マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

“社会奉仕の日”に

2018年09月25日 | 文高連

 文高連から「各高齢者クラブは年に1度は社会奉仕の日を設けて下さい」の様な要請が来ている。それを受けて私達富士前福寿会は毎年富士神社の清掃をすることにしている。
 9月20
日、会員6名で神社全域の落葉の清掃をした。富士神社には毎日お世話になっているから社会奉仕というより自宅清掃の気分。境内はかなりの広さだが1時間ほどの作業でほぼすべての清掃を終えた。
 本殿へと続く、いわゆる男階段は23段の急階段。会長曰く「あそこは危険だから一番若い人にやってもらおう」とのことで、72歳のお若い方にその作業が回っていって、77歳目前の私には緩やかな女階段が回って来た。清掃中、本殿脇に咲く曼殊沙華に気が付き、清掃を終えた後撮影に向かった。もう曼殊沙華咲く季節がやってきていたのだ。
 富士神社には石造の遺跡が多く残されていて、石故に長い年月の雨風に耐え、歴史を語ってくれる。曼殊沙華咲く辺りの標石に興味を抱いた。
 かって流し読みした『駒込富士神社誌』(著:飯塚文治郎)を再度借りてきて紐解いた。
 
右写真の標石。私が清掃した女階段の願主は〇瀧講中、惣同行と記されている。ここから著者飯塚さんは次のように書いた。
「男講中でなく女講中が力を合わせて女坂を設立し、修理したもので、坂を上り切ったここに記念標石を建てたと考えられる。石工もここから程遠からぬ小石川白山下の、石工五郎兵衛に依頼したもので、富士社を中心としたあまり遠くない女信者が参道を造ったのである。文政6年には既に坂のあったことも考えられる。当時は飛石位の簡素なものであったことも想像できるのである」と。
 
職人さんが標石の文字に朱を入れているのを何度か見たことがあった。多分現富士講が依頼している、石造の標識への毎年の朱入れ。(写真:上は標石の正面。下は裏面)

 
 富士神社境内の石刻と塔碑を調査・研究した『駒込富士神社誌』は、今から50年以上も前の昭和39年に発刊されている。朱入れと神社誌。それらが無ければ見逃され、忘却されてしまっただろう歴史的事実。社会奉仕の日から数日後、予期せぬ事実を知ったのだった。
 女坂は文政6(1823)年に〇瀧講の女衆によって造られたのだ。









 今日は二葉:左は神社に咲く彼岸花。右は三脚を用いないで撮影した中秋の名月。
  

 

 

 

 

 


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