7月17日(月・海の日)、「文京区民ラジオ体操祭」が、6時から6時半まで教育の森で開かれた。連盟会長や区長の挨拶に続いて、“ラジオ体操の普及・発展に努めた”として、10名が表彰され、何と私もその1名に選ばれた。
現在「年中無休ラジオ体操」が行われているのは、文京区内で10カ所ある。例えば、根津神社・教育の森・富士神社・千石公園・護国寺などである。それらの会場ではラジオ体操会連盟の傘下、責任者が決められていて、その責任者を中心に、毎年行われる「体操祭」での表彰者を決めて、連盟中央に報告するようになっているらしい。
富士神社のラジオ体操では、連盟の会員になっている人で、既に表彰された方を除くと、今年は私が表彰に該当するとして、連盟に私が報告されていた。中村さんから私に「今年の体操祭で表彰されます」と言われたとき、「え!小林さんの方が古いじゃない」と思わず口走ったところ、「彼は既に表彰されています」との返事だった。
要するに各会場から、連盟の会員になっている方を1名推薦し、表彰者を出しているということだ。常識的はその会場の古い方順に推薦をしているのだろう。私は富士神社でのラジオ体操歴は今年で16年目に入っていたから、経過年としては妥当なものだった。形式は兎も角、実質的に普及に何か役立っている事をしているかと問われれば、大したことはやっていない。毎日ラジオを持参することと、どの位置で誰が体操をやっているかが分かる表の作成ぐらいだ。それでも、15年間ラジオ体操を続けて来た証しになると思い、楯と賞状を頂いて来た。
さて当日の体操祭に戻る。表彰式の後、台に上った体操の女性指導員の下、ラジオ体操第1と第2が行われ閉会となった。不思議なことに、この祭りでは6時半からのラジオにあわせてのラジオ体操は毎年行われないのだ。
一人で生活しなければならなくなって、弱気になったと思う。心配性が進んだとも言える。守りの姿勢が濃くなったことははっきりしている。よく言えばより慎重になった。一番心配していることは、手や足などに怪我をして、食事を作れなくなることだ。そうなったらどうなるのだろう。あまり考えたくない。息子や妹・義妹に頼る訳にはいかないが、大きな心配や迷惑をかけることは直ぐ分かる。
2020/7/14のブログに書いたRenault社製サイクリング車(ミニベロ)を手放そうと思った。荒川土手や昭和記念公園をかなりのスピードで奔ったことは忘れがたい思い出で、ミニベロを購入してまだ3年にしかならないので手離すのは惜しいが、この車に乗り続けることはかなり危ないと思えてきていた。
ご近所の買い物や通院に限定してミニベロに乗車するという手も考えられたが、ミニベロはそのような利用には不便だ。9Kgと軽いので、その辺においては簡単に盗難にあってしまう。そのことを気にしながらの買い物は落ち着かないだろう。買い物や通院には今まで通り、電動“ママチャリ”を利用し、歩道を中心にゆっくりと走行するつもりだ。
コロナ禍の日々に、向丘での元同僚の草野さんとは荒川土手や岩淵水門付近で何度か会った。彼はサイクリング車で私は「折り畳み式」自転車。サイクリングのレベルで言えば、若い彼の方が数段上だが、私の折り畳み式サイクリング車を見てそれも良いねと言っていた記憶があった。どうせ手離すなら自転車が好きで、ミニベロを見た彼に貰ってもらおうと考えていた。暮れに一献傾けたとき、そんな考えを語った。この間6カ月余りが流れ、私に余裕のない日々が続いてきたが、6月になり、我が家で橋本さんを交え3人で会ったときに、貰って頂く方向で具体的に動き出した。
7月8日(土)草野さんはお土産に大吟醸酒2本を持って車でやって来た。私は蛇足ながら「気を付けて乗ってね」と言った。ミニベロを折り畳み、マイカーの後ろに積んで彼は帰って行った。
右の図を解答したした方が多かったと思う。横に3本、縦に1本の直線が引ける他、右斜め下へ向けての直線が3本、左斜め下へ向けての直線が3本引ける。これで合計10本の直線が引かれる。
右の図でも10本の線が引ける。横に3本、縦に2本の直線が引ける以外に、右斜め下に向けての直線が1本、左斜め下へ向けての直線が何と4本(!)引けて、合計10本の直線となる。
もう一つの方法は右の様な形に黒石を2個移動するのである。この状態の場合、横に3本、縦に2本の直線が引ける。更に右斜め下へ向けての直線が1本、左斜め下へ向けて4本もの直線が引け、合計10本の直線が引けた。
合同形への移動は同一の移動と見なすと、上の3つの方法以外に方法はないと思われるがその証明は未完成だ。
20年ほど前の朝日新聞の“声”にクイズが載ったことがあった。掲載された日付や、どの様にしてその記事を手に入れたなどは不明だ。ただ、定年後板橋高校に嘱託として勤務していた頃に、数学準備室でこの記事が話題になったことは鮮明に覚えている。
声の欄にクイズが登場することは非常に稀なことと思う。見易くスキャンした画像を登場させられなかったが、こういうこともありましたとのアリバイ的意味で右に載せてみた。
そこに書かれていることを私なりに整理してクイズとして出題したい。
右写真は囲碁が打たれる地点に9個の黒碁石を正方形状に配置した図である。黒碁石を全て点と見なした時に、3点を通る直線が全部で8本引ける。
具体的に見ると、横に引ける直線が3本。縦に引ける直線が3本。右斜め下に引ける直線が1本、左斜め下に引ける直線が1本の、合計8本である。
さて問題は「黒碁石(=点)を2つ動かして直線が10本引けるようにしてほしい」である。
実は正解は3通りある。その全部を答えて下さい、という難問です。
御年82歳のUさんは富士神社でのラジオ体操歴が40数年になる。ご自分の娘さんが中学生のとき校内マラソン大会があり、その練習に一緒に中学校の周りを走った折りに富士神社でラジオ体操が行われていることを知ったそうな。以来特別なことが無い限り、ラジオ体操に参加し続けている。彼女より古い参加者には92歳の“ひげじい”がおられるが、このお二人が神社での最古参ということになる。
Uさんの場合、娘さんの現在の年齢から当時の娘さんの年齢(14・5歳)を引けば、簡単に自分のラジオ体操歴が分かるのだ。
15年ほど前、私が初めて神社のラジオ体操に参加した時、彼女の伸びやかで優雅に感じられる体操に魅入ったものだった。お近くの位置で体操をすることになり、親しく会話を交わすことにもなり、その理由がそれとなく分かってきた。
大学を卒業後、幼稚園に務めたそうな。退職後数年して、その経歴を活かして、地域活動センターや勤労福祉会館で体操の指導員を担当し始めた。現在は自宅付近のお寺さんの本堂でも体操の指導をされている。前への屈伸運動では両手が地面に軽く届くなど感心することしきりなのだが、言わば体操の“専門家”だったのだ。
娘さんと一緒に走ったランニングにものめり込み、色々なランニングの大会に出場したと聞いて、私と趣味が一致し話が弾んだこともあった。2人とも“六義園マラソン大会”に参加し、特に彼女は30歳代で女子高校生と一緒に走り、上位入賞を果たしたこともあると聞いてびっくりした。現在も自宅を5時半頃スタートし、時にランニングを交えつつラジオ体操の会場に到着している点も、私と似ている。
10数年前に夫さんに先立たれた彼女は、私の不幸に際し何かとお声を掛けて励ましてくれた。時に食事アドバイスもあり、有難いことである。私に出来たことは2年前のワクチン接種のネット予約をお助けしたことぐらいで、その時にもお礼にと手作りの焼きたて食パンを頂いたことがあった。
ラジオ体操の効能は体に良いだけではなく、人と人の交流を滑らかにしてくれることだとも感じている。
この4週間、朝日新聞土曜朝刊に「ラジオ体操のすすめ」が掲載されていた。この4回のサブタイトルを書き出してみると
①どんな効果か? ②いつ始まったの? ③注意することは? ④連盟があるの?と続いてきて、全4回で終了した。
毎回、金太郎君と得子さんの会話で話が進んでいくのだが読み易い。その中でも、特に①どんな効果か?のインパクトが大きかったと思う。「約400の筋肉を動かせる」と太字で書かれていた。15年間ほど朝のラジオ体操に参加しているが、そんな私でも知らないことが幾つか書かれていた。読まれた方もおられることと思うが、記しておきたい。
ラジオ体操「第1」と「第2」を合わせて6分ほどの運動でエネルギーの消費は決して多くはない。しかし「第1」には13種類の運動が含まれていて、体にある約600の筋肉のうち、約400の筋肉を動かすと言われている。・・・得子さんのお言葉だが、勿論医学的に正しいことが書かれていると信じてよいだろう。この部分を読んで、朝とは限らず日常的にYou tubeなどを活用してラジオ体操を始めたいと語った人もいるほどだ。(写真:富士神社のラジオ体操。増えてきている参加者)
手前味噌ではないだろうなと思いながら読み進んだ得子発言もある。病気の治療や筋骨の強化、姿勢の矯正にも役立つ。効果は科学的に検証されている。週5回以上のラジオ体操を3年以上続けている55歳以上の男女543人を対象にした健康調査をした大学が発表したところによれば、男女とも血管年齢や骨密度が同年代より優れ・・・などなど。(写真:前立の3人)
③の注意することは?は成程と思う。太字部分は「無理はせず、楽もせず」とあった。ラジオ体操も参加することに意義があるとばかり、漫然と体を動かしているのでは全身体操の効果を十分に引き出せない。いま、どの筋肉を伸ばそうとしているのか、動作の目的を意識しながら体操をすることが大事と、得子さんは言い切っている。その通りだ。私もやや気合を入れて毎日の体操をしている。
ラジオ体操の効果はこの話に尽きるわけではないだろうが、最近富士神社のラジオ体操参加者は増え続け、子供さんの参加も目立ち始めている。7月1日、冨士神社が山開きで屋台が出る日にもラジオ体操は、屋台の合間で行われた。
(写真:前立の3人。前立を見ながら体操をした人は少数だった)
今年の4月から参加している「オトコの料理教室」(正式名称味わいクラブ)は実は今年から、年12回のうち4回は「まち歩き」を実施することに変更となっていた。その最初が6月12日(月)の「根津・千駄木街歩き」で、文高連からガイドさんが派遣されてきていた。味わいクラブの参加者は16名で、小雨決行との会長連絡通り、小雨降る日、千駄木駅に集合した。
コースは①根津教会→②旧遊郭跡→③根津神社→④夏目漱石旧居跡→⑤ふれあいの杜→⑥薮下通り→⑦森鴎外記念館→⑧団子坂→⑨講談社発祥の地→⓾須藤公園→⑪安田邸→⑫宮本百合子ゆかりの地→⑬高村光太郎邸跡→⑭青鞜社発祥地→⑮光源寺 と盛沢山の箇所を回るはずだったが、ガイドさんの懇切丁寧かつ熱心な説明で時間が足りなくなり、一部省略してのゴールとなった。ゴール光源寺ではお土産に昼食用のサンドイッチまで用意されていた。
今回のブログでは最初に見学し、特に印象が強かった根津教会について綴ることにする。日本基督教団・根津教会は、その外観の美しさと珍しさに惹かれて建物を何度も撮影したことがあった。今回は予め依頼をしていたのだろう、内部見学が出来るという幸運。
配布された資料によると、この礼拝堂が出来たのは、今から100年以上も前の1919年。1945年の東京大空襲でも奇跡的に生き残り、1910年代の木造西洋洋館が完全な形で東京に残っているのは非常に珍しいことだそうな。
2001年に国の有形文化財に登録された後、2009年には大規模なリニューアル工事が行われ、文化財である既存部分と新築部分が共存し、見事な調和を見ることができたのだった。
静かに礼拝堂に入ると、まず目についたのが説教壇の位置だ。正面ではなく正面隅に置かれていた。会衆が座る椅子は扇形に配置され、今まで見て来た教会の配置とは明らかに違う。これは全会衆が牧師の説教により集中できるようにとの配慮で、メソシスト教会建築の特徴だそうな。宣教師(スタッフの方かもしれない)からも教会と建築物についての詳しい説明をして頂いた。
21年夏場所限りで引退した元関脇・勢の引退、春日山襲名披露大相撲が6月4日(日)に両国国技館で行われ、観にいってきた。
招待券は宮下公園ラジオ体操の常連で、お住いが伊勢ノ海部屋直ぐ傍にあるAさんから、5月28日(日)のラジオ体操時に頂いた。一時は伊勢ノ海部屋後援会々員であり、勢のファンでもあった私は、これは是非とも両国へ足を運ぼうと思った。ただ、この日は11時15分から6回目のワクチン接種が予定されていたので、取り組み開始11時にはとても間に合わないが、兎も角、勢の断髪式を一目見ようと、接種終了後出かけて行った。
国技館着が13時過ぎで、十両までの取り組みは終了し、断髪式は既に始まり、勢は西正面を向いてほぼ中央に座っていた。名前を呼ばれた人が次々と土俵(土俵には当然敷物が置かれていたが)に上がり、勢の髷に鋏を入れた。
西正面の次が向正面だった。呼ばれる対象が女性になると、女性が土俵に上がらないでも断髪の鋏を入れられるように勢の座る椅子は土俵の前に移動された。というよりも、やはり女性が土俵に上がることは許されていなかった。相撲協会は“土俵上女人禁制”をいつまで続けるのだろう、これは憲法違反だとの裁判を誰か起こせば面白いななどと思いながら2階椅子席から断髪式を見ていた。
横綱・照ノ富士ら約250人が鋏を入れ、最後に師匠の伊勢ノ海親方(元幕内・北勝鬨)の止めばさみで大銀杏に別れを告げた。怪我を克服した不屈の土俵人生を紹介されると感極まったが、「感謝の思いしかない。これからもぶれない気持ちで大相撲の発展に尽力していきたい」と語り断髪式を終えた。
優勝は無かった。大関にも上がれなかったが、綺麗な立ち合いの勢が好きだった。白鵬から金星をあげたときは飛び上がるほど嬉しかった。長い間お疲れ様でした。
角界一の美声の持ち主と言われてきた彼は、歌を通じての交友関係が豊富だったのだろう、この日も15年の交友がある平尾綾香が『Jupiter』など2曲を熱唱した。
整髪後には演歌歌手山本譲二とのデュエットで『花も嵐も』、『浪漫』、『まつり』を披露した。会場は物凄い盛り上がりを見せた。
その後横綱土俵入、幕内力士土俵入から始まり幕内取り組みへと進んだ。どの力士も全力でぶつかってはいないはず。本番の土俵とは力の入れ方が多分違うが、大相撲の面白い一面を見せてもらい満足だった。結びは照ノ富士対霧島(霧馬山改め)。横綱が最後を締めて終了。
茅葺屋根の総門(県指定有形文化財)から真っ直ぐに延びている参道を進んだ。山門、仏殿、中門(通年閉門)、本堂へと続いている。総門から本堂まで、禅宗典型の、一直線に配置されているのだ。ここを歩むうちに平林寺の品格の高さを感じ、おのずから厳粛な気持ちにさせられる。
取り分け、扁額「凌霄閣」が掲げられ、築350年と伝えられる山門が堂々としていて見事だ。江戸時代前期、平林寺が岩槻から現在の地に移転された際、山門もここに移転された。
金鳳山と号する平林寺(臨済宗)は永和元年(1375)年に現在の岩槻市に創建された。寛文3(1663)年、信綱の遺命によって野火止(のびとめ)の地に移転された。この地には、信綱の命により開削された、玉川上水から分水された野火止用水が流れ、平林寺には平林寺堀が引かれた。水の利を得た地域一帯は、新田開発が進み、江戸近郊の農業都市として発展を遂げていった。本多家は平林寺を菩提寺とした。(写真:山門)
参道左側にある放生池まで流れて来た平林寺堀は、ここからは逆に、参道に沿って山門から総門へと流れ、総門からは寺の外部へと流れて行く。(写真:参道沿いの野火止用水)
菅原さんと私は「大河内松平家廟所」を目指した。本堂奥に広がる「廟所」は信綱の祖父大河内秀綱、父久綱に繋がる直系一族と、傍系大喜多家、右京太夫家の墓所で、170基もの墓石が一箇所にまとまって残存していた。このような大廟所を以前見た記憶がない。(写真:信綱の墓所)
それにしても広大な敷地の古刹だ。平日故か、殆ど参詣者にも僧侶にも会わないという静寂さ。
この日更に奥には進まず、平林寺を出て、平林寺向かいにある「睡足軒の森」を散策し、「架け橋」で昼食をとり、この日はお招きを頂いていた菅原さん宅にお邪魔した。
6月1日(木)、菅原さんと今年2度目となる野火止用水を散策してきた。6月2日(金)に予定していたのだが、2日以降天候は雨気味との予報で、日程を順延ではなく、前倒しして出掛けていった。
前回の散策では史跡公園から右に分流した「平林寺堀」を歩いたので、今回はここから進行方向を左に取り「本流堀」を辿って行った。東久留米駅からは史跡公園経由で新座方面へ西武バスが数多くスタートしているのだが、この時は生憎待ち時間が長いため、東久留米団地行きバスを利用し、終点から史跡公園まで歩いてからの出発となった。
平林寺堀はその名前が示す如く平林寺本堂目指して流れて行くのに対して、本流は主として野火止緑道と呼ばれる平林寺の西側端を流れ、その先で飲料水や農業用水として利用されたであろう«本流»だ。本流の水量は、見た目平林寺堀の3倍はあろうかという流れで、この地点でも水は澄んでいる。
分流後暫くは自動車道路の脇を流れるが、道路が右折する反し、流れは真っすぐ「本多緑道」へと進んで行く。関越高速道路と交差するまでの道は野火止用水中圧巻の景観だ。緑豊かな景色の中、用水開通直後もかくあったかと思わせるような清き流路だ。緑道左側には「本多の森お花畑」が現れ、4月には菜の花が、8月にはヒマワリが美しいとか。ここに寄らず先を急いだ。
用水は関越自動車道を真っ直ぐ跨いでいたが、人が進み行くには用水とは違う跨線橋を渡らねばならず、本流からは一時離れた。伊豆殿橋で本流に戻って来られたが、ここからは前回歩いたと同じ道を進んで平林寺総門へ。
かつて平林寺には入山したことがあったと思うのだが、確たる記憶はない。総門から本堂方面を眺めると、この寺の品格が伝わって来るほどの景観だ。