陽だまりの旅路イスキア

あ、slice of life…日向香を感じる日々の暮らし…

十五年目の鎮魂 私のあの日

2010年01月17日 | cocoro

2010年1月17日 日曜 快晴。
震災十五年を迎えた朝は
まぶしいほど晴れた。
見上げればひとひらの雲。
今日はやけに暖かい1.17だ。

あの日は寒かった。
三連休の最後の日だった前日。
少年野球で最年長になった上の子の
最初の試合が篠原公園で行われた。
新チームのレギュラーとして
これからの1年を戦う
その最初の練習試合だった。
忘れもしない。その夜は
家族みんなでその試合を振り返った。
翌朝にその指揮を執った松永監督が
倒れた柱の下敷きになって
亡くなるなんて夢にも思わなかった。
どこか泰然自若とした思慮深い
少年野球の指導者にしては
珍しく品のある素敵な監督だった。

五時四十六分。
下から突き上げるような激震。
気づいたら家の中が
ぐちゃぐちゃになっていた。
真っ暗な中、全員に安否を確かめた。
砕けたガラス片で足の裏を切った。
痛いとは思わなかった。やがて
眼下の公園の向こう岸の木造家屋に
ちろちろとした火が燃えるのを見た。
やげてその火は大きく燃え拡がっていった。
どうすることもできなかった。
そこでも数名の人が亡くなった。

子どもの同級生が亡くなった。
やがてその家族は神戸を離れた。
数年が過ぎ、意を決して家族は
再びその地へ戻ってこられた。
奥さんはなかなか戻れなかったのだ。
戻ってやらないとあの子が可哀想だと
解っていても戻れなかった。
悲しみに再び向き合うことなしに
人は生き続けることは難しいのか。

私の上の子はなんとか箪笥の下敷きに
ならずに助かり、その同級生は死んだ。
その違いをいくら考え詰めても
答えは永遠に見つからない。ただ人の
生き死には表裏一体なんだという思いは
ある輪郭を描いて強くなっていった。
この震災体験で、私の死生観は
どこか厭世的になったのかもしれない。

それまでゴルフに麻雀、酒飲みに
明け暮れていた会社人生が変わった。
ゴルフも麻雀も止めた。
酒は止められなかったが、ただ
新地遊びはほとんどしなくなった。
そういう会社人生一体の価値観が
なぜか虚しいように思えた。

震災の現場で一生懸命、人のために
頑張ってる人たちを見た。
会社で上に立って管理指導している
人たちのリーダーシップとは
全く別物だった。
その正義感から来る迫力と眼差し。
人間力とは学歴や職歴、肩書とは
全く無縁なのであると知った。

激震地であった私の家の前で
行き交う多くの消防車や警察官の人たち。
東北のナンバープレートを見た。
そんな遠くから駆けつけてくれている。
人間の心に誰でもある正義が
人を献身へと動かしている!
私はそのことにとても感動し
その光景が私にある動機付けをした。

4月に入り、いただいた義援金や
お見舞金を原資に、私は毎週末
新幹線に乗って東京まで通い
メンタルケアの講座に通った。
そして、その資格に晴れて合格。
それからの私は主宰する協会に提案し
その年の暮れから、仮設住宅への
訪問ボランティアを資格仲間と始めた。
私も悲しみに向き合わなければ…。
1年間活動を続けた。私には
ただ被災者としてだけ施しを受けながら
生きていくことに抵抗があったのだ。
この活動は、その後、老人ホームでの
痴呆高齢者の対話活動へと発展していった。
だが、老人ホームでも、いくつかの
死と向き合うことになったのだが
もう私は、死というものに対して
ただうろたえるということはなかった。

震災で多くの人が亡くなり、そして
もっと多くの人たちが、死の悲しみを
背負いながら生きている。わが街神戸。

今、私は広島に住む。
広島の八月六日と神戸の一月十七日。
二つの鎮魂の日は
生きていることと生きる意味を
私に気づかせ続けてくれる。
そう。私は、今、ここに
こうして、ただ生きていることで
多くの事に巡りあっているのだ。
死んだ人の歳を数えながら…
感謝の念をいだきつつ。

鎮魂は 平和にありて 思うもの 拙私有

合掌。
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