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kan-haruの日記

小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その2

2010年06月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 

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洗足池公園は花見のスポット
洗足池公園内にある勝海舟夫妻墓所と池畔の間の「桜の広場」と公園北の「桜山」には、約200本の桜があり、毎年3月下旬~4月上旬には24時間開放して夜桜見学ができるスポットです。陽気の良い季節には洗足池には、ペアーに人気のスワンサイクルボートやローボートが沢山浮かびます。広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれた景勝地の洗足池の周回を続けます。

 洗足池案内図

・西郷隆盛留魂祠
勝海舟は、晩年に洗足池畔の洗足軒の別邸で、西郷隆盛と日本の将来について歓談されたと伝えられています。
隆盛は1877年(明治10年)の西南戦役により逝去されましたが。海舟が西郷隆盛の死を悼んで、1883年(明治16年)に東京南葛飾郡大木村上木下川(現葛飾区東四ツ木1-5-9)薬妙寺境内に留魂祠と漢詩の石碑を建立しました。

 勝海舟の歴史が漂う洗足公園(:桜のスポットの「桜広場」、:勝海舟夫妻墓所の左隣に移設された留魂祠)

その後、1913年(大正2年)の荒川の整備のため、留魂祠と石碑は勝海舟夫妻墓所の隣に移されました。

 西郷隆盛留魂祠(・右:留魂祠説明板写真拡大)

西郷隆盛留魂祠の境内には、留魂祠石碑と江戸城の無血開城を成し遂げた海舟と西郷の功績を賞賛する石碑などが建てられてあります。

 西郷隆盛留魂祠内の石碑(:留魂祠石碑漢詩文:海舟と西郷の功績を賞賛する石碑)

・水生植物園
留魂祠を北に進むと、水生植物園で最初の草摘みエリアには水路が引かれその上に木製の八橋が架けられ、周囲にはヨシ、ガマ、ミソハギなどの抽水植物と、アサザ、ヒシ、ヒツジクサなどの浮葉、植物が植えられています。草摘みエリアの先は洗足池の上に木製のジグザグの八橋が架けられ、池の中には沢山の緋鯉や亀がみられます。

 水生植物園(左上写真拡大)

・弁天島
水生植物園の先の「松山」の手前を左側に進むと弁天島で朱塗の橋を渡ると、右手に鳥居が見え、その奥に市杵島姫命(宇賀神、宗像神、弁天神)を祀った洗足池辨財天(嚴島神社)が鎮座しています。
[辨財天御由緒書]
創建の年代は不詳なれど古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていたが長い年月の間に池中に没してしまっていた。その後昭和の初め頃より数多くの人々の夢枕に弁財天が出現せられ、この事が契機となって御社殿建立の話が具現化し多くの人々の尽力によって昭和9年7月、洗足風致協会の手により築島遷宮する運びとなり、以来今日に至る間、数多くの参拝者に神徳を授けられています。

 弁天島(写真拡大)

・池月像
弁天島から清水窪湧水路の橋を渡り、左にカーブして進むと、右側の千束八幡神社境内の丘の上に、「宇治川先陣物語」にある名馬の池月像が見えます。
千束八幡神社の池月発祥伝説の由来によると、1180年(治承4年)に 源頼朝は相州石橋山の合戦に敗れて安房に逃れ、この地の豪族の千葉常胤、上総介広常たちと再起をはかり、鎌倉に向かう途上で、ここ千束郷の大池(洗足池)の丘に宿営し、八幡丸の丘を本陣として近隣緒豪の参陣を待ちました。その夜、どこからより1頭の野馬が頼朝の本陣に向かって飛来したので郎党が捕らえてみると、馬体は逞しく青き毛並みに白き斑点を浮かべ、あたかも池に映る月影のようであったため、この馬を池月と命名して頼朝の料馬としました。士卒がこれを聞いて、征旗高く掲げたので八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と称します。
また、1184年(寿永3年)の宇治川の合戦の出陣に際し、頼朝から賜った名馬の磨墨に梶原景季がまたがり、池月に佐々木高綱がまたがり先陣を争い、池月が見事に激流を先に乗り切り磨墨との先陣争いに勝って、歴史に名を残したといわれています。池月の誕生地が八幡であるのが、池月発祥伝説のおこりです。

 池月像(写真拡大)

・千束八幡神社
池月像の西側の小高い岡の上に鎮座する千束八幡神社の創建は860年(貞観2年)と古いが、社殿は昭和17年の建築で、宮大工は吉野直吉氏である。御祭神は、品陀和気之命(応神天皇)が祀られています。

 千束八幡神社1(:池畔の千束八幡神社の赤い鳥居、:千束八幡神社の本殿は小高い岡の上、:手水舎と末社)

狛犬は、左が吽像、右が阿像で寄進は1837(天保8年)9月で製作は○○長五郎とあります。

 千束八幡神社2(:狛犬の吽像、:狛犬の阿像、:神楽殿)

[由緒]
洗足池の畔、小高い岡の上に鎮座する。貞観2年(860)宇佐八幡を勧請したことに始まると伝えられる。
平将門の乱に際し、鎮守府副将軍として下向した藤原忠方は、乱を平定した後、この地に土着し、洗足池の畔に館を構えて当社を氏神とした。その子孫が、日蓮聖人を身延より迎えた池上氏である。
奥羽平定に向かった八幡太郎義家は洗足池で禊ぎを修し、戦勝を祈願したと伝えられる。
また、源頼朝は安房より鎌倉へ向かう途中、源氏の氏神である八幡宮が祀られていることを喜び、この地に陣を構えて諸将の参陣を待った。この時、後に宇治川の合戦で佐々木高綱が先陣の功を挙げた名馬・池月〔いけづき〕(生食)を得たという。
これを見た将兵は、平家討伐成就の吉兆として大いに意気が上がり、旗を掲げて歓声を上げた。これに因んで別名「旗挙げ八幡」と呼ばれるようになったと伝えられる。

千束八幡神社を後に、洗足池の詩碑を見て、池月橋を渡って南に進むと中原街道に出て洗足池を一周しました。

 洗足池風景(:洗足池の詩碑、:池月橋)

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小さな旅 大田区と竜馬 池畔に別荘を構え勝海舟墓所のある洗足池を歩く その1

2010年05月31日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 洗足公園の右垣内が勝海舟夫妻の墓所

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これまでの竜馬の足跡シリーズでは、立会川と赤坂を廻りましたが、今回は大田区と竜馬と題し、竜馬の師である勝海舟夫妻の墓所と池畔の勝海舟別荘跡を、5月1日に下丸子にある大田区民プラザで行われた催しものを途中の切りの良いところで抜けて、近くにある洗足池を訪ねてみました。

 洗足池地図

洗足池
洗足池(大田区南千束2-14-5)は東京急行電鉄池上線の洗足池駅前の中原街道に面してあり、武蔵野台地末端の湧水をせきとめた池で、水面の広さは40,000㎡あり、周辺の洗足公園の面積は約77,000㎡あります。江戸時代には初代広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれ、江戸近郊の景勝地として知られていました。昔は千束郷の大池と呼ばれ、灌漑用水として使用されていました。
洗足池の名前の由来はWikipediaによると、仏教用語の千僧供料の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、「大池」を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがあり、後に身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となったとあります。

 洗足池([対岸から見た妙福寺]写真拡大)

中原街道を東に進み洗足公園の周囲を反時計方向に廻ると洗足池図書館が左に見え、その先には御松庵妙福寺の山門があり、門前の説明板の日蓮上人袈裟掛けの松の由来には、袈裟をかけて池の水で足を洗ったとの言い伝えから袈裟掛けの松と称されるようになったとあります。天保期の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面において長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」と記されており、現在ある松は五代目であると伝えられています。

 日蓮上人袈裟掛けの松由来の洗足池(:洗足池案内図、:松庵妙福寺山門、:日蓮上人袈裟掛けの松の由来説明板)

山門を潜り竹林に沿って境内を奥に進むと、左側に袈裟掛けの松の石碑と五代目の松があります。なお、境内には六代目の松も育っております。

 袈裟掛けの松(:、:境内左にある六代目の袈裟掛けの松と石碑)

袈裟掛けの松の先の池畔には足の洗い場が設えてあり、境内には多くの石碑や仏像がみられ、馬頭観世音供養塔(大田区文化財)があり、1840年(天保11年)に馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたもので、馬頭観世音像の下の角型柱には東西南北のそれぞれの方向には地名を記した道しるべを兼ねております。江戸時代には、中原街道と碑文谷-池上を結ぶ交差点に建てられていたものと推定され、当時の民間信仰と交通史の貴重な資料ですが、平成13年に現在地に移設されたものです。

 馬頭観世音供養塔(:池畔の足の洗い場、:馬頭観世音供養塔、:馬頭観世音供養塔説明板)

御松庵は、日蓮上人の道中を守った七面天女を安置し、袈裟掛松を護るお堂が御松庵のはじまりと伝えられています。1927年(昭和2年)に妙福寺と合併し、初代の松の切り株を保存しています。境内には日蓮上人の銅像があります。

 妙福寺(:妙福寺本堂、:日蓮上人の銅像、:妙福寺の仏像)

勝海舟別邸跡
勝海舟別邸跡は、妙福寺前の大森第六中学校の塀に洗足軒の案内板が建てられています。勝海舟別邸は、茅葺の農家風の建物でしたが、戦後まもなく焼失しました。
1868年の鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の本陣が置かれた池上本門寺で参謀の西郷隆盛と会見し、江戸城は平和的に明け渡されて、江戸の町は戦禍を免れました。その際、通りかかった洗足池畔の茶屋で休息して深山の趣きの自然が気に入り、津田塾大学創始者の父津田仙の仲立ちで土地を求め、1891年(明治24年)に別邸を建築して洗足軒と名付けました。

 勝海舟別邸(洗足軒)跡(写真拡大)

勝海舟夫妻の墓
勝海舟別邸跡の説明板の前の坂道を奥に進むと、公園東の丘に海舟が造った墓があります。
勝海舟は、1899年(明治32年)に77歳で没する前に、「富士を見ながら土に入りたい」との思いで、生前に別邸背後の丘に墓所を造りました。石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は、海舟一人の墓所でしたが、1905年(明治38年)に死亡した妻のたみも、一時青山墓地に葬られましたが、後にここに移され合祀(向かって左の墓)されました。

 勝海舟夫妻の墓所(写真拡大・勝海舟夫妻の墓説明板)

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小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その3)

2010年04月21日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 氷川神社氷川坂参道口

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創建から1000年以上を経た氷川神社境内(地図参照)には、1952年(昭和27年)に東京都有形文化財の指定となった社殿と、境内社の神社下に在住の勝海舟が称えた四合稲荷(しあわせいなり)神社、赤坂田町四丁目から移された西行稲荷神社、山口稲荷神社に桶新稲荷神社の4社が祀られています。

氷川神社本殿
正門の鳥居を潜り右側の大イチョウを見ながら正面参道を進むと、氷川坂入り口からの参道と合流します。この合流点には二の鳥居があり、左手に手水舎がありますので口を漱いで楼門を潜り、内塀の中に入り突き当たりの歴史ある本殿に参詣しました。

 氷川神社本殿1(:手水舎、:本殿)

本殿は木造、銅板葺きの一間社流造りで、八代将軍吉宗が1730年(享保15年)に建立した拝殿は三間四面の漆朱塗りで、当時の質実、簡素な政策をそのまま表現し、社殿の建築には組物・彫刻を施さない質素な社で、都重宝文化財から東京都有形文化財の指定に変更されています。境内には、都重宝の石造りの標識がそのまま建立して残っています。
氷川神社の御祭神は、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと「大国主神」)の3神が祀られています。
本殿を訪れた時、氷川神社で神前結婚を挙げられた一行が記念写真を撮りあっているのに遭遇しましたが、白無垢の花嫁姿と知人方の和服姿が厳粛な社の風情と似合い、一服の絵のようです。

 氷川神社本殿2(:氷川神社社殿説明板、:氷川神社社殿が都重宝であった時の石標、右:厳粛な社での結婚式は一服の絵のよう)

・額堂
本殿を取り囲む内塀の南角にある額堂には、江戸末期から明治初期に活躍した代表的な浮世絵師の月岡芳年が描いた、肉筆の「ま」組の火消し絵馬が1879年(明治12年)に奉納され掲げられています。「ま」組は、氷川神社の北東から南側一帯の元赤坂町・赤坂裏伝馬町・赤坂田町・麻布今井町界隈の火消しを受け持ち、気負い立つ火消したちの姿がいきいきと描かれているそうです。また、額堂には「ま」組の火消し絵馬とともに、江戸時代末期から初期にかけての著名な画家・河鍋暁斎や月岡芳年・柴田是真の描いた絵馬が6点掲げられています。絵馬は、平成5年に港区の文化財の指定を受けました。

 「ま」組火消し絵馬が掲げられている額堂(:内塀の中の本堂横の額堂、:7点の奉納絵馬が掲げられている額堂、:「ま」組火消し絵馬説明板)

・石灯籠
氷川神社には石灯籠が沢山あります。神社の石灯籠の説明には、「門の内外に立つ2対4基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ2基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂1~2丁目)の講中が、1724年(享保9年)閏4月に奉納したものです。氷川神社が現在の地に遷座したのは同15年であるため、遷座前の「古呂故が岡」(現在の赤坂4丁目1付近)にあったときからのもので、遷座の際に移されました。門外の2基は、遷座の年に岡崎城主老中水野忠之が奉納したものです。」とあります。
説明の門内の本殿前に立つ2基の石灯籠は、形状から見ると写真(左)に写っている左側の石灯籠が享保9年に講中が奉納されたものと思われます。したがって、写真右側に写っている石灯籠は、水野忠之が奉納したものとなります。境内には正面参堂の2の鳥居の前にもかなりの年代の石灯籠があり、氷川坂口参堂の2の鳥居の前後にも石灯籠が見られる他、氷川坂口階段下にもあります。

 赤坂神社境内には沢山の石灯籠がある(:赤坂神社の古い石灯籠、:正面参堂の2の鳥居の前の年代ものの石灯籠、:氷川坂参堂の2の鳥居の前・後にある石灯籠)

・狛犬
氷川神社には狛犬も沢山あり、一社で7対もあります。正面参堂の狛犬には子獅子が両方にいる江戸獅子で、2番目に古く1846年(弘化3年)の建立で阿と吽の奉納者が異なり、阿が赤坂 弟大工安兵衛 司鎌太郎弟子中で、吽が麻布今井寺町大工九代目勘兵衛とあります。
豪華な狛犬は、氷川坂口参道の階段の上の江戸獅子の獅子山で子獅子がおり、建立は1882年(明治15年)で石工は木村藤兵衛です。神社の一番古い狛犬は、本殿の内塀近くに建立の1675年延宝3年に奉納されたものがあります。

 氷川神社の狛犬(:正面参堂の狛犬、:豪華な獅子山の狛犬)

四合稲荷神社
四合稲荷神社は、氷川坂口参堂の階段を降りると左側の先に小さな鳥居があり、この場所に以前から鎮座していた地頭(じぬし)稲荷と、赤坂一ツ木の古呂故天神社境内に鎮座していた古呂故(ころこ)稲荷、氷川神社隣接の別当盛徳寺の地内に鎮座していた本氷川稲荷、赤坂門外の御堀端に鎮座していた玉川稲荷の4社を、1898年(明治31年)に遷座合祀した稲荷神社で、幕末に本氷川坂下に在住していた勝海舟により『四合(しあわせ)稲荷』と称えられたとのことです。四合稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られており、勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額が現存してあるとのことです。
その後、1913年(大正2年)には追加して、赤坂一ツ木町に鎮座の鈴降(すずふり)稲荷神社と赤坂丹後坂下に鎮座の縁起稲荷神社の2社も合祀され、さらに1934年(昭和9年)に赤坂新町に鎮座の明徳稲荷神社も合祀し、現在の四合稲荷神社には、7社の稲荷神社が遷座合祀されています。

 勝海舟所縁の四合稲荷神社(写真拡大)

西行稲荷神社
西行稲荷神社は、四合稲荷神社の左側の鳥居の先の高台の岩にお稲荷様が祀られた祠があり、祠の上に稲荷神社が鎮座しています。この稲荷神社の由来は、氷川神社の説明によると、享保の時代、田町5丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため、「西行稲荷」として1921年(大正10年)に遷宮したとあります。

 西行稲荷神社(写真拡大)

氷川神社氷川坂参道
氷川神社境内の氷川坂参道口の階段付近には、かなり目立つ大きな包丁塚の石碑があります。包丁塚石碑の趣意には、「そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覚の境地にあそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損ないし刃物は和洋を問わず数多なり、そを情けあつき人々相つどい組合設立二千五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり」とあります。赤坂・青山の料理飲食業組合の関係有志が1968年(昭和43年)頃に建立したようです。
また、氷川坂参道口の階段を降りると傾斜地に水が枯れた池があり、その上に朱塗りの太鼓橋が架けられています。さらに、氷川坂参道を出口方向に進むと鳥居の先には狛犬と石灯籠があり、氷川坂の道路に出ます。

 氷川神社氷川坂参道(:包丁塚石碑、:太鼓橋、:氷川坂口参堂の鳥居と狛犬)

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小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その2)

2010年04月19日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 勝海舟邸跡

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勝海舟邸跡 
二度目の住居の勝安房邸跡から勝海舟邸跡に向かうには(前回勝海舟邸跡周辺地図参照)、「プラザ赤坂なんでーも」から西へ進み、日本キリスト教団赤坂教会の前を右折して100mほど先で突き当たりの道路にでます。この道路を右に行くと通ってきた氷川公園で、反対の左に曲がると転坂でその坂を降り突き当たりの道を右折しますと、50m程の所に丁字路がありそこを左に曲がります。
・転坂
転坂(ころびざか)の標識には、江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺の元氷川坂もころび坂といったと、書いてあります。

 転坂を経て勝海舟邸跡(:氷川公園方から見た転坂、:転坂の坂下、:本氷川坂への角地ビルが勝海舟邸跡)

その道を100mほど進むと左側に丁字路があり、その丁字路を曲がると本氷川坂の登り道で、氷川神社に通じています。この本氷川坂道との丁字路角地が勝海舟邸跡で、そこには3階建てのバー(THE GABY)のお店の白いビル(ソフトタウン赤坂)が建っています。そのお店の窓辺際の植え込みに、「勝海舟邸跡」の木製の標識が建てられており、標識の下に大きな銀色の「勝海舟邸跡の記」が掲げられています。
この場所が勝海舟邸跡(港区赤坂6-10-39)で、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が36歳の1859年 (安政6年)から 45歳の1868 (明治元年)まで、最初に住んだ氷川の旧跡です。
坂本竜馬と勝海舟の出会いは、海舟が残した「追賛一話」の中で、1862年(文久2年)に千葉重太郎が坂本龍馬を伴って、海舟を切ることを目的としたこの地での面談の結果は、勝の人物に惚れ親密になったという逸話があります。

 勝海舟邸跡(:勝海舟邸跡、:勝海舟邸跡標識、:海舟邸跡曲がり角は本氷川坂の坂下)

・本氷川坂
本氷川坂(もとひかわざか)は勝海舟邸跡のソフトタウン赤坂の丁字路を曲がって登って行くと、曲がりくねった坂道が氷川神社(港区赤坂6-10-12)まで続いています。本氷川坂の標識には、坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治16年4月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。とあります。

 勝海舟邸跡記

氷川神社
勝海舟邸跡から海舟ゆかりの氷川神社へは本氷川坂を反時計方向に登るか、転坂下まで戻り南東への坂道(氷川坂)を直進して時計方向に曲がり神社の正門に進みます。

 氷川神社周辺地図

氷川神社(港区赤坂6-10-12)への坂を登ると、鳥居の正面に楼門が見えかなり歴史のある趣を備えた風格のある神社です。説明板を見ると、氏子の地域は、元赤坂1・2丁目、赤坂1~9丁目、六本木1・3・4丁目、虎ノ門1丁目と広大です。
・由緒
創立の起源は、951年(天歴5年)に州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られたと、古書物に記録されています。
幕府の尊信が篤く、江戸時代に八代将軍 徳川吉宗公が1716年(享保元年)に将軍職を継ぎ、1729年(享保14年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営し、翌年(享保15年)4月に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われて、将軍直々の御参拝がありました。以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(港区文化財)を下附され、御神徳を高め氷川の鎮守神として尊崇を深められました。

 氷川神社正門(写真拡大)

鳥居を潜って境内に入ると、右手に天然記念物の大イチョウが聳えています。このイチョウは地上1.5mの幹の太さが約2.4mで幹の周囲が約7.5mあり、樹齢が400年の雄株です。現在港区にある最大の善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木です。

 樹齢400年の天然記念物の大イチョウ(写真拡大)

境内の大イチョウの反対の参堂の左手には九神社、天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社の九社を合祀したお社があります。

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小さな旅 竜馬と赤坂 竜馬の足跡を追い赤坂本氷川坂の勝海舟邸跡を歩く(その1)

2010年04月17日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 勝海舟邸址出土品展示場

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赤坂
前回は竜馬の足跡シリーズで立会川を歩きましたが、今回は4月13日の夜に定例の集会が四谷でありましたので、ちょっと家を早く出て赤坂に寄り道して勝海舟邸跡を見て来ました。
東京メトロ千代田線赤坂駅には、京急線と都営浅草線を乗りついて新橋駅で東京メトロ銀座線に乗り、溜池山王で乗り換えて1つ先の駅です。
赤坂という地名の由来は、この土地全体が赤土でできているからと云われています。また、迎賓館周辺の場所を茜(あかね)が生えているため赤根山とよばれ、そこに上る坂を赤坂(現紀伊国坂)と呼んでいたといわれています。赤坂は古くからの歴史があふれて、数多くの坂のある町です。その中でも忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面で有名な南部坂は、江戸時代初期に盛岡藩南部邸があったことが名前の由来だそうです。勝海舟邸跡へ行く道にも、坂道を歩きます。

 赤坂氷川の勝海舟邸跡周辺地図

赤坂の氷川神社周辺の江戸時代に下屋敷のあった界隈では、都心とは思えない喧騒から離れた静かな落ち着きのある伝統文化の町並みを保ち、赤坂の新たな文化発信の「赤坂サカス」周辺の新しい街とは、新旧が和して融合した魅力ある街へと進化しているのが感じられます。
歴史の町並の勝海舟邸跡に向かうには、赤坂駅の5b出口を出ます。地上に出ると西側に一際目立つTBS放送センタービルを背にして、国際新赤坂ビルを横に南東に100mほど進むと、氷川公園の交差点です

 氷川公園周辺

氷川公園
氷川公園(港区赤坂6-5-4 面積:3,070㎡)は、公園付近沿革案内板の説明によると、この地には江戸時代の前期に、広島藩浅野家の本・分家の屋敷と赤穂藩浅野内匠頭の屋敷がありました。1697年(元禄10年)にはその屋敷の一部が幕府旗本屋敷となり、公園の土地も旗本屋敷でありました。また、1729年(享保14年)には三次藩浅野家屋敷跡の一部が氷川神社の宮地と定められ、その門前が赤坂氷川門前町となりました。

 氷川公園周辺古地図(港区赤坂地区総合支所案内板から)

1869年(明治2年)の幕末には、氷川門前と氷川社僧屋敷に一ツ木町飛地を併合して赤坂氷川町が誕生しました。1908年(明治41年)に赤坂区が買収した邸宅地の現氷川公園の土地に、東京市氷川尋常小学校を開校しましたが、1929年(昭和4年)に隣家屋の火災により校舎が類焼したため、勝安房邸跡であった現在の「プラザ赤坂なんでーも」がある場所に旧氷川小学校を移転しました。1935年(昭和10年)に元小学校の移転跡地には、氷川公園が開設されました。

 赤坂旧町名由来(港区赤坂地区総合支所案内板から)

勝安房邸跡
氷川公園からさらに100mほど進むと、区立氷川武道場の入り口の門が見え、その一体の建物が「プラザ赤坂なんでーも」と呼ばれる港区立赤坂こども中高生プラザ(港区赤坂6-6-14)で、18才未満の子どもとその保護者や関係者が利用できる施設と区立特別養護老人ホームがあります。この施設には、平成5年3月まで旧氷川小学校があり、小学校の統合により新小学校の赤坂小学校(港区赤坂8-13-29)が設置されました。

 勝安房邸跡周辺(:氷川園付近沿革案内板、:港区立氷川武道場、:勝安房邸跡のイチョウ)

この旧氷川小学校が開校した土地には、幕末から明治にかけて幕臣として活躍した勝海舟が1872年(明治5年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んでいたところで、赤坂氷川での二度目の勝安房邸の屋敷跡地です。この間には、参議・海軍卿、枢蜜顧問官、伯爵として生活を送りました。晩年は、海軍、陸軍の歴史記事を編纂し、談話を速記した「氷川清話」などを遺しました。
安房邸屋敷跡は東京市に寄付され、「プラザ赤坂なんでーも」施設内には発掘調査の出土品などが展示されています。

 勝安房邸跡の発掘調査の出土品展示場(写真拡大)

また、敷地内の角地には港区解説の屋敷跡の説明版とともに、大きな史跡碑が建てられており、碑には「勝安芳邸址」、「勝海舟伯爵終幕の地なり」などの文字が見られます。また、碑に並んでイチョウの大木が今も茂っており、海舟が寵愛したと云われるこのイチョウの大きさは、樹高が18m、幹周りが3.8mの雄株で、樹齢が約150年であるようです。
港区の「勝安房邸跡」説明版には、海舟は号で佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったものであり、本名は義邦と名付けられ、幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(あわ)として知られていましたが、維新後は安芳と代えたと記載されています。

 勝安房邸跡(:勝安芳邸址史跡碑、:勝安芳寵愛のイチョウ、:勝安房邸跡の説明版)

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小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その3)

2010年03月15日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 土佐高知藩山内家下屋敷跡説明板

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山内容堂の墓
土佐藩15代藩主の山内容堂の墓は京急鮫洲駅西の土佐山と呼ばれていた小高い丘の上にあり、墓への道は第1京浜国道脇の鮫洲駅連結の横断歩道橋を渡り、大井公園への坂道を上ると交差点があり左手に「山内豊信(容堂)墓」と書かれた標識の中腹の道を進みます。

 鮫洲_山内豊信の墓拡大地図

標識の道の上には、大井公園と区立立会小学校が並んでおり、この辺の高台一帯は元下屋敷の跡であり、もともとは1658年(万治元年)に仙台藩伊達家が麻布下屋敷を返上して、新たに大井村に拝領した下屋敷であったが、1737年(元文2年)に一時鯖江藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換して間部家の下屋敷となったが、その後一部は再び伊達家の所有となりました。

 越前鯖江藩間部家下屋敷跡の敷地

元下屋敷の跡に設けられた山内容堂の墓(品川区指定史跡 品川区東大井4-8)には、山内豊信(とよしげ)が幕末の動乱を龍馬と共に歩み、山内家下屋敷から眺める江戸湾を好み、故郷の地より土佐山(下総山)に埋葬を望み1872年(明治5年)6月21日に45歳の若さで葬られました。

 山内容堂の墓がある大井公園(:大井公園は下屋敷跡であった、:山内容堂の墓への道案内板)

山内豊信は、山内豊著(とよあき)の長子として1872年(文政10年)に生まれ、に宗家を継いで1848年 (嘉永元年)に第15代の土佐国高知藩主となり、多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えました。強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時は大井村の下屋敷に蟄居させられたが、1862 (文久2年)に再び復し大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の尽力し、1868年 (明治元年)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年に引退しました。山内容堂の号は、隠居後の名前です。
容堂の墓へは、標識の道の突き当りに門が見られ、門には午前9時から午後5時まで公開と表示してあり、施錠は開いており門を開けて墓所内に入れます。墓所へのゆったりとした石階を上がると階段が右に折れ、さらに登りきると平坦部に出て突き当りは立会小学校の校庭の金網塀で校庭が見えます。

 山内容堂の墓所(:容堂の墓所の正門、:容堂の墓までの石段、:山内容堂の墓地入り口)

平坦部の右側が墓地の入り口で、入り口の左に「嶋津常候之墓」の墓碑があり第13代藩主山内豊熈の妻の墓で、1880年(明治13年)11月16日に亡くなられました。その奥に並んで土まんじゅう型の墓が山内容堂の墓で、墓碑には「贈従一位山内豊信公之墓」と記されています。墓地内は清掃が行き届いていますが、崩れた石灯籠や手水鉢などが散らばった感じです。

 山内容堂の墓地(:山内容堂の墓説明板、:山内容堂の墓、:嶋津常候之墓)

来福寺
山内容堂の墓から山内家下屋敷に辿る前に、その昔サクラの名所で、雪中庵蓼太が詠んだ句碑のある古刹の来福寺に寄って見ました。来福寺(品川区東大井3-13-1)へは容堂の墓から、第1京浜国道に戻り南へ進み大井消防署前を過ぎ、四つ角を通過すると右に斜めに進む参道を100mほどで右手に山門が見えてきます。

 山内家下屋敷跡付近地図

来福寺は、990年(正暦元年) に智弁という像が創建し、1501年(文亀元年)に梅巌という僧が、昔右大将頼朝が戦没諸兵追善のために写経を埋めた納経塚(大井1丁目庚申堂)の傍らを通ると塚の中から読経の声を聞かれて仏像を掘出し、来福寺に安置したといわれています。そのため、この御本尊を別名経読地蔵と云われるようになりました。

 海賞山地蔵院来福寺(:来福寺参道、:来福寺山門、:来福寺本堂)

寺の山号を海賞山地蔵院(真言宗智山派)と云い、境内に天満宮があったので天神山と呼ばれていました。古い信者に梶原一門があり、境内に権五郎景政や平三郎景時の嫡子源太景季の寄進された梶原松や延命桜等がありました。
当時は桜の名所として知られ、現在も境内に雪中庵蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句碑(1787年[天明7年]建立、四世雪中庵大島完来揮毫)が残っています。

 来福寺風景(:雪中庵蓼太の句碑、:来福寺境内の松、:来福寺浮世絵)

高知藩山内家下屋敷
山内家下屋敷へは来福寺の参道を戻り、四つ角を南に向かい浜川中学校の北側道路を第1京浜国道に出ると、中学校の校庭付近一帯は旧下屋敷跡の広大な敷地であり、中学校脇に屋敷が位置した様子が書かれた案内板が設置されています。
第1京浜国道付近の立会川沿いの高知藩山内家は下屋敷約1万6800坪の敷地を抱え、往事の東海道を挟んで河口には抱屋敷(かかえやしき)の揚場869坪を、1658年(万治元年)に拝領されたもので、両屋敷は表門通り(現立会川商店街通り)で結ばれていました。抱屋敷には、1853年(嘉永6年)頃に浜川砲台が築かれました。なお、山内家下屋敷は大井村の他に、木挽町築地(現中央区築地)にもありました。
山内家の上屋敷は、鍛冶橋御門内大名小路(現千代田区丸の内)にあり、1855年(安政2年)頃の高知藩主の山内土佐守豊信の家禄は24万2千石でした。

 山内家下屋敷跡の敷地

山内豊信は、松平慶永(よしなが)、島津斉彬(なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに、国政の方向について論議建策し幕末の四賢侯と称されました。1858年(安政5年)の頃江戸幕府が日米修好通商条約に調印し、徳川家茂を将軍継嗣に決定したことなどに反対した大名・公卿・志士ら100人以上を弾圧する事件が起き、この処罰を安政の大獄と云います。この弾圧により山内豊信は隠居・謹慎を命ぜられ、蟄居したのがこの下屋敷でした(品川教育委員会より)。

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小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その2)

2010年03月13日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 立会川吉田家の雛人形

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立会川吉田家
龍馬が警備した浜川砲台跡は立会川の河口にあたり、当時の海岸線であった勝島運河を眺め、立会川にも自然回帰により遊泳しているカモを見ながら来た道を戻り、昼時なので吉田家へと旧東海道をゆっくりと北に辿りました。

 立会川周辺風景(:勝島運河、:立会川を遊泳するカモ、:旧東海道道標)

吉田家(品川区東大井2-15-13)の歴史は、鮫洲八幡神社の石灯籠の台座に1856年(安政3年)には営業していた記録が刻まれており、現在の立会川吉田家は1912年(大正元年)に鮫洲吉田家の分店として開業したとのことです。

 旧東海道(立会川-鮫洲)地図

竹内重雄画「吉田屋之図」の浮世絵(吉田家が保存)には、店舗前の旧東海道には松林が続く海岸線が広がっていました。なお、当時の屋号は吉田屋と称していました。広重の描いた浮世絵には、沢山の海苔を採るひびを描いた風景がありますが、このあたりは大森とともに将軍家御用達の浅草海苔産地の漁師町でありました。
このあたりの旧東海道は大正の大地震や昭和の戦火を免れたので、古き佇まいを残す建物や神社、仏閣が多く散在し、吉田家も昔日の面影を今に残すべく店構えにも心を尽くし、古くからある数々の道具類を大切に保存して皆様のご覧に供しております(吉田家Webから)。

 蕎麦処立会川吉田家(写真拡大)

立会川は山内容堂(豊信)や坂本竜馬が生活していた所で、幕末で明治維新が起ころうとする時代であり、これらの人物が吉田屋で蕎麦を食べながら大いに議論していたことを想像して、久しぶりにそばを昼食にいただきました。

 吉田家周辺の旧東海道風景(:仲町稲荷神社、:峯雲寺、:旧東海道)

・しながわ花海道
吉田家前の立会川から鮫洲駅を結ぶ勝島運河沿いには、地元のボランティアが「土手に花畑を作ろう」を合言葉にして、平成14年から種を蒔き、現在は春には菜の花が、秋にはコスモスの咲く「しながわ花海道」として名所となっています。

 しながわ花海道(写真拡大)

吉田家付近から東に行くと勝島運河で、菜の花も終わって残念ですが、運河には散歩の人も多く見かけ運河縁には沢山のカモメが遊歩道近くで人を恐れず佇んでいました。

 多数カモメが花海道に近ずいて遊泳(左・中・右写真拡大)

・鮫洲八幡神社
しながわ花海道から旧東海道に戻り北に進み京急鮫洲駅が見えると、手前に鮫洲八幡神社があります。
鮫洲八幡神社(品川区東大井1丁目20番10号)のある鮫洲は古くは漁師町であり、御林町(おはやしまち)と呼ばれて、新鮮な魚介類を将軍家に献上する義務を持たされた漁場の御菜肴八ヶ浦(おさいさかなはちかうら)内のひとつに数えられていました。古くは御林八幡宮と称して、祭神として誉田別尊(ホンダワケノミコト)を奉斎し、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)を配祀、伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉丹尊(イザナミノミコト)を合祀しています。創祀は定かでなく、1661~1672年(寛文年間)以前の御林町草創より建立されたものと推測されています。
境内には、猟師の寄進した1849年 (嘉永2年)造立の狛犬や、1856年 (安政3年)造立の灯篭があり、また大正時代に建てられた多くの記念碑(写真は平林九兵衛の碑)もあり、境内を囲む古い石垣も猟師の寄進したものです。現在の社殿は、1972年(昭和47年)に遷宮されました(鮫洲八幡神社Webから)。

 鮫洲八幡神社(写真拡大)

・京急鮫洲駅
京急鮫洲駅(品川区東大井1-2-20)は、品川と大森海岸間の京浜電鉄の開通時の1904年(明治37年)に開業し、駅名の由来は、この付近一帯は昔、鮫浜、鮫頭崎などとよばれ、大きく海に洲が出ていたので鮫洲崎ともいわれていたのが、現在の鮫洲になったと伝えられています。現在の高架駅は第1京浜国道に接し、上り線が平成元年、下り線が平成2年に高架化が完成しました。

 京急鮫洲駅(写真拡大)

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小さな旅 龍馬と立会川 土佐藩山内家下屋敷のあった京急立会川駅周辺を歩き龍馬の足跡を追う(その1)

2010年03月11日 | 小さな旅
kan-haru blog 2010 京急線普通電車の旅「立会川編」

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立会川駅前にあった坂本龍馬像
東京都H11異業種交流会分科会の研究会では、2006年10月22日にキリン横浜ビアビレッジ見学の課外研究会(「イベント キリン横浜ビアビレッジ見学」参照)を開きました。見学後昼食をとるため、品川宿の近くの立会川の老舗の蕎麦処吉田家に寄りました。立会川駅を降りると、何と駅前に坂本竜馬の銅像がありました。竜馬像は、立会川周辺の宅地造成地で、1853年のペリー来航を機に土佐藩が建てた浜川砲台の石と見られる20数個の石が発見され、当時、江戸で剣術の修行中だった竜馬も警護についたとされるそうで、その関係で高知市から寄贈されたそうです。

 京急立会川駅(:現在の立会川駅正面、:立会川駅昇降出入り口、:2006年には立会川駅横にあった竜馬像)

立会川は大河ドラマの影響で、「若き日の龍馬が歩いた街」として盛り上がっております。たまたま、「京急線普通電車の旅」の小冊子に「立会川編~若き日の竜馬と歩く~立会川江戸めぐり」が発行されましたので、それをガイドに3月3日に立会川周辺を歩いて龍馬の足跡を追ってみました。

 竜馬の足跡を残す立会川周辺編集地図

京急立会川駅と周辺
立会川駅(品川区東大井2-23-1)は、大森町の北辺の平和島駅から大森海岸の次にある大田区の隣の品川区南部の立会川縁にあり、駅は1904年(明治38年)に開業して、1990年(平成2年)に高架になりました。立会川の南には大井競馬場があり、地方競馬の開催時には多くの乗降客で賑わいます。
立会川は目黒区にある碑文谷池と清水池を源として、品川区の西小山駅、荏原町駅、西大井町駅、大井町駅を経て立会川駅脇を流れ東京湾に注いでいる二級河川です。現在は上流の大部分は暗渠となっています。立会川には、総武線のトンネル内に湧き出る地下水を送水して流しているため川の水質が改善し、2003年には大群のボラが現れ話題になりました。また、最近では立会川駅近くまで、鴨などの野鳥が遊泳しています。
立会川の名称の由来は定かではないが、その昔、川を挟んで小競り合いが会った事から「太刀会川」と称したとの説や、立会川南方にある鈴ヶ森刑場へ送られる罪人を、立会川を挟んでその親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)事から「立会川」となったとも言われています。

 立会川駅周辺部拡大地図

立会川駅前商店街通りを東に数10m進むと四つ角に仲町稲荷神社があり、現在はその前の公園に坂本龍馬像が建立されています。この道にかかっている弁天橋から立会川を展望すると、上流には元京急電車が地上走行時に使用した立会川鉄橋(現在は人道橋)が望めます。また、下流を望むと川が湾曲しているため旧東海道の浜川橋(涙橋)は望めません。

 江戸時代は小川の川幅の狭い立会川(:弁天橋から上流を見る、:弁天橋、:弁天橋から下流を見る)

・立会川商店街
京急立会川駅前の商店街通りには、第1京浜国道までの西側と、旧東海道までの東側に立会川商店街が連なっております。また、第1京浜国道の西側にはアーケードの立会川西商店街があります。

 立会川商店街(:立会川商店街東側、:立会川商店街西側、:立会川西商店街)

立会川と龍馬像
立会川の東には旧東海道が南北を結び、品川宿に近く江戸の史跡を多く残し、幕末の英雄・坂本龍馬の土佐藩 山之内家の下屋敷がありました。
立会川駅から約200mほど先の立会川河口の勝島運河で、2004年に大きな石が20個以上掘り出され、1853年(嘉永6年)のペリー来航以来の「黒船」騒動の渦中に、土佐藩が築いた浜川砲台の一部と見做されています。
龍馬は、嘉永6年9月に父君の八兵に「異国船処々に来り候へば 軍も近き内に奉存候 其節は異国の首を打ち取り帰国可仕候」と書簡を書いています。これにより、19歳で剣術修行のため上京した龍馬が、藩の命を受けて警備についた浜川砲台であることが明らかになりました。
砲台の石が発見され品川区と高知市が姉妹都市となり龍馬像が2004年に贈られ、当初は冒頭の写真に示す様に立会川駅前の東側に建立されていましたが、2009年には商店街通り東の仲町稲荷神社手前の北浜川児童公園に移されました。先ずは、立会川駅前商店街を東方に歩いて、2006年にお会いした竜馬像と再開しました。

 坂本龍馬像と説明板(写真拡大)

・涙橋
龍馬像を後にして浜川砲台跡に向かうには、商店街を東に進むと旧東海道で、街道を南に行くと立会川に架かっている橋は交通の要所の浜川橋で、現在の橋は1934年(昭和9年)に架け替えられたものです。浜川橋は、またの名を涙橋と呼んでおり、鈴ヶ森に1651年(慶安4年)に設けられたお仕置き場[鈴ヶ森刑場](「イベント 歌舞伎観劇 さよなら歌舞伎座九月大歌舞伎」参照)で処刑される罪人を、親族らが密かに見送りにきて、涙を流しながら別れたということから涙橋と言われるようになりました。
江戸時代中期の立会川周辺の絵図を見ると、江戸湾が旧東海道沿いに沿っており、立会川には浜川橋が架かっており、上部に土佐藩下屋敷の敷地が見えます。

 浜川橋(涙橋)(:浜川橋、:江戸時代中期の立会川周辺の様子[東京国立博物館貯蔵]、:浜川橋(涙橋)説明板)

浜川砲台跡
浜川砲台跡へは浜川橋北岸に沿って進むと、立会川河口の勝島運河の元品川沖海岸線跡に、砲台の石垣に使用された石が置いてあります。最初のペリー来航時には、この砲台から1.6km沖まで黒船が侵入したそうです。

 浜川砲台跡(写真拡大)

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小さな旅 三渓園 原家の私邸であった内苑の日本庭園で楽しむ紅葉

2009年12月05日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009  

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首都圏での紅葉観賞
首都圏では12月上旬に紅葉の季節が楽しめます。昨年の鎌倉の古寺の紅葉に続き、今年は12月2日に国指定名園の三渓園の内苑の紅葉を見てきました。

三渓園
三渓園は、東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地に、生糸貿易により財を成した実業家 原三溪の手により1902年(明治35年)から造成が始められ、1908年(明治41年)に外苑、1923年(大正12年)に内苑が完成し、1906年(明治39年)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されており、現在、重要文化財が10棟、横浜市指定有形文化財の3棟が建てられています。
大戦の戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施しました。
1906年(明治39年)の開園は、外苑が公開され京都・燈明寺から移した三重塔を中心に林洞庵、横笛庵や鶴翔閣などの8棟の建造物が配されています。内苑は1958年(昭和58年)に公開され、江戸時代初期の紀州徳川家ゆかりの臨春閣の他、三渓が隠居所として建てた白雲邸など11棟の古建築物や記念館があります。

 三渓園マップ

三渓園への入園
大森町から京浜急行で横浜駅を下車して、横浜駅東口1階バス乗り場2番から市営バスで11時7分発の急行バスを利用して、終点の本牧三渓園前に到着します。
三渓園の開園時間は9時から17時までで、休園日は12月29~31日となっており、入園料金は大人(中学生以上)500円、シニアが300円で、小学生が200円です。

 パンフレットとチケット

・内苑
三渓園には、小学生の時代から何回も来ていますので、今回は紅葉見物を目的にして内苑の聴秋閣周辺のモミジとイチョウのある春草廬周辺を廻りました。当日は、雲一つ無い無風の快晴で温かく絶好の見物日和でしたので、ウイークデーにも関わらず相当な人出で三渓園までのバスも超満員でした。

正門で入園券を購入し、大池の周囲を廻り右手に1902年(明治35年)に建てた、広さが290坪の旧原家住宅の鶴翔閣を見て内苑の入り口へと向かいました。

 三渓園正門から内苑へ(:三渓園正門、:大池と旧燈明寺三重塔、:鶴翔閣)

晴天に映えた池周辺の木立ちが赤く色付いており、三渓記念館内の中庭の木々も赤色に染まっていました。三渓記念館は残念ながら展示代えのため展示室は閉室しておりましたが、記念館の北側通路のモミジは真っ赤に色付いており、大勢の見物者が記念写真を撮っていました。

 記念館周辺の赤く色付く木々(:池周辺の木も色付く、:赤く染まる記念館中庭の木々、:記念館北側通路のモミジ)

記念館の道を奥に進むと右手に、1649年(慶安2年)に紀州徳川家初代徳川頼宣が夏の別荘として建てた三屋の建物を、1917年(大正6年)に移築した臨春閣(重要文化財)が見え、内苑の中心へと進んできました。臨春閣の襖絵には、狩野探幽、狩野安信などによって描かれています。臨春閣の前縁から奥縁を覗いて見ると、裏庭のモミジが額縁に描いた絵の様です。

 臨春閣(:臨春閣玄関前の紅葉のウルシ、:臨春閣の南側縁から北側縁外の裏庭を見る、:三屋建ての臨春閣)

臨春閣の裏庭に廻ると、そこに植えられている前縁から見たモミジの木は見事に真っ赤な葉を映しだしていました。

 臨春閣裏庭に真っ赤に色付くモミジ(写真拡大)

臨春閣を右に曲がりせせらぎの坂道を登って行くと、モミジが自生した様な自然の低山に入り込んだ風情で、奥に建長寺の近くにあった1651年(慶安4年)に建築の天授院(重要文化財)があり、1916年(大正5年)に移築されました。

 天授院付近の紅葉(写真拡大)

天授院から戻りせせらぎを渡ると、三代将軍徳川家光により建てられたと伝えられる、1623年(元和9年)に建築の聴秋閣(重要文化財)があり、2階に小いさな部屋がある2層の楼閣建築です。

 聴秋閣付近の紅葉(写真拡大)

聴秋閣付近から三渓記念館へと戻る途中に、1591年(天正19年)建築した豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物と云われる旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)があり、イチョウの古木がありますが、葉は全て落葉して周囲一帯に敷き詰められていました。
旧天瑞寺寿塔覆堂で、三渓園の紅葉の殆どを見ましたので、園内に3軒ある食事処の「雁ヶ音」で、混雑で大変と待たされてからの天麩羅そばを食して、紅葉をすっかり堪能し満足して帰路に着きました。

 旧天瑞寺寿塔覆堂付近のイチョウ(写真拡大)

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小さな旅 名栗温泉 紅葉の季節の昼の一時を山間の静かな日帰り温泉に浸り焼き魚を楽しむ

2009年12月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009  

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名栗温泉日帰り
11月の紅葉の季節を迎え、今年はまだ温泉に行っていないので、昼の一時を温泉に浸かり川魚でも食したいと思い埼玉地方を探してみると、彼岸花を見に行った「高麗」(「小さな旅 曼珠沙華まつり 秋の高麗の里巾着田に真っ赤に色づく彼岸花の郷(その1、2)」参照)と2年前に出かけた(「小さな旅 サイボク天然温泉 まきばの湯」参照)」の近辺に、目的に頃合いの木のぬくもりと季節会席の「名栗温泉」を見付けましたので、2日前にインターネットで予約して、16日に日帰りで行ってきました。

・アクセス
名栗温泉(埼玉県飯能市下名栗917)は、東京から比較的に近く交通の便利がよい、秩父の入り口の西部飯能駅から20Kmほどの山間に入った処にあり、木のぬくもりが感じられる静かに佇ずむ1軒宿の温泉です。
名栗温泉へのアクセスは、飯能駅から温泉までを10時30分発の送迎バスを利用することとして、西武鉄道池袋駅から飯能駅までは、特急利用では43分の乗車で、急行の利用では53分乗車の距離で、大森町からの総所要時間は1時間40分程で温泉に着きます。交通費は、京急、JR、西武と乗りついて890円(特急利用の場合指定料金450円増し)で行けます。

 飯能駅南口

送迎バスの運転手さんの話では、訪れた前日の15日の日曜日は名栗温泉の白雲山鳥居観音での「なぐり紅葉まつり」が行われ沢山の見物客が訪れて、交通渋滞で大変に混雑したそうですが、温泉行きがその翌日でしたのでまるでがら空きでした。

 名栗温泉付近地図

・日帰り温泉施設
首都圏日帰り名栗温泉大松閣の日帰り温泉コースのチェックインは11時で、チェックアウトは14時30分とやや短めの感じです。
名栗温泉大松閣での昼会席料理には、7品の雪コース、焼き川魚料理が付く月コースの他にさらに別の2コースもあります。会席料理は部屋食で室料は、広間での相席宴会場利用は無料で、個室を使用の場合は2名から8名の人数に応じた部屋の使用料がかかります。今回の個室は10畳の宿泊用和室で冷暖房が完備で、次の間には電気こたつが敷いてあり冷暖房、TV・冷蔵庫・洗面所・トイレが完備で、浴衣は有料ですが入湯税は料理と込みでタオルが付いています。

以前に日帰り温泉に行った時に広間を利用しましたが、落ち着けない経験をして今回は個室を使用しましたが、女中さんが料理を一品ごとに運んでの部屋食はすっかり宿泊した雰囲気で寛ぐことができました。
まず、送迎バスで温泉に着くと、エントランスのゆったりとした椅子で中庭の鯉を見ながらウエルカムドリンクサービスのコーヒーを飲んでから、清風館2階の個室の紫陽花に案内されました。

 日帰り名栗温泉清風館個室

・名栗温泉
食事の時間は12時半からとることで頼み、早速浴衣に着替えて温泉に入りました。名栗温泉の浴場は、5階の展望大浴場の男子の「牽牛の湯」、露天風呂「天の川」と女子の「おり姫の湯」、露店風呂「銀河」があります。また、大浴場の他に男女入れ替え制の「木風呂」と貸し切り風呂の「岩」・「土」風呂がありますが、食事をとっての逗留時間では2か所の入浴は無理ですので展望大浴場に入浴しました。
温泉の泉質は、アルカリ性低張性鉱泉の泉温は17℃、湯量が約10リットル/分自墳する温泉を、湧出量を補うため加水加温循環式で配湯しています。効能は冷え性、美肌効果、疲労回復などとなっています。

 男子用展望大浴場(左:展望大浴場「牽牛の湯」、中・右:露店風呂「天の川」)

名栗温泉の由来は、発見されたのが800年前の承久年間で、手負いの鹿が湯でけがを治しているのを猟師が発見したのが始まりとされております。名栗温泉旅館は、明治の末期に東京のマッサージ師が湯治と治療客を目的に屋号を「名栗館」と称して開業したのがはじまりで、その後地元の人達を経て、材木商、薪炭業、土建業を営んでいた柏木代八が大正8年に譲り受けました。若き大工の棟梁の浅見松三とともに全国の旅館を行脚して、建造したのが大松閣であり、代八の"代(大)”と松三の”松”をとり『大松閣(たいしょうかく)』と名付けられ100年の歴史を有します(名栗温泉ホームページから)。

・昼の会席料理
料理品数が多いのですが、折角の山間の温泉に来たのですから焼き魚が付いたコースを頼み、温泉に入りリラックスしてからの後で会席料理を堪能しました。

 霜月 月の膳懐石料理献立

会席料理の霜月の月の繕の焼き魚は、山女の化粧塩焼きでちょっぴりと豪華な昼の食事となりました。

 霜月 月の膳懐石料理

・食後の散策
満腹をこなすため、送迎車出発の14時30分までの僅かな時間ですが、大松閣の周囲を散策しました。名栗温泉の大松閣には、道を挟んで別館の炭火焼きレストランの「山の茶屋」があり、広い店内で地元の食材で造る創作料理の炭火焼き山の茶屋コース、朴葉御膳などの料理の昼食と夕食がとれます。そこで、山の茶屋コースを注文すると、本館大松館の入浴料がサービスとなり、他の料理でも800円を追加すると入浴セットが付きます。

 炭火焼きレストランの「山の茶屋」

道路脇には、若山牧水の歌碑が建てられており、牧水は旅を愛し各所で歌を詠み日本各地に歌碑があります。最初に秩父に訪れた記録は、1917年(大正6年)11月で、96首の大作が「秩父の秋」と題して『溪谷集』(大正7年)に収められています。1920年(大正9年)4月に、熊谷から長瀞、秩父、名栗を回った旅「秩父の春」39首は『くろ土』(大正10年)に収められています。

 若山牧水の歌碑(:牧水の歌碑、:名栗温泉前の小滝)

残念ながら、今回はあまり紅葉見学をする時間がとれませんので、周辺の白雲山鳥居観音などは次の機会に残しておいて、送迎車の出発時間となったので飯能まで送って貰い、温泉と食事に満足して西武新宿経由で帰宅しました。

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小さな旅 京急羽田空港駅開業11周年 大変貌の羽田空港「国際ターミナル駅」(仮称)2010年開業

2009年11月25日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009 イベント列車「京急JAXA号~羽田から宇宙(そら)へ~」  

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羽田空港駅開業11周年
京急羽田空港駅は、11月18日に開業11周年を迎えました。京急電鉄では、開業11周年を記念して、同社の情報誌「京急線 普通電車の旅」「祝 羽田空港駅開業11周年記念号」Vol.15からWebでも配信が始まりました。
京急では、羽田国際ターミナル2010年開業を予定し、沿線出身の野口聡一宇宙飛行士を応援して、羽田から世界へ、羽田から宇宙(そら)へtake off と銘うって「JAXA宇宙航空展」を11月13~23日まで開催していましたので、進化する空港の見学がてらに、15日の日曜日に見てきました。

・羽田空港駅
羽田空港駅(大田区羽田空港3丁目)は、京浜急行蒲田駅から空港線支線の終点の地下駅で、2線式ホームの西側先端の出口は、1998年(平成10年)11月18日に京急待望の東京国際空港(羽田空港)の第1旅客ターミナルビルに直結し、JALなどの旅客便に搭乗でき、ビルのイメージカラーは赤色で塗色され出口を間違えないように施されています。ホーム東側の出口は2004年12月から使用され、空港の第2旅客ターミナルビルに通じ、ANAなどの旅客便に搭乗でき、ビルのイメージカラーは青色に塗色されています。
1日の平均乗降者数は、約7万8千人で、9月のシルバーウイークには10万1千人を越えたそうです。

・JAXA宇宙航空展
JAXA(Japan Aerospace Exploration Agency)は筑波宇宙センター(茨城県つくば市千現2-1-1)の略で、日本で最大規模の航空宇宙開発施設で、H-Ⅱ型ロケットの開発や国際宇宙ステーション「きぼう」日本実験棟の建設および月周回衛星「かぐや」の打ち上げ(「ITと技術 筑波宇宙センターとサイエンス・スクエアつくば見学 その1」参照)などを行っております。
JAXA協力の宇宙航空展は、第1旅客ターミナルビル2階のフェスティバルコートと、第2旅客ターミナルビル2階のイベントスペースで展示を行ってていました。

・第2会場
先ず展示会第2会場のある第2旅客ターミナルビル2階のイベントスペースには、京急線の地下東口出口を出てエスカレータを1階に上がると出会いのひろばで、吹き抜け部をエスカレータで2階に昇ると、回廊の端に展示場があります。

 展示会第2会場

第2会場の展示内容はJAXAの航空機開発に関する、①静かな超音速旅客機の実現を目指して~静粛超音速機技術の研究~、②太平洋を2時間で横断できる極超音速機~極超音速機技術の研究開発~などのパネル展示とビデオ上映を中心に、宇宙航空技術を支える大田区の町工場の紹介などと、2010年に開業する羽田国際ターミナルや国際化に合わせて開業する京急の新しい駅の紹介パネルなども合わせて展示してありました。

 第2会場展示内容(写真拡大)

・第2会場から第1会場への移動
当日は快晴でしたので、第1会場に移動する前に第2旅客ターミナルビル5階の展望デッキに出て滑走路を飛び立つ航空機をしばし眺めてきました。なお、展望デッキのフロアーの西側サイトには、4本目の滑走路のD滑走路新設工事の説明コーナー(「イベント 羽田空港滑走路工事 4本目滑走路建設工事現場を見渡せるD滑走路の見学」参照)があります。

 展望デッキ(写真拡大)

第2旅客ターミナルビルから第1旅客ターミナルビルへの移動には、両ビル間を結ぶ地下道の動く歩道を利用するか、空港ビル間を巡回する無料バスがありますので、今回は5階から1階までエレベータで降りてビル出口の前から、空港周辺の景色を見ながらバスで移動しました。バスの運行はターミナル間を時計方向に巡行し第2旅客ターミナルから第1旅客ターミナルへは、第2ビルから南へと進み国際ターミナルで国際線への乗降客を運び、そこからコースを西に向け空港中央の橋を渡り建設中の新管制塔を見ながら、コースは北へと曲がり第1会場のある第1旅客ターミナルビルへと着きます。

 羽田空港(:循環バスから新管制塔を望む、:羽田空港航空地図)

・第1会場
第1会場は第1旅客ターミナルビルの2階に上がり、中央のフェスティバルコートにあります。

 展示会第1会場

展示場には、JAXA所有の模型の、①国際宇宙ステーション(サイズ:1/100)、②「きぼう」日本実験棟(サイズ:1/10)、③スペースシャトル「ディスカバリー」(サイズ:1/25)、④宇宙ステーション補給機HTV (サイズ1/25)、⑤H-2Bロケット(サイズ1/25)などの他、パネル展示で「有人宇宙飛行」に関する展示を行っており、会場内で宇宙実験などのビデオ上映も行っていました。
また、2010年に開業する羽田国際ターミナルや、国際化に合わせて開業する京急の新しい駅の紹介パネルなども合わせて展示していました。

 第1会場展示内容(左上中上右上左下中下右下写真拡大)

・イベント列車
京浜急行では、羽田国際ターミナル2010年開業をPRするイベント列車「京急JAXA号~羽田から宇宙(そら)へ~」を、2009年11月8日(日)~12月27日(日)の期間に京急線2100形車両1編成8車両で運行を行います。(Top写真参照)
車体にはHⅡBロケットやスペースシャトルなどを描き、イベントロゴを先頭車両のヘッドマークとして掲出して運行し、イベント列車内のポスターには、沿線出身の野口聡一宇宙飛行士を応援する内容を中心に、JAXA提供による最新の宇宙情報を展示してあります。宇宙への夢をのせたイベント列車に乗って、楽しみましょう。

国際ターミナル駅(仮称)の新設
羽田空港国際化による新国際線旅客ターミナルビル(大田区羽田空港2)の開業にあわせて建設中の「国際ターミナル駅(仮称)」は京浜急行の発表によると、空港線の天空橋駅と羽田空港駅の間に位置し、地下2階のホームから、地上2階および地上3階の国際線新旅客ターミナルビル入口までをダイレクトに結ぶエスカレーター、エレベーターを設置するほか、スーツケースなどを載せたカートが利用できる広いホームを確保するなど、日本の空の玄関口にふさわしい、便利で快適な駅を目指しているとのことです。

 国際ターミナル駅(仮称)(:国際ターミナル駅航空地図、:羽田国際ターミナル駅イメージ、:国際ターミナル駅構造図[京浜急行])

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小さな旅 曼珠沙華まつり 秋の高麗の里巾着田に真っ赤に色づく彼岸花の郷(その2)

2009年10月05日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009

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曼珠沙華群生地
巾着田の曼珠沙華群生地は2ヶ所に分かれてあり、1つは高麗川のU字湾曲部の底辺を中心にしてあり、もう1つは高麗川のU字部右辺の垂直直線部にあり、双方合わせて約5.5ヘクタールの広さで日本一の群生地です。

 巾着田ガイド

コスモス畑を横断して200円を払って第3ゲートから曼珠沙華公園に入ると、そこは高麗川U字湾曲底部の曼珠沙華の群生地で、辺り一面に赤い絨毯を敷き詰めたかのように100万本の曼珠沙華が咲き競っています。

 曼珠沙華の群生地(写真拡大)

公園に入って見ると群生地は予想していた以上に広く、見事に真っ赤に咲き競う彼岸花に圧倒され、暫くは花を鑑賞しながら散策路をさ迷い歩きました。

 咲き誇る曼珠沙華(写真拡大)

・曼珠沙華
曼珠沙華は秋の彼岸頃に開花するので彼岸花とも呼ばれています。法華経などの仏典に由来する曼珠沙華は「天上の花」を意味して、白い花で彼岸花とは外観が異なる別花です。曼珠沙華は沢山の異名を持った花ですが、地域によっては不吉な花であると忌み嫌うところもあります。

 彼岸花1(写真拡大)

彼岸花の特徴は、6枚の花弁が放射状に付き、多年草の有毒な球根性の植物です。花は赤いのが一般ですが稀に白色の花もあり、農家の庭先では黄色い彼岸花(その1参照)も売っていました。彼岸花は夏の終わりから秋にかけて花茎が葉のない状態で30~50cmに伸びてから、その先端に5~7個の花が付きます。開花期には線状の細い葉がロゼット状(放射線状)に出て、翌春には葉がかれて秋まで何も出てこない珍しい咲き方をします。

 彼岸花2(写真拡大)

・巾着田ふれAIフェスタ
曼珠沙華を鑑賞して感嘆していると、曼珠沙華祭の会場の方から太鼓の音が聞こえてきましたので会場の方に行ってみました。会場には、沢山の食べ物やお土産の出店が出ており、快晴で気温が高いためテントの下の休憩場所は満杯です。混雑のため直射日光の当たる席も殆ど空いていませんが、空くのを待って一休みしました。

 曼珠沙華祭会場

曼珠沙華祭会場の出店テントの向こう側では「巾着田ふれAIフェスタ2009」が行われており、行ってみると期間中は日高市内外の代表や団体による催しが行われており、当日20日のプログラムには舞人の「よさこい鳴子踊り」、日高かわせみ連の「阿波踊り」などが出演して色を添えていました。
ゆっくりと見ていたいのですが、直射日光の立ち見で熱さのため木立の高麗川辺に敷物を敷いて川風にあたり小休止して、12時40分も廻り食事時も過ぎましたので高麗川駅へと戻ることにしました。

 巾着田ふれAIフェスタ(:フェスタの催し、:河原の木陰で一休み)

・遅くなった昼食
朝来た県道15号へと戻るため高麗川の川辺から公園の群生地に入ると赤い絨毯の散策道で、少し進むと赤い彼岸花の中に珍しく白い彼岸花が混じって咲いていましたので写しておきました。

 赤い彼岸花に混じって咲いた白い彼岸花(写真拡大)

曼珠沙華群生地内では遊歩道が2手に別れており、川沿いの遊歩道はこれから花見に来た人の行列が続き、山側の遊歩道は帰路の人の行列です。

 花見観光客で混雑する曼珠沙華群生地散策路(:花見観光客で渋滞の入場側散策路、:花見観光客散策路は一方通行、:復路散策道も混み始める)

公園ゲートの出口にでるまでの暫くは赤い絨毯の散策路を楽しみながら進み群生地とはお別れして、鹿台橋を渡り朝来る時見た瀟洒なレストランに寄って昼食を採ろうと目論んでいましたが、同じ考えの人が多く長い行列でしたのでそこを諦めて駅へと向かいました。また、国道299号交差点の横にあるお蕎麦屋さんをと見ると、そこも沢山の人が待っていましたので高麗駅前まで戻りました。
丁度、駅前に喫茶店がありましたので、そこに入ると食事らしきメニューは全て売り切れており、まだホットドッグのみがありましたので、それを昼食変わりに間に合わせたのが14時少し前でした。5連休でしたので混雑は予想しておりましたが、曼珠沙華公園は広いため花の鑑賞には賑わう程度の込み方でしたが、食事処が満杯であることには気が廻りませんでした。帰路の電車は、帰りの特急券を駅に着いてからすぐ購入しておきましたので15時35分発の特急に座って楽をして、池袋には16時32分に着きました。

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小さな旅 曼珠沙華まつり 秋の高麗の里巾着田に真っ赤に色づく彼岸花の郷(その1)

2009年10月03日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009 彼岸花と日和田山

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群生する彼岸花を一度見てみたいと思い、シルバーウイークの9月20日に巾着田の曼珠沙華公園に行ってきました。

巾着田
巾着田は、埼玉県日高市の西部の巾着の形をした高麗川に囲まれた川原田です。この大きく湾曲した高麗川の地形を利用して川原田は、8世紀頃高句麗からこの付近に移り住んで来て、開墾して稲作を伝えたと言われています。一時は、水田が約17ヘクタールにも及んだ時があったようですが、現在はグラウンドなどが整備され、巾着田曼珠沙華公園として憩いの場所となっています。

 巾着田航空写真

曼珠沙華公園
曼珠沙華公園は、春には桜や菜の花が見頃となり、秋には100万本の曼珠沙華が群生し、コスモスの花見に沢山の人が訪れます。9月16~30日の期間中は、曼珠沙華まつりが開かれ公園の入場料が200円徴収されます。
曼珠沙華公園には、西武池袋線の高麗駅から徒歩で約15分のところです。曼珠沙華の開花中は臨時電車が増発し、特急電車が臨時停車しますので、池袋駅9時30分発の特急電車に乗り、高麗駅には10時17分に着きます。
雲一つ無い快晴の高麗駅前広場では、天下大将軍、地下女将軍の赤いポールが出迎えており、曼珠沙華花さんぽステーションが開設され、出店やテント、テーブルなどが設営されており簡単な食事などがとれます。

 曼珠沙華見物で混雑の西武池袋線高麗駅(:曼珠沙華見物で混雑の西武池袋線高麗駅、:駅前広場の赤い将軍ポール、:期間中駅前広場に開設の曼珠沙華花さんぽステーション)

曼珠沙華公園には、高麗駅横のガードを潜り道路を進むと国道299号の交差点に出て、信号を渡り細い農道に入ります。農道の角には、1985年(昭和60年)に復元した日高市指定文化財の台の高札場があります。高札場は、江戸時代に幕府が定めた法度や覚書などを掲示する施設で、人通りの多い交差点や村の中心に人々を見下ろすように掲げられたそうです。
高札場を左に見て農道を進むと、農家の軒先で白や黄色の彼岸花を並べたり、採りたての栗、茗荷、生姜などの野菜を売っていました。

 曼珠沙華公園へと農道を進む1(:台の高札場、:黄色や白の彼岸花を売る農家庭先)

農家や民家の脇道を進むと、右手に宿老庵貫斎翁を称えて弟子たちが建立した勝海舟筆の筆塚の碑があり、農道をさらに直進すると道が左に折れて、角には水天の碑が建っています。水天の碑は、天保年代に干魃や大洪水などの天災・水難の事故を鎮めるために村人が建立したものとあります。この付近の畑には栗がたわわに実り、秋晴れの景色が何とも素晴らしいところです。

 曼珠沙華公園へと農道を進む2(:筆塚の碑、:水天の碑、:たわわに実をつけた栗の木)  

農道の遊歩道を進むとあぜ道の土手には、曼珠沙華の花が咲き誇っていました。途中で高麗川方向に向かう道があり、彼岸花の見学者の一部には右折して進む人もみられましたが、ガイドの遊歩道コースを進み県道15号に出て道標に従い高麗川に架かる鹿台橋を渡ると下流に堰が見え、川岸を南に進むと巾着田への入り口道です。

 曼珠沙華公園へと農道を進む3(:遊歩道の脇には真っ赤な曼珠沙華が咲きほこる、:県道15号の道標、:鹿台橋を渡る)
 
橋を渡り、高麗川のUの字型に大きく湾曲している内岸に沿って南に進むと、橋上から見た堰の縁ですが、堰の石を渡りながら進んで来る人がおります。これは、対岸で別れて進んだ人の巾着田への近道であったのです。川沿いの道を進むと、道の縁には曼珠沙華の真っ赤な花の列が続いて見事でした。

 曼珠沙華公園へと遊歩道を進む(:高麗川の堰、:高麗川縁の曼珠沙華公園への遊歩道)

高麗川沿いの遊歩道をUの字の中央付近まで歩いてから、巾着田の中に入ると、そこは約17ヘクタールのひだか巾着田のコスモス畑でした。見頃は、9月下旬から10月上旬です。
当日は快晴で気温も上昇して日陰が欲しいので、コスモス畑の中央の管理事務所のベンチで水分補給の休憩です。まだ、コスモスの花見には早い時期ですが、多勢の人が20本200円で花摘みを楽しんでいました。

 巾着の中は雄大なコスモス畑(写真拡大)

小休息後は、お目当ての曼珠沙華群生の鑑賞です。巾着田の中央部を南に進み、畑の中のそばの花や蓮畑を見ながら曼珠沙華公園の第3ゲートに到着です。

 巾着田中央の畑(:そばの花、:蓮畑、:曼珠沙華公園第3ゲート)

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小さな旅 世界一のつつじと鯉のぼり 館林のつつじが岡公園と文福茶釜の茂林寺に芝桜の遊覧その2

2009年05月15日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009

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世界一こいのぼりの里まつり
館林のこいのぼりの里まつりは、館林市の春の風物詩のさくらまつりと季を合わせて、同市の中心部を流れる鶴生田川を主会場として3月25日から開催されます。
鶴生田川両岸には、約315本の染井吉野が植えられており桜の満開時には、同川上を泳ぐ4350匹の鯉のぼりとともに素晴らしい景観が見られます。
館林市の鯉のぼりは、2005年に5283匹の掲揚でギネスブックの世界記録認定が認定されたております。今年の第8回世界一こいのぼりの里まつりは、鶴生田川の他、多々良保安林、近藤沼、つつじが岡パーク、茂林寺川の5会場で開催して、全体で6066匹の鯉のぼりが掲揚されたと報道されおり、こいのぼりの里まつりは5月10日まで開催されました。

 世界一鯉のぼり鶴生田川会場地図

鶴生田川の鯉のぼり会場にはつつじが岡公園出口から、4人でタクシーに乗り同公園に添って県道を西へと進み館林花菖蒲園を右側に見て直進すると、南側はつつじが岡第2公園で車を降りて待機して貰い、川岸へと歩くと鶴生田川に吊るされた沢山の数の鯉のぼりは圧巻でした。

 世界一鯉まつり会場(写真拡大)

川中が鯉のぼりで埋まり、吊るされた鯉のぼりが川に写る様は上も下も鯉のぼりで、まるで水中を泳いでいるようで幻想的でした。圧倒的な数の鯉のぼりには、世界一である印象を受けましたが、欲を云えば大きな鯉のぼりがもう少し川上を泳いでくれたら迫力があるなと感じました。

 川中が埋まる鯉のぼりまつり(写真拡大)

野鳥の森フラワーガーデン

 館林周辺地図(再掲)

世界一の鯉のぼりを後にして駐車場の車に戻りつつじが岡第2公園を出ると、周辺には向井千秋記念こども科学館があり、県道からは2005年に訪れた館林市第2資料館や田山花袋旧居が見え懐かしく思いながら車が県道7号から南へ進み、途中で右折して茂林寺公園北の茂林寺川で車を降りて、川沿いの野鳥の森フラワーガーデンを歩き、時間の都合で中には入園せずに外から芝桜ガーデンを眺めて散策しました。車は先に野鳥の森フラワーガーデン入口に行って待機して貰いました。

 野鳥の森フラワーガーデン付近の散策(左:フラワーガーデン脇の茂林寺川散策、中・右:フラワーガーデン入口付近)

野鳥の森フラワーガーデンの「芝桜ガーデン」には約22万株のピンク系の芝桜が植えられており、「青のガーデン」には青系の芝桜22万株とネモフィラ・ビナスの3万株と。「スプリングガーデン」には黄色のデ―ジーと白のマーガレットなどの10万株の春の花々が咲き誇っていました。外部から眺めた鑑賞の芝桜は、2005年4月29日4人で行ったピンク系芝桜の秩父羊山公園とは花の種類が異なり、青系の芝桜は落ち付いた感じを受けました。

 野鳥の森フラワーガーデンの春の花(:フラワーガーデンの青系芝桜、:スプリングガーデンの春の花)

分福茶釜の茂林寺
野鳥の森フラワーガーデンを後にして車を東に向けて進み、四つ角で右折して行くと道がカーブしており曲がりきった所が、分福茶釜でお馴染みの茂林寺の参道入口に着いたのは14時45分頃です。車を待たせて茂林寺のお参りです。参道にはユーモラスな赤い狸が迎えてくれます。

 分福茶釜の茂林寺参詣(左:茂林寺参道入り口、中:お出迎えの愛嬌のある赤い狸、:茂林寺の総門前)

茂林寺(館林市堀工町1570)は、山号が青竜山で曹洞宗の寺院で、創建は1426年(応永33年)に大林正通により開基され、本尊は釈迦牟尼仏が祀られています。
通称黒門と云われる1468年建立の総門を潜ると、総門から1694年(元禄7年) 建立の通称赤門の山門までの境内に、21体の狸像が参拝者を出迎えて並んでいます。

 総門を潜ると境内では21体の狸像が並んで出迎え(写真拡大)

本堂は応仁2年の建立で、享保12年に改築されて以来現在に至る古い古刹です。境内には館林市が1980年(昭和55年)に保存樹に指定した見事な枝垂れ桜と、茂林寺の開基の際、魔除けのため植えられた名木の「大ラカンマキ」があります。
参拝を済ませるとそろそろ15時となりましたので、お土産に群馬県特産取り立てのトマトときゅうりの生野菜を買い、待たせてあるタクシーで館林駅に行き、16時07分発のりょうもう30号に乗り、浅草には17時15分に着きました。

 茂林寺境内(:本堂と枝垂れ桜、:通称赤門の山門、:魔除けのため植えられた大ラカンマキ )

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小さな旅 世界一のつつじと鯉のぼり 館林のつつじが岡公園と文福茶釜の茂林寺に芝桜の遊覧その1

2009年05月13日 | 小さな旅
kan-haru blog 2009

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春恒例の花見遊覧
毎年春の花見の季節には、近所に住む従兄弟夫婦と連れ立って出かけており、今年は4月30日に館林に行きました。
館林は4年振りで、その時はつつじが岡公園の隣にある、館林菖蒲園に来ました。つつじ園には子供が小学生の頃に来たので、かなり以前のことで久し振りの館林つつじの花見です。
館林への往復は、連休中ですので座席が確保できる特急を利用して、往路は浅草発9時40分のりょうもう7号を利用しました。浅草を出て1時間で館林に到着すると、駅前にはつつじが岡公園行き10時55分発の臨時バスが待っており、11時10分頃にはつつじが岡公園からちょっと離れたつつじが岡パークインの臨時降車場に着きました。

 館林周辺地図

つつじが岡公園
つつじが岡公園(館林市花山町3278)は県立の公園で、つつじの花の期間中の4月1日から5月15日の間は有料であり、入園料は花の見頃により異なり「見頃」時期の料金は600円で、4月27日が満開でしたので当日は見頃料金を払って入園しました。なお、「咲き始め」と「見頃すぎ」の時期の料金は300円です。今年は、ツツジの開花が早く、5月1日からは入園料が300円になったようです。

 つつじまつりポスターとつつじが岡公園入場県

当日は、雲一つない快晴のすがすがしい畑道を10分ほど歩いて、つつじが岡公園の正面入り口です。

 つつじが岡公園周辺(:つつじが岡パークイン臨時バス停、:公園入口までの畑道、:つつじが岡公園入口)

つつじが岡公園一帯は、古くからヤマツツジが自生しており「つつじが埼」と呼ばれていました。つつじが埼は伝説によれば、1605年(慶長10年)に初代館林城主の榊原康魔政が、側近の「お辻の方」を偲のびヤマツツジを植えたと伝えられています。
また園内には、樹齢800年を越えるヤマツツジや、新田義貞の妻「勾当の内侍」遺愛のツツジなどが、歴代城主、篤志家や自治体によって保護増殖されています。

 世界一の館林のツツジ(:旧館林城主の榊原家ゆかりのツツジ説明板、:樹齢数百年のヤマツツジ古木、:園内1万株植栽のツツジ)

約12.6haの園内には、50余品種(園内に見られるツツジのいろいろ参照)の約1万株のツツジが植栽されており、世界にほこるツツジの名園です。

 つつじが岡公園案内図

入口を入ると中央広場で、右側の真赤に染まる満開のつつじを見ながら直進すると、渡船乗り場です。

 満開のツツジ(写真拡大)

ここから城沼の対岸にあるお辻・松女の墓のある善長寺まで渡し船がでています。また、城沼を半周する遊覧船が出ていましたので、熱い陽気に誘われて乗船し沼を右廻りに巡って30分ほどの遊覧を楽しみました。

 城沼遊覧(:お辻・松女の墓のある善長寺・写真拡大)

船を降りてから、つつじの丘状の庭園の坂を登っていくと「躑躅ヶ岡公園」記念碑が建っており、その先には樹齢800年を超える巨木のヤマツツジがあり、高台には明治19年に昭憲皇太后、英照皇太后の両陛下の行啓を記念した行啓記念碑が建碑されています。

 つつじが岡公園風景(:躑躅ヶ岡公園記念碑、:公園から城沼を望む、:行啓記念碑)

高台から見渡す朱紅色のヤマツツジ、紫紅色のオオヤマツツジ、真っ赤な本霧島、白色の白霧島、白琉球などが咲き揃っていて見事な景観です。

 つつじが岡公園の高台風景(写真拡大)

つつじが岡公園の記念碑に書かれている文字の「躑躅」(てきちょく)とは、中国ではツツジの名に躑躅を当て、日本へもその中国で使われていた名称躑躅が入って、つつじと読むようになったと考えられています(つつじが岡公園ガイドから)。

つつじが満開の高台を降りると13時をまわってましたで、園内の食事処の筑波屋に入り昼食をとって、次の遊覧目的の世界一の鯉のぼりの見物に向かいました。

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