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マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

縄文の夜神楽

2016年09月06日 | 歴史

 826日、中ッ原遺跡から縄文考古館へ行く途中JA信州に寄って自宅への荷物を発送した。その時に見たのが右のポスター。「縄文の夜神楽」と題する縄文遺産写真展だった。縄文文化の一端に触れた私は「この写真は何だろう。縄文遺産写真としてどんな写真が展示されているのだろう」と強い興味を持ち、行動予定を増やし、展示会場の「Ring Link Hall」にも回ることにした。車で回っている有り難さで、臨機応変の行動が可能だった。

 展示会場は原村ペンション群の一角にあり、現在はペンションとしてではなく各種イベントの会場として使用されているらしい、元ペンションだった。作品を眺め始めるとコーヒーのサービスがあり椅子席からの鑑賞を楽しませてもらった。程なく撮影者滋澤雅人さんが見え、作品展の概略と個々の作品について解説・説明をしてくれた。

 縄文の土偶や土器を太陽光の下で鑑賞するのではなく、焔光の如き仄かな光で照らし出して眺めると、今まで見て来た土偶や土器とは全く違ったものが忽然と出現したそうな。夢幻の妖姿の数々・・・。例えばそれは人間の顔であったり、猿の顔であったり。この玄妙な妖美に魅せられて、滋澤氏は全国18ヵ所の博物館で、平成14年秋以来大型モノクローム・フィルムで土器・土偶を撮影してきたそうな。方法論としては縄文土器・土偶を暗室で一定の光を当てモノクロ・プリントにするとか。
 そうすることにより、土器・土偶の造形美を際立たせるだけにとどまらず、雄大な「縄文」の存在を浮かび上がらることが可能になるそうな。私には理解出来ない部分もあったが、人間や猿の顔が浮かびあがってくるのは作品を観てよく理解できた。
 これらの作品を自宅でも観賞しようと写真集『縄文の夜神楽』(発行:KKエクセレント 定価2000円)を購入した。巻末の作品目録には撮影した土偶・土器の所蔵館が書かれていた。富士見町の井戸尻考古館や御代田町浅間縄文ミュージアムなど、その前を素通りした博物館も登場している。機会があればそこにも足を延ばしたいと妻と話した。

 「縄文の夜神楽展」のHPを2つ紹介します。是非こちらを訪問してみて下さい。
   http://www.yokagura.com/site/Gal/pr/ichikawa/index.htm
  http://www.yokagura.com/site/jomon/ent-1/index.htm

  (付記:写真展は9月11日まで。原村「Ring Link Hall」で。TEL:0266ー55ー5297)
   又、写真はいずれもサンプルを掲示した。
     
   (富山県埋蔵文化センター蔵)      (伊那市創造館蔵)

 


「縄文のビーナス」の謎

2016年09月04日 | 歴史

 茅野市内はもちろん、日本で見つかった殆どの土偶は壊された状態で出土しているとか。にも拘わらず国宝「縄文のビーナス」は棚畑遺跡の中央に位置する第500号土坑から、寝かせるように安置した状態で、“五体満足に”出土した。この出土状況からは、壊す意図がまったく感じらないそうで、何故壊されないままに埋められていたかは出土当初からの大きな謎であったそうな。(写真:ビーナスの右側面)
 その謎に対しては幾つもの仮説が提出されている。
 私は『国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生』(著:鵜飼幸雄 発行:新泉社)を読んで、なるほどと思える仮説に出合った。今日は以下にその要旨を綴りたい。




 
 まずは黒曜石について話が展開する。『縄文人は食を得る手段として主に狩りをして暮らした。弓矢の先に付ける矢尻を石で作った。矢尻として、適当な堅さと強さがあり、細かな加工をする上で最適なものが黒曜石。霧ヶ峰は良質の黒曜石の原産地であつた。棚畑遺跡に隣接する駒形遺跡は、黒曜石の集散、あるいは石器製作の中心的集落であったことが分かってきた。黒曜石製品や黒曜石原材は「縄文王国」の特産品として広く関東地方や東海地方にまで流通品として伝わったに違いない』と話が進んだ後、







 『棚畑遺跡は、黒曜石の一大集散地域のなかで、枢要な拠点集落の1つであった。集落の中には大勢の人びとが集ったであろう大型住居もあった。黒曜石や石鏃を求めて、絶えず各地から縄文人が棚畑集落を訪れたに違いない。多くの人が集い、彼らの間に感謝と喜びを共有する感情が生まれたであろう。そこに「まつり」という行為が営まれ、そのシンボルとして何かが求められる・・・』。鵜飼の説はそこで一時止まっている。
 鵜飼は自説を語るに変えて、彼の考古学仲間三上徹也の意見を紹介している。
 <・・・こうした土偶が夕暮れ時、集落の中央でかがり火に照らされ、浮かび上がる姿を見た人々の興奮を推し量ることは容易である。そこに集まった人々は、棚畑遺跡をはじめ近隣の集落の者や、甲府盆地から松本平に及ぶ広範囲からの縄文人であった。何のために人々は遠くから集まったのか。連帯の確認・情報や物資の交換・豊饒祈願や感謝の祝いもあったかもしれない。しかし、男女の出会いの機会であった意義が一番であった気がしてならない。・・・
>(写真:上は棚畑遺跡出土の黒曜石の石鏃など。下の写真は棚畑遺跡からの黒曜石供給ルート)
 
 古代日本の風習であった歌垣に相当する「まつり」
のシンボルとして「縄文のビーナス」を見ているわけである。
 『その点でビーナスは多くの土偶とは異なる。象徴は壊されることなく最後まで大切にされ、手厚く埋納されたのだ』と鵜飼は結んでいる。


縄文文化に触れて(尖石遺跡・縄文考古館・縄文のビーナス)

2016年09月01日 | 歴史

 私たちが蓼科の別荘を購入してから21年になった。以来幾度となくこの地を訪れ、蓼科や八ヶ岳山麓に遊んだ。その美しく豊かな自然に接しながら、今から5000年前にこの地に豊饒な縄文文化が繁栄していたことは殆ど知らなかった。尖石遺跡はそうした八ヶ岳山麓の縄文文化を代表する遺跡で、八ヶ岳の西山麓の標高1080mの台地にある。八ヶ岳から諏訪湖にかけて“縄文王国”があったのだ。何度となくその近辺を通りながらこの遺跡を訪れたことはなかった。別荘を壊すことになった後に、この地を再訪したくなるものに巡り合ってしまったのも運命の皮肉か。(八ヶ岳西山麓)


(赤い印が縄文遺跡の発見された場所。諏訪湖を中心に東に広がる)

 「尖石縄文考古館」には、尖石遺跡発掘上の伝説的人物・宮坂英弌氏が詳しく紹介されている。彼によって発掘調査が行われ、多数の竪穴住居址とともに土器や石器が発見され、中部山岳地帯の高原地に繁栄した縄文時代中期の文化と集落が明らかにされた。遺跡の南斜面には三角錐状の、「とがりいし」と呼ばれ石も発掘され、縄文人が石器を研いだものと推定され、遺跡の名前の基となった。(写真:宮坂氏を讃える掲示)







 その尖石遺跡を代表する土器が、右写真に見る如く、高さ19.5cmの深鉢型土器で、縄文が付けられていて完全な形で発掘された。考古館は写真撮影が可で、その撮影したものの幾つかを以下に掲示。

   

                      (この土器も”ビーナス”と同時に国宝指定)

  
(『縄文に学ぶ』より焼町土器)   (『縄文に学ぶ』より曽利式土器)



 しかし、何といってもこの考古館の花形は、我が国最初の、縄文時代の国宝土偶「縄文のビーナス」と「仮面の女神」。(写真右:館内で撮影したもの)

 「縄文のビーナス」は、尖石遺跡から西へ5kmの地点にある棚畑遺跡から出土した。小さい顔・妊婦を表す腹部・大きく安定感のある腰と尻・太い足でしっかりと立っている身長27cmの土偶。親しみを感じる土偶だ。(写真下:『縄文を学ぶ』より)

      
                                            
 第一発見者は、主婦で諏訪地方の遺跡発掘調査に参加していた関喜子さん。彼女は回顧談のなかで「・・・竹ベラでわずかに出ていた部分を堀り始めました。土器片だと思ったのですが、少しずつ形が現れ土偶と分かりびっくり。胸をどきどきさせながら調査員の人と丁寧 に堀り、やがて見たこともない大きな土偶が完全な形で姿を現したときは、経験したことのない感激でした。もう夕暮れ時刻だった。4000年余の眠りから覚めた土偶を、西に傾いた太陽が、スポットライトのように照らしていた。廃土の山にはイヌタデが真っ赤に燃えていた。こんな歌ができた。
 ≪掘り進み膨らむ胸に触れしとき わが血土偶に流るる覚ゆ≫」と語っている。19869月8日 夕暮のことだった。(写真3:このような状態で出土した。『縄文に学ぶ』より)


 この土偶はその後3回海を渡った。ニューヨーク「日本陶器の源流展」、パリ「縄文展」、イギリス大英博物館「土偶展」と。見学した世界の多くの人々の心に深い感動を与えた。2009年の「土偶展」では「仮面の女神」も展示され、8万人近い欧米各国の人びとがみつめ、縄文文化のすばらしさが世界に発信された。帰国後に東京国立博物館で「国宝土偶展」が開かれたが私は見ていなかった。


縄文文化に触れて(中ッ原遺跡)

2016年08月31日 | 歴史

 茅野市には国宝が2つもある。1986年に発見され、1995(平成7)年に国宝指定を受けた「縄文のビーナス」と、2000年に発見され、2014(平成26)年に国宝指定を受けた「仮面の女神」で、いずれも「尖石遺跡 縄文考古館」に所蔵されている。長野県には国宝が8つあり、昨年訪れた富山県には国宝が1つであったことなどと比較すると、その凄さが分かる。

 「仮面の女神」は見たことがなかった。今回の旅行の最終日には「縄文考古館」と、「女神」が出土した「中ッ原遺跡」を訪れようと決めていた。数ヶ月前に見たNHKスペシャル“御柱”では、御柱を立てたと思われる穴に柱が立てられているとも放映されていた。(写真:「仮面の女神」と名付けられた)



 今回の旅の最終日の826日(金)
 
ビーナスラインには「中ッ原遺跡公園」入口と書かれた看板が出ていた。何度もこの前を車で通ったが気が付いたことは無かった。多分「仮面の女神」の国宝指定以降に看板も作られたのだろうと思いながら進むこと僅か1分で公園到着。やや離れた駐車場から8本の柱が見渡せた。(写真:8本の柱が長方形状の建てられている)

 立看板から以下のことを学んだ。
 
≪中ッ原縄文公園は、茅野市湖東山口に位置する中ッ原遺跡の一部を保存し、特に土偶「仮面の女神」の出土状態を現地に再現するために2002年に作られた。
 中ッ原遺跡は縄文時代の、大規模な集落址として昭和初期より調査が行われ、現在までに竪穴住居約200軒、土抗約3400ヵ所が発見され、この地域の中心的なムラであったこともわかっている。
 ムラは中央の土抗群を囲むように竪穴住居址が配された環状集落の構成をとり、土偶「仮面の女神」も 竪穴住居址に囲まれ墓などが作られる中央部の杭に横たえたような状態で発見された。
 
この遺跡は縄文時代中期から後期の長期にわたり、多くの住居が作られていることや、土偶、ヒスイ飾り玉を副葬する墓などが作られていることを考えると、この地域に中心的なムラであったことがうかがえる。≫

  まずは8本の柱を見た。4本は御柱のような高さで、他の4本はその1/3くらいの高さしか無かった。説明板には“8本柱方形柱穴列”と書かれていた。8ヵ所が長方形に並ぶ大型土抗に、柱を発掘調査の成果をもとに復元。上部構造は不明だが「おんばしら」等のモニュメントや高床建物等さまざまな構造が考えられる、とも書かれていた。
 高い方の4本はすっくと立っていて気高ささえ感じられた。





 
その隣に「仮面の女神」出土を復元したものが作られていて、女神は土の中に横たわるように埋められていたことを知った。これらを見学した後に考古館へと向かった。(写真:出土状況が復元されている)


 


草野さんの「退職慰労会」を開催

2016年07月31日 | 歴史

 4月から思い続けてきたことがあった。63日、高尾山からの帰り、菅原さんと一献傾けながらそれを提案すると「是非。私も協力したい」とのことだった。後日寺井さんに、その様な会が既に行われましたかと聞くと「小規模のものはあったようですが・・・。私も協力したい」とのことだった。これで、3人が幹事となっての会を開催しようとの思いが固まった。

 草野さんの退職慰労会である。彼は定年まで教え続けるはずだった仕事を断念し、請われて日教組の専従執行委員に転じねばならなかった。定年時の役職は書記次長。多忙で苦労の多い激務であることが想像出来た。全国教研集会の開催ひとつとっても、開催を妨害しようとする団体があり、警察とも相談しながら開催に漕ぎつけたこともメールで知った。その彼が今年3月、兎も角大変な役割を終えた。これには是非ご苦労様会を開催し、一言「お疲れ様でした」と言いたかった。

 彼からは「ごくろうさん会というよりも、その辺をネタに一杯やる、という感じにしていただいたほうが有難いです」との趣旨のメールが来て、729日の開催が決まった。

 一昨日は17名参加のもとの慰労会。向丘の元同僚が14名。4支部で活動を共にした方が3名。お互いに気心が知れた仲間たち。会は想像していた以上に盛り上がった。
 皆一言ずつ彼と関わりや自分の近況を語った。半数の方が語った時点で、プロジェクターを使用してのスライド上映。私が準備しておいた。主役は草野さんだが、他の16名は準主役。この日の出席の方全員が登場するように編集しておいた。画面は登山・ランニング・温泉・スキーなどが多かった。30年近くも前のことだが、この仲間を含むメンバーでよく遊んだものだと改めて皆思ったことだろう。
 プレゼントは私の妻が作成したポシェットと図書カード。私は彼の新任の頃から定年までを直ぐ間近で見て来たというか、付き合わせて貰って来た。呑むと私はダラシナクなる質で、彼は何度も何度も自宅まで送って来てくれた。そのお礼の意味も込めて妻が手作りをしたのだ。

 最後に草野さんの挨拶。酔っていたのでアヤフヤな記憶だが、つい最近も福島の様子を見て来た話。復興には程遠い現状。7月上旬には辺野古の座り込みにも行って来たはずだ。彼の力が期待される場面は多々ある。登山再開も含めこのメンバーでこれからも大いに遊びましょう。時に闘いの場で再会しましょう

 (明日から3泊4日で熊倉さんと尾瀬に行って来ます。今夏は山頂を目指しません。気取って言えば”尾瀬逍遥行”です。ブログは5日以降の投稿になります)