉野の旅館に泊まり、往復は2泊の車中泊で、1951年10月26日(金)の14時28分発の3等鈍行列車は門司行きであったと思います。
当時の3等級列車の3等車とは現在の普通車のことであり、2等車とは今のグリーン車で、1等車は日本の国鉄時代に、東海道本線・山陽本線の特別急行列車の最後尾にオープンな展望デッキを設けた展望車が接続され、1960年まで使用された一等客専用の列車でした。ちなみに、1956年の東京~大阪間の運賃・料金は、1等が4160円で、 2等 が2080 円で、3等が870円ですが、修学旅行は学生割引の運賃が適用されました。また、当時の物価は、白米(10Kg)765円、そば20円、あんパン12円、山手線初乗10円で、大工の手間賃が730円、教員の初任給は7800円でした。

 当時と同系の3等普通列車

当時の夜行鈍行の3等列車には複数校の修学旅行校が乗り合わせた混成列車で、列車の照明は白熱電球であり、座席シートの背もたれは木製で垂直でしたが、若い時代でしたので垂直でも苦痛は感じませんでした。東京駅を出発して2時間半を過ぎた頃、3食分持参した弁当の1つを開けて、初めての列車に揺られながらの夕食をとりました。
当時の東海道本線は東京~米原間で電化されており、米原~京都間の電化の開通は1956年(昭和31年)11月でした。

 3等鈍行列車は垂直な木製背もたれのシート

往路の列車は東京駅を14時28分に発車して、第2日目の下車駅の石山駅には3時40分着で13時間12分の乗車の鈍行夜行列車です。なんとこの時代は、大阪までは特急でも8時間半もかかっていました。シートが同じ生徒同士は、会話をしたりふざけあったり、鈍行で停車する駅の風景を眺めたりして、やっと下車駅の石山駅に着きました。当時は100キロほどの遠足・旅行には、夜行列車を利用していましたので、夜の列車には慣れていました。
次に掲載の時刻表は、修学旅行の前年のものですのでダイヤが若干異なりますが、参考にみて下さい。復路は、10月30日(火)の22時12分神戸駅を乗車して、第6日目の13時54分に東京駅への帰着でした。

 1950年の東海道本線時刻表(門司行き夜行列車部時刻表拡大)

第2日目の旅行行程
東京発の夜行列車で10月27日に滋賀県石山駅に、まだ夜が明けない3時40分に到着して第2日目の旅行行程のスタートです。

 東海道本線石山駅

修学旅行の栞を開くと、下車した石山の近くの琵琶湖は、日本一の大湖で琵琶の形に似ているので、この名がある。滋賀県の中央に位し、湖岸に史跡や名勝があると記されています。
この琵琶湖の南部の風景は、江戸時代には日本を代表する名勝・景勝として屏風、絵巻、浮世絵版画、工芸等に広く描かれるようになり、中国の瀟湘八景と離れた日本の名所そのものとして、近江八景の地位を確立してきました。近江八景とは、「石山の秋月」「瀬田の夕照」「粟津の晴嵐」「矢橋の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田の落雁」「比良の暮雪」の八景を指します。

 近江八景

最初の目標地は「石山の秋月」で有名な石山寺までの徒歩遠足で、先ずはだんだんと夜が明けてくる道を琵琶湖に流れる瀬田川沿いに南に進み、石山寺門前へと向かいます。

 第1~3日の行程の石山寺、比叡山、京都、宇治山田方面地図

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