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祝)世界遺産登録 松下村塾

2015年07月06日 | World Heritage in Japan
7月4~5日Jリーグ無きウィークエンド一人旅。『世界遺産』登録夜明け前の山口・萩へ。
既にイコモスの登録勧告を受けている『明治日本の産業革命遺産』。韓国の執拗な抵抗もあり、当初予定の7月4日に決まらず、翌5日夜更けの世界文化遺産登録となりました。という訳で、4日・5日は世界文化遺産登録まさに直前の史跡巡り。5日、まずは世界遺産構成資産『松下村塾』(「松陰神社」「松下村塾」「吉田松陰幽囚ノ旧宅」)を訪れました。
幕末動乱の時代に生を受け、“至誠”を貫き通し勇敢に行動した松陰。わずか6歳で吉田家当主となり、10歳から藩校に出仕し19歳で独立師範となり、21歳で九州から東北までの約13,000kmを歩いて旅したことから亡命罪で罰を受けたのが23歳、25歳で下田でペリーの船に乗り込み囚われ、萩の野山獄へ。獄中で孟子を講義する一方俳諧や書道を学び、28歳で松下村塾を主宰。29歳では、幕府が朝廷に無断で、日米修好通商条約に調印したことに対し、幕府の外交政策を批判する意見書を藩に提出。そして安政6年(1859)、大老・井伊直弼の安政の大獄で、江戸の獄へ送られ、同年10月27日30歳の若さで生涯を終えます。その影響力は大きく、松陰に学んだ松下村塾生たちが明治維新以降の日本の近代化、産業革命を形づくります。今回の世界文化遺産登録も日本の近代化の夜明け前を評価されたのだと思います。それにしても、封建国家日本から近代的統一国家建設へ、尊攘から当汲ヨ王政復古への闘いの原動力は、毛利藩の萩、その中心にいた吉田松陰の史実を実感することができました。今の総理大臣も長州人ですが・・・いろいろ考えさせられました。


【松蔭神社】吉田松陰を祭神とする神社で、明治23年(1890)に松下村塾の西側に土蔵造りの小祀を建てたのが始まりで、その後、明治40年(1907)伊藤博文らの努力により県社の社格を得て、萩城内にあった宮崎八幡宮(毛利家鎮守)の神殿が移設されました。現在の社殿は昭和30年に完成し御神体として松陰愛用の赤間硯と父叔兄弟宛に書かれた書簡の2品が祀られています。









(松門神社)





【松下村塾】玉木文之進(松陰の叔父)が天保13年(1842)に自宅で私塾を開いたのが始まりで、ついで久保五郎左衛門が継承し、安政4年(1857)、28歳の吉田松陰がこれを継ぎました。松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れられ僅か1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など明治維新の原動力となる多くの逸材を育てました。高杉と久坂は「識の高杉」「才の久坂」と並び称されました。この二人に吉田念麿と入江九一を加え、「松下村塾の四天王」ですがいずれも幕末の動乱期に若くして亡くなっています。『松下村塾』の名は、当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから名が付けられたといいます。現存する松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分からなっています。









「明治維新胎動之地」


永訣書 “親思う こころにまさる 親ごころ きょうの音ずれ 何ときくらん” 寅二朗







【吉田松陰幽囚ノ旧宅】下田で海外渡航に失敗した松陰は、安政元年(1854)野山獄に入れられ、翌年にこの実家である杉家に帰され謹慎生活を命じられました。松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになります。












【吉田松陰歴史館】










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