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マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

エルトゥールル号遭難事故

2016年06月15日 | 歴史

  新協建設から送られて来たパンフレットにはエルトゥールル号遭難事故について簡単に書かれていて、64日の「訪ねる会」の当日、詳しい話が萩原さんから紹介された。
 1890(明治23)年916日夜半、当時のオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)海軍の軍艦エルトゥールル号は和歌山県串本町沖で台風に遭遇し、遭難・座礁後水蒸気爆発した。乗組員600余名のうち生存者僅かに69名、500余名が死亡・行方不明の大難にあった。
 海に投げ出された乗組員のうち何人かは必死に紀伊大島にある樫野埼灯台下に流れ着き、数十メートルの険しい断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守や村民は応急手当を行ったが、お互いの言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国の海軍軍艦である事を知った。(写真:和歌山県串本町に建てられたエルトゥールル号殉難将士慰霊碑。Wikipediaより)




 それからが大変で、通報を受けた大島村樫野の住民たちは、総出で救出・救助と生存者の介抱に当たった。貧しい村故食料の蓄えは僅かだったにもかかわらず、住民は食料や衣類などを進んで供出し、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、紆余曲折をへて本国へ生還することが出来た。(写真:エルトゥールル号。Wikipediaより)




 そこから話は突然、1985年に起こったイラン・イラク戦争に飛んだ。

  1985317日、フセイン大統領は48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃すると突如宣言した。この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人は自国の航空会社や軍の輸送機によって順次イランから脱出していった。ところが、日本ではそうではなかった。ただちにJALにチャーター便の派遣を依頼したのだが、安全が保障されないことを理由にこの要請を拒絶された。200名に上る日本人のみが空港に取り残された。

 そのピンチを救ってくれたのがトルコ航空の旅客機。自国民救援のための最終便を2機増やし、”企業戦士”とその家族ら215名の日本人はそれに分乗してイランを脱出した。タイムリミット前あと1時間15分だった。結果として、日本人は自国の政府や航空会社から見放されたこととなり、トルコ国の力によって救われた。萩原さんはこの点を強調した。
 身振り手振りを交えての熱弁。胸が熱くなる話でもあった。トルコ政府の英断には、エルトゥールル号事件が語り継がれて来たことも背景にあるだろうと私は思った。 

  この話をより詳しく知ろうと、早速、映画『海難 1890』を借りて来た。昨年暮れに制作されたこの作品は、幸いなことに68日からレンタル開始だった。更には『海の翼』を借りてきて読み終えた。これらは次回以降のブログで。