マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

円通寺の石碑(海老床地図から その1)

2017年05月28日 | 街道を行く

  江戸時代の髪結床の系譜を引く理髪店「海老床」の十代目店主嶋村八十八氏は”海老床地図”中、1935(昭和10)年7月付けで次の様に記している。()内は私の注。
 「明治42(1909)年の3月頃、東京名所図絵の内本郷区之一部を一冊友達より借りて見るに、昔の駒込冨士浅間と神明宮付近の絵図有りければ父に見せしに、ほぼ此様なりしが違ふ所も多しとて詳細に語りければ、此の話絵図に描きたらば昔を偲びて面白からんと暇あるごとに父に聞きて下書きをなし・・・」とある。すなわち、八十八氏が父上から聞いた話を絵図に書く加えて下書きし、その後、安政年間(1854年~1860年)に設定し浄書したものが”海老床地図”である。その地図は2015(平成27)年に文京区の文化財に指定され、教育委員会によって調査されて報告書が出された。(写真:現在の海老床さんのお宅はそれなりの雰囲気が漂う)







 その地図を飽かず眺めていて気が付いた、ミクロな事柄から書き始めたい。その手始めが円通寺の石碑だ。

 海老床地図を片手に岩槻街道(地図上には日光街道と書いている)を日光方面に向って旅するとしよう。文京区浅嘉2丁目を過ぎると、街道左手には定泉寺・目赤不動・養昌寺などの、現存する寺が次々に現れ、やがて右手に大きな山門を構える吉祥寺が見えて来る。吉祥寺も過ぎると、左手に大運寺。そのお寺さんを過ぎて直ぐを左折すると、円通寺表門通となる。その角に「石ひ」と書かれている。(右図参照。K点の左側)
 実はその角っこ(K点と表示)には、現在、なんと富士前福寿会々長の小林さんが住んでおられる。彼はこの地には小学生だった昭和20年代前半から住んでいるとのことなので、ひょっとしたらこの石碑に付いて知っているかも知れないと思い聞いてみた。



 彼曰く「私が小さい頃石碑はあった。その石碑目がけて野球のボールを投げて遊んだものです。ボールが当たらないとボールは本郷通りを転がった。車の通りが少ない頃だったから気軽に通りに出たね。そのうち、円通寺参道(地図上は表門と記載されている)に車が通る様になり、石碑は邪魔だということになり、円通寺さんが、寺内に移した。その石碑は寺を入って直ぐのところにあるよ」と。これは凄い”証言”だと思った。(写真:現在の円通寺表門通り)











 石碑にボールを投げぶつけるなどしてバチはあたらなかったのだろうか。輪投げのコントロールの良さは少年時代のこの鍛錬に由来するかもなどと余計なことを思い巡らしたが、それは兎も角、早速、通り突き当りにある圓通寺(現在の寺名)に行って見た。石碑ありました。(右図)。表には「文殊大吉 観音大吉」と書かれ、裏側には芭蕉三世弟子”大蟻”とやらの一句が彫ってあった。図らずも安政年代の石碑に巡りあったのでした。(写真:左が石碑の表側。下は圓通寺正面入口)
 
                                                   

   
     (石碑の裏側)                   (圓通寺境内)

  


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