私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

シムカップ(占冠)の森

2013-10-08 09:59:39 | 日記・エッセイ・コラム
 日曜の朝(10月6日)何とはなしにテレビを観ていましたら、北海道の「占冠の森」の美しい映像が流れ、そこに住む小鳥たちの子育ての様子や深々とした海霧の立ち振る舞いが目を楽しませてくれました。占冠(シムカップ)の村は富良野の南にあり、村のホームページには「占冠(シムカップ)の名前の由来は、アイヌ語の「シモカプ(shimokap)」からで、『とても静かで平和な上流の場所』のことを意味しています。その名の通り今も変わらず、静かで平和な村です。」とあります。その名にまことにふさわしい映像の数々を見ながら、心の中でとりとめのないあれこれの想いが流れました。それを書き留めることにします。
 カナダで私が住んでいたアルバータ州の首都エドモントン市を西から東に流れの速い大きな川が市街地を南北に分けて流れています。北サスカチュワン川がその名称で1300キロの長さの大河です。「サスカチュワン」は原住民(いわゆる北米インディアン)の言葉で「迅速で滑らかに流れる」ことを意味するのだそうです。考えてみると、カナダでは原住民が使っていた土地の呼称あるいはそれが訛ったものが多数使われています。アルバータ州の東の隣州はサスカチュアン州、その東にはマニトバ州(マニトゥ「大自然の魂」から)、その州都の名のウィニペグ(Winnipeg)は「濁った湖」を意味する言葉です。すこし昔のかたがたなら多分ミルンの『クマのプーさん(Winnie-the-Pooh)』をご存じでしょう。モデルになった小熊はウィニペグからロンドンに行ったのでした。そんな事を思い出しながら、ひょいと思いついたのですが、アイヌ語から取って無理な漢字を当てた北海道の地名はすべてアイヌ言語の発音に近いカタカナ表示に戻したらどうでしょう。北海道はもともとアイヌの土地だったのですから。「占冠」とむつかしい当て字を使うよりも「シムカップ」のほうが、誰にとっても、ずっと分かり易いし憶え易い。それに、この頃の日本人はやたらに外国語(米欧語)をカタカナにして使うのが好きではありませんか。
 今朝のニュースで大銀行からの暴力団への融資が問題になっていましたが、当事者たちが“コンプライアンス”などなどのカタカナ語を乱発するので私どものような老人には何のことかよく分かりません。普通の日本語に訳して分かり易く話をしてほしいものです。料理用語にしてもカタカナ語が、カタカナ野菜が、カタカナ食材が氾濫して、日本料理の言葉が滅びつつあります。日本料理を楽しむ日本人の本来の味覚そのものが失われつつあるかも知れません。
 いや、そんなことはある筈がない、日本人のほぼ誰もが食べることに異様なまでの執心で、その舌、その味覚をいやが上にも磨いている今の世の中、日本料理、中国料理、西洋料理を問わず、大小の名店や宿泊施設で名うての料理達人、名人シェフが絶妙な腕を振るい、その評判に惹かれて美食家たちが列をなすというのに、日本人の味覚のレベルが昔より劣化したした等という事はありえない、という反論が聞こえてきます。日本の食文化の高さは日本の誇りという声もあるでしょう。しかし、どうも心配です。
 私は、四半世紀ほど前に、臭覚に異常をきたし、やがて正常な臭覚を失いました。臭覚を失うことは同時に味覚の豊かさの大部分を失うことだ、覚悟しなさい、と世話になったカナダ人医師から告げられました。ですから私には料理のことをとやかく言う資格は全くないのですが、それでも時折読むのを楽しみにしている料理の本があります。湯木 貞一著『吉兆味ばなし 一、二、三』です。よい話が沢山あります。一例として、その二冊目(二)の35頁の「うす味こそ日本料理」のはじめのところを少し紹介しましょう。:
■ 日本料理でいちばん大事なことは、うす味でものを食べる、ということにあるとおもいます。
 うす味ということは、材料そのものの味を殺さない、引き立てるということで、そこが西洋料理や中国料理とちがうところです。ですから、ご家庭でも日本料理ふうなおかずを作られる場合は、なんとか、うす味のよさを味わう、ということを頭に入れていただきたいものです。
 このうす味というのは、日本料理のどれにいちばん表現されるかというと、それは、おつゆ、お椀物ですね。日本料理のいちばんは私たちは「椀、刺」とひとことにいいますが、ハイライトはなんといってもお椀とお刺身ですね。
 なかでも、このお椀の味にいちばん気をつかいますが、それができるだけうす味で、得心できる線にもっていく、それをたべたい、召し上っていただきたい、それが、日本料理の、もう真骨頂なのです。
 日本の国ってありがたいな、と思ってもらえるものの一つは、日本料理にあると思えますし、そこには、このうす味のよさというものが生きているからだと思います。
 その根本は、日本の国で育った自然のものを、その味を生かしておいしくたべる、それが日本料理のたてまえで、もし、うす味加減のたのしさがなかったら、日本料理を味わう幸福を、どこかへ落としてしまったようなものですね。■
 私はカナダ国籍を取って40年間カナダに住んでいましたから、私が日本に帰ると言い出した時には、多くの人が驚いたようでした。何度もその理由を質されて「日本のお漬け物(pickles)が食べたくなったから」と答えるのが常になりましたが、私の答えを聞いたカナダ人で、ピクルスという英語から日本のお漬け物の素晴らしい豊かさを想像しえた人はなかったと思います。いま考えてみると、私がその場逃れに思いついた方便の答えには自分の内心の真実が含まれていたようです。私は私を育んでくれた日本の山野、日本の食べ物、日本の暮しぶりが好きなのであり、40年間外国に住んでみてもその気持は変わらなかったという、それだけの事であったのだと思います。私は、この日頃また耳につきだした“愛国者”ではありません。日本人であることを特別誇りに思っているわけでもありません。自分の国が、自分たちが、他の国、他の国民より優れていて誇るべきものであると考えるのは決してよいことではないと思っています。害があるばかりです。米国をご覧なさい。ここで、湯木 貞一さんの美しい言葉に戻りましょう。「日本の国で育った自然のものを、その味を生かしておいしくたべる」のが「日本料理を味わう幸福」というものであって、それを「日本の国ってありがたいな」と思うだけで十分です。日本人らしからぬ昨今の美食文化の過度の喧噪の中に日本のこころを失うことがないようにしたいものです。

藤永 茂 (2013年10月8日)