私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ヨーヨー・マさんの事など

2009-02-25 15:57:08 | 日記・エッセイ・コラム
 ヨーヨー・マさんは1955年10月7日の生れ、まだ53歳の若さですが、古典音楽愛好者ならば誰もが知っている偉大なチェロ奏者です。もし個人的にお付き合いできたら、とても感じのよい人であろうと想像します。私は一介の音楽鑑賞好きとしてヨーヨー・マさんに好意を持ち続けていますし、以下に書くことで、彼の名を傷つける意図は全くないことを、はじめに明記しておきます。
 中国人を両親としてパリで生まれたヨーヨー・マさんは4歳でその音楽の天才を発揮し始め、1983年、まだ20代の若さでセバスティアン・バッハの『無伴奏チェロ組曲』の6曲全曲を録音しました。私はそのカセット・テープ版を早速買って随分と聴いたものでした。私は、それより前に、1936年から1939年にかけて録音されたパブロ・カザルスの全曲演奏をLPで聴いていましたが、技術的には、ヨーヨー・マさんの方が綺麗に弾けている感じでした。テープとLPの時代からCDの時代に移行するにつれて、フルニエ、マイスキー、ロストロポーヴィッチ、スターカー、トーテリエ、ビルスマとCDを購入してきましたが、この頃ではカザルスとスターカー(ヤノシュ・シュタルケル)ばかり聴いていて、昔はよく聴いていたヨーヨー・マさんやマイスキー、ロストロポーヴィッチなどはすっかり出番が無くなってしまいました。何十年も聴いていると、全く自分の好みに従って演奏者を選んでしまうからでしょうが、一方では、長い長い時間をかけているうちに、私のような耳も衰えかけた老人でも、優れた音楽の優れた演奏というものから、何か言うに言われぬ深く貴重なもの、たとえ、いっぱしの名演奏家でも、長い長い精進と修行の後でしか音楽として響かせる事の出来ない何物かを、聴き取ることが出来るようになるのではないか、という一種の自信あるいは自惚れのようなものを抱いてます。カザルスのバッハからは聴こえて来るけれど、ヨーヨー・マのバッハからは聴こえて来ないもの、それは何なのか? 達者な音楽評論家なら立ちどころに私の幻覚妄念の出所をアナリティカルに説明してくれるでしょうが、それでは私の直感を満足に説得してはくれますまい。
 去る1月20日、オバマ大統領の就任式で、ヨーヨー・マさんはヴァイオリンのパールマンなどと四重奏団を組んでジョン・ウィリアムの作品を演奏しました。たしかに実演奏ではあったのですが、就任式会場に流れたのは前もって準備された録音演奏でした。ウィキペディアによると、1987年、現天皇皇后のレーガン大統領訪問の際に、ホワイトハウスでヨーヨー・マさんの独奏演奏があり、2001年には、時の国務長官コンドリーザ・ライス(ピアノが大変上手)と組んでデュエット演奏、また、2008年1月には、トーマス・マンの小説『魔の山』で名高いスイスのリゾートで開催されたワールド・エコノミー・フォラムのパーティーにも招かれて演奏しています。ヨーヨー・マさんは世界の上流階級の人々に人気があるようです。そのこと自体でヨーヨー・マさんを批判するつもりはありません。芸術家として世界の人々と関わるモードを選択するのは彼の自由に属します。たしか私の大好きな玉三郎さんとも共同の仕事をしたことがあったと記憶します。ただ、ヨーヨー・マさんとカザルスのバッハの違いのことを想うと、「人間、二兎は追えないものだな」と痛感する次第です。政治との関わりのことではなく、芸術そのものについて喋っているつもりです。
 この数年、何度聴いても静かな喜びを与えてくれる素晴らしいCDがあります。レオン・フライシャーという1928年生れのピアニストの『両手(Two Hands)』です。彼は右手の運動障害のため1965年から両手でピアノを弾くことが出来なくなりましたが、近頃の治療法の進歩やリハビリの効果のおかげで、2004年に40年ぶりに『両手』の録音を発表して世界中から絶賛を浴びます。まあとにかく聴いてみて下さい。このフライシャーの音楽には40年の沈黙の年季が入っているのです。それが私のようないい加減な耳にも聞こえて来るのです。芸術というものの素晴らしさを思わずにはいられません。ヨーヨー・マさんと同じ中国人のピアニストで日の出の勢いの若い人がいます。ランランさんです。北京のオリンピックで演奏し、つい先頃、日本各地でも演奏会を開いていました。彼の売り出し方、あるいは、売り出され方から見て、社会的には、ヨーヨー・マさんの後を継ぐスター音楽家になるかもしれません。しかし、もしランランさんが、70歳、80歳になった時、フライシャーのように、バッハを、スカルラッティを、ショパンを弾きたいと願うのなら、一度立ち止まってよく考える必要があるのだろうと思います。
 フライシャーは長い間ボルチモアのピーボディ音楽学校で教鞭をとっていました。学生さんたちは、フライシャーを神様のように崇めていて、「ここはフライシャー教授が使っていたトイレだ」というサインまである由、ピーボディで教えていた私の長男の話ですから、まんざら嘘ではないでしょう。小沢征爾さんもフライシャーさんに惚れていたに違いなく、1986年から1997年まで、小沢さんの招きで、タングルウッド音楽センターの芸術監督の地位にありました。
 
藤永 茂 (2009年2月25日)