今の私 2006年02月09日 | つぶやき 何か気がついたことを、言葉にして、ブログに残す。 ブログに何を書こうか、 どんないやらしい事を残してしまおうか。 そんな事を考えている時間が、 はるかにとって、一番の気晴らしのときです。 それに、そんな自分を観察していると、 その時の気持ちの浮き沈みが、 なんとなく分かって、 無理しても良いときなのか、 静かにした方が良いのか、 自分の気持ちと上手に向かい合うことが、 出来るようになって来たように思い始めています。 今の私の気分はといえば、 とても、淫乱な気分が、心の中に蠢いています。 そんな時、 心に浮かぶ、淫靡な妄想を言葉にする。 そして、そのイメージで 何処まで気持ちよくなれるのか、 試してしまいます。 今、とても、バストが感じやすくなっています。 指先で、乳首を弄ぶ、 そんな一人遊びが、マイブームです。 その時、私の脳裏に浮かぶ淫靡な夢を、 言葉にしてみようと思っています。 それは、いつも終わりの無い、 実現すること勇気の無い弱虫マゾの戯言です。
「帰ってきたもてない男」小谷野敦著 2006年02月03日 | 読書 人はみな、様々な素質をもって、生まれてきます。 足の速い子もいれば、絵の上手な子もいる。 計算が得意な子もいれば、本を読むことが好きな子もいる。 そんな、個人個人の違いは、生まれと育ちによって創られる。 可能性については、全ての人に等しく提供されると願っていますが、 環境によって、ひょっとして、それすら「運」なのかもしれませんが、 結果については、平等ではないということを受け止めなければなりません。 機会が平等であるということは、 その機会を上手に利用する才能があるのか、否か。 それも、個人が得られるものの差になってきます。 恋愛や結婚について思いを巡らせてみると。 昔、その対象となるのはとても限られた範囲に限定されていました。 例えば、知り合いの紹介、地域のコミュニュティーでの出会い。 それに、その対象は異性に限定されていました。 今では、人が人と出会う手段は、様々な方法がある。 恋愛や結婚の選択もとても自由なものです。 これほどまでに自由になったからといって、 すべての人が、その自由を享受しているのでしょうか。 残念ながら、そうではないように思えます。 例えば、他の人と会話をする能力。自分の性的志向を認識する力。 時に、旧弊やステレオタイプからの逃避する実行力。 それらすべてが、恋愛や婚姻の自由を謳歌する為に必要な能力です。 その全ての能力に秀でた人と、そうではない人と、 残念ながら、結果には大きな違いがあります。 小学校や幼稚園の徒競走と違って、全員が同時にゴールする。 そんなルールはここには無いのですから。 結局、異性との関係を上手に結べるかどうか。 これも、才能の一つなのではないでしょうか。 その巧拙は、足の速い遅い、絵の上手い下手、 そんな持って生まれた才能と同じように、 人それぞれに違いがあるのではないでしょうか。 その結果として、 もてない男が、そして、 同じ理由で、もてない女も生まれるのだ。 ある意味「もてない、」ということは、 機会平等がある程度実現した社会に見られる現象だと、 言っているように思います。