マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『謎解き 洛中洛外図』(著:黒田日出男 岩波新書)(その2)

2013年11月19日 | 読書

 黒田は自らが立てた4つの問いに対して、次の様に解をまとめている。
 ①いつごろそれは制作されたか・・・永禄8年(1565年)9月3日に完成された
 ②その作者はだれか・・・狩野源四朗(永徳)
 ③注文者は誰か・・・時の将軍足利義輝
 ④誰が、いつごろ、上杉謙信へこの屏風を贈ったのか・・・織田信長が、天正3年(1575年)に、上杉謙信へ贈った

 黒田は、「将軍足利義輝が、上杉謙信へ贈る目的で、狩野永徳に制作を命じたこと」は、各種資料などから確信を抱いていたが、「織田信長が贈り主」との説にはかなり逡巡をしている。
 『越佐史料』・『上杉年賦』・『北越軍記』などの史料群には「織田信長が上杉謙信に贈った」とする記述があるが、今谷によって、そのような史料群は根本史料(一次史料)とはいえないから、参考程度にしか扱えないとして採用されなかった。しかし黒田は、上杉家の近世史料では、何故かくも、贈り主を織田信長としつづけて来たのか。このことに徹底敵にこだわるべきではないかと考え、多くの史料を読み込んでいく。

 この作業の過程はドラマティックである。そして遂に『(謙信公)御書集』で、金脈にぶち当たったかの如く、次の内容を物語る記述に出合う。その場面は感動的でさえある。
 (a)尾張の織田信長が屏風一双を上杉謙信に贈った
 (b)その屏風を描いた画工の名は狩野永徳
 (c)屏風の画題は「花洛尽」つまり洛中洛外で、永禄8年9月3日に書かれた
 (d)謙信からは、この贈物の礼状が信長のもとに送られた
 

 注文主足利義輝から、贈主織田信長への”選手交代”。最終章には、歴史上の次のドラマが、推測を織り混ぜながら書かれている。
 「足利義輝は、屏風制作依頼の途中の永禄8年、松永久秀らに急襲され自害。制作を依頼されていた永徳は屏風の制作を続行し完成。永徳は、その後新たな京都の支配者となった織田信長に自己の画業を売込む一環として、この屏風を信長に披露。信長は対武田信玄包囲網の目的で上杉謙信と同盟を結び、その関係の中でこの屏風を謙信に贈る必要が生じ、贈呈した」と。


 
 この本に書かれた「美しい」解答は世に入れられ、新たな定説として定着をみたようである。


『謎解き 洛中洛外図』(著:黒田日出男 岩波新書)再読(その1)

2013年11月17日 | 読書

 東京国立博物館へ「洛中洛外図」を観に出掛けたことに触発されて、黒田日出夫著「謎解き 洛中洛外図」を再読した。実に17年振りのことである。
 この本は「洛中洛外図」のうち上杉本に関する≪謎≫の解明に挑み、その推理の過程を、あたかも上質のミステリーを読むかのごときタッチで表した力作で、興奮しながら読んだ記憶があった。精読による再読は、この屏風への理解を更に深めてくれた。

 黒田は、第一章でいきなりその謎を提起する。謎が謎として立ち表れてくるまでの“歴史”を、いささか長いが、要約してみよう。
 従来からの定説は『この屏風の作者は安土桃山時代の天才絵師狩野永徳とされ、1995年6月に国宝に指定されるに至った。見るものを「面白の花の都」へと誘ってくれる。戦国・近世大名の上杉家に伝わって来た作品で、1574年(天正2年)に、織田信長が上杉謙信に贈った屏風』とされて来た。
 しかしである。室町・戦国期政治史の卓越した研究者である今谷明の論文「上杉本洛中洛外図の作者と景観年代」で事態・事情は一変する。彼がその後、著書にまとめた今谷説の主要内容は
 ①上杉本に描かれている武家屋敷や寺社建築の景観は、1547年(天文16年)7月~閏7月に限定することが出来る。この屏風を制作した絵師は、弟子たちを走らせてスケッチさせ、それらをまとめあげて屏風に仕立てたのである。
 ②天文16年に満4歳であった狩野永徳がこれを描くことは不可能である。
 という分けで、定説の「作者=狩野永徳」を根底から疑い、その論拠を鋭く批判する、大胆な新説を提出したのであった。
 今谷説は、上杉本「洛中洛外図」論争に火を付けた。その説に対し、厳し批判・反論が展開され、その結果、大勢は、狩野永徳が描いたものとされるに至ったが、依然として解明されない幾つかの問題点が残り、黒田はそれを次のように整理した。
 ①いつごろそれは作成されたか、
 ②その作者は誰か、
 ③注文者はだれか、
 ④誰が、いつごろ、上杉謙信へこの屏風を贈ったのか

 この一連の4つの謎を解く試みとして本著「謎解き ・・・」は成り立ち、紆余曲折の推理の過程を、試行錯誤に陥った思考をも包み隠さず語り、最終的には「美しい」解決を与えたのであった。最終解決については次回で。
  


 


『国宝「卯花墻」と桃山の名陶』展を観る

2013年11月15日 | 映画・美術・芝居・落語

 11月12日(火)、表記の特別展を観に、家人と三井記念美術館に出掛けてきた。
 今、東京には多くの美術館が存在し、各種の展示会が積極的に開催されている。私は、その中でも絵画展には最近よく出掛けるようになり、自分なりの好きな画家や作品・作風も出来てきている。しかし、書は、自分の文字が拙いこともあり、まるで良く分からない。陶磁器は初学者の粋を出ないが、沢山の作品を鑑賞して、少しでも目を肥やしたいとの思いはある。今回もチケットを頂いた三井記念美術館では、国宝の志野茶碗(銘「卯花墻」)が出品され、併せて桃山の名陶器が数多く展示される事を知り、鑑賞というよりも、学習の絶好の機会との思いで出掛けていった。

 

 

 今回展示されたものは、すべて桃山時代から16世紀~17世紀にかけて、美濃地方で焼かれた志野、黄瀬戸、瀬戸黒、織部の4種類。展示室4に置かれている焼き物は全て志野。展示室5は黄瀬戸と瀬戸黒。展示室7は織部のみ、と部屋毎に焼き物が画然と分かれて展示されている。志野は茶碗、香合、向付、文鉢などが33点ほど展示され、これだけ集中的に鑑賞すると、その共通の特徴に気づかされる。白い釉膚に文様が鮮やか。織部は47点もが出品されていて、どれも皆緑釉が特徴的だ。

 展示品100点余りの中で、分けても志野焼きの茶碗が優雅に見える。その志野の一種で鼠志野についての解説には「鉄化粧を施した素地を篦で掻きおとして文様を表し、厚く長石釉を掛けて焼いたもの。鉄が焼けて鼠色を呈する」とあり、途中の作業過程は理解し難い部分もあるが、最終結果が鼠色となったものを鼠志野と呼ぶことは”論より証拠”で良く理解できた。(写真:国宝 志野茶碗 銘卯花墻)
 少なくも、ここに登場した焼き物を見て、それが何焼きかが分かると良いなと思う。


   (鼠志野桧垣文茶碗 銘さざ波)


        (紅志野撫子文鉢)


     (重文 志野茶碗 銘広沢)


      (志野橋絵茶碗 銘橋姫)


 


蓼科秋景

2013年11月13日 | 信濃紀行

 11月初旬に出掛けた蓼科の山小屋。3日~4日は郡上八幡へと遠出したが、それ以外の日々は、蓼科周辺をドライブした。紅葉の盛りに出向いたことは意外に少なく、初めて行った場所や、初めて出会えた風景が幾つかあった。

 ①車山観測所・・・2日は快晴との予報だったので、霧ヶ峰方面へ車をはしらせ、富士見平からの、富士山や南アルプスの撮影を狙ったが、遠景は靄っていて、撮影を断念した。ただビーナスラインからは、八ヶ岳や蓼科山の黄葉が見てとれ、青空を背景に車山の
気象レーダー観測所がくっきりと見渡せた。ぱっと見には満月の様に見える。







          (黄葉する蓼科)

 ②御射鹿池(みしゃがいけ)・・・湯みち街道を茅野方面へと下る途中の道沿いにかなり多くの車が駐車しているので、何事かと車を降りて、少し歩き下ると大きな溜池があり、撮影をする多数の人・人。掲示版には「御射鹿池」と書かれ、この池のいわれが述べられている。何と、東山魁夷の1972年の作品「緑響く」のモチーフとして有名な池とある。蓼科に通い出して18年になり、この池の前を何度か通ったはずだが、この池の記憶は全くなかった。奥蓼科の、黄色く色づいた、低い山並みを反射させるこの池に、カメラを向けた。(写真:色づく御射鹿池周辺)

 御射鹿池は、1933年にため池として完成され、流れ込む冷たい水を溜め、温めることによって農業用水として使用できるようになったそうで、酸性が強いため魚などは生息出来ない。
 帰京してから調べたのが、下の「緑響く」の作品。雰囲気はやや似ているようにも思えるが・・・。



 ③横谷観音遊歩道・・・横谷渓谷は、奥蓼科温泉郷を流れる横谷川が造る渓谷だが、滝が多く、紅葉の見どころも多い。湯みち街道から、渓谷脇の横谷観音への道を、初めて家人と散策した。ここに紅葉する木々は自然林ではないが、紅葉の盛り、見事に色付いていた。
 

 ④自宅階段・・・中古別荘を購入して18年になる。買った時が既に築15年と聞いていたから、建築後30年以上経ち、いたるところにガタがきている。売ろうにも売れない状況で、最近はここを中継基地的に利用することも多い。先日の台風の影響により、階段への倒木があり、ノコギリを持ち出してきて切ったほどだ。その時、階段の枯れ木を取り除いたが、枯葉はそのままにしておいた。その風景をよく見ると、相当傷んでいる段階を超えて、何やら侘寂の風情さえ感じられる。この感情は手前味噌かはたまた身贔屓か。

 山小屋の清掃と水抜きは管理センターに依頼し、私たちは、小屋の冬支度は何もせずに帰京した。来年は4月20日からここを訪れる予定だ。

 

 


『茅ヶ岳』へ

2013年11月10日 | 山旅

 中央本線が甲府を過ぎて、韮崎に近づくにつれて、行く手右手に秀麗な山容が姿を現す。時として、乗車している人から「八ヶ岳だ」との声が聞こえてくることもある。左にあらず、俗に”ニセ八”と呼ばれる茅ヶ岳(1704m)だ。『日本百名山』の著者深田久弥終焉の地でもある。(写真:右が茅ヶ岳、左が金ヶ岳)
 今年の秋はこの山に登ろうと、菅原さん・甥・私の3人での登山計画を立て、11月9日か10日の天気の良い日を選んでの登山と決めていた。ところが、その数日前に妹夫妻を、水道橋にある「80円ビール」に案内した際に、「私達も参加したい」との話が出て、結局5人で、11月9日(土)の昨日、茅ヶ岳に出かけて来た。
 
六郷に住む甥は朝4時半に車で自宅を出発し、途中巣鴨で両親を拾い、6時少し前我が家到着。菅原さん宅到着が6時52分。中央高速を韮崎ICで下車し、登山口着9時35分。小さな駐車場はマイカーで満杯だった。山梨百名山のこの山、意外に人気が高い。

 9時50分登山開始。黄葉した樹林帯の緩やかな登山路が続く。晴天とまではいかないまでも、秋の、穏やかな登山日和。途中林道と交差しながら、のんびり歩く5人を軽やかに追い抜いて行く人あり。「健脚の方はどうぞお先に」とお声を掛けたのが、会話のキッカケだった。今回が今年3度目の茅ヶ岳登山で、甲府在住の方の話が面白かった。「幼いころ父に連れられてこの山に登ったときに、茅を採ったように、この山の麓には、茅が多い。これが山の名の由来です。またこの山は火山でした」などと、問わず語りの話が続く。近々に職場の若いものをつれての下見登山とも知る。この方の発音は、”カヤ”にアクセントがあり”ガタケ”が弱い。この発音が面白く、5人は帰りの車の中まで、この発音を真似して、会話を楽しんだ。



 彼が消え、稜線に出たとこからが急登。標高差150mほどで、時間にして30分弱。麓から2時間半のアルバイトで、漸く着いた山頂は満員。南アルプスは微かに稜線の肩を見せる程度。金峰山は山頂に雲がかかっていて、眺望はイマイチだが、湯を沸かしての昼食。コーヒーや、気付け薬などが登場し、皆、満足の楽しいひとときを過ごした。







 



 13時下山開始。この山も紅葉ではなく黄葉が見事。14時55分駐車場着。帰りは「武田の里 白山温泉」へ。露天風呂から茅ヶ岳が望めた。今までは、幾つか見える山容全体を「茅ヶ岳」と思っていたが、実は右手の丸い山が「茅ヶ岳」で、その左にあるやや高い山が「金ヶ岳」と知った。内風呂は40度で、長風呂に適温。長時間入浴し、山歩きの疲れを癒した。
 この日一日中運転の甥は多分夜11時頃の帰宅だったろう。超長時間の運転を、ただひたすら感謝。そのお陰もあり、一人分の交通費はガソリン代+高速料金合わせて1600円と超お安く済んだ。夕食は「スシロー」に寄り、コンピューターでの注文を初体験。妹夫妻宅に一泊して、10日の今日自宅に戻った。この5人での登山は初めてだったが、会話が弾み和気藹々の山旅だった。