JAZZを聴きながら ふたたび

恥も顧みないで再々開、よろしければお付き合いを

酒の力で再登場

2006年11月12日 | m-o

本日二度目の更新です。「あらま、珍しい」なんて言わないでください。
じつはね、夕食当番として家人の夕食はとうぜん作ったのですが、私用のつまみがへんに美味しかったもので、ついつい二度目の更新となったわけで・・・

材料はスーパーでネギトロと称して売っているあの安物です。
これにキュウリのみじん切りとネギも少々混ぜ合わせます。
それとは別に作った豆腐ソースがなかなかのものでね。
水切りをしてすり潰した豆腐に、塩少々、山葵、それに、れいの漬け卵の黄身、それから漬けに使用した醤油を少々
そんでね、食べるときにこの二つを微妙に混ぜ合わせながら食べるんですよ
いやぁ、驚くほど日本酒にも、洋酒にも合いました。

私専用つまみだったので、他のものと一皿盛りにしてしまいましたが、+モツ煮で、最高のおつまみ、酒も5合ほどいただいちゃいました。(笑)バーボンも飲んでますよ~~!

こうして、食後、趣味部屋に引っ込んで、ジャッキー・マクリーンを聴きながら飲み続けていると、しばし、嫌なニュースのことも、明日の仕事のことも、忘れることが出来ますね。
「俺って、俺なりに、そこそこに、幸せもんだ~~!」
嘘でも一瞬そう思ったりして

風呂も入ったし、今晩は冷えそうですので、じゅうぶんに酒で体を温めて、ぬくぬく寝ます。
「フンだ!人の温かさなんて俺にはいらねぇ!酒の温もりでこんなに心が温かいじゃないか!」
・・・・・・あれ?幸せ気分が・・・やっぱり卑屈なおやじに戻ってる。

さて、今日の二枚目は、そのジャッキー・マクリーンにしました。
聴きどころはレイ・ドレイパーのチューバかな?
少し酔っていますので詳細はご勘弁を。

FAT JAZZ / JACKIE McLEAN
1957年12月27日録音
JACKIE McLEAN(as) RAY DRAPER(tuba) WEBSTER YOUNG(cor) GIL COGGINS(p) GEORGE TUCKER(b) LARRY RITCHIE(ds)
1.FILIDE
2.MILLIE'S PAD
3.TWO SONS
4.WHAT GOOD AM I WITHOUT YOU
5.TUNE UP


追悼

2006年11月12日 | a-c

大学時代、同じ学科にMという女性がおりました。入学早々だったと思います、何かの機会に彼女と論争(当時は学生間で論争などという儀式は、まだ健在でした。)を一晩交わしました。テーマは何であったか?はっきりは覚えていませんが、当時の私が論争を交わすとなるとおそらくは、コミューン関連、もしくは住民自治に関してであったと思います。一晩語り明かすと、男女の仲というより、同志的感覚が彼女との間に生まれたことを思い出します。
大学のオリエンテーションが終了する頃だったでしょうか、M女史が
「バブ君、今晩私に付き合って」
彼女と向かったのは、なんと東京大学でありました。
自主講座『公害原論』ここに彼女は私を誘ったのです。

昨晩、『成り行きアラカルト日記』ウフフマンさんの記事で、宇井純先生の訃報を知りました。宇井先生は東大大学院で応用化学を学ばれていた頃、水俣病の水銀原因説を耳にされ、個人的に研究を始められました。
不思議なのは博士課程は土木工学に進まれ、当初東大の都市工学科かなにかの助手になられたことです。(まぁ、余談ですが)
その後、ミュンヘンの国際水質汚濁防止会議で、自主研究を続けられていた『新潟水俣病』に関して発表され、以降、『水俣病』に関わる活動を続けてこられました。
東大に帰任された1970年から、同校内に自主講座『公害原論』を開講、約15年間この講座は公害運動の一拠点となったのです。

先生が1986年、東大を去るまで、助手で終わってしまったのは、この活動が一因であったことは間違いありません。それでも先生はこの活動を続けてこられました。
「東京大学での自主講座は、なにぶんにも会場がただです。東京大学を勝手に占拠使っていますし、電話も事務室もだだです。このような恵まれた条件もありまして、聴衆の中から、常時何十人かの実行委員が集まってきて準備をし、それから、日本全国の公害の現場へ行って被害者と一緒に運動をするということが、日常的に行われてきたものですから、確かに15年間公害運動の一つの拠点になっていたことは事実です。」
と、後に先生はおっしゃっていますが、並大抵な苦労ではなかったと思います。

おっと、話を戻しましょう。
私は、M女史に連れられ、約1年間この自主講座に参加させていただきました。『川本裁判』の署名運動などもお手伝いさせていただいたこともあります。
その後、M女史は勉強の場をアメリカに求め退学を、私は大学自治会活動が忙しくなったりして、自主講座への参加は遠のいてしまったのです。

私が大学に入学した頃、我々は『シラケの世代』と呼ばれ、大学紛争の影を追う者、ただただ平凡な毎日を望む者、有り余るエネルギーを何にぶつけたらよいか思案する者、軟派が我が人生と開き直る者、主張など無意味だとあきらめる者、すべてから逃げる者、ets.ets.そんなある意味、学生が『烏合の衆』と成りつつある時代でありました。
そんななか、宇井先生の『自主講座』は私に、一つの方向性を示してくれた場所だったように思います。

宇井先生の訃報を知り、以前に整理した学生時代の持ち物を引っ張り出してきました。ほんの少し残っていた『自主講座』関連の資料を眺めつつ、宇井先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

・・・・・・!?
「また、いらぬもの引っ張り出してきて、ちゃんと片付けてよ」
う~~!現実は厳しい!
「はいはい、片付けて、ちゃんと晩飯を作りますから」

さて、今日の一枚は「クルセー・・ママ!」であります。
人間、生涯の中で、幾度か大きな影響を受けたり、刺激しあったりする人物や出来事に出会うものです。私にとって宇井純先生との出会いもそんな出来事でありましたし、コルトレーンとの出会いもまた、大きな刺激でありました。
それではこの時期、コルトレーンは誰に出会い、何に刺激を受けたのか?
パーカッションとボーカルを担当したジュノ・ルイスは後にアフロ・アメリカンの地位向上を目指してアフロ・アメリカン・アート・センターを設立していますが、この若きドラマーの情熱に共感したコルトレーンは、彼が母に捧げた曲「KULU SE' MAMA」を取り上げたのだといわれています。これもまた、出会いだったのか?
また、後にコルトレーンは『オラトゥンジ・アフリカ文化センター』の開設にも協力を惜しまず、最後のライブ録音はその文化センターのものだったという経過もあます。黒人文化の向上に興味を持っていたことは間違いありません。

このアルバム、特に表題曲を、「ASCENSION」や「OM」のように難解な音楽ととらえられがちです。でも、私はこのアルバムを難解とは思っていません。(かといって、コルトレーンの代表的アルバムとも思ってはいませんけどね)
母に訴えるルイスの歌声は、じつに心に染みわたる響きがありますし、他のメンバーにもその心が同調していて、う~ん、何と言っていいのかわかりませんけど、その波長が聴いている私にも伝わってくる感じがするのです。
他人にぜひとも聴いてみてと言えるアルバムではありませんが、私は聴く回数を重ねるごとに同調感が増すアルバムとして大切に聴いています。

KULU SE' MAMA / JOHN COLTRANE
966年6月10,14,16日録音
JOHN COLTRANE(ts) McCOY TYNER(p) JIMMY GARRISON(b) ELVIN JONES(ds)
PHAROAH SANDERS(ts) DONALD GARRETT(bcl,b) JUNO LEWIS(perc,vo) FRANK BUTLER(perc,ds)
1.KULU SE' MAMA (JUNO SE MAMA)
2.VIGIL
3.WELCOME