おてんきぷらぷら

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四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参り 〔東 寺 【成願】〕

2021年10月11日 | Ohenro88
『四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参りの旅(10月7日~8日)』 東 寺【成願】
四国八十八箇所霊場を廻り"結願"、高野山奥之院お礼参りをして"満願"。京都の東寺にお参りして"成満"ということで、高野山奥之院にて満願を達成したその足で、京都の東寺へ向かいました。東寺は唯一残る平安京の遺構であり、京都にある真言宗の総本山。教王護国寺ともいいます。桓武天皇による平安京遷都の2年後、延歴15年(796)に、都の南端に官寺として創設されました。その後、弘仁14年(823)、嵯峨天皇から弘法大師に下賜され、密教の根本道場となります。東寺を託された弘法大師は、密教の主尊である大日如来を境内の中心にすえ、広大な寺域に曼荼羅を表現しようと造営にあたったとされ、弘法大師自らは御影堂の場所に住房を構えたとのこと。弘法大師は東寺で過ごした後に高野山に向かいますが「身は高野 心は東寺に納めおく 大師の誓いあらたなりけり」という歌を残したと言われています。今でも弘法大師の命日、毎月21日、境内に1000店ほどの露店(コロナ禍前)で賑わいをみせる弘法市、通称"弘法さん"は、京の風物詩。創建からおよそ1,200年、平成6年(1994)には、世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産登録されています。東寺には、2012年6月10日京都の世界文化遺産巡りで訪れた以来の参拝ですが、当時は修学旅行生の皆さんのワイワイガヤガヤで満ち溢れていたのを覚えています。さすがにコロナ禍、今回は参拝客は少なく、四国八十八ヶ所霊場巡礼の成願にふさわしい静かで落ち着いた雰囲気の中にてお参りすることができました。とは言え、金堂内は静粛厳守、お祈りと納札を納めたのみでしたので、御影堂(大師堂)では、最後の般若心経、ご真言をマスク越しながら高らかに唱え、遂に"成願"となりました。食堂の納経所では、納経帳の最終頁に弘法大師の御朱印をいただき、ひと安心。御詠歌入り白衣には、東寺の御朱印の場所がなかったため、ご真言"南無大師遍照金剛"の南無の上に御朱印を頂戴しました。実は東寺の御朱印は9種類(弘法大師、大日如来、薬師如来、毘沙門天、不動明王、十一面観音菩薩、愛染明王、八幡大菩薩、虚空蔵菩薩)あるのですが、さすがにお遍路さんのいでたちで、四国霊場八十八ヶ所納経帳にて、言わずもがなの弘法大師の御朱印を。ご苦労さまでしたとの労いのお言葉をいただき、あらためてじ~んときてしまいました。弘法大師と共に旅した同行二人、ここに終着、念願の成願となりました。それではあらためまして、高祖弘法大師御法号〝南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛〟 回向ノ文〝(願わくば)この功徳を以って普く一切に及ぼし 我等と衆生と皆共に佛道を成ぜん〟合掌。

【東 寺】
真言宗総本山 教王護国寺 東寺  〒601-8473 京都府京都市九条町1番地

慶賀門



金 堂 【国宝】桃山時代  
  [ご本尊] 薬師如来  [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか




金堂内 薬師三尊⦅月光菩薩 薬師如来 日光菩薩⦆(重要文化財) (リーフレットより)   



講 堂 【重要文化財】 室町時代
  [ご本尊] 大日如来  [ご真言] おん あびらうんけん ばざらだと ばん


講堂内 立体曼荼羅  (リーフレットより)


講堂内 不動明王【国宝】  (絵葉書より)





御影堂(大師堂) 【国宝】 南北朝時代
  [ご本尊] 弘法大師  [ご法号] 南無大師遍照金剛


御影堂(大師堂)後堂
  [ご本尊] 不動明王  [ご真言] のうまくさんまんだ ばざら だん せんだん
                      まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん





食 堂  [ご本尊] 十一面観世音菩薩  [ご真言] おん まか きゃろにきゃ そわか



五重塔 【国宝】 江戸時代








四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参り 〔普賢院(宿坊)〕

2021年10月10日 | Ohenro88
『四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参りの旅(10月7日~8日)』 普賢院(宿坊)
7日の宿泊は、宿坊へ。宿坊宿泊は、阿波の国、第六番、安楽寺さん以来。高野山の山内では52ヶ寺が宿坊を提供しているとのことですが、今回は金剛峯寺のすぐそばの普賢院さんにお世話になりました。高野山の精進料理といえば胡麻豆腐、夕食にて食しましたが期待とおりで大変おいしゅうございました。お膳での食事は、団体旅行の宴会場を思い出しますが、宿坊での完全黙食のもと、茶碗やお椀を拝むように手のひらに取ると、その温かみがとても有難く、食の尊さが染み入りました。夕食後は、ライトアップされた壇上伽藍へ。出がけに普賢院さんから熊に気を付けてとのアドバイスをいただき少々緊張の夜間散策となりましたが、高野山の澄み切った空気に、根本大塔などの朱色が照明に映え、その美しさに息を飲みます。ライトアップされた大門、中門の力士像は陰影が協調され、その迫力は増し増しに。高野山での特別な夜を、宿坊に泊まったのは大正解。朝のお勤めは、6時半から。ご本堂にて読経とお焼香、その後、弘法大師の十大弟子のひとりの華厳寺道雄の作で弘法大師が点眼されたとのご本尊・普賢菩薩像を真近で拝み、金剛薩埵像、大黒天や、金剛吼・竜王吼・畏十力吼・電吼・無量力吼の名称が付けられる五幅からなる五大力菩薩像の仏画白描図など普賢院内名跡寶聚院を見学、巡拝。特に印象深かったのは、平成8年に請来された仏舎利の拝観とその周りの八体仏。その後の朝食では、がんもどきの有難さを習得。とてもとても貴重な体験ができ、ありがとうございました。

【普賢院】 
 世界遺産霊峰高野山 別格本山 普賢院 
  〒648-0293 和歌山県伊都郡高野町高野山605
  [ご本尊] 普賢菩薩
  [ご真言] おん さんまや ざとばん
覚王親王が大治年間(1126~1131)に高野山を訪れた際、力乗上人に念持仏普賢菩薩を与えられ普賢王院と称したことが始まりと紀伊續風土記に記されている古刹。

山 門


本 堂


摩尼殿


芭蕉堂


四脚門


宿 坊









【壇上伽藍ライトアップ】
六時の鐘


蛇腹道


根本大塔


中門






大門








四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参り 〔金剛峯寺 ~ 奥之院 【満願】〕

2021年10月09日 | Ohenro88
『四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参りの旅(10月7日~8日)』 金剛峯寺 ~ 奥之院 【満願】
金剛峯寺は、819年、真言宗を開いた弘法大師が修禅の道場として開創し、高野山一山の総称でした。一方、現在の金剛峯寺、明治2年に改称されるまでは青巖寺と呼ばれていました。この寺の建物は、平清盛、北条政子などが関わり、その後、文禄2年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立したもの。さらに文久3年(1863)再建されたのが現在の建物となります。壮大な玄関をもつ建物は、東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え、境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。主殿は東西三十間、南北三十五間の大建築で、大広間には狩野探幽の襖絵"松に群鶴"が、豊臣秀次自刃したという柳の間には狩野探斎による"雪柳白鷲"が描かれています。室内は写真撮影禁止だったのですが、生け花のイベント開催準備中のようで、生け花の写真は撮影OK?、また、本年2021年公開の千住博氏の奉納襖絵は写真撮影可とのこと。実は、千住博氏が、金剛峯寺の白ぶすまに筆を入れ足鰍ッ6年に及ぶニューヨークでの創作活動に密着したドキュメントNHKスペシャル『高野山 千年の襖絵 空海の世界に挑む』を事前に視聴し、今回是非とも拝見したいと思っていただけに、千住氏の画業40周年の集大成となる渾身の作品を、高野山の厳粛な雰囲気の中でたっぷり鑑賞することができ大感動。日本画の理念のもと、墨ではなく岩絵具を用いて、自然と向き合い時空を超えた"美"の荘厳さに圧唐ウれ、言葉になりませんでした。この旅のクライマックス、奥之院参拝の前に、1200年の歴史に新たな足跡を残した千住博氏にノックアウトされました。さて、いよいよ奥之院参拝へ。奥之院は、壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心であり、弘法大師が入定されている聖地です。一の橋から御廟まで約2kmの参道には、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や祈念碑、慰霊碑の数々が、樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。前回は一の橋からお参りしたのですが、今回は、中の橋駐車場から向かいました。御廟橋を渡ると大師御廟への霊域に入ります。この橋を渡る人は、橋の前で服装を正し、礼拝(2度膝を折り3度目に礼拝)し、清らかな気持ちで霊域に足をふみ入れます。御廟橋には、36枚の橋板と橋全体を1枚として37枚と数え金剛界37尊を表していると言われ、橋板の裏には仏様のシンボルの梵字が刻まれています。橋板1枚づつ細やかに足踏みしながら、ご真言「南無大師遍照金剛」を唱えながら渡ります。御廟橋の正面突き当たりにあるのが燈籠堂。藤原道長によって治安3年(1023)に現在に近い大きさの燈籠堂が建立されました。堂内正面には、千年近く燃え続けていると言われる二つの"消えずの火"があります。燈籠堂を左周りに回り込むと、3間4面構造、檜皮葺、宝形造の御廟。承和元年(834)に弘法大師自らが現在の地に廟所を定めたとされ、翌年3月15日に入定が近いことを弟子らに告げ、3月21日午前4時に永遠の瞑想へ入ったと伝わります。弘法大師御廟にて、四国霊場八十八ヶ所巡拝結願のご報告を無事遂げることができました。ただただ感無量。唯一、残念だったのは、燈籠堂地下へは新型コロナウィルス感染対策にて入ることができなかったこと。そこには弘法大師に一番近づくことができる祭壇があり納経をしたかったのですが・・・これも弘法大師のお導き。昨年、未曽有のコロナ禍の最中に旅だった四国霊場八十八ヶ所巡拝を結願し、未だ終息を見せないコロナ禍にあって、高野山奥之院にてお礼参りができ、満願となりましたこと、衷心より感謝の気持ちでいっぱいです。多謝、感謝、合掌。

【金剛峯寺】 
高野山真言宗 総本山 金剛峯寺  〒648-0294 和歌山県伊都郡高野町高野山132

正 門  (金剛峯寺の建物の中で一番古く文禄2年(1593)に再建)




大玄関


小玄関 拝観入口


天水桶


主 殿




蟠龍庭 (大師御入定1150年御遠忌大法会の際に造園 2,340㎡の石庭は国内最大級)


阿字観道場  (阿字観とは真言密教における瞑想法で、仏との一体をはかるもの)


台 所




土 室  奉納襖絵 ≪瀧 図≫ 千住博氏 筆




奉納襖絵 ≪断崖図≫ 千住博氏 筆




経 蔵


鐘 楼


下 門




【高野山奥之院(満願)】



御廟橋 ここから聖域、厳粛な参拝が必須(脱帽、禁煙、スマホ・撮影・飲食・ペット禁止etc)


御廟橋手前より撮影


水向地蔵  足元に水を注いでから奥之院へ


頌徳殿


東日本大震災物故者慰霊碑




四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参り 〔大 門 ~ 壇上伽藍〕

2021年10月08日 | Ohenro88
『四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参りの旅(10月7日~8日)』 大門 ~ 壇上伽藍
高野山を訪れるのは、平成24年(2012)11月3日以来、当時は、神戸在住で京都奈良の世界遺産巡りから『紀伊山地の霊場と参詣道』へ足を延ばした観光目的の世界遺産巡り。時は流れ、今回はお礼参りということで、白衣に輪袈裟、サンヤ袋にはお数珠、納札、勤行本、ロウソク、線香、ライターを入れ、御朱印を頂戴すべく納経帳を持参。訪問目的が違うと装いだけでなく心構えまで違ってくるから不思議です。さて、高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって開かれた日本仏教の聖地。金剛峯寺という名称は、弘法大師が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」というお経より名付けられたと伝えられています。「総本山金剛峯寺」という場合は、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺です。まず迎えてくれるのは『大門』。さらに進むと『壇上伽藍』となります。伽藍とは、梵語(サンスクリット)のサンガ・アーラーマの音訳で、本来僧侶が集い修行をする閑静清浄なところの意。高野山金剛峰寺は、弘仁7年(816)弘法大師により開創されましたが、その造営は壇上伽藍からはじめ、密教思想に基づく金堂、大塔、西塔、僧房などを建立しました。壇上伽藍は、胎蔵曼荼羅の世界を表しているといわれています。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所にあり、古来より弘法大師入定の地である奥之院と並んで、信仰の中心として大切にされてきました。諸堂多く、見どころいっぱいの壇上伽藍。金堂と根本大塔は内部拝観できましたが、他の諸堂は外観を眺めつつの壇上伽藍ひと回り。伽藍御供所では、金堂(薬師如来)の御朱印、大塔(大日如来)の御朱印2つをいただきました。根本大塔などは夜ライトアップされるとのことで、当夜は宿坊泊りなので、夜、再訪する予定。夕方ということもあり巡拝者、観光客もほとんどなく、静寂さが身に染み入る壇上伽藍でした。

【大 門】

高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門。五間三戸の二階二層門、高さは25.1m、左右には金剛力士(仁王)像が安置。この像は、東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した大仏師、運長と康意の作。1705年再建。


【壇上伽藍】 根本道場 大伽藍  〒648-0211 和歌山県伊都郡高野山町高野山152

中 門

金堂の正面手前に立つ五間二階の楼門。持国天像、多聞天像、広目天像、増長天像の四天王が安置。2015年、高野山開創1200年を記念し再建。


金 堂
 [ご本尊] 薬師如来  [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか



高野山一山の総本堂。本尊と両部曼荼羅を修法する3壇をもつ密教の大堂。弘法大師私願の堂として造営、完成後は嵯峨天皇御願の堂とされた。四隅の八供養菩薩と裏堂の壁画は木村武山画伯の筆。両部曼荼羅は平清盛が自らの額を割った血で中尊を描かせた"血曼荼羅"。1932年再建、1934年落慶。
 

根本大塔
 [ご本尊] 大日如来  [胎蔵界ご真言] のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん 

伽藍中心の塔として弘法大師と真然の二代を費やし816年から887年頃に完成。高さ約50m、四面30m中央に胎臓大日如来、四方に金剛界四仏、周囲16本の柱には堂本印象画伯筆の十六大菩薩を配して曼荼羅を立体に顕す。壁は同画伯筆の八祖大師。1937年再建、1996年外壁塗り替え。


御影堂

元は弘法大師の持仏堂。大師ご入定後、実恵僧都が師の御影を安置する堂とした。


不動堂 【国宝(昭和27年3月29日指定)】

928年、金剛峯寺座主済高大僧都の創建。現在の建物は1816年再建。


六角経堂 (荒川経蔵)

1159年、皇后であった美福門院得子が夫の鳥羽上皇の菩提を弔うために創建。1934年再建。


大塔の鐘

弘法大師が発願され、第二世真然大徳の代に完成。3度焼失。現存は1547年鋳造。1日5回、計108の鐘の音が響く。高野四郎の名で親しまれている。


東 塔

1127年醍醐寺勝覚権僧正が白河上皇の御願により創建。1984年再建。


西 塔

887年、光考天皇の勅命により、第二世真然大徳が、弘法大師の遺された"御図記"に従って大塔に続いて建立。1834年再建。


三鈷の松

松葉が3本という珍しい松。弘法大師が唐から伽藍建立の地を占うために投げた三鈷が鰍ゥったと伝えられる。


御 社(みやしろ)

高野山開創にあたり、819年に弘法大師が、結界守護のために勧請。当山地主神の丹生・高野両大明神を祀る本殿2社、十二王子及び百二十伴神を祀る総社の3社から成る。


六時の鐘

伽藍の入口の高い石垣にある鐘楼。福島正則が父母の追福菩提を祈り1618年に建立。1640年に再鋳。今でも午前6時~午後10時まで偶数時に時刻を知らせています。



四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参り 〔慈尊院〕

2021年10月07日 | Ohenro88
『四国八十八ヶ所霊場巡拝結願 お礼参りの旅(10月7日~8日)』 慈尊院
昨年GoToトラベルを利用し11月25日~12月4日に巡拝した「四国八十八ヶ所霊場」結願後の高野山お礼参りに、約1年越しとなりましたが、高野山を訪れました。その間、新型コロナウィルスは、年末&年明けからの第3波、春先の第4波、夏休みにピークが最高を迎えた第5波と猛威を奮っていましたが、ようやく10月を迎え落ち着きを見せています。第6波が来る前にと「高野山 奥之院」にて弘法大師さまに結願のご報告をすべく待望のお礼参りを決行した次第。まずは、弘法大師のお母さまが祀られ、かつて高野山が女人禁制だった頃は女人高野とも呼ばれた『慈尊院』を参拝です。『慈尊院』は、弘仁7年(816)弘法大師が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とされました。息子の姿を一目見たいと大師の母公(玉依御前)が香川県善通寺より訪ねて来るも、当時の高野山は女人禁制であったため、この慈尊院で暮らすことに。また、母公の身を案じた弘法大師は高野山より月に九度、慈尊院を訪ね来られたことから、この地が九度山という町名になったと伝えられています。承知2年(835)2月5日、母公は83歳でご逝去。弘法大師は母公のために弥勒堂(御廟)を建て弥勒菩薩を安置。時代とともに弥勒菩薩が母公の化身と崇められ、高野山に上がれない女性の信仰を深め「女人高野」として親しまれてきました。慈尊院とは弥勒菩薩の別名で、これより表向きに『慈尊院』となったとのこと。また、女性の象徴である乳房型の絵馬を奉納すると願いが叶うのだそう。弥勒菩薩像は国宝に指定され、平成16年(2004)7月ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』として、慈尊院ならびに慈尊院弥勒堂が登録されています。ちょうど「くどやま件p祭2021」が開催されていて、表門の暖簾や拝堂に艶やかで美しい装飾が散りばめられており、いかにも「女人高野」らしき雰囲気を味わうことができました。

【別格本山 慈尊院(女人高野)】
 〒648-0151 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
 [ご本尊] 弥勒菩薩
 [ご真言] おん ばいたれいや そわか

表 門





本 堂 弥勒堂 【世界文化遺産】


みろく石(心願成就:左手で撫でるとご本尊弥勒菩薩様と縁が結ばれ願いが叶います)


乳房型絵馬 (子宝 安産 授乳 乳がん平癒など)


水向け地蔵さま (無病息災 交通安全 先祖・水子供養)



大師堂 四国堂



拝 堂





多宝塔(和歌山県指定文化財)



高野山案内犬ゴンの碑 修行大師像

昭和60年代、慈尊院をねぐらとした野良犬ゴン。朝、慈尊院を発ち、夕方、高野山大門まで参詣者を道案内し、夜に慈尊院に戻る毎日を送ったことから、約1200年前の弘法大師の案内犬伝説の再来として親しまれた。


土 塀(和歌山県指定文化財) 五輪石塔二基



世界文化遺産登録記念碑