昨日9月25日は母の命日だった。
25年前、大相撲秋場所が始まってすぐに三女が生まれ、千秋楽は母の告別式だった。あわただしく生と死が行き来した。
昨日、次女は妻のFBに
「私も太極拳やれてよかった。ばあちゃんが作った道を少しでも歩けて嬉しい。ばあちゃんに、ここ宮崎でいつも私は幸せだと空に向かって話すのだ。4歳だったけれど、泣いた時にもらうらくがんの味は忘れられない。」
とコメントしてきた。
顔も覚えている訳のない三女もハリ天のツイートに
「結の誕生を待っていてくれたきみこばあちゃんに、遠くから手を合わせました。結は今日も、元気です(*^^*)」
とつぶやき返してくれていた。
娘達の心根にちょっとホロッとした。
ただハリ天にとっては、母がいないというよりもうずいぶん長いこと会っていない、そんな感覚なのだ。時々、あぁちょっと見せてあげたかったなとか、母がいたら何というか・・と考えることはあるけど、母だけでなく、生きているとか死んでしまったとかそういうこととは関係なく、あの人はそこに、そしてここにいるという摩訶不思議な感覚はいつも存在している。
母は亡くなった時58歳になったばかりだった。来年、その母の歳に追いつき、そして追い越す予定になっている。これは早くに親を亡くした者の特権というか、ちょっとした出来事なのだ。この前後をどう生きるか、実は数年前から指折り数えてその時を待っているハリ天なのだ。