妄想を少しと、好きな物、好きな事を備忘録のように、

好きなもの、好きなこと、
思いついたまま綴っています。

好きの範囲は人それぞれ、お注意下さい。

「帰ってきたもてない男」小谷野敦著

2006年02月03日 | 読書
人はみな、様々な素質をもって、生まれてきます。
足の速い子もいれば、絵の上手な子もいる。
計算が得意な子もいれば、本を読むことが好きな子もいる。
そんな、個人個人の違いは、生まれと育ちによって創られる。
可能性については、全ての人に等しく提供されると願っていますが、
環境によって、ひょっとして、それすら「運」なのかもしれませんが、
結果については、平等ではないということを受け止めなければなりません。
機会が平等であるということは、
その機会を上手に利用する才能があるのか、否か。
それも、個人が得られるものの差になってきます。

恋愛や結婚について思いを巡らせてみると。
昔、その対象となるのはとても限られた範囲に限定されていました。
例えば、知り合いの紹介、地域のコミュニュティーでの出会い。
それに、その対象は異性に限定されていました。
今では、人が人と出会う手段は、様々な方法がある。
恋愛や結婚の選択もとても自由なものです。
これほどまでに自由になったからといって、
すべての人が、その自由を享受しているのでしょうか。
残念ながら、そうではないように思えます。

例えば、他の人と会話をする能力。自分の性的志向を認識する力。
時に、旧弊やステレオタイプからの逃避する実行力。
それらすべてが、恋愛や婚姻の自由を謳歌する為に必要な能力です。
その全ての能力に秀でた人と、そうではない人と、
残念ながら、結果には大きな違いがあります。
小学校や幼稚園の徒競走と違って、全員が同時にゴールする。
そんなルールはここには無いのですから。

結局、異性との関係を上手に結べるかどうか。
これも、才能の一つなのではないでしょうか。
その巧拙は、足の速い遅い、絵の上手い下手、
そんな持って生まれた才能と同じように、
人それぞれに違いがあるのではないでしょうか。
その結果として、
もてない男が、そして、
同じ理由で、もてない女も生まれるのだ。
ある意味「もてない、」ということは、
機会平等がある程度実現した社会に見られる現象だと、
言っているように思います。


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