おてんきぷらぷら

ホームタウンは三鷹。気ままな旅・街散策にFC東京。

祝)世界遺産登録 萩城下町

2015年07月07日 | World Heritage in Japan
7月4~5日Jリーグ無きウィークエンド一人旅。『世界遺産』登録夜明け前の山口・萩へ。
既にイコモスの登録勧告を受けている『明治日本の産業革命遺産』。韓国の執拗な抵抗もあり、当初予定の7月4日に決まらず、翌5日夜更けの世界文化遺産登録となりました。という訳で、4日・5日は世界文化遺産登録まさに直前の史跡巡り。5日世界文化遺産構成資産『萩城下町』を散策。萩城下、外堀の外側にあり、町屋や中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた「旧町人地」地域を巡りました。この一帯は「萩城城下町」として国の史跡に指定されています。町筋は碁盤目状になっており、菊屋横町、伊勢屋横町、江戸屋横町という小路があり、明治維新の3傑と呼ばれていた木戸孝允の旧宅、豪商菊屋家の住宅などの建物や、なまこ壁の土蔵、門、土壁が連なり、当時の城下町の景観を今に残しています。
高杉晋作誕生地の斜め向かいにある晋作広場には「高杉晋作立志像」が。初代内閣総理大臣伊藤博文から「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と評された高杉晋作。晋作は、天保10年(1839)、萩藩士・高杉小忠太春(二百石)の長男として生まれ、19歳の時に吉田松陰の松下村塾に入門。文久元年(1861)藩主世子毛利定広の小姓役を命ぜられ、翌年藩命で幕使とともに上海に渡航し、海外の諸情勢をつかみ、帰国後、尊攘論の急先鋒として活躍します。一時脱藩した罪で野山獄へ投じられましたが、四国連合艦隊の下関来襲にて再起用、講和に奔走します。その後、慶応2年(1866)には薩摩藩との薩長同盟に尽力するも、翌慶応3年(1867)、下関新地にて病没。享年29歳の若さでした。幕末の風雲児、高杉晋作ゆかりの地で、当時の若者たちの志と行動力にあらためて思いを寄せる散策でした。








江戸屋横町



伊勢屋横町



菊屋横町



円政寺







木戸孝允旧宅





旧久保田家住宅



田中義一誕生地



菊屋家住宅













高杉晋作誕生地









高杉晋作立志像






   





コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。