マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

16歳の頃

2023年09月30日 | 闘い

 妻の預金口座の名義変更と同時に、妻名義の貸金庫の解約の手続きも取らねばならなかった。解約の当日、貸金庫に保管してあった少々のものを持ち帰る時に、一枚の写真に気が付いた。忘れていたが、記念にと大事にとっておいたのもので、16歳の私が働いていた頃の写真。ほぼ66年前の私の写真だった。
 1957(昭和32)年、私は中学を卒業すると同時に「日本光学㈱」(現在名ニコン)に就職し、その付属の「技能養成所」に入所した。
 午前中は国語・数学・物理など高校生が学ぶものとほぼ同じものを学び、午後が作業実習だった。学びながら普通に給料がもらえるということで、この養成所の人気は高かった。その年の中卒男子の入所者は35名で、入所すると一方的に職種が決められていた。35名は機械工・仕上工・検査工・レンズ工・塗装工などに別れ、それぞれの職場に配属された。
 ただ、機械工8名と仕上工8名の16名は、工場のある建物とは離れた箇所に建てられた「実習所」と名付けられた場所での訓練・生活・学習などが行われていた。私の職種は仕上工だから実習所で過ごしたことになる。この実習所生活にも大分慣れてきた翌年の2月頃、鬼よりも怖い落合所長から「川口、教官室へ来い」と呼ばれた。又何かミスをして大目玉を食うのを覚悟で教官室に入ると、小言ではなく「こちらの方は産経新聞社の記者さんだ。質問にちゃんとお答えしなさい」と言われ、後はその記者さんと2人だけになった。「中学を卒業して1年ほどたった今、皆さんがどんな生活をしているか知る為のインタビューです。率直なお話を聞かせて下さい」との挨拶があった。
 後で知ることになるのだが、産経新聞社は1カ月ほど前から「中学をでて1年」という企画を始めていて、私が5人目の“工員のまき”だった。私の前には寿司職人見習いさんや、バスガール―さんが登場していたらしい。インタビューは30分程度で済んだろうか。その内容が1958(昭和33年2月19日)の産経新聞の記事になり、所長を通じて私にも渡された。
 内容は兎も角、新聞が必ずしも真実を伝えるのではないなということを16歳の身で知ってしまった。記事にはインタビューの内容が載っているのではなく、私の手記の体裁をとった記者の書いた文書が載っていた。更に、私は仕上工だから鑢かボール盤を使って作業をしているはずなのに、それでは絵にならないと考えたのだろう、颯爽と旋盤を操作している写真が載っていた。はっきり言ってこれは事実ではない。
 それはそもかくとして、内容は概ね正しかった。「つらい仕事と勉強」、「日曜日はねるのが楽しみ」との見出しを見ると、青春時代とは思えない自分がそこにいる。私の書いた文章ではないが、私が書いたことになっている文章を以下に綴る。興味のない方は読み飛ばしてください。
 『父が戦死し、母と妹の3人ぐらしです。東京生まれで、東京そだちですから、中学時代とくらしのてんでは、そんないにかわりはありません。この会社では、養成所で高校と同じくらいの学力をつけてくれますから、進学しなかったことはあまりきになりません。一番つらいのは朝6時に起きることくらい。それと数学・化学・物理の予習や復習を、仕事の後でやらねばならないことがちょっとこたえます。
 あと2年養成所にいて、それから1人前になるわけですが、いまでも、会社の忙しいときはセンパイたちにまじって、お手伝いをしています、勤務時間は8時から4時までで。しっかりした一人前の技能者になれるよう、実習と学科で過ごす毎日です。給料は手取りで七千円もらっていますが、中学出としてはいい方とのです。
 中学のときと、うんとかわったことは、日曜日に昼頃まで寝ていることです。好きな映画も中学のときよりみなくなりました、生活がいそがしくなってヒマがないんです。数学と物理などの学科はとくいなのですが、どうも実習のほうはあまりとくいではありません。それでいまいちばんこころがけ努力しているのが、なんとかしてこの実習をうまくなる、ということなんです』で終わっている。 
 記者が去った後、所長曰く「お前をインタビューに向けたのは、お前が一番ソツがないからな」と。どうも養成所内の出来が良いから選ばれたのでなかったらしい。私がニコンを退社したのはこれから3年後だった。


息子のこと

2023年09月24日 | 

 確か13年前のことだったと思うが、息子が「公認会計士試験」に合格し、大手の公認会計士法人に就職するも、スキー本場の北海道にある支店への就職を希望し、運よく札幌支店への就職が決まった。ほぼぞれと同時に「実は結婚を約束している相手がいるのだが」と、パートナー(やよいちゃん)を紹介され、特に結婚式は挙げないで、二人して北海道で暮らしたい、との急転直下の話が出て、二人は大洗からヘーリーであっと言う間に北海道へ去り、小樽で暮らし始めた。
 ところがである、就職して3ヶ月ほどして、何があったか詳しい話を私は聞いていないが、会社を辞めてしまった。その後の10年間は特にパートナーだったやよいちゃんには実に苦労の多い年月だったと思う。息子は農業やら酪農の臨時的な仕事に従事しながら二人は生活を維持していた。生活の場も小樽→阿寒→帯広と移住を繰り返し、漸く音更に定住するようになった。私たちは何度か北海道を訪れ、十勝地方を中心にあちこちの名所を案内されたが、目の当たりにする息子が定職につかないのが心配の種だった。特に妻の心痛は大きかった。
 長女や次女が生まれてから大きな変化が訪れて来た。税理士事務所に就職して数年、公認会計士となる最終試験受験の前提となる実務経験の年数をクリヤーし、最終試験を受験して合格。晴れて公認会計士となれた。その後、就職していた税理士事務所からの援助もあったのだろう、3年前に帯広で「税理士事務所」を開業した。ただこのことは親戚などに伝えたり、ブログには書かないでくれと釘を刺されていた。
 妻が死亡し、息子は親戚一同などの前に立っことになった。祭壇に飾られた花輪の送り主から、息子が税理士になった事を親戚や多くの参列者は知っただろう。それに参列者を通夜会場にご案内する役割を進んでやり始めった息子を見て、幼い頃の息子を知っている方々は皆、その変貌に驚いたのだ。簡単に言えば«立派な大人»になっていたのだ。私からみても大きな変化があったなと思えた。多分税理士の仕事が軌道に乗り始め、その充実感がそうさせるのかなと思えた。
 実は妻が亡くなる前に偶然とは言え不思議なことがあった。妻が亡くなる2ヶ月前に仕事で東京に来た息子は、滅多にないことだが、突然我が家に寄り2時間ほど過ごしていった。その時妻は貸金庫や銀行口座のことなど大事なことの数々を息子に伝えていた。貸金庫の件は妻死亡後すぐに息子が良き対応をしてくれたことのひとつだった。その時息子は「公認会計士・税理士事務所所長」となっていたから、妻の安心は大きかっただろう。離れて暮らしていたので、この時に初めて息子の“晴れ姿”を見たことになる。しかしそれが息子が母を見た最後だった。
 妻がなくなる1週間前にも息子から電話があったが、頚椎と腰からくる神経痛の激痛の為、息子との電話は出られなかった。息子は多分妻が危機的な状態にあることを悟っただろ。
 告別式が終わり、親戚と春子さんで町屋の葬儀会場に行った。戻ってきた道灌山葬儀場での精進落としの席で、献杯のあと息子の語った話が私の胸を打った。親戚の方もそのようだった。
 位牌に向かい「お母さん、痛みから解放されてやっと自由になれたね。痛みに耐えかねて自ら命を絶ってしまったのかと思ったが、そうではなかったのだね」と。皆さんの方を向いては「死ぬ間際まで必死に生きようとした母を誇りに思います。母から見て自慢の息子になれるよう頑張りますか」と語ったのだ。

 その息子から今年の8月17日に、
帯広市で、「インボイス制度を考える」講演会の講師を勤めたとのメールが来た。衆議院議員石川香織事務所主催のセミナーであるらしく、翌日の十勝毎日で紹介されたとも書かれていた。この姿こそ妻に見せたかった、と私は思った。(写真:とかち館で講演する息子)
 


預金口座の名義変更

2023年09月15日 | 身辺雑記

 妻名義の、銀行や信用金庫の口座がなんと5つもあった。その名義を私名義に変更する手続きを、諸般の事情から遅ればせながらこの7月から開始した。
 預金の名義変更に関して、私は大きな勘違いをしていた。というより無知だった。必要な書類を取り揃えて当該の金融機関に提出すれば、妻名義の預金通帳はそのままで、預金通帳の名義のみが私に変更されるものと思い込んでした。最初に連絡した金融機関からそうではないことを知らされた。
 妻死亡による相続発生で、まずは妻の預金を解約し、しかる後にその金額をこちらの指定する口座に振り込むのだった。指定の振込先を私名義の口座にしたので、妻の預金は妻名義から私名義の口座に移された。勿論、妻名義→息子名義の変更もあり得ただろう。何れにせよ実質的に名義は妻以外のものに変更されるのだ。それが名義変更だった。私は金銭の出し入れ無しに、妻名義の預金通帳の名義が単に私に書き換えられるものだと思い込んでいた。

 私が用意すべき書類について聞くと、用意すべき書類を教えてくれた。
  ①妻の預金通帳とキャシューカード
  ②私
と息子の印鑑証明書
  ③私のマイナンバーカード
  ④金融機関への相続届
  ⑤妻の、出生(結婚だったかもしれない)から死亡時まで戸籍謄本
 とあった。問題は⑤だった。⑤が必要と聞いて、私はその戸籍謄本全部を取得するために多くの区役所に行かねばならないことを思い、暗い気持ちになった。そこで、帯広で公認会計士・税理士事務所を開業している息子に相談すると、⑤は「被相続人の法定相続情報」なる書類で代用できる。平成29年5月29日からスタートした証明制度で、予め帯広の方で作成・取得をしてあるので、至急送るよとのことだった。

 息子の知り合いの司法書士さんが、釧路地方法務局帯広支局で取得していた。司法書士さんは、妻に関連する相続人の戸徐籍謄本等を基に家系図的なものを作成し、帯広支局に提出し、それを基に登記官が作成したものが「被相続人の法定相続情報」で、妻に関わる相続人はその「法定相続情報」に記載の者以外にはいませんとお墨付きだった。(右図は一例)
 その書類1枚で⑤に代用され、その後に行った3つの金融機関も「法定相続情報」1枚を添えれば相続届を受理してくれた。金融機関によっては実印や妻の除籍簿を要求するところもあったが、兎も角多くの必要な書類を完全に揃え、4つの金融機関の名義変更手続きは終わった。一つの金融機関に3度も出向かねばならないこともあり、実に疲れた。その手続きが一段落した後に原因不明の高熱がやってきた。


心優しき、向丘高校の元同僚たち

2023年09月12日 | 身辺雑記

 多くの知人・友人と主としてラインで繋がっている。自分の身に辛いことや不都合なことが起こると、特に親しき友達には直ぐにメールで様子を送信している。
 9月1日~2日にかけては高熱に悩まされた。その後は足の痙攣が主原因(むずむず脚症候群・別名レストレスレッグス症候群)による睡眠障害に苦しめられている。睡眠導入剤+精神安定剤を服用していて、直ぐに寝付ける日もあれば、一睡も出来ない夜もある。その様な日は体力・気力も衰え、心理的に不安定になる。その様な様子も含め毎日必ず、妹・義妹夫妻・熊倉さんにラインメールを送信していたが、9月に入って体調が変調になってからは10人くらいの友達にメール送信した。送信するとすぐに元向丘の同僚が食事持参で我が家まで駆けつけてくれた。
 9月1日は、神保町に来ていた菅原さんが夕食持参で寄ってくれた。夕方には松並さんご夫妻が沢山の食料を持参して来てくれた。
 9月2日は再度松並さんご夫妻が様子を見に来てくれ、昼どきには熊倉さんが昼食持参でやって来てくれた。
 9月5日には朝から石野さんご夫妻が遥々深谷からやって来てくれた。昼食を調理し、妻の衣類を整理するなどでしてくれて大助かりで、久し振りに孤食ではなかった。
 9月6日には若菜さんが来訪し、私が欠席した「還暦同窓会」の様子を語っくれた。話込んでいる途中、ママ友だったあけみさん(彼女は向丘高校の同僚ではないが、上に登場した男性は全て同僚)が夕食と脚用サポーターを持参してくれた。
 お助けに行きますよとの草野さんや寺井さんからのメールも頂いている。
 少し古い話だが、7月には草野さんと松重さんが、8月には熊倉さんと松並さんが、その後菅原さんと若菜さんが、一献傾けに来て楽しいひと時を過ごした。

 全て有難い限りである。物を頂くということはその心まで頂くことになり、元気付けられている。妻亡き後、かなり辛いと感じられるこの時にこの援助と激励。特に向丘の同僚が速攻で駆けつけてくれたことが有難かった。若い頃、山に、温泉旅行に、ランニングに、ゴルフに、スキーにと一緒に遊んだ仲間たちだ。有難うございます。そしてこれからも宜しくね。
 追記 睡眠障害が続き、ブログ更新がままならない状態になるかも。


原因不明の高熱

2023年09月07日 | 医療

 9月1日の夜中だった。寝苦しいので起きてしまい、発熱を感じ測定すると39度。遂にコロナに感染したと直感し、暫く続く忍耐の日々を想像し暗澹たる気分になり、激しく落ち込んだ。 
 明け方、再度体温測定をすると37度台だったが、コロナ検査をしてくれる、掛かりつけ医の谷口医院に電話。特別の予約なしに検査を受けられると聞いて開院5分前に来院。検査結果はコロナ、インフルエンザ共に陰性とのことだった。谷口先生は「念のため体温測定をして下さい」と付け加えたが、コロナではないこが確認できたので大きく安心し帰宅したのだった。
 ところが、帰宅して医師の指示通り体温測定を1時間おきに行うと、38度台・36度台・38度台と変化した。私にはこの体温変化が理解出来ないで、原因不明の高熱と感じられた。「コロナ検査は発熱後すぐの測定では陰性と出ることもあり」とのメールも来ていて、再度谷口医院での検査を考えた。
 9月2日に朝の体温は36度台の状態であったが、谷口医院で検査を受けると又してもコロナ、インフルエンザ共に陰性。やはりコロナは陰性であったと一安心したのだった。
 この日、その足で泌尿を診てもらう事になっている細部医院に行った。そこでの尿検査の結果を告げる細部先生曰く「熱が何度も出ませんでしたか。精巣上体炎」ですと。「精巣に入った菌が悪さをして発熱が起こっています。抗生物質の薬を朝昼晩に2錠づつ1週間飲み続けて下さい」とのことだった。一時的にコロナではないと安心したものの、真の原因に辿り着いての安心ではなかったのだ。薬を1週間しっかり飲めば治りますとの話を聞いてほっとしたのだった。
 
 


茨木のり子眠る墓へ

2023年08月31日 | 

 鶴岡旅行の2日目、私たちが宿泊していた九兵衛旅館まで、車で迎えに来て下さったのは、大島先生が酒田工業高校勤務の時の学年主任だった菅原和晴先生。この日一日中車で、私たちを案内して下さった。この日は宿→村上→(日本海沿岸ドライブ)→浄禅寺(茨木のり子の眠る寺)→加茂水族館→玉簾の瀧→丸池様→藤沢周平記念館 と案内して下さった。
 今回の鶴岡旅行の、もう一つの目的が茨木のり子の墓に詣でることだった。  
 2010/12/13~12/14のブログには、後藤正治著『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を読む、を綴った。秀逸な茨木のり子の評伝を読んだ私は次のように書いた。「今は、山形県鶴岡市加茂にある三浦家の菩提寺浄禅寺に夫とともに眠っています。見上げると広い空。眼下に青い海。まことに眺望よしの墓地だそうです。鶴岡には、今年4月29日に『藤沢周平記念館』がオープンしました。是非ここと、彼女の眠る寺を訪ねたいと強く思います」と結んだ。(写真:浄禅寺)
 更に、その翌年の7月に、妻と青森→弘前→酒田→鶴岡→山形の旅に出たことがあった。その鶴岡で、茨木のり子の墓に詣でようとして加茂行のバスの時刻表を見ると最終便は出てしまっていた。無念の思いを抱いた記憶があった。
 さて、8月7日、漸くその思いが遂げられる日がやって来た。菅原先生運転の車は何故か浄禅寺に直行せず、まずは新潟県村上に入った。後で理解したことだが、多分菅原・大島両先生は私たちに日本海沿岸ドライブを楽しんでもらおうとしたのだった。前日は特急「いなほ」から日本海を眺めた。この日はより近くから日本海を身近に味わった。この日、海は穏やかで、遥か彼方の水平線が美しく見えた。岩場が多く、泳げそうな場所は少ないのだが、商業主義の香りが全くしない海水浴場がところどころに顔を出した。加茂水族館を横手に眺め私たちは先に浄禅寺へ。
 茨木のり子眠る三浦家の墓には茨木のり子の文字は全く見えない。多分彼女の強い希望でもあったのだろう。そこからは日本海が眺められた。空と水平線と海があった。茨木のり子は海を眺められる墓に眠っていた。13年越しの思いが遂げられた瞬間だった。(写真:三浦家の墓。ここに茨木のり子は眠る)




 
 (写真:左は墓からの眺め。右の写真は左から菅原先生・大島先生・菅原さん)

 その夜、料亭『すず音』で、『茨木のり子への恋文』の著者戸村雅子先生親子さんとご一緒に食事を摂った。著作から伺われるお人柄以上に雅子先生は穏やかで、しかも何事にも積極的・意欲的に取り組まれる方とお見受けした。現在も「茨木のり子 六月の会」の事務局長を務められていた。(翌8日も車で宿まで迎えに来て下さり、市内をご案内して下さった。)






 
 茨木のり子の墓に詣でたその夜に『・・・恋文』の著者との夕餉。この粋な組み合せは大島先生の発案だろうか。しかし、以下に書くような人間関係でもあったのだ。

 戸村雅子先生→教え子の大島先生母→大島先生→弟の鶴岡市長皆川治氏←後援会戸村雅子先生。鶴岡では人の輪がぐるぐると回り繋がっているのでありました。


松ヶ岡開墾場を見学後、九兵衛旅館へ

2023年08月24日 | 

 当日、現地松ヶ岡で待っていて下さったのは古野(ふるの)さん。彼は大島先生とは高校時代の同級生で、なんと大学も同じだった。卒業後は山形県職員として県庁にお勤めとのことで、古野さんに案内して頂いて、開墾記念館やワイナリー、旧蚕室など、松ヶ岡(正確には松ヶ岡開墾場)のあちこちを案内かたがた説明をして頂いた。(写真:松ヶ岡開墾記念館)
 松ヶ岡については詳しくは知らなかった。ここが見学地の一つと知ってにわか勉強をしたのだった。古野さんの説明に、にわか勉強の結果を加えて綴ると・・・。
 庄内藩は戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として「官軍」と戦った。「官軍」を寄せ付けないほどの勇猛さで不敗の強さを持っていたが、時に利あらずして降伏した。庄内藩が会津藩の様な運命に会わなかったことを私は不思議に思っていたが、そこには西郷隆盛の存在と、軍事的には敗れていなかったことが大きいと思えた。
 明治5年、旧藩士卒ら3000人は刀を鍬に持ち替え、月山山麓235ヘクタールの開墾竣工を僅か58日で成し遂げた。旧藩主酒井忠發も開墾地を訪れ、「松ヶ岡」の標を自筆し、以降「松ヶ岡」が開墾地の名称となった。
 その地で、明治6年からは茶の栽培を開始し、生糸の生産・輸出を目的として桑園開発も始め、7年末からは本陣東側で蚕室の建設にとりかかった。瓦葺上州島村式三階の蚕室が五棟現存していて、鶴岡城の屋根瓦も用いられているそうな。第一蚕室は開墾記念館となっている。残存する旧蚕室は風格を感じさせる見事な建物だ。
 明治8年(1875年)建築の1番蚕室は、松ヶ岡開墾記念館として、幕末以降の庄内藩の歴史や、開墾と養蚕に関する歴史資料を展示するほか、日本遺産「サムライゆかりのシルク 日本近代化の原風景に出会うまち鶴岡へ」認定のストーリーを紹介している。


 現在ではワインの醸造が開始されていて、私たち4人は「ワイナリー ピノ・コッリーナ松ヶ岡」に暫し憩い、松ヶ岡を後にし九兵衛旅館に向かった。

 九兵衛旅館は部屋数13のこじんまりした旅館だった。館内には、藤沢周平が登場する数々の写真が展示され、映画『たそがれ清兵衛』などのポスターが貼られ、周平全集が並べられていた。この旅館の特徴は親切丁寧な接客にあった。更に料理と湯が素晴らしかった。お風呂は3つ用意されていたが、川の湯と山の湯しか入る時間的余裕がなかった。そのどちらの湯も源泉かけ流しの、透明で肌触りの良い湯だった。羽黒山下山の疲れもこの湯で癒えていった。(写真:右は山の湯。下は豊富な金魚が見られる川の湯)
 

 
 私たちが宿泊した部屋は藤沢周平が帰郷の折り宿泊したものだと知って、藤沢ファンの菅原さんも私も大喜びしたのだった。

 
 


羽黒山へ

2023年08月18日 | 山旅

 8月6日(日)、鶴岡駅を後にして、大島先生母さん運転の車は一路東方向にある羽黒山を目指した。
 出羽三山は山形県のほぼ中央にそびえる月山(標高1984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1500m)の総称で、六世紀には開山されたと言われるほどの、古き、信仰の山々である。三山といっても独立した山が3つあるのではなく、月山を主峰に、陸続きで北端に羽黒山が、西方に湯殿山が存在している。百名山に名を出すのは当然月山である。私は確か1980年に向丘高校の麻島先生グループの方々と東北ツアーに参加し、その時に月山に登った。高山植物が実に豊富に咲いていた。その下山後羽黒山に寄ったのだった。
 今回到着した地点はその時と同じ羽黒山山頂。「羽黒山山頂へは歩いて登られますか、車にしますか?」と聞かれ、「車でお願いします」と応えていたのだが、そこは遥か彼方が見渡せる所謂山頂はなく、羽黒山本殿(出羽三山神社)へと通じる地点だった。駐車場から緩やかな山道(参道でもある)を歩むと三神合祭殿。
 山頂に建つ出羽神社は三神合祭殿と呼ばれ、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀り、冬期間参拝が困難な月山、湯殿山神社の里宮としての役割を果たしているそうな。(写真:三神合祭殿)





 三神合祭殿に参拝後、大島先生から「下山道を下りますか」と聞かれ、菅原さんも私も気楽に、少しくらい歩こうとの思いから「勿論下山します」と答えてしまった。
 確か上り2000段はあると言われている参道の下りだった。少し雨が降った跡が残り、急な階段が続いた。道の左右は巨大な樹林帯。風通しの無い密林のような夏山道の下山。そこで相当の汗をかいた。魚沼駒ケ岳下山の時の様な感じで、熱中症2歩手前の様な感覚。この下りが1時間以上続いただろうか。自分の足腰の弱さを実感する下山でもあった。

 ゴール地点にある五重塔は現在リニューアル中とのことで姿を全く見せてくれなかったことがくれぐれも残念なことだった。ここからは松ケ岡を目指した。(写真:国宝の五重塔)


藤沢周平ゆかりの宿に泊まる

2023年08月11日 | 

 8月6日(日)~8日(火)まで、2泊3日で山形県鶴岡市に出かけ、藤沢周平ゆかりの宿、湯田川温泉「九兵衛旅館」に宿泊してきた。
 まずはそこに至る経過から書き始めよう。10数年前にボランティア教員として勤務した荒川5中で同僚だった大島先生は鶴岡のご出身で、藤沢周平ゆかりの宿「九兵衛旅館」の娘さんとは高校時代の同級生。そんな繋がりを聞いていたので、大島先生のご縁で、何時かはこの宿に宿泊したいと思っていた。今年の8月上旬に鶴岡へ帰郷するとお聞きして、鶴岡訪問のOKを頂いた上、九兵衛旅館に電話した。彼女が実家にいる間に宿泊できる日程で空きを確認すると、6日と7日の宿泊がベストと分かり、即予約をした。
 ただ1名での宿泊料金はお安くなかった。そこで、この旅行にもろ手を挙げて賛成し、ご同行をしてくれそうな菅原さんにお声を掛けると素早い対応で是非行きましょうとのこと。かくして6日~8日:2泊3日の、二人での鶴岡旅行が決まった、
 鶴岡での行動計画は大島先生が立てて下さり、その計画に従って次の様に回った。(列車計画は私)
 8月6日(日) 
 上野8:30→(上越新幹線 とき307号)→10:21新潟10:48→(羽越本線 いなほ3号→12:42  
 鶴岡
駅で大島さんとお母様にお会いし、大島先生のお母さん(73歳)の運転で 
 羽黒山→松ヶ岡→宿と回った (写真:いなほ3号)

 8月7日(月)
 一日中、大島先生の元同僚菅原先生の運転のもと次のように回った。
 宿→日本海沿岸ドライブ→浄禅寺(茨木のり子眠る寺 お参り)→加茂水族館→玉簾の瀧→丸池様(湧水池)→藤沢周平記念館→すず音(鶴岡料理 戸村雅子先生母子と会食)

 8月8日(火)  戸村雅子先生(82歳 『茨木のり子への恋文』の著者)の運転で
致道館博物館→大寶館と回り、その後は二人だけで旧致道館→鶴岡駅

 鶴岡15:00→(羽越本線 いなほ10号)→16:49新潟17:04→(上越新幹線 とき336号)→18:54上野 
 美味しい鶴岡料理を存分に味わい、鶴岡人の温かさを肌で感じた3日間だ
った。


4年ぶりに「隅田川の花火観賞会」を開催

2023年08月03日 | 身辺雑記

 7月29日(土)、実に4年ぶりに「隅田川花火大会」が開催され、103万人強の人出で賑わったそうな。その花火を我がマンション屋上から鑑賞しようという、我がマンションの「隅田川の花火観賞会」も4年ぶりに開催し無事終了した。(写真:翌日の朝日新聞より)



 確か5月だったと思うが、管理組合理事長から電話があり「今年は隅田川花火大会が開催される予定です。それに伴い屋上からの観賞会も開催したいと思います。今までの様にその実行委員長を引き受けて下さいますか」とのことだった。その頃、気持ちの安定していた私は、例年やって来たことだからと安受けあいした。6月の管理組合定期総会終了後、理事会+実行委員会での開催を正式に決めてもらい、私が実行委員長となり、役割も決めて当日を待つばかりとなっていた。
 今までの様に、飲食を用意した当日、延数にして40名以上の参加があり、住民の皆さんは花火を観賞しつつ、ご酒など飲み交わしながら親睦を図られていたので、この花火観賞会は成功したと言っていいだろうと思う。
 しかし、ハプニングがあり、私はかなり疲れてしまった。当日用意する飲食物は理事数名が手分けして、購買しておいて当日持参した。私は飲み物を担当でもあったので、上富士にあるカクヤスに出向き、ビール・日本酒・ワイン・軽飲料水などを注文し、当日に配達してもらう手はずを整えておいた。しかし、当日屋上に配達されたものはビールのみ。日本酒やワインは配達に至っていなかった。それに気づいて指摘すると、配達員は戻って確かめますとのこと。準備開始20分前となっていたので、配達員とは別に私は、カクヤスまで走っていって、ことの実態を尋ねた。カクヤスは配達業務を委託しているらしく、日本酒等の配達も依頼していたが、配送センターに配達ミスがあって届いていないのだと分かり、いずれ届くだろうと安心して屋上に戻ってきた。が、暑い中を走ったのが影響してか、屋上に着いてから安心と疲れからか、がっくりきて膝から崩れ落ちてしまった。これには周りの方々がびっくりして、直ぐに助け起こしてくれたので事なきを得たが、その後の私の動作は緩慢になってしまった。

 風が強く、理事さんたちは、机の上に飲食物を置くのに苦労していたが、皆さん協力して事なきを得ていた。数年前と比較して子供さんが増えていることもよく分かった。(写真:花火観賞の住民に皆さん)
 さて、一番上に掲げた朝日新聞30日朝刊の記事の画像を見ると、スカイツリーの左右2箇所から花火が打ち上げられている様子がよく分かる。我がマンションからもスカイツリーの左右に花火が打ち上げられていた。しかし そのスカイツリーの方向に新築マンションが建築され始めている。来年、我がマンションから花火が観えるか否か微妙な状態にある。
 6日から2泊3日で、友人と二人鶴岡の旅に出ますので、ブログ更新1週間ほど先になります。