今年の神社例祭の閉めは、上郷町来内の伊豆神社。
あいにくの空模様、そして我が家のDELLが故障の中、現地へ飛ぶ。風がないので、幟も開かず。
御領分社堂では、板沢村 伊豆権現、俗別当長作とある。板沢ぶんでは、曹洞宗曹源寺の寺院持としての早池峰大権との二社のみ記されている。平倉村ではなく、板沢村に載っているところが面白い。今年は、始閣藤蔵が神社を建立して1200年にあたり、例年よりは人が多いとのこと。
この社殿については、江戸時代、中舘氏が寺社奉行の時に改築されたものと云われる。
その中館氏との関連で興味深いのは、昭和63年に修復工事をした際に寄附をされた方々の芳名額が外に掛けられており、遠野、盛岡、茨城、奈良の中館姓が確認できることである。集まっていた方々にこれについて伺うと、ここは藩政時代、中館氏の知行地であったことから、その関係者であろうとのこと。隣りの平倉周辺に行くと、福田氏の名前が見え、やはり知行地であったようだ。昭和の初め頃まで、平倉では、米が取れると町の福田さんの家へそれを運んだという話までお聞きする。
遠野市内の主だった神職の方々も参列され、伊豆権現と深い関わりのある早池峰神社の里、大出神楽の打ち鳴らしで神事が行なわれる。
また、大出早池峰神社の宮司氏の舞も奉納され、厳粛な時間が過ぎる。
拝殿上には「伊豆大権現」の掲額。願主は来内村小笠原孫之丞。そして、書作は及川藤原春明。春明?どこかで見た名前である。青笹町中妻観音堂にも関わる名前。同年代の額だとすれば、これは明和年間のものということになる。それにしても、春明なる人物は、本当は何者なんだろう?
神事の最中、「御低頭願います」の声の間、これ以上は下げれない程、頭を垂れるおばあさんを横に、妄想しつづける私に参拝のご利益はあるのだろうか?
おばあさんの奥には、どこかで見た女の人が・・・市の社会教育関連の行事で云った遠野七観音巡りで引率してくれた方だった。今日も何かを取材している様子。
計り知れないつながりがこの神社と早池峰神社との間にはあり、遠野三姫や瀬織津姫命など多くの切り口から学ぶことのできる土地柄。
神社前の「権現橋」の向山には、藤蔵の墓もあるのだとか。神事終了後に、行ってみたが、それがどこなのかは確認できなかった。昔は、墓石もあったと云われるが、今は無いとのこと。
今は無いと云えば、この田植踊り。ここには、南の山向こう住田町から伝えられたという「剣舞(けんばい)」もあったというが、どちらも廃れている。
隣に居たおばあさんに聞いたところでは、拝殿におかれた御神輿も、おばあさんが若い頃までは下げられたようであるが、若い人達が少なくなってきたことや、この例祭日が学校の文化祭と一緒の日となることから、年配者のみが参加する祭りへと変わってきている。
あいにくの空模様、そして我が家のDELLが故障の中、現地へ飛ぶ。風がないので、幟も開かず。
御領分社堂では、板沢村 伊豆権現、俗別当長作とある。板沢ぶんでは、曹洞宗曹源寺の寺院持としての早池峰大権との二社のみ記されている。平倉村ではなく、板沢村に載っているところが面白い。今年は、始閣藤蔵が神社を建立して1200年にあたり、例年よりは人が多いとのこと。
この社殿については、江戸時代、中舘氏が寺社奉行の時に改築されたものと云われる。
その中館氏との関連で興味深いのは、昭和63年に修復工事をした際に寄附をされた方々の芳名額が外に掛けられており、遠野、盛岡、茨城、奈良の中館姓が確認できることである。集まっていた方々にこれについて伺うと、ここは藩政時代、中館氏の知行地であったことから、その関係者であろうとのこと。隣りの平倉周辺に行くと、福田氏の名前が見え、やはり知行地であったようだ。昭和の初め頃まで、平倉では、米が取れると町の福田さんの家へそれを運んだという話までお聞きする。
遠野市内の主だった神職の方々も参列され、伊豆権現と深い関わりのある早池峰神社の里、大出神楽の打ち鳴らしで神事が行なわれる。
また、大出早池峰神社の宮司氏の舞も奉納され、厳粛な時間が過ぎる。
拝殿上には「伊豆大権現」の掲額。願主は来内村小笠原孫之丞。そして、書作は及川藤原春明。春明?どこかで見た名前である。青笹町中妻観音堂にも関わる名前。同年代の額だとすれば、これは明和年間のものということになる。それにしても、春明なる人物は、本当は何者なんだろう?
神事の最中、「御低頭願います」の声の間、これ以上は下げれない程、頭を垂れるおばあさんを横に、妄想しつづける私に参拝のご利益はあるのだろうか?
おばあさんの奥には、どこかで見た女の人が・・・市の社会教育関連の行事で云った遠野七観音巡りで引率してくれた方だった。今日も何かを取材している様子。
計り知れないつながりがこの神社と早池峰神社との間にはあり、遠野三姫や瀬織津姫命など多くの切り口から学ぶことのできる土地柄。
神社前の「権現橋」の向山には、藤蔵の墓もあるのだとか。神事終了後に、行ってみたが、それがどこなのかは確認できなかった。昔は、墓石もあったと云われるが、今は無いとのこと。
今は無いと云えば、この田植踊り。ここには、南の山向こう住田町から伝えられたという「剣舞(けんばい)」もあったというが、どちらも廃れている。
隣に居たおばあさんに聞いたところでは、拝殿におかれた御神輿も、おばあさんが若い頃までは下げられたようであるが、若い人達が少なくなってきたことや、この例祭日が学校の文化祭と一緒の日となることから、年配者のみが参加する祭りへと変わってきている。
お直会の席上剣舞の話を出したところ、今現在2名の方が舞を知っているそうであるが、伝授される方が居らないそうだ。
来内集落は35世帯余りで、わげすたずが居ないそうです。
お疲れ様でした。剣舞が復活することは、もはや無いのかもしれませんね。残念!
また、田植踊りについても、各地で踊られていながら、演目全てを継承している団体も、これまた無しと云ったところ。昭和も遠くになりにけり。