実は荒川放水路を開削しただけでは、洪水対策は不十分でした。増水時、隅田川へ流れ込む水量を調節する弁、すなわち、後世言うところの岩淵水門をも作り上げなければ、大洪水を防げないのです。こちらの工事は大正5年(1916年)に開始され、大正13年(1924年)に完成しました。荒川放水路も岩淵水門の工事も、その指揮したのが青山土(あきら)でした。
青山は25歳で東京帝国大学土木工学科を卒業後、単身パナマに旅立ち、パナマ運河建設に参加し、8年間建設工事に従事した後、その技術を日本の持ち帰り、帰国後は東京土木出張所の技官として勤務。放水路開削の中心人物として次第に頭角を現し、工事責任者となります。
更に同時並行して進められた岩淵水門の工事主任ともなります。水門工事は、地盤が軟弱であったこともあり、当初から難航。青山の採用したコンクリート工法を用い、18mも掘り下げて強固な基礎を築く。完成以来、水門は幾多の濁流に耐え、隅田川への水流を調整し、赤水門と呼ばれ、まさに”水神さま”として首都を守り続けてきたとのことです。
昭和57年(1982年)には少し下流に近代設備を整えた新水門(青水門)が完成し、旧水門はその役目を終えた。そのときの検査では、劣化もなく、驚くほど堅固だったという。青山はじめ当時の技師たちの精魂込めた仕事ぐりがうかがえると、「荒川新発見」はその日の記事を締めくくっています。(新水門:青水門)
西の京都では、弱冠22歳で琵琶湖疏水工事の責任者となった田辺朔郎が、東の東京では、33歳で放水路開削に従事した青山土が、明治から大正にかけての時代の中を、志をしっかり持って逞しく生きた証を、今私達は、西に、東に、見ることが出来ます。
(対岸は埼玉県。注ぐ川は新芝川)