私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

英国の奴隷貿易禁止令200周年

2007-03-14 11:41:02 | 日記・エッセイ・コラム

 前回はリベリアの過去の歴史のほんのあらましをお話しました。次にはシエラレオネの歴史の話をするのが順序ですが、その前に本年2007年で200周年を迎える英国の奴隷貿易廃止令のことを取り上げます。1807年3月25日、英国議会は「The Slave Trade Act」という法令を可決しました。英帝国では奴隷貿易を違法とする奴隷貿易禁止がその内容で、奴隷制度そのものを違法とする内容ではなかったことに先ず注意しましょう。ベルギー国王レオポルド二世のコンゴについて、1903年、コンラッドがケースメントに送った公開書簡で「70年も前に人道的立場から奴隷売買を廃止してしまったヨーロッパの良心が、コンゴの現状を黙認しているのは異常なことです。それは、あたかも、道徳的時計が何時間もぐるぐる巻き戻されてしまったかのようです。今日では、かりに私が私の持ち馬を酷使して馬の幸せや健康状態を損なったとすると、私は民事裁判官の前に引っ張り出されてしまいます。黒人?たとえばウポトの黒人?はどんな動物とも同じように人道的に配慮してやるに値するように私には思われます。黒人は神経を持ち、苦痛を感じ、身体的にみじめな状態になり得るからです。」(『闇の奥の奥』p115)と書いています。ここでコンラッドが「ヨーロッパの良心」と呼んでいるのは英国のことなのですが、ちょっとした思い違いがあって、手紙の日付1903年の70年前の1834年にあったのは英国議会での奴隷制廃止条例の可決です。奴隷(売買)貿易廃止と奴隷制廃止とははっきり区別する必要があります。それにしても英国が早くも1807年に奴隷貿易廃止を打ち出した理由は何だったのでしょうか?
 その根本的理由はイギリスの国民性、あるいはもっと一般化して、アングロサクソンの歴史的な民族性にあると私は考えます。それは、自分たちが徳行高く慈悲深く心の広い人間集団だ、と飽くまで思っていたいという本能的な凄い執念です。それがどうやって発達し維持されて来たか、それが世界の歴史をどのように動かして来たか--私は、私に許された時間の続く限り、これから一貫して追求して行きたいと思っています。この物凄い自己正当化、自己美化の執念が、実は、重大な罪の深層意識と表裏一体のものである,と私は考えます。ここから、身勝手な巨大な嘘である White Man’s Burden も Manifest Destiny 等々も出てくるわけです。
 会田雄次著『アーロン収容所』(1962年)については、以前私のこのブログ『ノン・ポレミシスト宣言』の中で、「会田雄次さんが「アーロン収容所」の2年間で垣間見たものを,私は40年をかけて見据えたわけです。」とだけ書きました。今日はその「まえがき」から少し具体的に引用します。ビルマで英軍の捕虜となって2年間の捕虜生活を終えて帰国した会田さんはこう書きます。「想像以上にひどいことをされたというわけではない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。リンチ的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちといっていけなければ、少なくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような烈しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。」会田さん自身、これを異常だと思ったのですが、やがて、とうとうそれを書いてしまいます。「私たちだけが知られざる英軍の、イギリス人の正体を垣間見た気がしてならなかったからである。いや、たしかに、見届けたはずだ。それは恐ろしい怪物であった。この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人の全ての不幸の根源になってきたのだ。私たちは、それを知りながら、なおそれとおなじ道を歩もうとした。この戦いに敗れたことは一つの天譴というべきであろう。しかし、英国はまた勝った。英国もその一員であるヨーロッパは、その後継者とともに世界の支配をやめていない。私たちは自分の非を知ったが、しかし相手を本当に理解したであろうか。私たちが帰還して以来、私たちの近くには英国に対する讃嘆が渦を巻いていた。近代化の模範国、民主主義の典型、言論の自由の國、大人の國、ヒューマニズムの源流国、その賞賛のすべてが嘘だというのではない。だが、そのくらいのことは戦前でも私たちは知っていた。いや、このような長所とともに、その暗黒面も知っていた。昭和の初めごろから、敵国、すくなくとも競争相手・対立者としての見方が重きをなしてきて、それが悪の反面をも認識させることになっていたからである。だが、戦前の二つの見方を合しても正しい見方になるのではない。それは裏と表の表面的な認識に過ぎない。その中核を形づくっている本体を見ていなかったのではないだろうか。」
 会田雄次さんは、「その中核を形づくっている本体」を、2年間の捕虜生活という異常な劇的体験の故にこそ、たしかに見届けることが出来たのだといいます。上にも述べましたが、私は、その「本体」を、約40年の月日をかけてじっくりと見据えてきたつもりです。会田さんは「想像以上にひどいことをされたわけではない」といいますが、カナダの一大学の化学科の教授としてアングロサクソン白人の支配する社会での私の生活も、簡単に言えば、むしろ快適な外国生活とでも呼べなくはないものでした。しかし、40年の北米生活の間には色々な経験をさせられました。一つの視点を獲得してからは、その重たく容易ならぬ意味が蓄積して行きました。その総体が会田さんの2年間に匹敵する重みに達したとしても不思議ではありません。会田雄次著『アーロン収容所』を私は一年ほど前に中公文庫本(2005年)で初めて読みましたが、氏の他の著作はまだ読んでいません。しかし、会田さんが見た「本体」と同じものを私は見たと思っています。このブログの始めに書きましたが、それは、ヨーロッパ人、とりわけアングロサクソン白人の心の奥に盤居する巨大な嘘だと思います。コンラッドの『闇の奥』が本になって出たのは1902年でしたが、おなじ年にイギリスの経済学者J.A.Hobson の『帝国主義論(Imperialism)』(1902年)という古典的著作が出版されています。この本の中でホブソンは、私が言う巨大な嘘に就いて、「魂の中の嘘(the lie in the soul)」と書いています。
 さて、本日のブログのタイトル『英国の奴隷貿易禁止令200周年』ですが、奴隷貿易廃止と奴隷制廃止の歴史年表を見ると奇妙な事実が目につきます。18世紀(1700年代)世紀末、奴隷制と奴隷貿易に基づいた海外植民地から最も巨額な利益を得ていたのはフランスと英国でしたが、世紀末から19世紀にかけて、フランスは一度廃止した奴隷制をまたぞろ復活したりして、足許がひどくもたついたのに、英国は手回しよく奴隷貿易と奴隷制の廃止を成し遂げ、その倫理的先進性を世界に示したように見えます。
★1794年--フランス奴隷制廃止
★1802年--フランス奴隷制復活
★1807年--英帝国奴隷貿易廃止
★1815年--フランス奴隷貿易廃止
★1833年--英帝国奴隷制廃止
★1848年--フランス奴隷制廃止
実は、この歴史年表の裏に隠されている大事件に注意を向けなければなりません。それは、1804年1月1日、世界初の黒人独立国ハイチの建国宣言です。このフランス植民地サン・ドマングで起った黒人奴隷の大反乱と独立国の成立は世界史を震駭する事件でした。ここでもアングロサクソンは、会田さんのいう「勝利」を見事に勝ち取ったのです。コンラッドの『闇の奥』の100年前に、自ら奴隷の経験を持ち、異常に高度の知性と強烈な個性を備えた黒人トゥサン・ルヴェルチュールなどの指導のもとにフランス大革命の理念に基づく国家の建設が試みられたという事実は、『闇の奥』の読者の誰もが心得ておくとよいと思われます。

藤永 茂 (2007年3月14日)