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生きること:過去と未来とエスペラントと

白菜の外葉

2021-01-09 22:03:39 | rememoro: 思い出
 昨日、農協の朝市で大きな白菜を買った。少々泥の付いた外葉を取った。緑色だがみずみずしくて新鮮でした。普段店頭に並んでいる外葉は水分がなくて硬い。子どもの頃のことを思い出して捨てるのやめました。

 小学5年生ぐらい(1950年頃)でした。私の住む村には結構朝鮮人がやってきて住み着きました。山奥の村で、水力発電所が次々に建設されていたのです。彼等は数家族でまとまって家を建てるのでした。家といっても小屋のようなモノで、建てるところを見に行ったら、部屋は一つと土間。土間には粘土を固めた調理用のかまどを作り、かまどから部屋の下を通るように地面に石を並べる。つまりオンドルです。こんな小屋を背中合わせに二つ同時に作るのだけれど慣れたもので、1日で仕上げるのです。部屋は6畳間ほどの板敷き。そこで家族4~5人が暮らすのです。
 田舎でも勤め人は食量が手に入らず、苦しい生活をしていました。朝鮮人家族は団結が強く、助け合って暮らしていましたが、食料を手に入れるのは本当に大変なようでした。

 我が家は長兄が農業を始めて2~3年経っていました。主食のお米には不自由していましたが、野菜は自給自足できるほどの収穫がありました。
 学校の帰り道、私は朝鮮人家族の子どもたちと友だちになりました。その一つの朝鮮人家族の中に弟の同級生がいました。いつか私は私より1年下のその子の姉と話すようになっていました。ある時その子たちの母親が、私に母を引き合わせてほしいと言ってきました。噂では彼女は夫に捨てられ、日本に逃げた夫を捜して日本に渡ってきたということでした。夫を捜しあてて数年暮らし、子どもが生まれる、夫が逃げる、また捜して同居、そうして、3人の子持ちになったということでした。良家の娘さんで学歴もある教養人ということでした、凛とした厳しさがあって近寄りがたい女性でした。

 家の裏で母に引き合わせると彼女は母に言いました。
 ’キムチを漬けたいけれど白菜が買えません。白菜を収穫したとに畑に残る外葉を頂けませんか’と。
 ’白菜は食べきれないほどあるから、差し上げます。’と母が言いましたが、彼女は外葉でいいと固辞しました。多分、不要なものは貰えても、産物として形あるものを人に強請るのは彼女のプライドが許さなかったのだと思います。

 母はミレーの絵が好きでした。特に’落穂拾い’が。落穂とは落ちている穂ではなく、土地の所有者が土地を持たない人のために畑に残して置く穂のことだと。私たちもあの絵の真似をしてみようと。

 翌日だった出ようか、日曜日に母の手助けとして私は白菜の収穫をしました。母は白菜の真ん中だけを包丁で切り取るように言いました。そうして、沢山の葉を残しました。
 夕方、私は白菜の収穫が終わったことを彼女の家に行き告げました。いつ彼女が残った葉を取りに来たのか知りませんが、翌朝、残した葉すっかりなくなっていました。

 冬のある日、そこの娘が学校の帰り私を待っていました。キムチができたけれど我が家に持ってくるほどの量がない。でも、せめて一口私に食べてほしいと母が言っていると彼女が言いました。

 私の母は私が朝鮮人家族のところに出入りするのはあまり好んではいませんでした。迷った挙句お呼ばれに行くことを許可してくれました。部屋は窓が一つ家具などなく布団が積んであるだけでした。いただいたキムチは本当に美味しかったです。




洗った外葉を今日干しました。計量したら650gありました。
即席キムチにでもしましょうか!
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