A Day in The Life

主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその11-7

2024-08-09 23:42:57 | 同人誌感想
 なんつってる間に明日は夏コミ出発日っすよ(笑)
 というわけでもはや背水の陣通り越して水の中に鼻の下まで浸かってる状態なのでどんどんやっていきますよ。やるべきことを終わらせて新品のパンツを履いた元旦の朝のように清々しい気分で夏コミに出発するのだ。
 
・東方SFアンソロジー 夢現理論の臨界点(東方SFアンソロジー製作委員会)
 長かったこの作品のレビューも、いよいよあと残り9作品! 5・4で休憩挟んで書いていけばなんとか終わる量……なはず……。
 
・差異(Difference)(星原渚氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「他者のとの違いというつながり」。
 SFではしばしば憑依や精神寄生等といった方法で他者と同一化する描写があります。本作では秘封倶楽部のふたりというキャラクターを使って、タイトル通りの差異によるつながり。
 前回の日記でも何度か書きましたが、蓮子とメリーは東方の中でももっとも結びつきの強いカップリング。だからこそこうした作品では二人の「差異」が際立つわけですね。
 本作はインプラントチップが一般化した未来世紀を舞台に、「結界を見るための能力を獲得できるチップ」を巡った物語が展開されます。
 本作では、「結界を見るための能力」が外挿化されることによる特殊性の喪失を、そのまま「結界を見る」という特殊性が一般化されることで蓮子とメリーの関係性もまた喪失してしまうのでは?というところに話を持っていっているのが作劇的に上手い。
 作中の蓮子の言う「貴女とぜんぶ同じになりたいわけじゃない」という言葉がこの作品のすべてと言えるでしょう。差異があるから、同一ではないからこそ互いに結びつき合うことができるという。
 
・山彦の氏(天狗氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「自己像の認識」。
 もっとも身近な認識であるはずの「自己像」は、しかし作中で述べられている通り「写真を撮った自分は写真に映らない」というように実は客観的に認識できないもの。
 自分は直接自分を見ることはできないし、鏡に映したり写真に撮ったりした自分も再現度100%のそのままの自分ではない。あとがきにあるとおり、「生のままの自己像」と「客観的に観測できるよう加工された自己像」の間にはどれだけ近づいても決してゼロにはならない隔たりがあるわけです。
 本作では「撮影者の心象をも映すことができるカメラ」がキーアイテムとして登場します。このカメラで撮影された写真を手にしたものは、当時の撮影者と同じ心象を体験できるというものですが、文からこのカメラで亡くした弟・命蓮の撮影を勧められた聖はこれを断ります。写真として切り取られた命蓮の姿は限りなく彼に近いものでしょう。しかし、それは彼本人ではない。どころか、それはあくまで撮影者=聖の心象としての命蓮であって決して命蓮本人ではないことが最初からわかりきっているわけです。
 SFというジャンルは地球の外、太陽系の外という「外側」への強力なベクトルを持つ反面、しばしば人間の内面に深く没入する「外側」へのベクトルも持つもの。本作は写真という媒体を利用して自己像の在り処を探る、内向的SFだと感じられました。
 
・相対性精神学殺人事件(浅木原忍氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「主観の違いによる多数の認識世界」。
 ベースはお約束の密室殺人事件なんですが、そこにオタクはみんな大好きシュレディンガーの猫な観測者の違いによって死体が現れたり消えたりするという要素をぶち込んだもんだからさあ大変。ミステリーでやっちゃいけない枷がぶっ壊れたこの殺人事件、如何にして処するか!
 我々は「客観的にものを見ろ」とか言ってますが、そもそも我々は何を認識するにしても絶対に主観というフィルターを通さざるを得ないので、主観を完全に排除した「真の客観」という視座を獲得することは絶対に有り得ないんですよね。本作では密室殺人事件という舞台を使ってそれを思いっきり誇張して、主観によって出たり消えたりする死体を登場させて読者を混乱させます。
 しかし話し手のひとりであるメリーはこれをあっさり「客観なんて主観的認識の集合体でしかない」と断じます。SFにおいては堅牢で確実な存在であったはずの「現実」はしばしば煙のように不確定で曖昧なものとなります。本作のラストでは、今まで硬い床だったはずの現実がぐにゃりと泥のように崩れていく感覚が味わえました。また終始マイペースかつすっとぼけた感じのメリーが実にメリーで好き。
 
・人はそれを神と呼ぶんだぜ(町田一軒家氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「SF的解釈付喪神」。
 かつてはSFの世界の存在だった「AI」や「電脳アイドル」はすっかり現実のものとなりましたが、本作はこれまた世界中に普及したあらたなアイドルの存在形式であるVtuberを題材に取り上げたものです。
 外の世界で忘れ去られたものが幻想郷に来るという「幻想入り」ですが、本作では発表される前にお蔵入りになったと思しきAI搭載型のVtuberが幻想入りします。これが現実の群雄割拠状態のVtuber界隈ならいかにもありそうで興味を惹かれます。
 そして外の世界で忘れ去られた架空のアイドル=偶像が、幻想郷でファン=信者を得ることで一種の神として再誕する、という流れには、道具が妖怪化、あるいは神化する付喪神と同じようなプロセスを感じました。
 また、外の世界で生まれたVtuberである明神クマリと幻想郷との橋渡し役となっているのが、外の世界と幻想郷を行き来している菫子というキャラ配置も、全体の作劇構成ををスムーズかつ自然なものにしています。
 
・幻想郷における芸術の革新(久我暁氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「一種のテセウスの船としての生成AI」。
 このブログを書いている今現在も、生成AIの功罪については激しい議論が為されています。
 本作に登場する画家の手掛ける絵は、短時間で高精度。それを見たマミゾウはあれはAIではないか?と疑惑を抱きます。
 画家の正体はAIでしたが、開発者の脳にAIがインプットされたという特殊な存在でした。その生成AIはアリスによって一種のサイボーグとしての肉体を得ており、自分の手指でもって絵を描いていたのでした。
 我々の知る生成AIとは、特定のキーワードを入力することでそれにそった画像や文章を出力するというもので、それを「創作活動」とは言えないでしょう。では、本作に登場するAIが自分の手指でもって作品を描くという行為は果たして「創作活動」と言えるのか。
 ラストではAIは彼(?)に憧れる里の少年との共同制作である絵を完成させます。ではこの作品は「AI出力」によるものなのか、あるいは純粋な創作活動によるものなのか。「完全にAI出力で作られた作品」は生成AI作品ですが、ではどこまで人間の手が関与していればそれは「創作作品」と呼べるようになるのか。本作のテーマとは少しズレた感想かもしれませんが、読んでいてそんなことを思いました。
 古い部品を取り替えていってすべての部品が新しいものになった舟はどの段階で「元の船」でなくなるかというパラドクスである「テセウスの舟」と同じように、生成AIがどこまで関与すると作品は「AI生成作品」になるのか、ということを本作のラストで考え込んでしまいました。
 
・博麗霊夢になることは(柊正午氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「人間の模倣」。
 本作では博麗霊夢となろうとする埴輪・レイムとその訓練係となった磨弓の姿が面白おかしく描かれています。音声モジュールの下りは全部脳内再生できてしまって爆笑しました。ゆっくりとずんだもんまでは我慢しましたがクッキー☆で崩壊した。
 しかし本作は、「いかにして博麗霊夢を再現・模倣するか」というハードSFでもあります。ただ単に姿を似せるのではなく、性能(スペック)でもって博麗霊夢を模倣しようとしているアプローチが非常に独特。
 そしてその方法もまた独特で、埴輪兵としての根本的なスペック不足を解消するために用いた方法が「閻魔によって白黒つけられた霊をびっしり敷き詰めて白と黒のバイナリから構成される霊子コンピュータを構築する」という……。どっから出てくるんだこの発想。
 そしてこの設定が本作のラストバトルの勝敗にもしっかりつながっているのがまた上手い。一般的な計算機は加熱状態で熱暴走(オーバーヒート)を起こす。ならば霊子コンピュータたるレイムの頭脳はというと、(東方的世界観では)冷たいものである霊魂の集合体である霊子コンピュータが暴走すれば、逆に過冷却状態(オーバークーリング)を引き起こすという。そして「全霊停止」と書いて「ウィンターミュート」と読む! 分かる人にはわかるこういうネタ大好きです。
 
・オービス/アスフィクシエイト(銅折葉氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「オカルトなSF」。
 本作は遥かな未来の宇宙空間に浮かぶ龍珠製造工場<MISMAR>にてひとり孤独に与えられた務めを果たし続ける玉造魅須丸の話。
 まず言及しておきたいのはわあい宇宙生物あかり宇宙生物大好き。
 宇宙に浮かぶコロニーには事故が起こるということはコーラを飲んだらゲップが出るくらい確実。<MISMAR>に激突した人工衛星トリフネから侵入してきたキマイラの描写はかの名作SF「エイリアン」の異形感をひしひしと感じさせてくれます。そしてキマイラと魅須丸のバトルは弾幕ごっことはまた違った、しかししっかり東方的な戦いで読んでて楽しい。
 本作の最大の魅力はなんといってもテクニカルタームの読み替えでしょう。「葦原中国」と書いて「ミドルアース」と読む。「龍珠」と書いて「マテリアル」と読む。本来ならSFとは反対方向に位置するはずの神話的、幻想的タームを自然にSFのそれに読み替えることで、ごく自然に両者が融合・統一された世界観を成立させています。
 こうした専門用語はともすれば意味がよくわからずに読者を混乱させるだけに留まることも多いものですが、本作では逆に長々と説明することなく舞台となっている時代と世界がどういったものかをしっかり地固めして伝えてくれているのがさすがの技量といった感じです。
 
・偶像に宇宙(せかい)を委ねて(仮面の男氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「人類が飛び立ったその先」。
 宇宙にまで進出した人類がたどり着くのはいかなる世界か、というのはSFのもっとも古典的なテーマのひとつ。
 本作では遙か未来の世界の人類である先輩と後輩がたどり着くのは、先進的存在である飛翔体文明の遺した謎の遺跡。人類より遥かに進化・発達した種族というのもまた古典的SFテーマのひとつですが、本作ではその飛翔体文明の正体を造形神である埴安神袿姫、残された遺跡を前方後円墳としているのがオカルトかつSFがうまく融合していると感じました。
 そして遺跡に残された磨弓と埴輪たちが人類との対話で「余暇の過ごし方」というテーマに対面するという設定がまたおもしろい。
 そもそも本作がそうであるように、異文明系SFでは1000年2000年という時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもの。そんな中での「余暇の過ごし方」というのはユニークなテーマであると同時に、遠大な時間を豊かなものにするという以上にもっと切迫した要素なのかもしれないと思いました。現に先輩・後輩が訪れなければ磨弓や埴輪たちは長大な時間を無為に過ごしてきたでしょうし、先輩・後輩ら人類もまた長大な時間の果てに異形の存在となったままだったでしょう。
 作中の言葉を借りるなら、恒星間航行を可能とするまで進化した人類という空を飛ぶ鳥にも、生身の肉体をもって大地にへばりついて生きてきた地を這う亀たる旧人類の営みが必要ということでしょうか。
 
・祈念撮影(心葉御影氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「センス・オブ・ワンダー」。
 最後を飾るにふさわしい、素晴らしいギミックが込められた逸品です。まさにSF、まさにセンス・オブ・ワンダー!
 本作はメリーに仕掛けられた脱出ゲームに挑む蓮子という構図で始まります。読書というのはしばしば登場人物との感情や体験の共有を実現しますが、前半パートを読んでいる間、視界を闇に包まれた蓮子と同じように難解な用語を用いた文章から必死に状況を想像していました。当然、本作は小説なのでビジュアル要素がありません。この前半パートの間、わたくしは読んでる間まさに目隠し状態の蓮子と同じ状況でした。
 優れた創作作品の条件は無数にあると思いますが、わたくし人形使いはそのひとつに「読者の感覚を誘導できる」があると思っています。しかるに本作は、前述の通り前半パートで小説という形態をりようして読者に蓮子の状況を想像させるという誘導に成功しています。解説するのは簡単ですが実行しようとすると相当難しいですよこれ。
 そして蓮子がさまざまなヒントから、自分がいる世界が2次元世界だということに気づきます。そしてそこから脱出した蓮子が目にしたのは――。
 いやあ上手い。次のページをめくったときに思わず「うまい!うまい!」と煉獄さんと化していました。「ページを捲る」という行為の興奮をしっかり味わえたとともに、文字通りの2次元から3次元への移動を表現するというセンス・オブ・ワンダーを体験できました。技あり!
 
 くぅ~疲れましたw これにて終了です!
 ……というわけで、全7回に渡って「夢幻理論の臨界点」レビュー、これにて完了!
 最初のレビューでも書きましたが、本作は各作品に解説がついているのでそっちに頼り切りにならないようにするのが大変でした。まあ頼りましたが。
 やはり分厚い合同誌のレビューは大変ですがやりがいがありますし、何より一介のSF好きとして楽しんでレビューさせていただきました。楽しかった!
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第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその11-6

2024-08-08 23:23:09 | 同人誌感想
 夏コミ出発まで今日を入れてあと3日! 3日しかないのだ!
 なんとか終わらせてから出発したいもんだがどうなることやら。
 
・東方SFアンソロジー 夢現理論の臨界点(東方SFアンソロジー製作委員会)
 ようやく折り返し地点を過ぎて、残りは14作品。5・5・4であと三日で終わる計算なのでなんとか終わらせるぜ。
 
・百三十八億年のパリティと孤独(卯月秋千氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「おとぎ話」。
 東方におけるカップリングは数あれど、秘封倶楽部の二人はその中でも特に結びつきの強力なカップリングです。
 本作ではそんな二人の結びつきの強さを、互いに互いを認識することで成立しており、そこには何者も立ち入れないとして表現しています。この表現の仕方が実にSFで上手い。
 あとがきによれば、本作は「CP対称性の破れ」を「カップリング」と読むことで蓮子とメリーという対称性の関係を表現しているとのこと、。わたくし不勉強で「CP対称性の破れ」という概念は初めて知ったんですが、本作は作中にこうした難解かつ専門的なSF用語を星のごとくちりばめておきながら、そのそれらの星が形作る星座の形はおとぎ話でした。読んだ食感がいわゆる宮沢賢治作品に近いんですよねこの作品。
 さらには視点をメタ方向に広げて、「『神』の創作物としての秘封倶楽部」を描いているのも実にSFで好き。
 
・マチネの終わりに(じる氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「欺瞞」。
 SFにおける発達した科学技術は人間社会を大きく変化させるものですが、その変化の中には「代替品を作れるようになる」というものがあります。失った手足の再生、建造物の復元、あるいは記憶の再現などなど。失ったものを取り戻したいというのは当然の欲求ですが、取り返しのつかないものが取り返しのつくものになってしまうとき、そこにはある種の欺瞞が生じます。
 本作で「いつものように」談笑する魔理沙、アリス、パチュリーの3人。種族魔法使いであるアリスとパチュリーと同じように、姿が変わっていない魔理沙。カメラは決して三人のいる部屋以外の場所を映し出さない。
 タイトルにある「マチネ」とは昼公演のこと。それはアリスとパチュリーの作り出した欺瞞の舞台でした。その欺瞞をついに保てなかったアリスによるネタばらしが悲しい。わたくし人形使いは優れた作品、特に優れた短編はその作品の前後を想像させてくれるものだと常々思っているんですが、本作はこれまでに繰り返されてきたであろう欺瞞の即興劇(エチュード)、そしてこれから始まる孤独の夜公演(ソワレ)を想像させてくれて切ない気持ちになりました。
 
・まっすぐに、きみへ(みこう悠長氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「認識の崩壊」。
 SFではしばしば、人間にとって当たり前だったはずのものが当たり前でないものになるという現実認識の脆さが描かれます。本作は「直線」という一見別にどうということはない当たり前のはずの概念が覆ったあまりにもおぞましい認知世界が描かれます。
 ことの発端はにとりが持っていたストレートエッジが壊れてしまったというどうということはない感じの出来事。にとり、魔理沙、咲夜の3人は、「完全な直線」を定めた「直線原器」を求めて彼岸に赴くのですが……。
 そもそも我々人間が認識しているこの「現実」は、そのまま「生の現実」であるかというとそうではありません。我々には赤外線や紫外線は認識できませんし、電波を知覚できるわけでもない。さらに言うなら我々が認識できる次元世界は3次元に留まるのに対し、「実際の世界」は11次元とも言われている。では、我々3次元しか認識できない存在が「実際の世界」を認識させられてしまったら?
 「実際には認識できない世界を想像する」というのはSFにとどまらず創作作品の大きな楽しみではありますが、ある意味ではそれは狂気に自ら踏み込む行為なのかもしれない、と最終段落の魔理沙の観る「実際の世界」を見て思いました。
 
・重力(はどろん氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「思い出すこと」。
 失ったものは帰ってきません。しかし、「失ったものを思い出すこと」でそれらにアクセスすることができます。
 本作はどこかノスタルジーを感じるような古い語感と語彙で構成された独特な地の文で、メリーの不思議な夢を描いています。ユーモラスでコミカルな二人のやり取りがたどり着いたラストは、読んでいてどこか予想できたものでした。蓮子は失われたからこそ何度もメリーの夢の中で無限に現れ続け、そして常に死んでいくという……。
 「幻の存在に惑わされる」という展開はお約束の一つであるものの、本作における蓮子像は、メリーにとっては紛れもなく蓮子であると同時に蓮子本人では決してないというのにあまりにも悲しい隔たりを感じました。
 前述の通り秘封倶楽部の二人は東方の中でももっともと言っていいほど結びつきの強いカップリングですが、それ故にもっとも「別れ」が悲劇的なカップリングでもあります。「悲哀のカップリング」とも言えるかも。しかるに本作のラストのしっとりした悲しみはこの二人だからこその美しい味わいがありました。
 
・Latency's Report(光之空氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「不老不死への衝動」。
 SFというジャンルで描かれてきたさまざまな事物の中には、月面到達や宇宙開発、インターネットやAI、スマートフォンなどなど現実のものになった事物がたくさんあります。反面、SFで普遍的なテーマとして取り上げられ、数多くの権力者たちが実際に求め、しかし人類の長い歴史の中で一度たりとも実現していないこともあります。それが本作のテーマである「不老不死」です。
 本作では月における不老不死の実態を知った蓮子とメリーが、後の人々が同じ過ちを繰り返さないために嘘の情報を書き記しますが、それでも不老不死を求める人々を止めることはできない。
 前述の通り、不老不死は数々の物語で描かれてきながらいまだ実現されてはいません。そして物語の中では、不老不死は必ずと言っていいほど悲劇とセットとなっています。本作を読んでいると、これはただ単にドラマチックな演出のためという作劇的必然性というよりは、むしろ不老不死というイレギュラーに対する忌避本能があるのではないか、そんな気がします。
 
 今日はここまで。
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Tジョイ梅田「仮面ライダーガッチャード/爆上戦隊ブンブンジャー」見てきました!

2024-08-07 21:47:50 | 映画感想
 今日はメロンブックスからコミケ用のリストバンドを回収するがあって梅田に行ってきたので、それに加えてまだ見てなかったこの作品を見てきました。
 
 
 ガッチャードの方は見てないんですがブンブンジャーはハマって毎週見てるので、これは劇場版も見ておかねばということで見てきました。
 令和仮面ライダーはゼロワンは完走しましたがセイバー、リバイス、ギーツは途中でストーリーよりスケジュールを消化している感を強く感じるようになって視聴中断しましたが、スーパー戦隊の方はキライメイジャーから継続して見てます。こっちのほうが性に合ってるんだろうかな。
 
 さて感想です。
 まず「爆上戦隊ブンブンジャー劇場BOON!プロミス・ザ・サーキット」から。
 特撮モノの劇場版は、TVシリーズに比べてシンプルに規模とクオリティが向上するので素直に爆上げになります。
 ブンブンジャーはクルマが重要なガジェットとなっておりつつもTVシリーズではそう頻繁にカーアクションができるわけでもないようで、最近はちょっとカーアクションは控えめでしたが本作ではその分2本立てのうち1本という決して長くはない上映時間の中にしっかりカーアクションを含めていて楽しかったですね。特に1話以来使われていなかったブンブンスーパーカーの飛行機能、そして未来のドライビングテクニックを遺憾なく発揮したカーチェイスシーンは非常によかった。
 そして今回の敵であるデイモンサンダーとサーキットグルマーもデザインがいい。レーシングカーをモチーフとしていながら禍々しさを加えたデイモンサンダーに、スタートランプを複数の目のように並べた頭部が不気味なサーキットグルマー。スーパー戦隊の楽しさはたくさんありますが、その中の一つに「バラエティ豊かな怪人デザイン」があります。特に本作のキャラデザはあの存在自体がマンガっぽい漫画家・島本和彦先生なので怪人デザインも凝ってて好き。
 また、レーシンググルマーは本作のテーマである「クルマ」に対して「サーキット場が敵になる」というカウンターは構造的に非常にいい。さらにもとがサーキット場なのでブンブンカーを支配してしまうというのも強敵感があります。
 また、物品を怪人化させているTVシリーズの苦魔獣に対して場所を怪人化させるという形で特別感を感じさせてくれるのもいいですね。
 あとデイモンサンダーの「サ~ンダッダッダッダ」って笑い声が斬新すぎて笑った。そういやどっかのスーパー戦隊には「語尾がワルモノ」っていたなあ……。(遠い目)
 シリアスになりすぎずコミカルさも失わない、楽しい劇場版でした。
 「仮面ライダーガッチャード ザ・フューチャー・デイブレイク」に関しては作品自体未見だったので大した感想はありません、というか作品自体の詳細も知りませんが、どうも錬金術をモチーフとして取り入れてるっぽいですね。錬金術なんていうオカルトを取り入れたライダーは初めてじゃなかろうか。
 そして現在の自分と悲惨な敗北を遂げた未来の自分との共闘はお約束ではありながらやはり熱い。
 でも突然小島よしおが出てきた途端にすべてが吹っ飛んでしまいました。久しぶりに見たな小島よしお……。
 
 仮面ライダー、スーパー戦隊はしばらく見てませんでしたが令和になっていきなり復帰するとは思わなかった。素直に面白いんですよね。そういや仮面ライダーの方は新しいのが始まるようなので今作は見てみようかな。
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第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその11-5

2024-08-06 21:40:52 | 同人誌感想
 夏コミ原稿が終わったせいですべてが終わった気分になっているのでとても危険。
 
・東方SFアンソロジー 夢現理論の臨界点(東方SFアンソロジー製作委員会)
 ようやく半分を過ぎたのでなんとか夏コミ出発までには終わると良いなあ。
 
・Drown Ship BEBOP(夏後冬前氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「閉鎖空間ホラー」。
 今さら言うまでもなく宇宙船という閉鎖空間はホラーと非常に相性がいいわけです。そこで東方要素として「船」幽霊であるムラサを持ってくるチョイスが実にいい。そして文字通りじっとり、べったりとまといつき飲み込まれてしまいそうなホラー描写がまた素晴らしい。
 SFにおける未来世界を成立させている発達した科学力は、その文明の力でもって暗い闇の中に潜む妖怪を駆逐するもの。しかし本作では、「宇宙船」という科学力の象徴とも言えるロケーションに「船幽霊」という時代遅れであるはずの妖怪が侵入してくることで、逆説的に闇に潜む妖怪という存在のしぶとさを見せつけています。
 人類が重力の軛を解き放って宇宙に進出したとしても、妖怪は不滅の存在なのかも知れません。そこに人類がいる限り。
 
・犬走椛の砂漠(SYSTEMA氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「本物と模造品」。
 しばしば広漠でなにもないことの例えに使われる「砂漠」というロケーションにて、変わらない監視任務を無為にこなしていく白狼天狗部隊の話。
 収録作品の中ではかなりボリュームの大きな作品でしたが、そのページ数の多さがそのまま本作の舞台である砂漠の果ての見えない遠大さに思えてきました。
 あとがきによれば本作のネタ元は幻想文学の古典「タタール人の砂漠」という作品だそうですが、わたくし人形使いは作品後半の展開にスタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」を想起しました。
 不毛の地の象徴たる砂漠が万能の生成機械の材料だったというのも皮肉ですが、それらから生み出されたものと「本物」との間にどれほどの違いがあるのか。ラストでにとりと会話している慧音ももしかしたら……と思わずにはいられません。
 
 短いですが今日はここまで。
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第21回博麗神社例大祭戦利品レビューその11-4

2024-08-05 22:52:47 | 同人誌感想
 いよいよ今週末は夏コミ本番。
 それまでに例大祭戦利品レビューは終わるのか。それはゴッドミソスープ。
 
・東方SFアンソロジー 夢現理論の臨界点(東方SFアンソロジー製作委員会)
 まだ半分も終わってませんが夏コミ出発前までには終わらせます多分きっと。
 
・SFがSFたり得る所以とは 科学世紀ではSFは成立するのか(サファイア妖夢氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「SFの世界に近づいた世界のSF」。
 今、自分がこうしてブログを書いているパソコンやインターネット、スマホなどはかつてはSF作品の中の存在でした。それらは2024年現在すっかり現実のものとして定着しています。
 本作ではそんな「SFの世界が現実になった未来世紀」において、秘封倶楽部の二人が「古典SFばかりが注目されて新作SFが興味を引かれない」という未来世紀のSF事情について談義します。
 作中でふたりは実在するSF作品を例に上げて議論を交わしますが、蓮子の「SFがSFとして成立するのは『科学に新世界の開拓ができる』という希望がある時代だけ」という言葉にはなるほどなーと思いました。
 SFの大きな魅力は「未知」です。その「未知」は科学技術の発展に伴って「既知」になってきましたが、それは同時に未だ知らない新世界の減退を意味するものでもあります。そして最終的に科学の発展は人類が踏み込める未知の世界の限界点を示してしまう……というのはなんとも皮肉なものです。
 
・煙人(灯眼氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「迂遠な時間」。
 SF作品というものはしばしば長大な時間を舞台にするもの。ページを1枚めくっただけで数百年、数千年という人間の寿命からすればあまりにも長い時間が経過することもあるものです。
 本作は、9ページという短いページ数の中で、不老不死の蓬莱人である妹紅が遠大な時間をかけて月へとつながる軌道エレベーターを素手で登っていくというもの。
 作中の妹紅は無限の寿命を持つがゆえに、快楽に耽溺すること解脱を求めて修行することも最終的にはすべて無意味だと悟っています。そんな彼女が「登る」という行為に執着し、その姿を人間とは大きく隔たったものに変えつつもその行為を継続していく姿を見て、人間には天、つまり未知の領域を目指し続ける走性のようなものがあるのではないかと感じました。
 そしてそんな遠大な時間をかけて到達した場所は未だ月には遠く……というラストは、ある意味では一種の救いだったようにも思えます。収録順に読んでいるので本作は前段の「SFがSFたり得る所以とは」のあとに読んだわけですが、本作のラストはそこで書いた「最終的に科学の発展は人類が踏み込める未知の世界の限界点を示してしまう」のカウンターとも言える「遠大な時間をかけて人類が到達できる場所は未知限界点のはるか手前でしかない」というように感じられました。
 
・臣上宮太子言(よしれっくす氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「オカルトとしてのSF」。
 未来世界のいずこかで発掘された謎の歴史書。年代すらもわからないその歴史書は、豊聡耳神子が記した宇宙創生から日本神話の有名なエピソードであるイザナギとイザナミの黄泉がえりを記した驚くべき書だった。
 本作の解説にもある通り、SFとは未来世界だけでなく過去世界も描けるもの。しかるに本作のような「遥か過去に当時には知りようもなかったはずの情報が記された書物があった!」というエピソードはかつて月刊ムーを定期購読していたような種類の人間にはもうそれだけでテンション上がるというものですよ。
 わたくし不勉強で知らなかったんですが、これまた解説によれば本作は2023年11月に実際に奈良県明日香村で新しい遺構が発見されたというニュースをもとにしたものだそう。そういや昔月刊ムーにて聖徳太子の所持品に地球儀らしきアイテムがあったとかいう話を思い出しました。
 
・サンズリバー、流ないでよ(水之江めがね氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「文字媒体でのループ表現」。
 タイトルですべてを察して読む前から爆笑してしまった逸品。
 ネタ元である「リバー、流ないでよ」は時間系SFの新境地を切り開いた作品として「ドロステのはてで僕ら」とともに大好きな作品です。
 本作はネタ元の「2分毎にループする」というループ構造を「決まった行数とページ数でループする」という形で小説媒体で再現しているのがまずアイデア賞もの。
 そしてそのループ構造の中でのドタバタもネタ元をしっかり踏襲したうえで東方二次創作としての面白さもしっかり確保しているのがすごい。ネタ元の方では京都の貴船にある温泉旅館が舞台なんですが、これを東方二次創作で再現するにあたって舞台を旧地獄の繁華街、メインキャラと勇儀とパルスィにするというチョイスが実に上手いです。
 
・くだんの首(福井実継氏)
 個人的に見出した本作のSFテーマは「怪談としてのSF」。
 文明と科学技術の発展の前に未知という姿をした怪異がすっかり姿を消してしまった未来世紀。しかしそんな未来の世界の中、ぽつりと生き残った怪異「くだん」の話。
 小説における文体、地の文というのはその作品の空気感や雰囲気を決定づける重要なポイントだと思うんですが、本作の地の文におけるやや時代がかった言葉遣いは独特の暗さや不穏さを醸し出しており、怪異が本格的に登場する前からじっとりと湿った空気感を醸し出しており、いわゆるジャパニーズホラーの空気感があります。
 同時に、未来を語る予言の妖怪である件、そしてこの世に残った最後の妖怪となったかつての慧音が語るのは、輝かしく希望に溢れた未来像とは真逆の、遠大な時間の果てに、しかし確実に間違いなく訪れる「宇宙の死」という最終的な終わりというあたりにアポカリプス系SFの味わいも感じました。
 妖怪というのはしばしば何かの戯画化として描かれるもの。
 未来世紀の中にあってやがて確実に訪れる「終わり」を叫び続ける件の姿は、文明に追いやられた最後の妖怪であるとともに、未来の人々が目を逸らし続けている「やがて来る終わり」という不都合な真実の戯画化なのかもしれません。
 
 今日はここまで。
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「あうんちゃんのお困りですよね!?霊夢さん!」プレイしました!

2024-08-04 22:44:35 | ゲームな話
 無事夏コミ原稿が終わったのでゲームをやっていきます。
 steamでは日々新しいゲームが発売されるのでもう大変。
 
 本作は、かのハイスピード貢がせゲー「貢がせろ!女苑ちゃん!!」を制作したサークル「ISY」さんの東方二次創作ゲーム第2弾。
 基本的なシステムとノリは前作と同じ感じ。今回の目的はあうんちゃんが霊夢のリクエストに沿ったアイテムを調達してくるというもの。
 アイテムは回転するリールを止めて2つの単語を組み合わせて決定します。例えば「高級な」と「肉」で「高級肉」が出るといった具合。そして適切なアイテムを選択することによって霊夢の満足ランプを3つ点灯させたら次のウェーブに移行するという流れになっています。
 しかしアイテムのチョイスを誤るとランプが点灯しないどころかマイナスになってしまうこともあるので要注意。場合によっては3つ一気に点灯させることも可能。
 本作は前作と同じくスピード感のあるゲーム展開でサクッと遊べるのがいいところ。ステージのボリュームと難易度も多すぎず難しすぎずでちょうどよく楽しめます。
 リールは回転が遅いので十分に目押しできますが、制限時間があるので適度な緊張感が保たれているのもゲームとしての面白さをしっかり確保している感じ。
 そしてなんといってもあうんちゃんが可愛い。
 東方二次創作ではしばしばほぼ犬として扱われるあうんちゃんですが、霊夢のお困りの気配を感じると即座にアイテム調達に走る姿はまさに忠犬。
 特にリールを回してるときにそこらじゅうを駆け回る姿はまさに犬。
 またこれも前作と同様に、アイテムを渡された霊夢のリアクションが異常に豊富なのが笑えます。あとなんか困ったときにはとりあえず大きい肉を渡しておけばなんとかなるような気がする。
 
 
 いわゆる同人ゲームは近年そのクオリティは上がる一方で、ものによっては商業とほとんど区別がつかないものも珍しくはなくなってきました。では常にAAAクラスで総プレイ時間4桁超えのゲームがプレイしたいかと言うとさにあらず。本作は昔懐かしの駄菓子屋のような気軽に楽しめる往年の同人ゲームの良さを感じられる作品です。
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塚口サンサン劇場「帰ってきたあぶない刑事」応援上映捜査完了!

2024-08-03 21:45:09 | 映画感想
 夏コミ原稿が終わったのでわたくし人形使いは自由という名の翼を得ました。サークルチェックとお品書き作成とpixivへのサンプル投稿と紅楼夢原稿と冬コミネタまとめと例大祭新刊レビューが残っているという現実からは目を逸らしています。真実は時として人を傷つける。
 しかしまあ、毎回のことですがイベント用原稿を書くのは大変です。消費したエネルギーは回復せねばなりません。そんなとき、HPを上限値を超えて回復させてくれるのが我らが塚口サンサン劇場。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 
 
 1986年からテレビドラマとして放送開始した本作は、舘ひろし氏演じるタカこと鷹山敏樹と柴田恭兵氏演じるユージこと大下勇次のコンビによるそれまでの刑事ドラマの常識を覆す面白さで現在まで高い人気を誇る作品。
 そんな「あぶデカ」も、2016年公開の「さらば、あぶない刑事」にて惜しまれつつもいったんの完結となりました。
 しかし年号も変わった2024年にタカ&ユージが帰ってきた! となればやはり我らが塚口サンサン劇場で歳を重ねてさらに魅力的になった二人の姿をスクリーンで応援したいと思うのが人情というもの。
 そしてもちろんサンサン劇場は我々の望みに今回もしっかり応えてくれました。
 今日この日、サンサン劇場にはそれっぽいサングラスやそれっぽいスーツ姿やそれっぽいドレス姿の人が見られますがサンサン劇場ではこれが日常です。
 上映前のスクリーンはこんな感じ。
 
 
 「クラッカー、紙吹雪、鳴り物はNGです。使用した場合、港署までご同行願います」とありましたがこれはどう考えても逆効果なのでは。 
 場内がじわじわ温まってきて、毎度おなじみ戸村支配人、今日はネクタイとサングラスで登場だ!
 今回もまた恒例の塚口アンケートが行われます。今回が初あぶデカの方、今回が初塚口の方もやはりいて、場内からは温かい拍手が沸き起こりました。今後もどんどん塚口の沼に頭からハマっていただきたい。
 そしていよいよ上映開始。あのふたりが帰ってくる!
 
 映画というものは何回上映しても何回見ても内容自体が変わることはありません。しかし、その作品を見たときの年齢、季節、回数、環境などによって、同じ作品でもまったく違う感想を抱くもの。つまり映画の感想や印象は、その周辺状況によって大きく印象を変えるわけです。
 しかるに今回の「帰ってきたあぶない刑事」、上映時間が14:05~16:10という時間だったんですがこれが実に「効」く。
 夏休みシーズンの昼過ぎから夕方にかけてこの「あぶデカ」を見ることによって、我々観客は2024年の8月から各々の「あの頃」のお茶の間のテレビの前にタイムトラベルするわけです。
 今回の応援上映は前述の通りクラッカー、紙吹雪、鳴り物はNGとなっており、マサラ上映に比べるとそこまで「ド派手な大騒ぎ」といった感じではありませんでしたし、客席の埋まり具合も満席というわけではありませんでした。しかし、そのくらいのほうがなんというか「お茶の間」感が強くて実にこの「あぶデカ」に合うんですよね。
 塚口で開催されるイベント上映の形態は無印マサラ、応援、ハードマサラ、ソフトマサラの4つに分かれており、それぞれレギュレーションが異なります。そしてサンサン劇場では、これら4つの上映形態を作品ごとに的確に当てはめて上映を行っているのです。
 今日この日の応援上映に参加した方は分かってくれると思いますが、今回の「帰ってきたあぶない刑事」という作品に対する「応援上映」という上映形態は、まさにタカとユージのようにこれ以上ないベストの組み合わせであると言っても過言でも華厳でもないでしょう。
 わたくし人形使いの今回の応援上映の感想は、「夏休みに親戚や友達がテレビの前にみんな集まって大好きな『あぶデカ』を見ていた」これに尽きます。
 そもそも映画鑑賞とは疑似体験。誰もがヒーローやヒロインになって大冒険を疑似体験するのが映画の楽しみ。しかるにサンサン劇場では疑似体験たる映画を通してさらなる体験を我々に提供してくれるのです。我々は今日の約2時間、映画館のシートではなく「あの頃」のテレビの前にいた!
 
 今回の「あぶデカ」には日本語字幕がついていたんですが、これがまた実にいい仕事をしてました。本作では過去作のBGMが随所に使用されてるんですが、その曲名がスクリーンに表示されるたびに「あの曲だ!」となって客席大盛りあがり。特に最初の「あぶない刑事のテーマ」って表示された時点でもう客席が一気に盛り上がりましたからね。
 今回は前述の通り満席には至らなかったのでおとなしめかな?とか思ってた矢先にあの盛り上がりだったのでビビりました。
 そしてみんな大好きカオルちゃんのアレ。スクリーンに「『大都会』のイントロ」って表示された時点で笑いが起きてましたからね。「『大都会』のイントロ」で笑いが起きるのってこの作品だけだろ。しかも天丼するしなこのネタ。
 この字幕が一番いい仕事をしてくれたのがラスト、タカのショータイムでしょう。日本語字幕はセリフや曲名だけでなく「ドアを閉める音」などのキャプションも入ってるんですが、このシーンで表示される字幕が「ハーレーのエンジン音」なんですよね。「バイクのエンジン音」ではなく。
 ここ最高にアガりました。この局面で「ハーレー」と来たらもう来るのはあのシーンしかないわけです。水戸黄門の印籠ですよ。もう最高。
 
 ……とまあ、今回の応援上映、「面白い作品をみんなで見るとすごく楽しい」という実にプリミティブな発見がありました。いやーほんとに楽しかった。しかしこれで終わらないのが塚口。来週からは記念すべき最初の劇場版「あぶない刑事」が上映されるのでみんな見に行こう!
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夏コミ原稿が完成したんじゃい!

2024-08-02 22:15:10 | 小説の書き方
 ゼェハァ……。
 というわけで今回もなんとか血と汗と命を振り絞って新刊を錬成しましたよ。
 今回のバロック本は、わたくし人形使いが個人サークル「人形の城」として活動を始める以前に書いた最初の長編バロック二次創作「二天流離」をリメイクしたものです。
 元作品は実に20年以上前に書いたものなので、今とは色々解釈や印象が違ってて興味深いものです。それにしても20年……か……。
 書いてるうちに書き足したいところや書き直したいところがどんどん増えていって、久しぶりに50ページ越えの作品になりました。そして今回、前後編で逃げなかった自分を褒めてあげたい。俺にカンパイ。
 正直バロック本に関しては書きたいネタはひと通り書いてしまったので、過去に書いた作品と同じテーマでもう1回書いてみるというのも面白いかも知れません。
 というか夏混み終わったら紅楼夢、紅楼夢が終わったらすぐ冬コミなので早々に次のネタを考えておかねば。
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塚口サンサン劇場「チャーリー」見てきました!

2024-08-01 23:13:23 | 映画感想
 夏コミ原稿の締切は明日の15:00なんですが今日も塚口に行ってきました。
 だってこの作品をまだ見てないんだから。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 
 
 いつものごとくロードショー公開だったのでまだ大丈夫と後回しにしてたらあっというまに終映日になってしまったこの作品。いやー見てよかった……。
 南インド・マイスールの団地で暮らす青年・ダルマは、家でも職場でも誰ともまともにコミュニケーションを取ろうとしない孤独な暮らしをしていました。しかし、そんなダルマの暮らしは、ふとしたきっかけで転がり込んできた一匹のラブラドールレトリバーによって大きく変わることになります。
 最初こそいたずら好きのその性格に手を焼くダルマですが、次第にその心を開くようになります。ダルマはそのラブラドールに「チャーリー」と名付けて可愛がるようになりました。そんな矢先、チャーリーがガンになっていることが判明します。余命幾ばくもないチャーリーのため、ダルマは遥かヒマラヤの雪をチャーリーに見せるために長い旅に出るのでした。
 本作も書きたいことが山ほどあるので思いつくままに書いていこうと思います。
 まず書いておきたいのはチャーリーの表情。この世にはたくさんの動物がいますが、犬ほど人間と深く関わってきた動物はいないでしょう。
 そんな犬であるチャーリーは、「犬という動物はこれほど多彩な表情を持っているのか!」と驚かされるほどたくさんの表情を魅せてくれます。
 わたくし人形使いは動物の感情はともかくとして、表情に関しては「見ている人間の願望が投影されているに過ぎないんじゃないか」とけっこう懐疑的なんですよね。産卵時のウミガメの涙とか。
 しかしチャーリーは最初から最後まで、そして最期まで本当にたくさんの表情を見せてくれました。チャーリーは犬なので当然言葉を話しません。しかしチャーリーの表情はどんな言葉よりも豊かに多彩にスクリーンを彩ってくれました。特に路銀が尽きてバイクを手放さざるを得なくなったときのあの悲しそうな顔よ……。
 インド映画の感想を書くときには毎回言ってる気がしますが、「直接的なセリフではなく表情と行動とBGMで語る」という点、本作はこれも良かった。
 特にダルマ、彼は前述の通り家でも職場でも没交渉な生活を送っており、他人とも関わろうとしません。なので冒頭部分はかなりのあいだ、ダルマのセリフのほとんどは直接口に出しているではなくモノローグなんですよね。これだけで彼の生きている人生がどれほど閉じたものかわかるという。また、彼が住んでいるのが周囲に他家がない一軒家ではなくたくさんの人が住む団地というのも彼の孤独をよりいっそう強調していました。
 そしてその孤独な生活がチャーリーと暮らすようになって次第に変わっていくわけですが、彼の人生が決定的に変わったのを表現するのに「自分のバイクにサイドカー=自分以外の誰かが乗るための席を取り付ける」という形で表現しているのが実に上手い。技あり一本と言った感じ。
 もうあれだけでダルマが他人を受け入れるようになったというのがどんなセリフよりもわかるんですね。そして実際このサイドカーにはチャーリー以外にもさまざまな人が乗ることになります。
 本作の大きなテーマの一つが「孤独だったダルマの変化と成長」なわけですが、これを効果的に現しているのが本作の構成でしょう。本作はインターバル前が団地で暮らしているダルマのパート、インターバル後がダルマの旅パートとすっぱり分かれています。
 インターバル前のパートではカメラがダルマの生活環境周辺にとどまっていますが、インターバル後のパートはチャーリーとの出会いによってダルマの世界が団地の外にまで広がったことがわかるわけです。そして実際ダルマは自分周辺だけで完結していた世界から飛び出すことでさまざまな人と関わっていくという。
 善意は最初からダルマの周囲に存在していて、狭い世界から広い世界に飛び出したことでダルマはそれに少しずつ気付いていくんですよね。
 本作にはダルマとチャーリー以外にもたくさんの魅力的な人々が登場しますが、特に好きなのが動物病院の院長ですかね。本作の前半部分は非常にコミカルで笑えるパートなんですが、院長はそのコミカルさの多くを担っててなかなかのコメディリリーフとして活躍してくれます。
 しかし、そんな彼は同時に医者なのでチャーリーがガンになっていることをダルマに告げる役割でもあるんですよね。なので、「前半であんなにコミカルだった彼が一変してシリアスな表情を見せる」ということでチャーリー、そしてダルマが直面することになる苦難がどれほどのものであるかを観客に感じさせるのです。この落差、本当にショッキングだった……。
 インターバル後のヒマラヤを目指すパートは壮大な自然が魅力的であると同時に、チャーリーに残された時間があとわずかであること、そしてその時間は刻一刻と終わりに近づいていることが折に触れて示される辛いパートでもあります。
 映画にはさまざまな効果がありますが、そのひとつが「観客に作中のキャラクターの行動や人生を追体験させる」だと思います。このインターバル後のパートは、観客もまたダルマとなってチャーリーとの旅路を楽しむと同時に、この幸せな時間が終わってしまう時が確実に来るという辛さを一緒に味わっていたと思います。
 そしてついに訪れる、決して避けられず、最初から来ることがわかっていたその時。避けられない、そしてダルマがかつて一度味わった大きな喪失が訪れ、しかし――そこには「次」があった。
 確かにダルマがやがてチャーリーを失ってしまうことは最初から分かっていました。しかしもう一つ分かっていたことがあります。それは、この物語はハッピーエンドで終わるということ。
 もうこれ以上ない最高のハッピーエンドでしたよ。ハッピーエンド。幸福な終わり。
 確かにこの作品の主人公はダルマですが、見方を変えれば本作は、チャーリーが幸福な終わりを迎えるまでの物語、チャーリーの「喪」の物語とも言えるかも知れません。
 「動物」「子供」「余命」といえば悪い言い方をすればお涙頂戴系作品の典型的な要素ですが、本作にはこれらのワードから想像するようなわざとらしい感動物語はありません。ハッピーエンドのその向こうには日夜悪徳ブリーダーのもとでひどい扱いを受けては死んでいく無数のチャーリーたちがいることが、本作のエンドロールでは語られます。そして、だからこそあなたもダルマになってほしいと本作は訴えかけます。
 インド映画は貧困、差別、社会不安、政治腐敗などさまざまな社会的テーマが盛り込まれています。というよりもむしろ、そうした社会問題を世に訴える手段としてインド映画は作られていると言ったほうがいいでしょう。なので本作も、ただの感動作では終わりませんし終わらせてはいけないと思います。
 今までいろんなインド映画を見てきましたが、痛切なんですよね本当に。「ジガルタンダ」の感想でも書きましたが、インド社会における映画というのはただの娯楽ではないというのが痛切にわかる一本でした。
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